スティーブンが執務室の扉を開けたのと同時に、パシャと音がした。
扉をあけたすぐ目の前でベルが嬉しそうに笑っている。
一瞬光った気がしたのは、彼女にさした後光だろうか。
「ごきげんよう、スティーブン」
「ご、ごきげんよう」
何度かまばたきしてスティーブンは事態の把握に努めた。
部屋の中はいつもより騒がしい。ザップが嫌そうに執務室の壁沿いを走り回り、ツェッドは床に寝そべり、レオナルドとKKもいる。そしてクラウスと、
「クラウス、こちらを向かないでください」
スティーブンのすぐ横にベルの姿がある。
扉のところからクラウスのいる机まではだいぶ距離があるが、クラウスは言われたとおりこちらを見ないように、ガチガチに緊張して挙動不審になっている。
また、パシャと音がした。
音をたてたのは、ベルの手にある小さな黄色のデジタルカメラだった。なるほど。
「猊下、いいものをお持ちですね」
「レオさんがくださったのです。新しいカメラを買ったからと」
ベルはたいそう嬉しそうに、それなりに年季の入ったカメラをスティーブンに見せた。顔を合わせれば大抵優雅に微笑む人だけれど、こうしてはしゃいで笑う姿はめずらしい。
改めて見渡せば、KKの手にもツェッドの手にもカメラがある。
「ほら、ザップっち!もっとちゃんと走るっ」
KKは走り回っているザップを撮影し、ツェッドは寝そべったローアングルからバレーボールサイズの白いゴムボールの上で芸をするソニックを撮っている。その頭をザップがわざと踏んで「わりィ」なんて言って血法のつばぜり合いがはじまった。
「ちょっとザップっち、遊んでないで!うちの子の運動会もう明日なんだから」
「いまみなさんと一緒に写真の撮り方を習っているのです、レオ先生に」
「いやあ、僕そんなうまくないって言ったんですけど」
頭をかきながらレオナルドも顔をだした。
「謙遜をなさるの。レオ先生、スティーブンを撮ってみてください。このカメラで」
「え?スティーブンさんをですか?…いいですか?」
「別に、かまわないけど」
パシャリ
よくわからないまま、レオナルドのお下がりのカメラでレオナルドにピンの写真を撮られた。
撮影を終えると、ベルは覚えたばかりと思しき手つきで撮った写真をレオナルドとスティーブンに見せた。
「これがわたくしで、これがレオさんが撮った写真」
どれどれと覗き込むとき、二人より頭一つ以上うえにあるスティーブンの目に、肩がつくほどベルに体を寄せられレオナルドの顔がじわじわと赤くなっていくのが見えた。
「ご覧になって。レオさんが撮ったほうがスティーブンがかっこよく撮れています」
「…コホン」
スティーブンはひとつ咳払いをした。
「なーにデレデレしてんのよ」
いつのまにか天才スナイパーが至近距離からスティーブンを睨みつけていた。
「ハハ、そりゃあ我らの猊下にかっこいいと言われたんだ。デレデレもするさ」
「ヘッラヘラしないで!写真の撮り方の問題よ、…あら、やっぱレオ、あんた大したもんねえ」
「さすが上手ですね」
レオナルド先生の撮ったお手本を見に、生徒三人寄り集まって覗き込む。この生徒三人がやたら褒めちぎるものだから、レオナルドは「や、全然」なんてまた頭をかいた。
KKの矛先がそれた隙に顔をあげると、クラウスはこの様子をちょっと距離をおいて眺めているだけだった。姫様が楽しそうなのはよいことだ。そういう文章で心をまとめているのだろう。
混ざればいいのに。
スティーブンは一瞬そう思ったが、そういえば、クラウスがカメラを持ち出しても一番撮りたい被写体は撮影禁止だ。まあ、下ではしばらく前から猊下の隠し撮り写真が取引されているうえに、二か月ちょっと前には血界の眷属100名と記念撮影までしているわけだが、それは言うまい。
「ツェッドくーん、こっち向いて」
不意にザップの軽薄な声がして、ツェッドが顔をあげた。
「ウルァ!」
ツェッドの顔面にソニックの玉乗り芸から取り上げた中くらいのゴムボールが見事にヒットした。勢い余って跳ね返ったボールはレオの顔面トスで、ぽーんと上に跳ね上がる。
スティーブンは落下の勢いを殺してこれを足首で受け止め、軽く浮かせて小脇に抱えた。
「ザァーップ、猊下がすぐ近くにいるんだぞ。当たったらクラウスと猊下の兄殿下が持ってる海軍がおまえをどうするかよく考えろ」
ザップはスティーブンの言葉を無視してツェッド、レオナルドと追いかけっこを始め、「お、ナイス徒競走ね」とKKは明日の子供の運動会でベストショットを生み出すべく撮影練習をはじめてしまう。
ため息しかけて、スティーブンはベルの視線に気付いた。
羨望のそれである。
「…どうかされましたか?」
急にモテて、スティーブンはわけがわからず首をかしげた。
「スティーブン、今のをもう一回やってくださいませんか」
「今の?」
ザァーップのくだり?
