出発を二週間延ばしたのはの怪我がある程度治癒するのを待ったこともあるが、それよりも獅子奮迅の活躍をした加納が腰を痛めたことのほうが大きかった。の方はさすがに若く、無事だった指や反対の手で翻訳を続けてよく叱られていたくらい動けたが、加納爺は厠へ行くのも苦しんだのである。

お目付けの目が遠くなり、この間、小雨とはちょっとイチャついた。
しかし、時は有限であった。

さわやかな朝に、荘重な汽笛がまもなくの出航を報せている。
船と鉄道とを乗り継いで西海岸へ行き、そこからまた船で太平洋をわたる長い行程だ。
朝の陽ざしが海をきらめかせる。
その際にが立った。
「……さん、気を付けて」
ホトトは何をいうかちゃんと考えてあったが、いざを前にしてその姿を見てしまったら、ひどく言葉につまった。
「手紙を、書きます。日本語で。…」
「待っています」
差し出された手にはまだ包帯が巻かれているのを見、
「俺の父さんは背が高かったんだ、です」
奮い立つようにいった。
「だから俺はきっと小雨より背が高くなります」
うしろで小雨がへんな声をあげたのは無視して
「そう。それは次に会うときに楽しみなことが増えました」
「うん。楽しみにしていて」
満面に笑った。
「そんなにホトトの背が伸びるところが見たいなら、残ればいい」
天晴がいつもの仏頂面をしていう。
もいつもどおりやさしく微笑んで返す。それで、絶対に心を変えない。
のそういうところが天晴は好きであった。機械のことになるとどこまでも深く突き詰めるのに、色恋のことになるとまったく突き詰めない男だから、小雨のライバルになってやろうとか、そういうことはまったく思いつきもしないが、ただ素直に、話していて楽しい。別れが惜しい。
「残らなくてもあなたがたのほうが日本に来る」
見てきた真実をいうようなたしかな声音に、天晴はすぐさま首を振った。
「俺は日本には帰らない」
「帰りなさい。ずっと留まることはなくても、帰らねばなりません」
「いやだ」
強情を張った天晴の胸につ、と指先がふれた。お守りの紐に。
「あなたを愛し、無事を願い続ける家族がいるのですから」
強情な残滓がまだすこし残った顔に、はいたずらな笑みをした。
「飛行機で帰ってきても、砲弾に乗って月をまわって帰ってきてもかまわない」
これを聞くと天晴は「はっ」と明るい声をもらした。
「すぐだぞ」
力強くうなずいた。
そこに小雨が釘をさす。
「おまえ、むこうじゃ脱獄した重罪人ってこと忘れたのか。俺もそれを逃がした重罪人ってことになってるだろうけど」
「黒田という者ですね」
「あ、はい」
「じい」と呼び、家臣団に支えられてタラップを上がろうとしていた加納が振り返った。
「戻ったら手配を頼みます。冬月県の黒田殿と話せるように。冬月の二人の若者が、異国の地で愚かにも誘拐されたわたくしを、一夜のうちに救い出してくれた。彼らには感謝してもしきれない。黒田殿にも直接礼を言いたいと」
「わかりました」
「そうだ、父上にも一緒に行ってお礼を言ってほしいと頼んでみましょう」
小雨はあわてて「様」と引き留めた。
様と呼ぶのは、このひと月ばかりにイチャついて仲良くなったからだった。
姫と呼ばないでみてほしいとおおせになり、小雨は赤面ののち、勇気をふりしぼって「!」と呼び、「…さま」と小声でつけたし、今に至っている。
このありさまだから、ふたりの関係がどこまで進んだかは言うに及ばない。
様、お気持ちはありがたいですが、あれはもとはといえば恨みをかった俺たちのせいですから」
「あれはわたくしたちのせいです」
謙遜するにしては、やけにきっぱりといった。小雨ではなく、加納に向けて。
加納はぎくりとしたように目をそむけた。家臣団も同じ顔をする。
「大陸横断レースの十倍の身代金は別に無茶を言ったのではありません。我が家の者たちが留学生の世話と称してたびたび海外へ渡航し、そのたび外貨にかえていた隠し財産をあてにしたのでしょう」
「ひ、姫様、気づいておられたとは…面目次第もございません」
「えええ!」
二者を交互に見て小雨は絶叫する。そのうしろで乗船を催促するように汽笛が鳴り、家臣団はそそくさとタラップをあがっていった。
彼らの縮こまった背をたいして怒っていない顔で見送って、それから小雨をみあげる。
小雨は徳川埋蔵金の驚きも冷めやらぬなか、いや、無理矢理に冷まして、真面目な顔で見つめ返した。
「どうか、元気で」
「小雨様も」
言い終わるとは下を向いてしまい、それきり互いに言葉をうしなった。
「……。触ってもいいですか」
そんなことをか細い声でいうから、「もちろん」と小雨は照れくさくこたえた。
小さい手が羽織のわきをきゅっとつかみ、小雨の胸に額をあてた。
船の上から一瞬加納の怒る声が聞こえた気がしたが、すぐさま家臣団が奥にひっこめて聞こえなくなった。
ブラウスの背を包むように両腕をまわし、抱きしめる。
細い体を力いっぱい抱きしめたら、昨日までに整理整頓したはずの想いがあふれてきた。
「あなたがどれだけすごくても、女だといってあなどられるに決まっている。打ちのめされて、秋内県がいくら冬月のとなりといったって、私がいないのではっ」
「あなどられるのはよく知っています。でも打ちのめされないから大丈夫」
「そうでしょうけど!」
「打ちのめされない」
「姫様かっこいい!」
「ありがとう」
とんとん、となだめるように背中を叩かれてしまった。
「…けれど」
から体をはなした。
「小雨様が帰る日まで打ちのめされないでいたら、こうして抱きしめて」
精一杯に笑ってみせた頬に触って、唇をおしあてた。
目をつむったのはどのタイミングだったか、よく覚えていなかった。





