外は氷の嵐だった。

さっき通り過ぎたばかりの寒気が暖気とぶつかっているのだ。夜が深くなったころには雷が轟くに違いない。
はやく寝てしまおう、北アルプスの岩肌に雪のブロックを積んで勝手に作った雪洞で、三歩がランプに手をかけた、ちょうどそのときだった。
扉をノックする音がした。

「はいはーい!」

遭難者かな。それならよかった、ここまでたどり着けて。大きなケガをしていなかったら暖かいコーヒーを淹れてあげよう。三歩はそう思って鍵のない扉をあけた。
「外は風がすごかったでしょ、ここまでよく頑張った!」と声をかけようとして、

「外は…」

そのあとは続かなかった。
そこには世にも美しい女がひとり、立っていた。
音をたてる風に長い髪を縦横へ巻き上げながら、白いブラウスに赤いプリーツスカートといういでたちだった。足元はハイヒール。
ここはまだ雪深い冬のおわりの北アルプス、その険しい峰のただなかである。
三歩は震えあがった。

「…寒そう!」






***



「それユーレイじゃん!!!」

県警の山岳救助隊員、椎名久美は悲鳴のような声を三歩に浴びせた。

「えー?」
「いや、えー?じゃないですよ、三歩さん俺も思います、それ絶対幽霊ですよぉ!でなかったら新手の美人局か、泥棒か…、や、やっぱ幽霊ッスよぉ!」

同じく救助隊の阿久津は、どちらかというとクミよりも血の気のひいた顔色をして三歩の服にすがり、何かに気付いてパッと手を放した。霊的な何かが手から乗り移ることにビビったのである。

「ツツモタセってなに?」
「美人局っていうのは、きれいなオネーサンで誘惑して後から因縁つけて恐喝するやつで」
「あー違う違う!昔落雷で亡くなったさんのお父さんを俺が見つけたから、恩返しをしたくて俺を探してたんだって。ちょっと変わってるけど親切ないい子だよお、お、お、おっ」

クミはおもむろに三歩の襟首を掴み、激しく前後にゆすった。

「三歩さん、島崎三歩!目を覚ませ!だって、おかしいじゃないですか。昨日のあの強風のなかを!ブラウスとスカートとハイヒールで!あんな場所までたどり着くなんてイエティか幽霊しかありえない!三歩さん、警察呼びましょう!」
「椎名さん、ここ警察です」
「そうだった!三歩さん、やっぱり警察は呼ばないで!わたし幽霊とかマジで無理だから!心霊番組とか絶対見ない人だからっ。お願いだから通報してこないでっ!」
「ぐえ、ぐ、ぐるじい」

三歩が県警の救助隊詰所のテーブルを三回タップしてようやく首が解放された。

「げほ、げほ…通報しにきたんじゃないってば。クミちゃんの防寒着と靴を降りる時のために借りられないかと思って。俺のだと大きすぎて隙間が寒そうだったから」
「幽霊に服なんか貸せるわけないでしょー!」
「ユーレイじゃないよ。ちゃんと足があるし、コーヒーも飲んだし、あったかくてやわらかかったし。そういえばさ、最近この辺で落雷にあたったって人いないから、俺のこと誰かと人違いをしてるのかなって…クミちゃん?」
「アッタカクテヤワラカカッタ?」

クミは突然首をコキンとかしげ、機械のように復唱した。

「え?うん」

何が引っ掛かったのかわからない三歩も、クミと同じ方向へ首をかしげてみた。その首にクミの手がかかる。

「あったかかったって、やわらかかったってどういうことですか!?恩返しに来たいたいけな女の子に、あんた!いったい!どこ触ったのよぉおお!三歩さんはそんな男じゃないって信じてたのに!女の敵めっ、この!この!このぉおお!成敗ィイイイ!」
「椎名さんっ落ち着いて!三歩さん死んじゃいますっ」