「その、ボールを足で」
「これですか?」
ボールを手放し、落ちたのを足首で受け止めて見せる。
ベルの両手が使えたなら拍手をされていただろう。そういうテンションでベルは目を輝かせてスティーブンを見た。
「すばらしいこと!」
「いえ、そのようなお言葉をいただけるほどのものでは」
「もう一度見せてくださいます?」
興奮した様子でカメラを構えられると、スティーブンは「まいったな」とさっきのレオナルドのようなことを言いながらジャケットを脱ぎ、ネクタイを胸ポケットに仕舞った。
「若いころやったきりですから、うまくできるかどうか」
ベルから少し離れ、スティーブンは床に置いたボールを両足で挟んで後ろにすくい上げた。うまく頭上に上がったボールを膝に落とし、何度か膝と足の側面とでリフティングさせてから高く放り、最後は慎重に額で受け止め、そのまま静止させた。
「はっ」
うまくいった、と自分でも口が笑う。
「見事だ、スティーブン」
「スティーブンさんフットボールやってたんですね」
いつのまにかギャラリーが増えていて、拍手できないベルのかわりにまばらにパチパチとやってくれた。ソニックもパチパチやっている。ベルは引き続き、スティーブンをさいなむくらい純粋な憧れのまなざしを向けている。
「…、コホン」
「そこのサッカー部、あとでツラ貸しなさい」
KKが厳しい。
「きっと大変な鍛練をなさったのね」
「いえ、本当に。昔住んでたところがサッカーが盛んな地域だったもので、いまのくらいでしたら小学生でも」
「そうなのですか。練習したらわたくしにもできるようになるでしょうか」
「姫様、まだ激しい運動はお控えくださいますよう。おとといのように貧血をおこすといけません」
「ええ、わかっています。写真がもっとうまくなったら」
「怪我が治ってからとおっしゃってください」
「うん」
クラウスの言葉など聞いちゃいないという様子で、いま撮影したリフティング風景を確認している。
案の定その後も、ベルのカメラ熱は引かず、屋敷の中から、庭から、植物園から、事務所に来た時には事務所の中、ツェッドの水槽、あちこち撮ってまわって、四六時中カメラを手放さなかった。
クラウスがホームシアターで一緒に映画を誘っても、植物園の東屋でアフタヌーンティーをと誘っても、カメラが一緒について来てパシャパシャと鳴りやまないそうだから、クラウスにとっては強敵の出現だった。
さりとて、怪我の痛みに苦しんで部屋のなかにいるよりもずっといい。クラウスはほろ苦くも喜んでベルの新しい趣味を見守っているらしかった。
「「「お邪魔しまーす」」」
それからしばらく経ったある土曜日のこと、クラウス邸にお招きに預かった。
やってきたのはスティーブンと、レオナルド、ザップツェッドにチェインだ。クラウスとギルベルト、大きな麦わら帽子をかぶったベルがこれを出迎えた。
この招きは、どうもレオ先生の写真講座をクラウスの植物園でやろうというのが発端だったらしい。ザップもツェッドもチェインもレオナルドも、もちろんベルもカメラを携えていた。
ここは女神の水瓶を模した噴水もあるし、ほかではお目にかかれないような大きな、珍しい植物もある。若者諸君は植物の写真を撮ったり、写真を撮る面々にちゃちゃをいれたりして元気に遊んでいる。
写真に興じていないのは植物に水をやるクラウスと、東屋で紅茶をいただいているスティーブンだけだった。
そのスティーブンのそばでデジタルのシャッター音が鳴った。
「おや、隠し撮りとははしたない」
わざとゆっくり振り向くと、カメラをおろしたベルがにっこり笑った。この姿を撮影禁止とはかえすがえすももったいない。
「猊下は風景よりも人を撮るのがお好きとか」
「ええ、そうなのです。もうたくさん撮ったのですよ。スティーブンは普段写真を撮りますか」
「仕事で携帯端末のカメラ機能を使うことはありますが、その程度です」
「どんな写真か見てもかまいません?」
「ええ。…いえ、少々お待ちを」
