「旦那はオンナノコに興味はないの?」

「昼真っから破廉恥なことを申すでない。真田家の忍は助平だと噂が立ったら放り出すぞ」
「真田の男子は童貞だと噂がたったら旦那が放り出されますよ」

カッ!と赤くなるというよりはガッ!と赤くなってゴッ!とげんこつが佐助の頭に落ちた。



元気半分




武田屋敷の道場近く、季節は・・・はて、なんとなくあったかい日だった。
真田の旦那と満で同い年、生っちろいお姫様。お館様より奥様の方によっく似て美しい人だ。
不謹慎?いやいや、だって守るなら美人なお姫様な方がいいだろう。
士気もあがるし、箔が付く。
お姫様は姉君方がみんな遠くへお嫁に行ってしまって遊び相手をなくしていたので元気をなくしていた。
元気をなくして病に落ちた。
階段からも落ちた。
有力なお大名のお嫁さん候補からも落っこちてしまった。それは姫の器量や健康状態が原因じゃあなく、ただ単にお相手の若君が戦で亡くなったからだけれども。

「なんだかここのとこ散々なご境遇だよ、旦那、顔でも見せにあがってみたらどう?」

旦那が槍を振るっている鍛錬の横で、頬杖つきながら俺という忍が偉そうに提案する。
旦那は槍を振るって宙を切る音しか返さない。
集中しちゃって・・・返事をさせてみたくなる。

「旦那が行けばきっと喜ぶよ」

ほら、槍を振るう手をゆっくり下ろしてこっちをギロと睨んだ。おお怖い怖い。

「佐助、分をわきまえよ」

顔を真面目にして凄んでいる旦那は「ハハハハレンチであるぞ〜!」とは言わない。
言わない理由は、心の上辺でなくて心の深くから触れてはならない話題であると思っているからだろう。

「俺がひとりでいったらハレンチ罪でお縄になるから言ってんでしょ。真田のご子息なら問題ないと思うけど?」
「問題ないなど、なにを根拠に」
「わたくしが問題ないと申すから、それがそちがわたくしのところへきてよい根拠です」

女声がして、俺の背中からひょっこりと渦中の生っちろいお姫様が顔をだした。
旦那は飛び上がって、本気で飛び上がってそれから土につっぷした。ジャンピング土下座ってこういうのを言うのか。
打ち合わせどおり俺の後ろに隠れていた姫と顔を見合わせてから旦那を見た。それからまた顔を見合わせて噴き出す。
ああ、なんとあたたかい日だ。



***

病に落ち、階段から落ち、お嫁様候補からもこぼれてしまったというのは姫という。
退屈な寝室から秋のお庭へ出てきた。
道場横の庭では幸村が懸命に、一心不乱に槍を振るっていた。気配を隠すのに成功して見事幸村を驚かすことのできた姫と忍は笑った。
一方幸村は土の上に平伏したまま、二つ分の噴き出し笑いを聞き悔しさに肩を震わせている。
(おのれ、グルでござったか)と主君のご息女にはとても告げられない言葉が出そうになった。
拳を握り我慢、我慢。
ひとしきり二人が笑い終わると、

「隠れていてごめんなさい」

とまだ笑いの余韻が残った声が言った。一番遅くにできた武田信玄の側室の子である。
幸村が目をあわせられないまま少し体を土からはなした。

「ご無沙汰をしておりまする。お元気そうでなによりのことと」
「そう?病に落ちたのと、階段から落ちました」

幸村はばっと顔をあげて青ざめた。

「もももうし訳ありませぬ・・・」

そういえば首が少し痩せている。階段で打ったのはどこだろうか。痛かったろうか。
今は大丈夫だろうか。傷ついてしまわれたろうか。嫌われたろうか。
一瞬のうちに10くらい心配なことを思いついたらしい幸村の表情を見て、は微笑を苦笑に切り替えた。

