「やあ、やあ、我が友人、クラウス君」
歪み傾いだ神殿の奥、両側の階段がのぼり交わる場所で、ドン・アルルエルはクラウス・V・ラインヘルツを大いに歓迎した。
「きゅうに呼び出してすまなかったね」
「ドン・アルルエル。此度は、どのような」
「いや、なに。そう焦ることはないだろう。まずはロシアン・ティーでもいかがかな」
ドン・アルルエルはそういったが、クラウスはここに長居するわけにはいかない理由があった。今回はクラウスから何かを頼んだわけではないし、なにより屋敷にベルがいるからだ。つきっきりとはいわないが、ここまで距離が離れると万が一ということがある。
用意されたティーテーブルにつかないクラウスを見て、異界の重鎮は椅子をすすめる形で広げていた長い指をたたんだ。
「まあ、まあ、そう身構えることはないよ。なんてことはない頼みがあって、来てもらったのだ」
「それはどのような」
「君が勝ったなら、なんでも、君たちの欲しがっている情報を百、あげよう。」
クラウスは静かに意識をとがらせた。
「情報の深度がいずれであっても、百だ。我々の世界のことはもちろんだとも。1943年の大西洋上のこともいい。1856年のハンガリーのこともいい、1404年カリブ海北部のこと、君たちのいう紀元を起点とすれば7世紀前のバルカン半島の真実という手もある。百」
「なぜか」
「我々に欲しいものがあるからだね」
「…」
ドン・アルルエルの指がゆらりと遊ぶように動くと、宙から濃霧が染み出しはじめた。霧は鈍くうねりながらひとところに集まり、女の寝姿をかたちづくった。静かに胸を上下させる姿を、霧がそのまま写し取っている。
クラウスの集中は極点に達した。
「こわい、こわい」
笑うような息があって、ドン・アルルエルは霧の彫像をかき消した。
「君が負けたならこの王女殿下をもらおう。時間は99時間」
「それはできない賭けです」
クラウスは臆することなくいった。
しかし、ドン・アルルエルもまた臆することはない生物であった。
***
クラウスがドン・アルルエルの招きにあう数日前のことだ。
「旦那が落ち込んでるぅ?」
執務室にザップの素っ頓狂な声が響いた。
クラウスが外出している間はベルを事務所で保護するという体制にも慣れつつあった頃、ベルが留守番組のザップとレオ、ツェッドにそんな相談をもちかけたのだった。
「ええ、どうにか励ましたいのですが…どうしたら元気になってくれるものでしょうか」
「そんなん猊下がおっぱい揉ましてやればすぐおっきして元気になるに決まってんじゃん」
金属音が高く響いて目にもとまらぬ速さで血の刃と槍とが合した。
「おっぱい…」
いたく深刻にベルの口からそんな言葉がこぼれたものだから、さすがのザップも驚いて「ウソウソ、冗談」と打ち消した。
ツェッドもソファに座り直し、はなしを本題に戻した。
「ミスタ・クラウスが落ち込んでるというと、きっと猊下の体調のことでしょうね」
「えー!猊下もうわりと元気ジャン。手ェ動かないけど」
「ヘンに責任を感じてしまっているんですよ、どこかの誰かと違って繊細なかたですから」
「えー!旦那別に全然悪くねえじゃん!」
「あなたのそういうところは尊敬します」
「おい陰毛、なんかお魚がキモイ」
「…」
「おい陰毛、陰毛。どした青い顔して」
「…」
レオナルドは組んだ指に額を預けていた。
深く考え事をしているようにも、祈りの姿にも見えるがともかく黙って動かない。
レオナルドには唯一クラウスの落ち込みの原因がはっきりとわかっていた。
オレのせいだ!