スティーブンは求めに応じて一応携帯端末をポケットから取り出したが、先にひとりで写真フォルダを確認した。人狼局への情報照会用に撮った遺骸写真、内臓刺青事件でライゼズへ連絡用に撮った異界人の臓器写真。いつ撮ったのかわすれた何かの眼球、これは…なにかの脳漿。ビル消滅事故現場の遠景、遺体、遺体、内臓、事故、事故…、顔をあげれば楽しみそうにしているベルの顔。
「…あいにく障りが」
ベルは小首を傾げた。
「スティーブンもハメ撮りですか」
「え?」
「ミスタ・レンフロは“ハメドリ”がたくさんあるから見せられないと」
「ザァーップ、ちょっとこっちに来てもらえるか」
人を撮るのがお気に入りという姫君は、スティーブンがザップを締め上げている間も、きょうは被写体のお客様がいっぱいの庭で何度もシャッターを切っていた。その足元がコンバースのスニーカーであることに今はじめて気が付いた。上は高級そうなブラウスとワンピースなのに。
「ああ、あれか」
ツェッドと一緒に空間転移させられた時、素足だったベルにツェッドが買ってあげたというやつだ。
「どれですか?」
「やあツェッド、なんでもないよ。年をとると独り言が増えるものなんだ。いい写真は撮れたかい?」
「はい、結構練習しましたから最初よりイメージに近いものが撮れるようになったと思います。でもまだまだです。思ったよりずっと奥深いですからもっと勉強しないと」
「真面目だな、君は」
「兄弟子よりは。でも本当はあの方を撮りたいので、上達してもそれだけは残念です」
すすった紅茶が気管にはいってゴッホンゴッホンとスティーブンはむせた。
「大丈夫ですか?」
「あ、うん。大丈夫。年取るとよくへんなところに入るんだ」
「…僕のような、人の美醜とは違う枠の生物からいうのはヘンかもしれませんが、ベル猊下がああして立ち止まって何かを熱心に見つめているだけで美しいと思うんです」
そう思いませんか、なんてこちらを見られスティーブンは「ああ、いや、うん、そうかもなあ」とグズみたいな答え方しかできなかった。
「あ、また玉乗り芸をやってる。行ってきますね」
風のように駆け去った。その若さが純粋さが、おじさんには眩しい。
今更ああはなれないスティーブンは、東屋から静かにツェッドが美しいと褒めた立ち姿を見守った。
「…」
あの左手の包帯はいつとれるのだろうか。
さて、こちらもだいぶ練習したのかもしれない、白いゴムボールでソニックが見事な玉乗り芸を披露すると、レオとツェッドとチェインが地面に頬がつくほど屈んでこれを撮影し、ベルも真似して屈んだ。その後ろで、ベルのスカートが地面に着かないようにクラウスがそっと裾をつまんでいるのがスティーブンの目におかしい。
「ぅおーっと、すまねえ」
「うわっ」
突然レオナルドの尻がザップに蹴っ飛ばされた。
レオは短い悲鳴をあげてつんのめり、目の前にあったボールに腹が乗って一回転して垣根にインした。素早く危機を察知したソニックはベルの胸に跳びつき難をのがれたのは不幸中の幸いだ。
「ハッ!道ばたに陰毛のかたまりがおちてると思ったらおまえかよ」
芸術趣味を楽しむ会はよほどザップにとっては退屈だったと見える。あとはさっきスティーブンに叱られた鬱憤もあったのだろう。
「ザップさぁぁああん!」
レオナルドがゴゴゴと音を背負って起き上がるや、ザップは「ハン!」と鼻で笑って走って逃げた。ツェッドがすっくと立ち上がると、またたく間に現出させた三叉槍を鋭く狙って投げ放つ。三叉槍は見事にザップの足をからめとり、もつれさせ、転ばせしめた。倒れたところを電光石火の勢いで追いついたチェインが銀の後頭部を踏みつけ、土に埋める。
「寄ってたかって卑怯だぞテメぇグワ!」
理不尽な文句をたれた顔に、レオナルドが投げつけたゴムボールがヒットした。
テン、テテン…とザップの顔面を打ったゴムボールが地面をむなしく跳ねた。同じ地面に、タタタと赤黒い水滴が続く。
「てめえら…いい度胸だ」
ひとすじ鼻血を垂らしたザップの背後にメラメラと復讐の炎がたちのぼり、じわり近づいてくる。その手にはいつのまにか血の刃が握られていた。
「うわ、鼻血剣だ」
「鼻血剣ですね」
「鼻血剣来んな、エンガチョ」
