「あす、セーユーに行くのだよ」
「行きたい」

長引く自宅療養の身の上でも、普通はデートというのはもっと別の場所に行くのだと知らないはずはないだろう。
それでも、とてつもなくうれしそうに笑える。
緑間真太郎にはできない芸当だ。
言葉がゆっくりなのは息継ぎがうまくないからだと知っているが、その緩慢でゆっくりな調子も馴染んで不快ではない。すぐ喜ぶエコなところも美徳だと思っている。思うだけなら、緑間は優しい高校生だった。口に出すとなにか間違うけれど。

はベッドの上であたたかいフリースとフリース素材の襟巻きを巻いて、緑間が貸した本を閉じた。

「いつ、行くの?」
「部活の後なのだよ。夜」
「行く」
「それはさっき聞いた」

はへらへら笑う。

「あったかくして行くのだよ」
「はい」

蔑むように冷たく言っていると思うのだが、はただただうれしそうに敬礼の手を作った。

「・・・では、帰る」

くるっと踵を返し、の部屋―――二階の窓をあけた。

「ありがとう、真ちゃん」

なんと返すか考えて、なにも返さずバルコニーに出て窓を閉めた。
室内着でじっとしているには寒い二月のバルコニーで、緑間は手すりを越える。

緑間家と家はそこそこ広い敷地を持っているにも関わらず、なんの陰謀か、緑間家令息と家令嬢の部屋の窓が隣接している。簡単に渡れると気づき、かつ緑間家の庭に植わった大きな木が行き来を隠してくれることに気づいたのは六歳の頃だった。当時は落ちそうになったこともしばしばだったが、今は縦にやたらと伸びたおかげで乗り越えるのに苦労はない。長い足が自分の部屋のバルコニーにかかった。






冬の電灯の下には見たことのある紺色のダッフルコートで現れた。もう懐かしい気がする、中学の指定コートである。
手袋をして、ズボンはあたたかそうだ。てっぺんに毛玉が着いた毛糸の三角帽子もかぶっている。
緑間家は帰宅後に制服でうろつくことを厳格に禁じている家だから、緑間は一旦私服に着替えて黒のピーコートを着込んだ。紺のマフラーはラルフ・ローレン。
もこもこしたを睨み、緑間は忌々しげに言う。

「来たな」
「来た」

は満面に笑った。



コートのポケットにケータイと財布だけ持った楽しい夜道。閑静な住宅街のうえ、濃紺の空にはオリオン座がくっきり見えて、上向き吐くの息は白くけぶった。
上向いてそらされた喉の白さと細さに目が留まる。

「寒々しいのだよ」

汚らわしい、と言うのと同じ調子でそう言って、緑間はの首をしめた。手触りのよいラルフ・ローレンで。
は一瞬大きな目を見張って緑間を見あげた。
そしてへへと鼻の頭を赤くしてとろけるように笑った。バカっぽい。



夜のスーパーははじめてだ。
普段からベッドのうえで、コンビニにさえ出歩かないは夜の闇にこうこうと光るスーパーの光を見たときから興奮気味であった。自動ドアが開くとさらに興奮した。

「真ちゃん、カゴ持って行く?あ、それともこっち」
「あまりはしゃぐと転んで死ぬのだよ」
「死なない」

あきれたように笑ったが、つい半年前まで本当に死にそうな容態だったのだ、これは。
がとったカゴは緑間が引き出したカートに乗せられた。

「それ、私が押してもいい?」
「好きにするのだよ」

子供か、と思う。だがこうなることは分かっていたし、許容した。カートでも押させれば、走って転んで豆腐の棚に突っ込んで豆腐の角に頭をぶつけて死ぬこともないだろう。
かくしてようやく緑間とは夜のセーユーへと足を踏み入れたのであった。