救助隊詰所のテーブルを必死にタップする音はクミの耳に届くことはなかった。






***



「というわけで、服は借りられなかったんだ」

ごめんねと三歩がいうと、は静かに首を横にふった。

「いいんです。この寝袋はとても暖かいですから」

あ、とは気付いた。

「私がこの寝袋を使っていると三歩さんが寒いですね。それはいけません」
「オーライ、大丈夫。使っていて」
「そんな。私は三歩さんにご恩を返しにまいりましたのに。ご恩が重なっていくばかりです。なにか欲しいものはありませんか」
「いやあ、えーと、昨日も言ったけどこれといって、特には思いつかないかな」
「そうですか…。では、思いついたらおっしゃってくださいね。それまではお掃除や洗濯をしますから」

さわやかな笑顔でそういわれると断りづらい。昨日からこの調子だから、三歩は困っていた。



彼女が扉をたたいた昨晩のことだ。
招き入れるとあの姿で震えながら、欲しいものはないかと尋ねた。
ダウンをかけてストーブに近づけて話を聞いて、恩を返したいという事情は承知したが、あいにくおととい街で買い物したばかりの三歩である。「特にないよ」と答えると、たいそう残念そうにほそい肩を落として「それでは、なにか困っていることはないですか。私にしてほしいことは」と丁寧な言葉遣いで食い下がった。

「してほしいこと?えと、そうだなあ…」

腕組みしてしばらくうなってから、「そうだ!」と三歩は手を打った。

「あったかくしてよく休んで!」

なにか違う気がする、という表情をしたがその願いをしぶしぶ聞き届けては寝袋に膝をにじり寄せた。ふと室内が白くひかった気がして、の膝が止まった。

「あ、来るね」

三歩の軽い声の直後に轟音が鳴り響いた。
いかづちが打った山肌から、連なる峰全体へ不気味な残響と振動が這い伝わる。
問題ない、遠いまま通り過ぎる、三歩が希望的観測ではなく根拠を以てそう思ったのとほぼ同時に

「わっ」

三歩の体は仰向けに倒された。

「イデッ」

後頭部は薄いマットレス越しに冷たい大地にぶつかって痛い、なのに顔の上は温かくやわらかいものがあたっている。一瞬状況が飲み込めず、もう一度雷鳴が聞こえたときにようやく、ガタガタと震えるが三歩の首から上に覆いかぶさっているとわかった。
三度目の雷が来る前に三歩はやわらかい胸の下からしゃくとり虫のように這いだした。はそのことに気付いていない様子で胸の下の空洞をかたく維持している。

「ご、ごブ、ジですかっ!?」

体だけでなく声まで震わせてそんなことをいうものだから、そこではじめてが三歩を雷から守ろうとしたらしいと気が付いた。
父親が落雷で命を落として、それをこの子は見ていたのかもしれない。
小さな手でゆすって、目を覚まさない父親をそれでも起こそうとするナオタのことを思い出した。

「…ここは大丈夫だよ」

頬を和ませ、三歩はのこわばりきた背を撫でた。
ブラウス越しに背骨の感覚がこつこつとあたる。よけい心もとなくて、飛びかかった拍子にすっ飛んでいたダウンをかけなおした。

「そうだ!いいこと教えちゃおうか」

三歩がきゅうに明るい声をあげると、は頭をもたげた。すっかり青ざめている。
三歩はニッと歯を見せて指をたててみせる。

「雷を怖くなくする秘伝の術。リピー・アフタミー、がははははははは!ハイ!」

体を起こしたはぽかんとしている。
三歩は勢いを緩めない。

「がははははは!ハイ!」
「…がは」

が言いかけた矢先にバァアン!と音がした。

「がはひゃん!」と音が変わって口から出ていったのを「そうそうその調子!」と三歩は褒めた。
そしてまた笑う。
ダウンのかかった背を撫ぜながら。

「がははははは!ハイ」
「…がは、ひ、ひゃ、は」

喉をしぼって、泣きながらちゃんとがはがは言って、言い続けて、その間に雷は遠ざかってい、三歩の雪洞のあたりは静かになった。
やがて並んでいた三歩の腕に重みがかかった。すっかり眠り込んだをそうっと持ち上げる。
「えっ?」と小さく声をあげるほど軽かった。
ナオタくらい?
いや、もっと軽いような。
ともかく