「けれどもう元気ですよ、心配をかけました」

がぺっこり頭をさげると

「とととんでもないことでござる!姫様が頭をさげられることなど!」

と大音量が返ってきた。はびっくりした様子。
大きな音などここ久しく聞いていなかったのだ。寝室はが養生できるように恐ろほど静かに保たれていたから。
恐ろしいほど、恐ろしいほどにだ。

「旦那ってば声おーきいよ」
「これはっ、重ねてご無礼を!」

謝る声も大音量。佐助は自分の額あてをぴたぴたと手で打ってあきれてみせた。

「あーもう。旦那ったらアガりっぱなしで、申し訳ありません」
「弁丸は元気が一番じゃ」

幸村はボッと茹で上がった。幸村より数えで一つ年上のこの姫はまだ幸村を幼名で呼んで、幼い頃のように接する。それが武将を侮る意味でも蔑む意味でもないことは幸村もわかっているが、気恥ずかしさはいなめない。
ところで、と幸村はきりかえしてみる。
「今日はなにゆえこのようなおもてまで」
「父上とおさじがもう出てよいとお許しくださったのです」
は佐助の肩に手をおいて、心持ち身を乗り出した。
佐助は指でのものらしき草履をつまんで見せ、にんまりした。幸村はぞっとした。
どこかつれてけ
どこかつれてけ
旦那が、つれてけ
弁丸が、つれてけ
(こやつら、グル・・・!)
輝く瞳の申し出に幸村は折れるも折れないもなかった。会ったときから心はぐにゃんぐにゃんだ。
強固でまっすぐな槍のような幸村の心は、今や鍛冶屋の炉に入れられたやわっこくこて真っ赤な鉄。心がぐにゃんぐにゃんになっていて困り果てた幸村を見て、は縁側の佐助の横に腰掛けた。
腰掛けるとき、佐助の助けが必要だった。
ぶらんと垂らした足首の細さはなんだ。
血の管と骨が浮いて今にも
「弁丸」
幸村は声にはじかれて足首からぱっと顔をあげた。
「鍛錬が終わるまでは待ちます。存分に励んで」
「いいんですか、お姫様」
「よいのです」
「いいってさ。じゃあ旦那、あと素振り三十回だったよね?」
幸村は落ちてくるこめかみの汗を拭って佐助を見やった。「あと三十回」は佐助の嘘だ。
この午後は日が暮れるまで千回も万回も際限なく槍を振るおうと思っていた。
幸村はにぐっと頭を下げた。
「では姫様。今しばらくお待ちくだされ!」
三十回、びゅんびゅん振るってあっという間。
終わりました!汗を拭いて着替えて参ります!
と走り去って、走って戻ってきた。
佐助と姫はやはり顔を合わせて笑ったのである。



***

様は武田家の姫様だ。
幼い日には、今にすれば畏れ多いことだが互いの兄弟を巻き込んでずいぶん遊んだものだ。
姫様と某はほかの兄弟姉妹が出征にあるいはお嫁にいってしまっても最後まで手をつないで遊んでいたが七歳か、それくらいのころが最後でござった。
それからは会ってもお互い従者を連れていたし、みるみる美しくなられるし、会釈をしたり目礼するだけ。手のひらは愚か、言葉をかわすことさえできなんだ。
今、お供として「手を取って歩く」のは「手を繋いで走り回る」のとは勝手が違いすぎる。
ああ緊張する。ところで佐助はなんであんなに馴れ馴れしくしゃべるのか。

「それでですね、その野菜ってのが引っこ抜いてみたら人面野菜で」
「人面野菜?」
「そう、そうなんですよ!それ見た旦那ってばおっかしくて」

姫は気にされてはいない様子だが、我が家の忍だから某が注意してしかるべきところでござろうか。
いやしかし、佐助に今黙られては間がもたぬ。
沈黙などしたら某の心臓が口から飛び出て姫にむごいものをお見せすることになる。
ならぬならぬ。
それだけはならぬ。
散策の道、囲む秋色の朱、橙、各種の葉たち、それほど色鮮やかとりどりに振舞うのなら少しはしゃべってくれ。
あ、こら佐助顔を寄せすぎだ!

