Tシャツをしぼるとバタバタと汗が落ちた。
頭から水をかぶって八月の夜の熱気を払った宮城リョータは、ふと横の水道で同じように頭から水をかけている流川に目をとめた。正確には流川のTシャツに目をとめた。
「おまえ、いつもTシャツいいやつ着てるよな」
一年坊がぎろりと睨むような視線を向けてきたが、さすがにインターハイを戦ったメンバーである、これがこいつの普通だともうわかっていた。
「首だらだらの着てそうなのに。あいつみたいな」
リョータが肩で示した先では、体育館の扉近くで花道がやたらとせかせか動きながら時折頭をかいている。先日引退した赤木の妹、晴子と話しているのだろう。
自分でいうのもなんだがリョータはファッションにはこだわりのある方だった。そのリョータをも上回るTシャツのバリエーションを、あの流川が有していると気づいたのはインターハイの前だったと思う。
「…もらってるんで」
水滴を適当にぬぐった流川が不愛想に言った。
「なに!?ああ、さては流川親衛隊からか!」
「…」
「日に日に数増えてるからな」
流川をはさんだ向こう側で、三井が口元をぬぐいながら顔をあげた。
「生意気な!体育館30周だ!」
「おつかれっす」
リョータの指示に語尾をかぶせて、さっさと更衣室に行ってしまった。
「こらー!流川!キャプテンの指示が聞こえねえのか!」
「なに言ってんだ。もう校門閉まるだろうが」
三井にあきれたようにいわれると、リョータは肩を怒らせたまま歯噛みした。
受験のため赤木と小暮は引退したが、この男だけは冬の選抜を目指すとのたまって部に残っている。リョータにとっては頼もしい目の上のタンコブであった。



制服に着替えて自転車で帰路につくと、夜の風と部活の疲れと、イヤホンから聞こえてくる英語の会話が眠気を誘い、しばらくすると流川の頭は舟をこぎ出した。これまでは何を言っているかわからない洋楽を流していたが、最近はNHK外国語講座を聞いている。
未だに言っている意味はまったくわからないけれど。
自宅のある住宅街に差し掛かるとついに寝入り、耳にはイヤホン、前輪はふらふらしながらも前に進んだ。
危険極まりない。これまでにも桜木花道をひいたり、自動車に激突したりした。
今日はたった今、コート姿のおっさんに背中からつっこみ、同時に電柱に激突した。
自転車から放り出された流川はそこでようやく目を覚ました。
むくりと起き上がり、自転車と電柱の間に挟まれたおっさんを見つけ、さすがにイカンと思って声をかけようとしたが、コート姿のおっさんは跳びあがって逃げていった。
コートの中は全裸だった。
「…?」
裸のおっさんの幻、夢だろう。
寝ぼけていた目をシパシパとまばたきして振り返ると、遠ざかっていくコートと毛むくじゃらの生足が見えた。
顔を正面にもどしてあごをひねる。
正面、15歩ほど先に女の人が立っていた。
なるほど、さっきのは痴漢だったらしい。
物音に気付いて立ち止まっていた女の人が、こちらに歩いてきた。
なるほど。と流川はもう一度思った。
この顔と姿は狙われる。
「だ、大丈夫?楓ちゃん」
我が家の向かいの幼馴染である。