「…明日ミネストローネをたくさん食べさせないと!」

そう心に決めて、を冬用の寝袋におさめた。
雷嵐が遠ざかり、クリアに通じるようになった無線で県警の山岳救助隊に連絡をとると、当直は友人の野田正人だった。
名前と状況を伝えたが登山計画書の提出はなく、捜索願いも出ていないらしい。

「三歩、その子未成年か?青少年保護の県の条例にひっかかると別の課にも共有しておく必要があってな」
「未成年か?うーん?」

ぐっすり寝ているのを起こすことはできず、三歩は寝顔をじっとのぞき込む。

「…」

ゾワっときた。

「今日は冷えるな正人。たぶん未成年じゃないよ」
「ほんとかよ。おまえに若い女の年齢あてさせるなんて、たぬきに円周率を聞くようなもんだろ」
「おまえが聞いたんだろー!」

思わず大声をあげてしまい、ハッとして振り返る。が目を覚ました様子はなくてほっとした。小声で明日状況をみて下山させることを伝えて無線を切った。
三歩は夏用の寝袋のなかで保温シートを体に巻き付け、の寝袋に背を向ける形で横になった。ライトを消してしばらくすると、背後で物音がした。
すり足が三歩の頭のすぐ後ろまで近づいて、止まった。
三歩は眠ったふりを続けて動かずにいた。
次の瞬間、体になにかがかぶせられた。
すり足で寝袋にもどる音があった。
すっかり静かになってから首をめぐらせてみると、かぶせられたのは三歩が貸したダウンジャケットだった。

だから三歩は、がイエティでも幽霊でも、新手の美人局でも強盗でもないとわかっていた。

はたしてその美女の正体は!

アライグマである。
それはある春の日、嵐がはしり去ったばかりの明け方だった。
無数のいかづちを落とした雷雲が向こうの山へ遠ざかっていったあと、遭難しケガをした人間がヘリコプターで運ばれていった。

「…およ。おまえ、雷に打たれたのか。そうか、そうか。ここでよく頑張ったなあ」

人を助けた帰り道で、落雷で死んだ父アライグマの遺体を見つけてこっそり弔ってくれたのが三歩だった。はその姿を草のかげから見ていた。
それから何日も何十日も何百日も冬ごもりもせずに三歩を探しまわり、冬のおわりになってようやく三歩を見つけた。
だから人間の姿をして三歩に恩を返しに来た。
その一心であった。



「あの…三歩さん。私は山菜をとるのが得意なんです」
「へー!そうなんだ。俺、山菜好きだよ。いいよね、山菜!」
「よかった。それでは私、採ってきますね」

外は昨晩と打って変わって穏やかだが、が寝袋からすべり出て外へ行こうとしたのを三歩が慌てて止めに入った。

「wait! wait! 凍えちゃうってば」

ブラウスとスカートだ。そしてここは冬の北アルプスだ。

「それに今は山菜は雪の下のずーっと下だよ」
「ああ、そういえば…」

しゅんと肩を落としたに昨日と同じダウンがかけられ、袖も通さないまま三歩が前のチャックを上まであげた。今朝の雰囲気では女性ものの防寒着は貸してもらえそうになかったから、今はこれを着てもらうしかなかった。

「ともかく。いまは降りるまであったかくして元気でいてくれるのが一番うれしいかな」
「降りません」
「ええ?」
「三歩さんに恩返しするまでは」

アライグマのかたい決意とは裏腹に、無情にもその日のうちに県警のスノーモービルがを迎えに三ノ沢までやってきた。
三歩の幼馴染であり救助隊隊長の野田正人に「幽霊とかくだらないことを言ってないで、軽装で動けなくなった遭難者なら連れてこい」と救助隊の椎名と阿久津が尻を叩かれたのである。