「真ちゃんのおばさま、何て?」
「長ネギと、納豆、牛乳、安ければタマゴあとゼリー」
「長ネギ、長ネギ・・・真ちゃん、フルーツ」
「それがどうした」
「フルーツどれが好きかいっせーので指差す遊びね」
「・・・」
「フルーツどれが好きかいっせーので指差す遊びね」

たかがこんなことでテンションを上げて、上機嫌で、興奮して、沸点の低いことだ。

「いっせーの」

「これ」
「これ」

「真ちゃんがでーこーぽーんー!」
「なにが可笑しい」

いつのまにか手袋を取ったみじかい手を叩いて笑う。緑間にはのさしたみかんとどれほど違うのかわからない。不可解で理不尽だ。

「じゃあ、あと納豆とカップラーメンとお菓子と肉と、パスタソースのところでいっせーのせーね」
「納豆以外メモに入っていないだろう」
「タマゴ発見。・・・真ちゃん、118円って安い?」

話を聞かないを睨みつけるが、は赤っぽいタマゴと白いタマゴの違いについて緑間に問うてくる。
ポップで軽薄で適当なBGMが流れる店内をカートは進み、極寒の野菜ゾーン、生麺ゾーンから肉ゾーンへ差し掛かる。
ここまで通った納豆、カップラーメン、お菓子コーナーではいっせのーせはことごとく物別れに終わった。しかし二人は肉ゾーンで思いもよらぬ意思の疎通を見ることになった。
そこそこ裕福な家庭に生まれたはずの緑間とである。また肉の種類による価値の違いと用途の違いはまだイマイチ分からない。それでも「半額」というシールにはどこか抗えぬ魅力を感じずには折れなかった。
はずっと楽しそうだった。
本当に小さかった頃、両家でディズニーランドに行ったときと同じ顔をセーユーの肉売り場で見ている。緑間は、もっと楽しい場所を教えたいような気がそぞろわいて、声は出なくて真面目な顔でメガネを押し上げる。

「ここ、冷たい空気が出てる」

は肉に冷気を送る通風孔に気づき、白い手を寄せてひらひら揺らした。そういうことをしているガキを見かけたことがある。しかしその後ぶるっと震えてマフラーに首をうずめたのを目の端に認め、緑間は思わず「おい」と声をかけ

「わっ、緑間くんじゃん」

声に振り返ると女子が二人立っていた。
スカート丈が受験に響く校内と違って短いスカートをはいて化粧をしているから一瞬誰とはわからなかったが、確か四組。

「ウケる。どうしたの?」
「家の買い物だ」
「家近くなんだ?」
「ああ」
「そっかそっか。うちらはちょっと買い出し班で」

二人がそれぞれ手に持つカゴはスナック菓子とジュースでいっぱいだ。こんな時間からパーティーでもやるのだろうか。
緑間がカゴに気をとられたすこしの間に、二人は長身の男の後ろを首を伸ばして覗き込んでいた。

「後ろのお嬢さんは、彼女さん?」

ずいぶん静かだったから言われて思い出す。見てみればは緑間の後ろに半身隠れるようにして黙りこくっていた。にとっては久しぶりの他人、である。

「これは隣の家の奴だ」

一歩ずれて隠れていたを前に出す。助けを求めるように一度緑間を見上げたが手のひらで差して投げやりな紹介をされると「です・・・こんばんは」と一応の挨拶をした。

「それから、この二人は同じ高校の四組の・・・名前は知らないんだが」

えーウケる!ひどい、と二人はまったく怒っていないようにしか見えない高いテンションのまま名を名乗った。その後、彼女?彼女なの?としつこく聞いてくるのに緑間は飽いてきた。親しくない人間と話し続けることはと同じがそれ以上に不得意だ。

「だって二人付き合ってるんでしょ?」
「彼女さんっしょ?」

「彼女だ」

言い放つと、言うことを半ば強要したにも関わらず二人のほうが目を丸くした。
片手でカートを掴み、もう片方の手での手を掴み「それじゃあ」と緑間は肉コーナーを抜けた。魚コーナーもずんずん進んで、(手が冷たい)半額シールがたくさん張られた寿司ゾーンで曲がって調味料コーナーに滑り込む。