姫が敵で、手首の骨を引っつかんで関節技にもち込んでよい相手であったり、槍で突き倒して「覚悟せよ!」と凄んでよい相手であったりすればどれだけ楽だったろう。某の手のひらにのせた手のひらは関節技にもち込んでいいものではない。突き倒していいものではない。ぎゅうと握っていいものでもない。ああ、不得手だなんだと言っている場合ではない。
中々外には出られない姫のたまの散歩、無礼や不自由があってはならないのだ。
しかして姫は歩きずらそうでござる。某の手の引き方が悪いのであろうか。
歩みがはやいだろうか。まさか!汗をかいたあとだから臭いとか・・・

「も、申し訳もございませぬ!」



***

秋の散歩道の真ん中で真っ赤になった幸村が突然謝罪して、楽しく話していたと佐助は目を真ん丸くした。

「旦那、脈絡も無くどしたの」

幸村は我にかえって、「なんでもない、でござる」とごにょごにょ言った。
は視線を幸村からその頭上にもちあげた。

「散策にちょうどよい場所ですね」
「でしょう。俺もね、女の子とデートするならたいていここに連れて来るんです。ああ、今のデートていうのは逢引って意味らしいですよ。パーリーはお祭りでオーケーはばっち来い」
「佐助は物知りだこと」
「変な言葉使う変な人がいるんですよ。ね、旦那」
「う、うむ」
「それが旦那の好敵手・伊達政宗なのよ。ね、旦那」
「う、うむ」

佐助はこの時点で幸村の尻を蹴っ飛ばしてやりたい衝動に駆られていた。
話・題・振・り・損・!

「お会いしてみたいものです」
「なりませぬ!」

また大声。はビク!と脅かされた猫のように一瞬身を凍らせた。幸村はまたしてもを驚かせてしまったことに気付いて嫌いなキュウリでも食わされた顔になった。

「政宗殿は敵にござります・・・姫様は、その・・・絶対ダメでござる!」

は途端にしゅんと勢いを失った。
言い過ぎた。

「わっ!あの、姫様。言葉がきつぅございました、どうぞお許しくだされ」
「・・・」
「ひひひひ姫にお許しいただけるのであればそれがし、なんでもいたす所存!」
「・・・なんでも」
「なんでもでござる!」
「そなたのよく行く場所へ行ってみたい」
「は、はあ・・・ではその、少し先に岩清水がございますゆえお連れ申しまする」
「岩清水、行ってみたい」

今までの落ちこみ顔が嘘のようにぱっと笑った。実際嘘だったのだ。はかられた!とは思ったががいつもの調子にもどったので幸村はほっとして、最初よりも幾分か緊張をといて歩きだした。はかられるのもなかなかに心地よいこともあるものだと知る。

「佐助、すまぬが手ぬぐいと姫の羽織を持ってきてくれ」
「承知」
「そんなに岩清水は冷たいのですか」
「この季節、朝は凍ることもございまする」
「凍るところが見てみたいものです。朝にも見に行かせて」
「むう・・・朝といっても夜明けゆえ難しいかと」

佐助は普通に会話する二人の背中をしばらく見つめてから、喜んでよいのか儚んでよいのかわからなくったけれど、やっぱり喜ぶことにしてから踵を返した。



***

「冷たい」

両手を浅い水につけて、その温度はの予想以上に冷たかったらしい。

「弁丸の言うたとおりじゃ」
「左様。ゆえ、佐助が戻るまではあまり水に触らぬようにしてほしいでござる」
「そうします」

は自ら手を引き上げてパッと水滴を散らした。
岩清水は大樹の根のそば、黒い大きな石の下から流れ出ている。緑のコケがところどころに広がっている。
は珍しそうに岩に張るコケを眺めて、幸村はの濡れた手を見ていた。