ついこの前、目の前のこの人とクラウスがベッドの上でこう、ガバチョ!となっていて、今にも、それいけ!いざ!というところで、自分が邪魔に入ってしまったのだ。しかも二回。
もとよりベルの負傷を防げなかった罪悪感から気落ちしていたクラウスだ。まだ傷の治りきっていない彼女を心の奔流のむかうままどうにかしようとした己に気づいたなら、深い反省と戒めを刻んでいっそううつむき、ベルの目にはそれが落ち込んでいるように見えたに違いない。
というわけで、わりとオレのせいだ!
「まあこいつはおいといてよ。おっぱい揉ますまでいかなくても色仕掛けで元気にさすってのは結構効くんじゃね?パンチラとか。ヨッシャ!ってなるじゃん?」
「あなたと一緒にしないでください。ミスタ・クラウスは奥手そうですし、効果は望めないでしょう」
「あー、まあなあ。旦那性欲無さそうだもんなー」
いやいや、全然性欲バリバリでしたしベルさんがこっち来て二日目に手ェ出す(未遂)くらい手も早かったですし!
とはベルの前では口に出せず
「あんまりヘンに刺激しないほうがいんじゃないんですかね…」
と顔をひきつらせて言うくらいしかできなかった。ザップはそんなことなど聞いちゃいない。
「でも旦那だって男なんだし、やっぱこう、ラッキースケベ的展開にはちょっとはグッとくるもんがあるんじゃね?」
「猊下、この人はいま第四宇宙の言葉を話していますから聞き流してください」
「お風呂でばったりとか、つまずいた拍子に旦那に馬乗りになるとか」
ザップにしてはソフトな路線のラッキースケベ案を出してきたことにレオナルドは驚いた。一応ああ見えて、ベルに配慮しているのかもしれない。
「そうではなくて、いま話し合っているのはミスタ・クラウスを励ます方法なんですから横道にそらさないでください。ドキドキさせたいだけなら、後ろからぎゅっとするとかでもいいでしょう」
「後ろからギョ?」
「なんなんですかあなたは本当にもう」
「ギョギョギョォ~?お魚はそういうのにギョギョっとしちゃうわけかぁ?ほーぅ、ふぅーん」
「そ、そういうわけでは」
ツェッドが慌てだしたちょうどその時、うしろで扉があいてクラウスとスティーブン、チェインがドーナツ屋の箱を抱えて帰ってきた。
「おや、集まって、おしゃべりかね。ちょうどいい。これを」
「みなさんおかえりなさい。おみやげですか」
助かったとばかりにツェッドが席を立ち、みやげにつられてザップも行ってしまった。
残されたレオナルドはベルを振り返る。
「ベルさんは気にしなくて大丈夫だと思いますよ
「ギルベルトも同じことを」
「アハ、やっぱり。クラウスさんはいつまでも落ち込んでいるだけの人じゃないって知ってるんですよ」
「…そう、そうですね」
その言葉で自分を納得させるようにベルは微笑み、うなずいた。
その小さな笑みに一抹の不安がよぎったが、この日の会話がそのあとどんな事態を招くのか、その時はまだ神々の義眼をもってしても見通すことはできなかった。
「ベルさんにお尻を触られた?!」
深刻な表情で相談を持ち掛けられたレオナルドは素っ頓狂な声をあげた。
自分で大声をあげておいてレオナルドははっとして口を覆った。幸い執務室にいるのはレオナルドとクラウスだけだった。
目の前のクラウスは指を固く組み、だらだらと汗をかき、きつく眼をつむり、おそらくドイツ語だろう言語で「おお、神よ」のような意味だろう言葉をつぶやいた。
「ああ…、他にもいくつか、理由のわからない行動をなさることが最近何度かあったのだ。それが始まったのが先日ここで君とザップとツェッドと姫様の四人でおしゃべりをしていたあとだったものだから、なにか事情を知らないかと」
「あ、いや…えっと」