「・・・」
「・・・」
「パスタコーナー、行くんだったな」

手を引いたが控えめに振りほどかれた。
見ればうつむいて頬が赤い。彼女だと緑間が言ったことに照れていたなら少なからず緑間を喜ばせたろうがそうではなかった。足元を向いてみはられたまま泳ぐ瞳が、笑い顔を作れない顔が、ひきつっている。

「ご、ごめんなさい。わたしいま変な子みたいな態度をして」
「おまえは変だが言うほど変ではない」
「でも服もっ・・・こんなダサくて」

語尾に笑うような音が合ったが相変わらず引きつって、恥ずかしがっているのではない。これは、恥じている。
なるほど、と思うが緑間は顔に出ない。
あの二人は短いスカートからすらりと細い脚を覗かせて、飾りつきのタイツを履いていた。ブーツに指輪、髪飾り。もこもこしているばかりでオシャレとは言いがたいだろう自分の姿を比べて、愚かにも自身を下に見たらしい。

「・・・パスタ、行くぞ」
「ごめんね」
「うるさいバカ」

無理やり手をひっ掴んでみるとまだ冷たい。緑間は怒りたい心地になって、をパスタソースの棚まで引っ張った。
「いっせーの」とこっちが言ってやったのに、ささない指を裏切り者だと思った。
奥歯を噛んで傷つける言葉を吐きそうな口を堪えていると遅出しの細い指がノロノロとあがった。
河越シェフがにんまりしているパッケージのカルボナーラ

「おまえ、そんなのが好きなのか」
「真ちゃんが好き」

驚き、まだ俯いたままの頭を見下ろして、赤い耳を見つけたところでピッと緑間の首はパスタソース棚に戻った。見てはいけないものを見た気がしたのだ。
追い討ちをかけるようにピーコートの裾がクンと弱い力で引かれると、緑間はもうどうしようもなくなって河越シェフがにんまりしているパッケージのカルボナーラをカゴに放り込んだ。






母から授かったエコバッグは物言わぬ限り優しい無言の緑間少年が肩にかけた。
真冬なのに緑間だけ暑くって、めがねがくもりそうだった。
もまたパスタコーナーから無言だが、緑間のコートの裾を掴んでいる格好は手袋をはめても続いている。緑間はこの状態に半額シールにも勝るとも劣らぬ抗えぬ魅力を感じて、振りほどけずにいた。

「たのしかった」

閑静な住宅街の電灯のした、の口から白い息がこぼれてゆく。

「・・・真ちゃんがもし怒ってなかったら・・・もう一回、行きたい」
「別に怒ってなどいない」
「よかった」

は鼻の頭を赤くして力なくわらった。

「今度はちゃんともっと、おしゃれ、してく」
「・・・」
「ちゃんとするから」
「今度はルミネに行くのだよ」
「・・・」
「そこで服を買えばいい」
「・・・」

突然ピーコートがぐいいいと引っ張られた。一番うえのボタンが首にひっかかって本気で苦しい。

「おい、何をするっ」
「・・・」

は凍結寸前のアスファルトに座り込んで、頭を重そうにくらくらと揺らしている。

「真ちゃん、ごめんらさい、こうふん、しすぎら」



緑間は一もニもなくを背に背負って冬の夜をきって走った。
閑静な住宅街を全国区のバスケ部員の、緑間の、全速力で。






その後、緑間とのルミネデートまでにはしばらくの時間を要すことになる。
興奮しすぎて、がひどく体調をくずしたことが原因ではない。
久々に背負ったひ弱な幼馴染の胸がやわらかくふくらんでいることをコート越しに知ってしまい、緑間をもんもんとさせる日が数週間続いたからだった。



おしまい