「なんだこれは」

岸辺露伴の目の前にマフラーが差し出された。
あみ目が不ぞろいなところ、右端はとくにガタついて中央に近づくにつれてだんだん整ってきているところから判断して、左端は折りたたまれていてわからないが、これはいわゆる手編みのマフラーというゾッとする代物に違いない。
原稿あがりに偶然オーソンに肉まんを買い物に来た露伴は、この女に路地裏に手招きされたときよりも怪訝な眉間のシワを深くした。

「だって、ここは暇なのだもの」

杉本鈴美はなんともない様子で言い放つ。確かに暇だろう、ここはあの世とこの世の境目でひとっ子ひとりいやしない。犬ころとなんだか得体のしれないモノどもは大勢いるみたいだが。
ともかく彼女が暇で暇でしかたないのだろうことだけは理解できる。

「ふうん」

露伴はそのくすんだピンク色のマフラーを怪訝な眉と感情の無い目で見下ろすばかりで一向に受け取らないが、マフラーは会話のはじめからノースリーブの細く白い手にずっと差し出され続けている。
夏の、昭和五十八年八月十三日の日差しがじりじりと白い肌を焼く、気がする。

「だが断る」

露伴はズボンのポケットの勢いよく手を突っ込んだ。
それからずいっと鈴美に顔を寄せてガンをたれ、

「ぼくはぼくの美的感覚にあわないものを無理やり身に着けさせられるのは大嫌いなんだ」

と吐き捨てたその首に、露伴の頭の上を縄跳びみたいに飛び越えたくすんだピンクのマフラーがかかった。鈴美はすばやく片方の端をすくって露伴の背中へ放り、冬スタイルの伊達男が一丁上がる。
ふちだけ蛍光グリーンラインの白いトレンチコートに、同じく蛍光グリーンのターバンをあわせ、すらりとコートから伸びる足は黒一色だ。そこに突然のくすんだピンクは明らかに異質であり、独特のこだわりを持つ露伴でなくともなんかヘンだと思うだろう。

露伴は眉のはしをぴくりと震わせ、首の前のくすんだピンクをわし掴んだ。
するとようやくここで鈴美は少し弱った。

「取るの?」
「取るさ。ヘンだからね」
「心配ないわ、誰もヘンだって言わないから」
「ぼくがヘンだと言ったらヘンなんだ」
「あなたも言わないわ」
「いま言っている」
「もうすぐ言わないわ」
「はあ?君はなにを言ってイテ!」

足の痛みに驚き見れば、鈴美の愛犬が露伴の足首を噛んでいるではないか。

「こ、コラ、なにをするっ」

足首を振り回すと一旦は離れたが、今度は喉を鳴らして今にも飛び掛ってこようとする体制だ。
どうにかしろと噛み付いてきそうな犬とその飼い主へ意識をわけると、飼い主の女はくすくすと笑いを堪えているだけで助けようともしない。

「君なに笑って」

オン!

と犬が響く音で吠え、ついに飛び掛ってきたので露伴は柄にもなく走らされる羽目になった。
岸辺露伴一生の不覚。しかしあっと思ったときにはもう郵便ポストを越えてしまい、ここからは振り返れない。
くやしくて歯を噛んだ。

「覚えていろよっ」

思わず出た小さい小悪党みたいなセリフも露伴一生の不覚その2である。



鈴美の言葉の意味がわかったのは、境目を走り抜けたすぐあとだった。
こちらの世は冬だ。
走らされて温まったからだから吐く息は白くけぶった。
オーソンの窓ガラスに映し、美的センスの冴えわたる髪型へもどすべく、走ってこぼれた髪を撫でつける。
ふちだけ蛍光グリーンラインをひいた白いトレンチコートに、同じく蛍光グリーンのターバンをあわせ、足は黒一色。
どこも気に入らないところは、もうない。