胸を揉ませてやれとかそんなことをザップがいったのは確かだが、尻の話は出ていない。ひとまずレオナルドはなにが起こったのか詳しく聞いてみることにした。
「ああ。…最初は、植物園で私が水をやっていた時だった」
「クラウス、ぎゅっとしてもいいですか」
突然ベルにそう言われてクラウスは驚いたが、同時に嬉しくもあった。その場の雰囲気が高まった時に自分から抱きしめることはあったが、ベルの方からそう求めてくれるのははじめてだったのだ。
「もちろんです。どうぞ」
緊張しているのが伝わらないようにできる限り堂々と腕を広げて見せる。
「では、後ろを向いてください」
「後ろですか。こうでしょうか」
後ろからぎゅ…。ベルの気配が近づき、クラウスはうっとりとした心地で後ろからぎゅっの瞬間を待った。
「えい」
尻だった。
後ろからぎゅっと尻を掴まれたという話を聞き、レオナルドは気が遠くなった。
「それだけではないのだ」
レオナルドは遠ざかる意識を引き止めて、クラウスの話の続きを聞いた。
後ろから尻をぎゅっと掴まれたその日の夜、クラウスがシャワーを浴びていると浴室の扉をノックする音があった。ギルベルトだろう。
「緊急の用件か」
「…急ぎというわけでは」
ベルの声がしてクラウスはシャワーを止めて足をもつれさせながらタオルを探した。
「開けます」
「姫様っ、なりませんっ!」
言うが遅かった。
浴室の扉は無慈悲に開き、そこには間違いなくベルが立っていた。裸身のクラウスのほうをまっすぐに向き、アイマスクで目隠しをしている。白いシャツとキャメル色のプリーツスカートをお召しだ。
「…」
「…」
「…」
ベルはなにも言わず、特に動く様子もないので、クラウスはそっと浴室の扉を閉めた。
レオナルドはベルが浴室の扉をあけたというところまでは白目を剥いていたが、案外問題ない方に事が進んだのを聞いてほっと胸を撫で下ろしていた。
直後にハッとした。
「ということは、転んで馬乗りも…」
「やはりなにか知っているのかね」
肩を両側から掴まれる。
「レオナルド君、どうか聞かせてくれ給え!昨日姫様が私を四つん這いにしてその上に横座りなさった理由をっ」
蒸気を噴きあげ肌が引き攣るほどの迫力で詰め寄られ、ついにレオナルドは「じ、実は…」とすべてを吐いた。
ベルはいまのところ作戦が思うように進んでいないことを自覚していた。
後ろからぎゅっとする、はクラウスを喜ばせる効果は得られなかった。むしろ急にお尻を掴んでくる女など気味悪がられて、嫌われてもしかたがない。藁にもすがる思いでやったこととはいえ浅慮だったと、思い出すだけでも自分の愚かさに顔を覆わずにいられない。
お風呂でばったりは、きっとお互い裸でばったり出くわすという主旨だったのだろうと、そこまで頭では理解していたものの、直前になってあまりの羞恥に耐えきれずアイマスクを用いた。そのアイマスクがこんがらがった作戦をよりおかしな方向に導いたのだと思う。クラウスに無言で浴室の扉を閉ざされた絶望をどんな言葉であらわせるだろう。
馬乗りに関しては、そういう性癖を持つ人たちもいると知識として知っているし、実際王族公爵である大叔父がそういう事件を起こしてしまい、祖父に勘当されている。
しかし、ベルにはそういう趣味はないし、クラウスにもなかったろう。
こうまでしてクラウスは元気になるどころかいっそのこと、首座たる者の奇行に落胆している。きっとそう、きっとそう。
彼は私を励ますためにあれほど誠実に心を砕いてくれたというのに。
こうなったら、もう、胸を
「浅ましい!」
行いの落差にベルはひとり、机に突っ伏して泣いた。