***

「む、佐助ではないか」

武田屋敷での羽織を預かったところで屋敷の主と出くわした。武田信玄その人である。

「女物など持ってなんじゃ。女装か」
姫様とうちの旦那が岩清水を見に行ってるんで、寒さよけですよ」
「なにが」
「娘は渡さん!という思し召しでしたら今すぐお連れしますけど」
「ふむ」

信玄はあごひげを撫でてしばらく思案顔。

数秒の沈黙のあと、ひげから手をはなして信玄は笑った。
笑っているのだと思う。
たぶん
あれ・・・?

「すまんが、あれの好きにさせてやってくれるか」



(父上とおさじがもう出てよいとお許しくださったのです)
もう 出てよい
もはや・・・



佐助は一拍反応が遅れてしまってから「承知」と苦笑を返した。
言葉の通り、ほとんどの事情を承知したのである。






***

寒くないだろうか
幸村はの横顔をうかがう。
次に振り返って見渡してみた。
佐助はまだだろうか
林には誰の姿も見えない。そこでうっかり気付いた。

ふ、ふたりきりになってしまったでござる
ここは某がしっかりしなくては、姫がコケに足をとられて転んだりしたら大事でござる。
もともと体調くずしてらしたのにまた具合を悪くしたりしたらもっと大事であるし、汗が冷えて風邪を召されたら。
そうだ。
ただでさえ落ち込んでおいでなのであるから、なんとか盛り上げて差し上げるのが武田に仕える者としての役目。

「姫は大きくなられましたな」
「そうかえ?十ニのころから少しも伸びておらなんだが」
「そ、そうでござろうか。なんとなく大きくなられた気がしたのでござるが」

はふと自分の胸に視線をやった。幸村もつられて同じ場所に視線をやるとの横顔が赤くなっていくのが見えた。

「あ、いや!そこではなく!決してそこではございませぬ!」
「ぶ、無礼なっ。少しくらいは大きゅうなっております」

幸村の意図せぬ方向に理解されて、は自分の胸のふくらみを隠してムキになった。
幸村は弁解の言葉を人間語に変換することができないほど興奮し、がばっとその場に土下座した。

「申し訳ございませぬ!」

佐助、佐助、はやく戻ってきてくれ
姫様は某だけでは手に負えぬ強敵であらせられる

くしゃみ

幸村は顔を上げた。幸村の見ている目の前でがもう一度くしゃみをして、ぶるっと震えたのを見てしまった。

「姫様、お寒うございまするか」
「心配はいりません。佐助がまもなく戻るでしょう」
「この幸村めも尽力惜しみませぬ!しばしお待ちくだされ、たぎればなんとか火が出せるでござる!」

幸村はバッと立ち上がり、「たぁぎいいいるうううう!」とか叫び始めたのではなにごとかと目を丸くし、そうになって

くしゅん

聞くなり幸村がしぼんだ。

「ひめさまぁ」
「情けない声を出すほどのことではありません」
「しかし」
「そなたの着物を脱いで寄越せとでも言わせる気ですか。わたくしは家来に無体を強いることはしとうない。それが弁丸でも」

主家の姫が寒がっていて家来がぬくぬくしている状況でよいと言う姫の言葉に是とは言えず、さすがの幸村も(弁丸と呼ばれたからなおさら)むっとした。


で、意地の張り合いの結果、


岩清水の流れ出ずる岩のそば、大樹の根、並ぶと幸村はぴったりとくっついて座っていた。

「さささむくはございませぬか」
「弁丸とくっついているところだけぬくい」
「す、すぐに佐助が戻りますれば、しばしご辛抱を」
「はい」

があんまり素直な返事を返すので、暴れる心臓を押さえてちらっと顔を見てみると彼女は眠るように目を深く閉じていた。
ずしと人の一人分の重みが幸村の左腕に感じられた。
ただの重みが、おさまりがよいものに感じられるのがなんとも不思議であった。
破廉恥でござる、と幸村は口の中でつぶやいた。
口に出さなかったのはの重みがそこにあるのと、が風邪をひくのは破廉恥であることよりもよほど恐ろしいことだからだ。
我慢しよう、
幸村は思ってそこにじっと座っていた。
こんなにテンションの上がる“我慢”ははじめてのことだった。
己の膝を抱える腕にきゅっと力をこめる。
我慢でござる。