「今朝下まで来たならそのとき三歩さんが連れてくればよかったのに!」

スノーモービルを走らせる間もずっとぶつぶつと文句をたれて、到着しても恨み言がやまないクミに、阿久津はちょっとうんざりしていた。

「いや、だって、服がないっていってたじゃないですか」
「服がないなんて嘘に決まってる!冬の北アルプスだよ!?きっと三歩さんのところに行く直前でリュックを隠して着替えたのよ」
「そんなことする理由思いつかないですけど。それに、さっき無線で要救が降りたくないって言ってて説得に苦労してるっていってましたし」
「寝袋ごとふん縛って背負って持ってくるくらいあの山バカならできるでしょう!コンコンコン!三歩さん!あけますよ!」

怒りにまかせ無遠慮に扉をあけて、クミはあんぐりと口をあけた。

「あ、クミちゃん、阿久津くん」
「いやっ!放して、やっ、放してくださいっ」
「どうどう。クミちゃんごめんね、いま取り込み中で」
「やめっ、あぁ」
「ちょっとだけ待ってて」

床に敷いたマットの上にあおむけに倒れている女に三歩が馬乗りになり、手を押さえつけている。三歩に組み敷かれた女は目に涙をうかべ必死に足をばたつかせているが、撥ねのけるには三歩と体格が違いすぎた。

「阿久津」

クミはぽつりと後輩を呼び捨てに呼んだ。

「時間」
「はい?14時23分ですけど」
「現行犯、確保ぉおお!!!」



三ノ沢に三歩のタップが響いたあと、降りるために服を着せようとしていただけだと聞いて、クミはひとまず三歩に謝った。それでもふつふつといら立ちが沸き上がってやまないのは、要救助者の姿を見たとたん、阿久津が頬を赤くしてそわそわし始めたのがひとつ。要救助者が「降りたくない」と三歩の体にしがみついて「まいったなあ」なんてまんざらでもない顔で三歩が頭をかいているのがもうひとつ。

「三歩さんと一緒にいたいのですっ、そうでないと私、私…」

は三歩の体に頭をすり寄せて懇願した。

「気持ちはうれしいけど、きっと家族が心配しているから早く家に帰ったほうがいいよ」
「どうしてです?三歩さんがうれしいのが一番うれしい」

「ケッ」

クミは唾を吐く真似をした。
その険しい表情を維持したまま下山し、到着した本部建屋内で

「女性は自分の意志で来て自分の意志で島崎隊員の雪洞にとどまっており、要球ではありませんでした」と報告した。






***



かくして居住権を県警にまで認められたは、ちょっと三歩が出かけていると食器をいつの間にか洗ってきれいにしておいてくれるし、服もきちんとたたんでくれた。「決して外を見ないでくださいね」と鶴の恩返しみたいなことを言って雪洞を出、すぐに呼ばれて三歩が外に出ると、雪面からの身長ほどの細い氷柱がすっとひとすじ、天に向かって立っていた。その横ではちょっと誇らしげな顔をしている。特技だそうだ。
それ以外はおとなしい。
食事もほとんどとらない。
たっぷり食べさせてやろうと思ったミネストローネは結局三歩が九割を食べてしまった。
さっきなど、無線連絡をうけて動けなくなっていた登山者を救助に行って戻ると、床にはいつくばって掃除をしていた。床といっても岩肌の一部のマットを置いただけだ。掃除なんてきりがなかろうに。

「いつからやっていたの?」
「ずっと」と岩の隙間の砂を一日中ほじくりだして汚れた顔が嬉しそうに笑った。



「それから、毛づくろいもできますし」
「うん」
「頭を撫でたりもできます、それから」
「そうなんだ」

厚着をさせ手を引いて雪道を歩くあいだ、は恩返しで自分ができることを指折数えて三歩に教えた。
着いた先は三ノ沢にある自然の温泉だった。

「わあ」
「俺は向こうでコーヒーを飲んでいるから、ゆっくりするといいよ」

言い置いて温泉の様子が見えないところまで三歩は遠ざかった。温泉の方向に背を向けていつものコーヒーの準備を始めた。
火にかけたポットを見つめてしばらくすると、後ろが気にかかった。
男のサガとして覗きたいとかそういう思いがゼロだったとは言いきれないが、それ以上にあの子はひとりでちゃんと入れてるかしらと心配になったのだ。
そうっと立ち上がり鼻の下が伸びないように首を伸ばす。
温泉に人の姿はなかった。