コンコンコン、とノックの音がしてみじめな涙を拭い去り、椅子から立ち上がって背筋をただす。幼少期から教え込まれた、いついかなるときも口角をあげる練習は、いま光る。
「ベル様、クラウスです」
「…、どうぞ」
クラウスはウェストコートを脱いだ、この屋敷内で過ごす時のいつもの恰好で現れた。
いつものクラウスだ。
けれどシャツのボタンが上から二つ開いている。
彼は中に入ると、扉を閉ざした。
「レオナルドから聞きました」
ベルの足元にひざまずき、うやうやしく手をとって、目を見つめてクラウスはそういった。
ベルの羞恥はのっけから極まり、あれほど訓練した口角が醜くゆがむのを止められない。人に見せるべきでない涙がせりあがる。
とられた右手をやんわりとはらい、クラウスの目を覆った。
「すまないことをしました。叶うならどうか忘れて」
「驚きましたが、理由を知れば可愛らしい」
「笑う」
「笑います。頬が緩むのをとめられそうにない」
目を覆った顔の、牙のある一見邪悪そうな口がベルよりもよほど上手に笑っている。
手首を弱い力で掴まれ、覆う手を降ろされれば手のひら越しにもずっとまっすぐこちらを見ていたような緑の強いまなざしと交わって、ベルは思わず顔をそらした。
「…もう元気に?」
「ええ、姫様のおかげです」
やったことは実際どれも失敗したと思うが、めぐりめぐって成功したなら、この恥も報われるというものだ。クラウスも報いようとそう言ってくれているのだから、成功した、めでたし、めでたしと思うのはベルの義務だった。
「ならば、よかった」
ちょっとはまともに口角があがる。
わずかに生まれた心の余裕を使って、ベルからクラウスの唇にくちづけを落とした。驚く様子もなくしずかに受け入れたクラウスは、はっきりと年上に見えた。
「クラウス」
「…」
「わたくしにこれ以上はしたない真似をさせないで」
「…はしたないのは私です。みだらなことを考えているのも私だ。厭わしく思ったなら、突き飛ばしてくださってかまわない」
ブラウスの内にすべりこみ背中にまわされた腕を、ベルが打ちはらうことはなかった。
その夜、かの屋敷のあちこちに貼られた護符が一斉に震えだした。
細い稲妻のような放電がざわめく紙片のまわりを幾度もはしり、いまにも剥がれ、燃え散り、あるいは蒸発すると見えたが、ついに吸血鬼避けの高位符は一枚たりとも千切れることなく、屋敷を守りきったのだった。
***
「それはできない賭けです」
クラウスは臆することなくいった。
「ベル様は私の物でも誰の物でもない」
しかし、ドン・アルルエルもまた臆することはない生物であった。
「えぇ?でも、人界の慣用句であらわすところの”モノにした”のだろう?ヒトの交配をしたと、きいているよ」
脳の入った肩をわらうように震わせる。
その時、ドン・アルルエルの足元にいた黒衣の異界生物が早足で主人のもとへ駆け寄ってきた。ひそひそと耳打ちをしはじめる。
「え?なに?」
「…」
「えっ、先っぽだけ?入んなかったの?」
「…」
うつむくクラウスは拳をぐっと握りこみ、それきり生きながら物言わぬ肉塊となり果てた。
「え?そうだったの?そういうのはちゃんと言ってくれないと…」
ひそひそ話は続き、枯れた枝のような指が黒衣の異界生物の頭をツンと小突いた。
「うん、あぁ、そうなの?ちょっとおかしいなーって思ってたけどね。だからあの御仁らが気づかなかったわけだね、そゆことね。うん。はい、わかりました。…クラウス君、悪いことをいったね。いまお姫様とっちゃうとアレだろうから、今日はオッケー。おひらきとしよう。次がんばってね」
「…」
「あ、もしよかったら、すっごくよく滑る異界生物の粘液とか、いる?いいよ、いいよ、プロスフィアなしで。あげちゃう」
おしまい