「露伴先生だ。せんせーい」
コンビニに向かってくる高校生三人組が見えた。
学ランの中にトレーナーでも着ているのがいつもより着膨れている。
「今日は寒いですねー!」
「康一、おまえおばちゃんみたいな会話すんなよ」
「だって億泰くん、先生は漫画家の先生なんだよ。風邪とかひいたら大変なんだ。目次のはじっこのところに書かれちゃうんだから」
「あー、あれな。がっかりするよな」
露伴は自分抜きでも会話し始めた仗助たちに一瞥だけくれると、さっさと彼の家の方角へ歩き出してしまった。

「露伴センセーよう」

ケンカをふっかけるような調子の仗助を振り返る。
ケンカをふっかけるようなことは彼はしない。そのかわりちょっと心配そうに首をつつく。

「首、さむくねえの?」



「・・・別に」














***



翌日、岸辺露伴は昨日買いそびれた肉まんを買いに再びオーソンまで行き、昨日のように杉本鈴美に手招きされた。
露伴は爪先をオーソンのドアからやや右にそらし、対峙した。

「これとってくれよ」

こちらの世では見えないし、実際触ろうとしても触れない首を指差した。
間際に立つ今はうっすらとマフラーの輪郭が見えるけれど、露伴の手にはつかめない。
マフラーと同じように、境目の間際に立つとき鈴美は透きとおる。

「えー、露伴ちゃんカワイイのに」
「ぼくはカワイくなくていい」

頑として譲らない露伴に根負けを予想して鈴美は残念そうに細い肩をいっそう縮ませ、露伴のマフラーに手をかけた。

「それに、かりを作るのはいやだからね、ほらこれ」

鈴美の手が止まる。
ポケットにつっこまれていた露伴の手がいつのまにか外に出ていて、透明な鈴美の腹に本のはしを押し当てて、いや透明だから突き刺していた。

「きみがまえ読みたいって言ってたぼくのマンガだ。一巻。しかも初版の貴重品だ」
「わあ」

雪の降りそうなこの世の空の曇天が、突然八月十三日の日差しに変わったように鈴美は表情を明るくした。
露伴のマフラーにかかっていた手をぱっと放し、両手で大切そうに受け取るが、しかし本はトサという地味な音を立ててアスファルトに落ちてしまう。

「あ」
「ぼくのマンガをっ」
「ご、ごめんなさい露伴ちゃん。本当に嬉しいのよ。露伴ちゃん小さい頃から
絵がとっても上手だったもの、ずっと楽しみにしていて、でもその、今はつかめなくて」
「じゃあ向こうへ行って読むといい。そこまで持って行ってやるから」
「ここで読みたいわ」
「なんで」
「むこうに持って行くと、よくわからないのだけれどこちらの世のものはどこかおかしく
なってしまうの。まえに億泰くんと仗助くんがファッション誌を持って来てくれてそのときも」
「・・・フン、ぼくの作品を勝手に書き換えられるのは確かにご免だ」

「どうしたら読めるかしら」
「ふむ」

ふたりは同じ方向に首をかしげた。






「お、露伴センセーまたコンビニ飯か。さびしーヤローだぜ」
「まあ俺たちもだけどナ!つか地べたに座り込んでなにしてんだろ」
「露伴先生、マンガ・・・?読んでる?地べたで?ああ、よく見たら鈴美さんもいるや。どうしたんだろう」
「なんでもいいじゃねえか、おーい鈴mゴボオ!」

突然仗助の右ストレートが入り、億泰は白目をむいて崩れ落ちる。落ちた億泰に肩を貸して乱暴に引き摺り「行くぞ、康一」と仗助はオーソンとは逆方向に歩き出してしまう。
康一は一瞬どうすべきか迷ったが、輪郭だけになっている犬のアーノルドが二人とは距離をあけてちょこんとおすわりしているのを見つけたら、その場をそっとしておいてあげるのが正しい行いであると、どうしてかわかってしまった。







「もういいか、次のページめくるぞ」
「待って!この次どうなってしまうのかしら、怖いわ」
「先に言ってどうするんだよ。ほらめくるぞ」
「どうしよう、ドキドキするっ」
「ドキドキしてくれるのはいいけど、マフラーのはしを引きしぼるのはやめてくれ、作者窒息で休載させたいのか君は」
「ごめんなさい、つい。ねえ早く次のページを見せて」
「フン・・・まったく」



おしまい