「まさか!?」

滑落、おぼれているのかもしれない。
三歩は雪の斜面をかけあがった。

さん!」

呼びかけた瞬間、ぱしゃんと水音がして、湯煙のなかにの後ろ姿が現れた。湯気が飛ばされて見えてきたわけではない。パっと、魔法のように肌色が現れたのだった、肌色が。
肌色。
おしりと背中が。

「あっ…」

たらりと鼻血が垂れた。



危なかった。は人間の胸に手をあてた。
温泉のあまりの心地よさにアライグマの姿に戻っていたのだった。






***



翌日、以前から山荘でナオタと遊ぶ約束をしていた三歩は、約束通り谷村山荘でおち合った。
ひとりであの場所に置いておくとまた、特にあげた覚えのない恩を返そうと今度は雪洞の周りの岩でも拭き掃除し始めかねない。そう思っても連れてきていた。
恩を返すことにはやたら積極的だが、それ以外は物静かな人だ。わんぱくのナオタとなじめるかなと心配していたが、どうだろう。山荘のまわりを、身軽なナオタをも超えるものすごい勢いで走り回っている。

「案外アグレッシブに遊ぶなあ…」
「三歩、あの子なんだい?スポーツ選手かい?」
「ああ、うーん?彼女はなんてゆーか、ええと」

谷村山荘のあるじ、谷村文子は外を見てあきれた声で尋ねたが、三歩の答えはあいまいだった。
誰だかはいまだによくわからない。
でも泥棒ではない。
新手の美人局でもない。

「どっちかっていうとイエティの可能性のほうがまだあるかなあ」

三歩は首をかしげてあごをひねった。

「なにいってんだい」
姉ちゃん速え!速えぇ!アハハ!」

あまりの速さに笑い転げたナオタを、駆け戻ってきたがぴょーんと跳び超えていく。ナオタはまた大いに笑った。
案外アグレッシブに遊ぶとナオタの様子を眺めて三歩は温かいコーヒーに口をつけた。

「まあ、いっか」



「兄ちゃん!たいへん!」

遊ぶふたりを外においてしばらくすると、やきそばと引き換えに山荘内で高いところの掃除の手伝いをしていた三歩のもとにナオタが駆け込んできた。

姉ちゃんが!」

三歩は上着もとらずに外に飛び出した。
貸した赤いダウンを着たが雪の中に倒れている。

さん!」

体を引き起こして揺する。

「う…」
「よかった」

幸い、意識はあった。

姉ちゃんね、今まであんなに動いてたのにさ、ほんとは冬はあんまり動けない体質なんだって」

後ろから、三歩の肩越しに心配そうにのぞき込んだナオタがそう教えてくれた。



冬はあんまり動けない体質、というのはアライグマの半冬眠という性質で、冬眠しないかわりに寒くなると極端に活動を低下させるというものだった。
そうとは知らない三歩は山荘から背負って上まで運んでくれた。大きくてあたたかな背中は心地よかったが、甘えていられる立場ではない。生真面目なアライグマは「降ります」といったけれど、三歩は「聞こえなーい!」と笑って叫んで山を登って行った。
雪洞に着いてからも、精のつくものを持ってくると言ってまたすぐに外に出て行った。それきり、まだ戻ってこない。
この寝袋にいられたら暖かくて、すぐに動けるようになるのに、伝えそびれてしまった。
施したいはずが、あたたかい背中に背負って運ばれたり、食事を用意させたり。
恩返しとはかくも難しいものであったか
ため息を落とした矢先、雪洞の中に電子音が響いた。
音に驚いて思わず寝袋の中に隠れたが、その音がなかなかやまず、何かが襲い掛かってくる様子もなかったので、は寝袋からはい出した。
音のもとである無線機にじりじりと近づいて行く。
指でつついて安全を確かめてから、手で持つ。
このまえ、三歩が使っていたと思い出した。
たしか、ここをこう。
ビー、ビー、という音がやんだ。

