蛍光灯をつけなくても窓からそそぐ光で室内はほのあかるい。

騒々しいのはそろってランチに出かけ、クラウスは例によって猊下にかかずらって遅めの出勤の予定だ。
スティーブンの机の上には、本部に棄却されて戻ってきた経費申請の書類の塔がそそりたっている。
机の主は腰かけた椅子をまわしてその塔に背を向け、携帯端末を耳にあてていた。眉間にはしわが寄り、組んだ長い脚の先が苛立つように揺れている。

「ああ、わかったよパトリック。一応その理由をつけて再申請するが二度目リジェクトされたら自腹は覚悟してくれよ。ああ…うん、それじゃ」

終話ボタンをおして小さくため息し、億劫に書類の塔に向き直った。

「ごきげんよう」

「これはっ、猊下」

スティーブンは勢いよく立ちあがった。その拍子に卓上の書類の塔が揺れ、崩れないようにが片手をそえる。

幻か
幻ではない
目の前にいる
ニセモノ?
ニセモノにしちゃ相変わらず神々しい
たらりとさがった左手に包帯がある。

スティーブンはあわてて塔を二つに分けた。

「もう動いて大丈夫なのですか」

目の前にたしかにいるは微笑んでうなずいた。

「ドクター・エステヴェスも動いた方がよいとおっしゃるから、散歩に」
「それはようございました。…クラウスは」

スティーブンは室内に首をめぐらせたが姿が見えない。まだ下にいるという。
エイブラムス特製の外出用まじない符がの外出を可能にしてからもクラウスはその活用をよしとせず、一悶着あったことは風のうわさで知っているが、どうやらクラウスのほうが折れたらしい。

スティーブンの眼はどうしてもこそりと左手にいく。
この怪我以来、クラウスはこの人を猊下と呼ぶことをしなくなった。
そして、を辱め、おいつめて、利用して大量出血時の状況観察をおこなうために死なない程度の怪我を負わせた者どものもとに決して返すまいと、クラウスは猊下のお役目と関わるすべてからを遠ざけた。代役のいない立場だからうえで二十二子猊下の承認が必要な様々の事柄に滞りが生じているという話を聞いても、「そうか」と言ったきりだった。
あのクラウスが、よほどアタマにキたとみえる。
しかし体力が戻ってくるにつれてはお役目のことを気にし始めたものだから、二人の間に軋轢がうまれた。
普段は穏やかな二人がケンカするとどうなってしまうのか想像もつかなかったが、なにはともあれ仲直りが成功したなら善いことだ。そうスティーブンは思った。
へんな期待をしないで済む。

「勝手に見てしまってごめんなさい」

ぎくりと背が跳ねたが自分の盗み見を言われたわけではなかった。
がいったのは本部に提出したら棄却されて戻ってきた経費申請の書類のことだった。

「ハハ、なにをおっしゃいます。最後にはあなたが見るものですよ」
「そういえば、そう」

は苦笑した。承認のサインを求める最終欄には第二十二子という枠がある。クラウスが見たらきっと不機嫌になるやつだ。

「棄却…」
「お恥ずかしい」
「これすべてですか」
「無茶するメンバーが多いもので」

経費で落としたいときには使う前に事前申請しろと何度言っても聞かない、そのうえで領収書を紛失してくる連中だ。金欠時には平気でゼロを三、四個書き足し雑な書類改ざんをしてくるグズもいる。あなたが見るものとはいったが、この書類がうえの承認を得てさらにうえのうえの立場であるの目に届くところまで到達できるとは到底思えなかった。

は上から数枚の端をぱら、ぱらりとめくって、今までに見たこともないであろう理不尽で厚かましい経費申請書類を眺めはじめた。

めくっているものはともかく、めくる指はきれいだと、スティーブンは思った。
もう一方の手は包帯に覆われ、さきほどからぴくりとも動かない。
ドクター・エステヴェスの技術と異界の医療をもってすればもとどおりの傷一つない白い指先をとり戻せたものを、朦朧とする意識のなかでこの人はそれを拒んだ。異界の施術では人界に戻った瞬間に街ひとつまるごと巻き込んで爆発するかもしれない。突如毒煙になって世界中にバイオハザードを引き起こすかもしれない。むこうに帰ってくだらない役目を続ける気があるから、左手がとれる可能性があっても人界の施術を選んだ。
自分を殺そうとした奴らと、殺そうとした奴らの計画を利用して稀有な血の業の効力いかほどかと見物しようとした奴らのところへ戻るための選択だ。

もどるな、バカ。

染みだすように視界いっぱいの白ブラウスの光景がよみがえってしまって振りはらった。
後悔という名をかりてまじめな心をこの人にそそぐのはもうやめにすべきだ。
小さな音がしてエレベータの階数表示がうごきだす。
まもなくクラウスがやってくる。

努めて、スティーブンは言い聞かせた。
あれだけ派手にいじめられておきながら、いじめてくる連中のところにほいほい戻ってくだらない役目を果たそうとするなんて、これはどこからどう見ても不気味な女だ。関わらないほうが賢明だ。

努めて、スティーブンは想像した。
自分の節張った指をの口腔に差しいれてやる情景だ。ぬれた舌を二本の指でゆっくりとこねまわし、苦しさと羞恥にあえぐ唇の端からはしたなくよだれを垂らすのを、上から冷ややかに見下ろしてやるのだ。
ほらどうだ、そこらへんの女と同じに見えてきた。よし。

「…スティーブン」
「はい、猊下」

そこらへんの女にするように、優しげでちょっとセクシーな笑顔をスティーブン・A・スターフェイズはつくった。



「棄却されたものは経費負担組織をわたくしの名に書き換えて再提出なさい。すべて」



は泰然と微笑んだ。

「削るあてはありますから問題ないでしょう。わたくしの暗殺を企てた一門から」

「抱いてください」



おしまい