レオナルドとツェッド、チェインが寄り集まって眉をひそめたから、ザップはいよいよ鼻血剣を振りまわし猛烈な勢いで突進してきた。エンガチョ、エンガチョ、と言いながら若者たちは散り散りに逃げ去っていく。
「姫様はこちらへ」
ザップはベルに対して乱暴するような男ではないとわかっていたが、流れ弾の鼻血剣が当たるといけない。クラウスはベルの手を引こうとして、手は残念ながらカメラが握られていて空きがなかったので、背に手を添えて噴水の裏側まで促した。
「ソニック、怖がらなくても大丈夫だ。こちらへ来たまえ」
クラウスは、ベルの胸に貼りついて震えていたソニックに手のひらをひろげた。しかしよほど驚いたのか、あるいは感触が気に入っているのか、なかなか離れようとしない。
場所が場所だけにクラウスが無理にひっぱるのもアレがコレでソレである。
「このままでもかまいません。愛らしいこと。わたくしたちもうお友達なのですよ」
「ソニック。姫様のまことの友人であればなおのことそこからはなれ給え」
「…クラウスは厳しいですね。ソニック、おいで」
ベルがカメラを噴水のふちのレンガにおいて、ソニックを乗り移らせるために手を仰向けた、その時だった。
「ミサキくん、パスだぁあ!」
最近パトリックの店でキャプテン翼を読んだザップがやみくもに蹴ったゴムボールは、噴水の横をうなりをあげて一閃した。
咄嗟にベルをかばったクラウスの袖に水がぱっと散り、ぽちゃんと音がした。
「あっ」
誰かが声をあげた。
ゴムボールにはじかれた黄色のカメラが噴水の水に沈むのを見たのである。
止める間もなくクラウスの腕を振りほどいてベルは水に腕を差し入れた。水瓶は思ったより深い。女神像から流れ打つ水が水面に跳ねてベルの顔と胸を濡らし、肩からすべり落ちた三つ編みが水に浸かった。
「いけません、姫様」
「カメラが」
ベルを噴水から遠ざけ、かわりにクラウスが袖も折らずに水に腕を浸した。
引き上げたカメラからは大量の水が滴る。
「ギルベルト、タオルを」
「こちらに」
ブラウスと髪からポタポタと水を滴らせるベルをぬぐうために用意されたタオルは、ベルの手に渡った途端クラウスがすくいあげた黄色いカメラに押し当てられた。ぐしゃぐしゃに拭い、ベルにしては強引にクラウスの手からカメラを取って、何度もシャッターボタンを押した。強く押しても弱く押しても焦って続けて押しても、ちょっと待ってから深く押し込んでも、うんともすんともいわない。
用意よく持っていたもう一つのタオルでギルベルトが三つ編みの水気をとってやり、濡れたブラウスのうえにクラウスがウェストコートをかけてやってもベルの眼はカメラに注がれている。
駆け足で集まってきた面々が一様に心配そうに自分のことを見ていると気が付いてようやく、ベルははっと顔をあげた。その顔は、ちょっと驚くほどに青ざめていた。
「ごめんなさい、せっかくの楽しい会を」
「そんなことより大丈夫ですか?顔色が」
「お気遣いを、ツェッドさん、ありがとう。大丈夫です」
すこし離れた場所では、ザップが立ち尽くしていた。
「謝ってきなさいよ」
チェインが茶化すのではない音で言った。
「…」
ザップは目を見張ったまま黙りこんでその場から動かない。
チェインは小さくため息してそれ以上はなにも言わず、噴水に集まるメンバーのもとに合流した。
「カメラはぁ…ちょっと駄目っぽいかな。とりあえずメモリーだけ取り出しておきましょうか」
「それがいい」
「貸してごらん」
レオナルドが取り出した小さなメモリーカードをスティーブンが受け取った。
タン、と一度靴を鳴らすとメモリーカードのまわりに金平糖ほどの氷の粒が現れ、カラカラと地面に転がった。
「これで水分はあらかた取れたからあとはツェッド、結露ができないように乾かしてもらえるか」
なるほどとツェッドは手を打って、受け取ったメモリーカードのまわりにだけ細い風の循環を作り上げた。
レオナルドがおおと声をあげる。
「ライブラ超便利ですね」
「ショートしたりしてデータが壊れていなければ中の写真を抽出することができるかもしれませんから、猊下、これはひとまずお預かりしましょう」