「県警の椎名です。中岳にはいった21歳の男性一名が下山予定を過ぎても戻っていないんですが…三歩さん?…聞こえていますか?三歩さん?」







三歩が無線機を置きっぱなしにしたことに気付いて雪洞に戻った時には、中はもぬけのからだった。
寝袋の中にも誰もいない。
不自然に床に落ちていた無線機を拾い上げる。
何度目かの県警からの救助要請が雪洞内に響いた。






***



は人の姿をやめた。
アライグマの姿に戻り、雪面に細かな雪をまきあげて夜の北アルプスを疾風のように駆けあがっていく。
雪がかかって重たく枝を垂らす木々の間を抜け、人の足ではとてもではないが踏めない狭い岩の凹凸を器用に伝って上へ上へと登りつめ、月のもと、ついに槍を見渡す雪のふちに立った。
においがあった。
人間のにおいだ。
近い
踏み出したその小さな足がズブと下へ埋もれた。
ミシという音は雪面が切れる音だった。
踏んだ場所は、崖ではなく、崖からせりだした雪庇の上だったのだ。
春を待たず、かたむき崩れ落ちる雪庇の上で、は「向こうの岩肌に人がいるとはやく三歩さんに伝えたいな」と思った。






三歩は顔をあげた。
ヘッドライトがいらないほど月明りのまぶしい、音のない山で、湿った雪のかたまりが落ちる音を聞いた気がしたのだ。
息を止め、月光の作る陰影に目をこらした。

「…氷柱?」

雪のすっぱり途切れた崖の上に、天に向かって細い氷柱がひとすじ立っていた。



氷柱を目印に発見され、救助された大学生は、右腕の骨折、足には大きな裂傷を負っていたが滑落した斜面の中頃で雪に体を半ば埋もれさせながらも生きていた。
三歩の背中で「すみません、すみません」と泣きじゃくりながら繰り返す。

「生きていてくれてよかった。寒かったでしょ、よく頑張った!」

三歩は力強く言い切った。
ヘリが来られる雪原まで歩く間にすこし落ち着いてきたのか、背の大学生はぽつり、ぽつりと不思議な話をし始めた。

「…たぬきが、来て」
「たぬき?」

こくりとうなずくのを背に感じた。

「たぬきが来て、俺の上にずっと乗ってたんです」
「…」
「あったかくて。でもあいつ、ケガしてたんです。血が出てて。いませんでしたか、近くに」






***



北アルプスにも春が来た。
はあの日を境に三歩の前に姿を現すことはなかった。
三歩は住処を雪洞からテントに移し、きょうも今日とて、コーヒーを飲み、本を読んで、忙しくなった山荘に荷を運び、時々誰かを救助して、ごくたまに松本のケルンの飲み会にまぜてもらい、あとは山でコーヒーを飲んでいる。
足を痛めて動けなくなった登山客を無事、上高地の県警詰所までかつぎおろした五月の帰り道、向こうの峰にレンズ雲を見た。

「…」

帽子のつばをぐいとさげて、テントに戻った。
夜が深くなると案の定、嵐がきた。
安全な場所までテントを移動してはいたものの、槍の一つに雷が落ちれば、雷鳴は連なる峰々に轟き、大地を不気味に揺らした。
なまぬるい風がばたばたとテントを揺らす。
いよいよ雷雲は真上だ。
寝袋越しにも、春雷でカッと世界が白くなったのがわかった。
直後に怒り狂ったような音がして「がはひゃん!」と聞こえた気がした。
三歩ははっとして起き上がり、そうっとしかし急いでテントの入口から外をのぞき込んだ。
「ハハッ」と笑う。

「たぬきじゃなくて、ラクーンじゃんか!」



おしまい