船が見えなくなるまで手を振って、
「行っちゃったね」
ホトトがぽつり、といった。
「……」
「大丈夫か、小雨」
黙って海の果てを向く小雨はホトトの目にも哀れに思えて、その腕を励ますように叩いた。
これでスイッチが入ったように、小雨が飛び跳ねた。ぴょんぴょんと。
「きゃー!姫様とキスしちゃった、キスしちゃった!うおー、やったー!やっだもう、そんなに見るなよう!」
ホトトと天晴の背中をバシバシ打った。興奮している。
「どんな感触だったか知りたいかあ?それはなー、こう冷たくてぇやわらかくてぇ、ハイだめ!ここまでっ。これ以上言わなーい。なに、聞きたいって?そこまでいうなら、そうだな。今日から百年間ずーっと春でーす、ってかんじだな!春、爛漫!」
ホトトは顔で引いた。
天晴は相変わらずの無表情で小雨のいっかな止まらないキャーキャーぴょんぴょんをじっと見ていたが、
「おまえ、自分が世界一いい男だと思ってるのか」
と冷然といった。
しかしこれくらいじゃいまの小雨は納まらない。
様は顔で選ぶお人じゃない。まえに、俺のどこを好きになってくれたのか聞いてみたら、やさしいところが好きなんだってえ、んふ!」
「おまえ、自分が世界一やさしい男だと思ってるのか」
小雨がきゅうに納まった。
「さっきの船の連中だってみんなあいつのこと見ていたぞ」
「…」
「なんでずっとお前のことだけ待っているなんて思えるんだ。根拠は?」
「……」
汗をかくばかりでこたえられない小雨に向かって腕組みし、続ける。
「こっちではずっと女しかいない学校にいたって言ってたけど、東京に帰ったら半分は男だ。秋内県で訳書を作っている連中のところなんて、全部男だろ」
突然海にむかって走った小雨をホトトが転ばせる。
地べたをはいずり、水平線にきえかかる船に腕をのばし、おうおう泣いた。
「姫様!まって、行かないで!おねがい!そうだ、天晴、飛行機!すぐって言った、はやく、明日できるか!?」
「あしたは無理だ」
「じゃあ来週!」
「一年はかかる。大陸間を飛ぶにはもっとだ」

「いやぁああ!ひべさばああ!もどっでぎでええ!ひべさばああああ!」

小雨の絶叫は港にいつまでも響いていた。



おしまい