ベルは笑顔を作り、こくりとうなずいた。
「ありがとう」
「お体が冷えるといけません。姫様は中へ」
そういったクラウスはベル以上に盛大に服を濡らしている。
やや後味は悪くなったが、まもなく夕暮れでお開きにはちょうどいい時間だった。
ザップはすでに帰ったのか、チェインが植物園を振り返った時には姿が見えなくなっていた。
***
皆を見送って、クラウスとベルは屋敷の扉のなかにおさまった。
ベルがついてこないことに気が付いてクラウスは足をとめた。
ベルは閉じた扉の前で立ち止まっている。
今日はずいぶんはしゃいでいたからまた貧血か眩暈でも起こしたのかもしれない。
「いかがされました」
クラウスは早足にもどってベルの肩に手を添えた。
ベルは顔をあげてにこりと笑った。
「もっと気をつけなくてはと思って」
笑った目の端から涙が落ちた。
「最近、失せものが多くて」
濡れた右腕が顔を斜めに隠した。その奥で、外で耐えた熱い息がこぼれる。
そうか、とクラウスの体にひらめきがあった。
ひらめきのわりにずしりと重い。
このひとは大切なものが欲しかったのか。
大切な写真をほとんど燃やされてしまったから、だからあんなに一日中手放さずに、誰かの姿ばかりを撮っていた。
「また撮ればいいものを、ごめんなさい」
ベルは自分でそう言って、それでも止める方法のわからない涙を恥じた。
「見ないでください」
クラウスはベルの体を胸のなかに抱きしめた。
「見ておりません」
***
その夜、まもなく日付けが変わるほどの夜更けに来客があった。
クラウス邸の扉を叩いたのはザップだった。
ひどく緊張した様子で、なにやらいろいろ持っている。
ギルベルトも、次いで現れたクラウスもすでにパジャマに着替えてガウンを羽織っていたのを見ると余計に緊張した様子で、ザップはごくりと唾を呑んだ。
「あのっ!…猊下、いますか」
ザップにしては珍しく敬語を使った。
もうこんな時間だ。約束もなく、寝支度を整えた女性に会わせるわけにはいかない。
「入り給え」
彼が両手に抱えているのが花束とウイリアム・ジンの詩集でなかったなら、クラウスはそうは言わなかった。
クラウスに案内され、ザップはベルの寝室にとおされた。
ベッドで、クッションを背もたれに体を起こしていたベルは、ザップが大きな花束を抱えているのを見て、一瞬びっくりして、それから微笑った。
「こんばんは、ミスタ・レンフロ」
「あ、あのよう…えっと、あのさ…」
ザップはいつもの軽い口はどこへやら、もごもごやってぱくぱくやって、結局まともな言葉が出てこない。そのうえ背後に立つクラウスのことをチラチラと気にして、落ち着かない様子である。
「クラウス」
ベルはそう呼んでうなずいて見せた。
さすがにそれは、とクラウスは慌てたが、ベルに無言でもう一度ゆっくりうなずかれると、一礼して寝室を出て行った。扉を半分開けたままにすることだけは譲れない。
二人きりになった部屋でザップは障壁を失ってむしろ余計に焦りだした。
「いや、だから…あいつらが、行けって、なんかすげえうっせえから…」
だんだんと声が小さくなっていく。
「つうか…、ほら、なんかさあ」
「…」
「ちがくて、なんか、だからぁ」
「…」
「…」
「…」
「ごめん」
目を見れずにぽつりと言った。しかし静かな夜の寝室だ、ベルの耳にはよく届いた。
「これ、犬オンナが持ってけっていったやつ」
花束をベルのベッドに置いて、熱いものでも触ったようにザップは手を引っ込めた。
「ありがとう。とてもきれい」
「…こっちは、魚が買えっていうから」
「詩集ね。好きな作家です」
「…カメラ、さ」
「うん」
「買ってこようとしたんだけど、スカーフェイスさんが、それは旦那と猊下がデート行って買うから買うなっ、ていうから。なんか、こんなんなった」
「そう。そうなの」
「…」
それ以上何をいっていいのか、何をしたらここを立ち去っていいのかわからない様子のザップをまえに、ベルは花束をクッションのわきに置くと、起こしていた体を横たえて、ザップに詩集を返した。