散歩をしていたのだとはにこにこしながら言った。
自転車をおして一応並んで歩いた。行く先は同じだし、前輪がガタガタだ。…さきほどの変態のことも、多少。
「なんで」
「なんで?」
は繰り返して首をかしげた。
「散歩」
「運動して体力をつけないと」
夜に?と嫌味半分にきくのはやめた。
夜の方が涼しいからだろう。
家が向かいで同い年とくれば歩く前から一緒に遊ばされていたが、は立ち上がるのも歩くのも走るのも流川より遅く、しかし三月生まれだからだろうと楽観視されていた。
流川の周りに遊ぶ友達が増えていくとは追いつけなくなった。それでもはバカみたいににこにこ笑って一緒に遊びたがった。ある時から、流川は走る友達のほうについて行き、ついてこれないは後ろの道にひとり取り残されて、それでも一緒に遊んでいる気になってにこにこ笑っていて、やがてその姿は見えなくなっていった。
ほどなくして「三月生まれだから」が理由でないとわかった。
流川はの病名は知らない。ただ、小学校の時、の家に呼吸器が運び込まれていたのは見たことがある。
小学校と中学は一緒だったがは三回転校して一、二年すると戻って来るのを繰り返した。アメリカの学校に通いながら、日本ではまだ認可されていない治療を向こうで受けていたのだと流川の母親がはなしたのを聞いた気がする。
「お向かいのちゃん、戻ってきてるみたいよ」ともそういえば最近言っていた気がする。インハイ前の練習のキツさでほとんど寝ながら聞いていたから忘れていた。
「会ったらお礼言っときなさいよ。いつもTシャツもらってんだから」とも言われた気がしなくもない。
の父親はスポーツウェアメーカー・ニケの偉い人らしく、流川のTシャツはほとんど無尽蔵にお向かいから供給されていたのである。
下からの視線が無遠慮に向けられているのに気が付いた。
「背、高い。いま何センチあるの」
「…ひゃくはちじゅう…9」
187と言おうとしたが、頭の中で赤毛のドアホウの「189.2に伸びたぞ!どうだ!どうだぁ!」という威張り腐った声が響いて口がすべった。すべったが、春の健康診断の記録だから今はきっと189.3くらいになっているはずだから嘘ではない。
「高い」とはなぜか嬉しそうにわらった。あの時と変わらないえくぼを見せて。おいていかれていることに気がついて久しく経ってもこの顔ができるのは少しすごい。
わらい終わると「楓ちゃん」と呼んだ。この声に呼ばれるのは聞き慣れているが、呼び方は耳障りだった
「学校、楽しい?」
「ふつう」
「”ふつう”に楽しい?」
「…バスケは。」
「そう」
はそれきり黙って、しばらくイカれた車輪がカタカタする音だけが夜に鳴った。
「私、9月から湘北高校に通うの」
やけに小さい声で、唇の端からこぼすように言った。
「…」
「…」
「本当だよ」
嘘だと思って黙っていたわけではない。顔には出ないがわりと驚いていた。
「なんで」
流川は珍しく言葉をつづけた。
「もっと頭いい学校、行けんじゃねえの」
「近いから」
一瞬、こいつアホなんじゃ、と思った。が、そういえば自分も近いから湘北を選んだんだった。
がりと頭をかく。
「…不良とか、いるけど」
「うん。聞いたことある。けど、楓君がいるなら大丈夫だろうってお父さんが聞かなくて」
これにはも苦笑いをみせた。
幼稚園のころ、転んだを引っ張って玄関まで連れて行って以来、の父親の信頼は異常に厚い。厚すぎてたまに重い。
「でもよかった」
「…」
「もう少し遅かったら、高校一年生からやり直さないといけないから流川先輩って言わないといけなかったものね」
慣れた声の慣れない呼び方が耳に障った。さっきと違ってぞわとなにかが体を這って、心の中で首をかしげる。
「今度は三年間、あ、二年と半分だけど、今度はずっと日本にいられると思うの。友達も作りたいし、体育もやりたいし、部活も入りたい。できれば、運動部に入りたくて、だから体力をつけないと」
ムン、とこぶしをにぎった腕の頼りないこと。
「…好きにすれば」
「うん」
はまたうれしそうにわらった。その後ろに見慣れたお向かいさんの重厚な門がある。
「それじゃあ、9月に学校で」
「夜の散歩はすんな」
行きかけたが目をぱちくりさせて振り返る。
「…」
「…はい」
幼いえくぼはそのままに、やけに穏やかな声でうなずいた。



自転車を定位置に置き、屈んて車輪を見直す。
ダメっぽい。
おっくうに膝をおこすと玄関の前に立つともう一度目が合った。小さく手を振られたのにはなにも返さず、お向かいの扉は閉められた。
首からかけていたイヤホンをとったとき、音がかすかに漏れていることに気が付いた。そういえば止め忘れていた。
留学を見据えて聞き始めたがいっこうに覚えられない。

「…あ」

声をこぼして顔をあげ、三白眼を見開いてお向かいの扉を見た。
9月から同級生になる、英語ペラペラのはずの幼馴染の姿はもう見えなかった。



おしまい