気に入らなかったのか。ザップは正直に不安な顔をした。
「読んでください」
「読む?」
「わたくしが眠るまで」
「…は?!ムリムリムリムリムリムリムリムリ!旦那に読んでもらったらいいじゃん!」
「償いの道です」
微笑は有無をいわせない。
「うそぉ…マジでか、マジでか。うそぉ…」
呟きながら、ザップは汚いものでもつまむように詩集を持ち上げ、臭いものでも嗅いだように顔をひきつらせ、怖いものでも見るように下の瞼を歪めて、できるだけ視界いっぱいに文字が入ってこないようにしながら詩集を開いた。挿絵もない。
「ちちおや。…つないで、いい、のか、わからない。今、も、わからないての、わからない、手の、ひら。つなげない、手の、ああっ俺読むのヘタなんだって!」
「ううん」
「ええぇ?……つなげない手のひら、を、思い出す、けれど、わすれてしまいたい。わすれる、前、に、消えてしまった、の、だから」
途切れ途切れに読み始めると読む前とは逆に、顔にめいっぱい本を近づけて一行一行を見失わないように必死に 読んでいる。薄い夜着で横たわるベルのことを気にする余裕もない。
ベルは目を閉じ、声に耳を傾けカメラがないことをやはり少し残念に思った
いまは、このかわいい姿を大切な記憶として心にとどめるしかないのだから
***
スティーブンは夜になって自宅にもどり、シャワーを浴びてから暗い書斎でディスプレイにむかった。
ツェッドの風でよく乾かした小さなメモリーカードの表と、裏とを確認する。ふむ、ずいぶん古い型だ。幸いこちらもそれなりに古いので、これを読み込み、データを吸い出す拡張デバイスは手元にあった。
いつもは女性の厚意でもらえる機密情報満載の記憶媒体を読み込むために使うが、今日はちがう。
うまくいくかどうかで、猊下が喜んで勢い余ってスティーブンに抱きつくか、しょんぼりしてがっかりされるかがかかっている。
「きばれよ」
読み込みデバイスを軽く爪で弾いて激励してから、小さなメモリーカードを差し込んだ。
お、よかった
「生きてる」
読み込み速度が低速なのは仕様だ。
ひとつ、ひとつと保存された写真が表示されていく。
日付順にあらわれる写真はスティーブンがリフティングしてみせたあの日の執務室からはじまる。
こうして順を追って眺めると、だんだんと取り方がうまくなっているのがよくわかる。
自分の写真があると年甲斐もなくうれしくなった。これはファインダー越しにあのうつくしい虹彩に、瞳孔に、映った姿なのだ。
スティーブンは口元を隠して頬杖にもたれ、画面を見つめた。
「…」
メモリーカードのなかで時は進む。
暗がりの書斎で、特段美しくもない虹彩にディスプレイのブルーライトが四角く映る。
ああ、
わかっていたことだ。
ショックを受けるほどのことではない。
メモリーカードのなかはクラウスの写真ばかりだった。
おしまい
おまけ
夕暮れの庭で白いボールが空にあがった。
カメラ池ポチャ騒動の翌日の、旧式のメモリーカードからコピーした写真データを一般的な規格の記憶媒体に移し終わって、スティーブンがクラウス邸を訪れた時のことだった。
追いかけ追いつき、足先でボールを持ち上げようとして、また向こうに転がってしまった。それを小走りに追いかける。
うまくボールがあがっても、上がったボールを膝に落すのがうまくいかない。
靴はツェッドに買ってもらったスニーカーで、肌寒いこの夕方に頬をつたう汗が二、三分前にはじめたわけではないことを物語る。スカートの裾が魅惑的に揺れた。
足の甲がうまくボールを跳ね上げ、頭上高く跳んだ。
あ、と喜んで、すぐさま下を向き目をギュッとつむってその場でジャンプした。
額で受ける、スティーブンがやって見せたあれをやりたかったのだと思うが、上がったボールが高すぎてかすりもしない。
背後でむなしくバウンドしたゴムボールを取りにいったベルはふと誰かの影を見た気がして、大扉へ続く石畳へ顔を向けたが、そこには誰の姿もなかった。
「やあスティーブン、入ってくれたまえ。データが戻って本当によかった。うん?どうした、眉間をおさえて。具合でも悪いのかね」
おしまい