「弁丸」
「幸村でござる」
「・・・」
「源二郎幸村の名を頂いておりまする」
「・・・知っています」

幸村はが真田幸村の名を知っていることを知っていた。
それでも再び宣言したのは大人の男の名で呼んで欲しいと思ったから。
弁丸弁丸と小さいころのように呼んで、気安く肩を触れ合っていられるのでは困るのだ。他の男にそういうことを気安くされても困るし、幸村自身にされても困る。気軽にでは困る。
こっちは一世一代の覚悟をもって肩を寄せているのだから。

は自分の膝の中に顔の半ばまでうずめた。

「いやではないか、幸村」

肩が密着している。
姫君の声はひどく小さかった。

「嫌ではございませぬ」

幸村の声ははっきりとしていたがそれほど大きな声ではなかった。

「さようか」
「さようにございます」
「一度こういうのをしてみたかったからよかった」

はすこし遠くを見て笑うから幸村はその目の、心の見る先が気に掛かった。

「九州の戦で亡くなられた御仁と、でござるか」
「それが誰でもよかったの。恋に恋をしていたのです」

ふふ、とは頬を和ませる。
幸村はあからさまにほっとしてしまった自分を諌めた。

「けれどそなたとならいっとうよかったと思ってはおりました」

・・・我慢でござる。
手を出すことは大罪

「叶って嬉しい」

我慢

「幸村」

我慢

「ゆきむら」

「我慢」

「なにを?」
「うっ!うっかり口にしてしまい申した!」
「ほんにおかしな男じゃ」
「精進しまする」
「早めに頼みます」

が膝を起こした。

「佐助を呼びに戻りましょう」

肩がはなれ幸村はひどく寒くなった。



***

その帰り路、散歩道にもどったところでようやく羽織を持った佐助と出くわした。

「遅いぞ佐助」
「いやあ、屋敷でお館様と会っちゃって」
「姫様、お召し物が届いたでござる」
「ん」

は視線を地面にやったまま、小さくうなずいただけだった。自分の手でとろうとしない。

「姫様?」
「かけて」

ああそうか姫様が着物を着るときは従者がやるのも当然だ、と幸村は思い当たる。
その肩から羽織をかけようとして、美しい羽織は彼女の肩にとどかなかった。
が倒れていく様子が幸村の目にはひどくゆっくりとした動作に映っていた。






***

「姫は、死ぬのでござるか」

幸村の言葉だ。
が倒れて屋敷に運んで事情を佐助に問い詰めて
主の部屋に飛び込んで
散々わめいて
散々怒って
散々困って
散々わからなくなって散々・・・
ようやっと、の枕元で落ち着いた。

「まだそうと決まったわけではありません」

みなが迂遠に言うそれを幸村は簡単に口をすべらせて、器用でないところがにはいっそすがすがしい。

「姫様はよくそれがしをからかいなさるから、それも嘘だとよいのでござるが」
「わたくしも嘘だとよいのにといつも思っています」
「・・・どう言葉をおかけしてよいものか選べませぬ」
「なんでもいいから声をかけて欲しい。だってきっと、まだ・・・よくわからないけれど、・・・そうなってしまったらわたくしは幸村の声を聞けないのでしょうから今のうちにたくさん聞きたい。『おはよう』とか『かたじけない』とか『ハレンチでござる〜』とか『でーと』とか『ぱーりー』とか」
「でーととぱーりーは政宗殿でござる」
「『愛しているぞ』とか『おれのかわいい小鳥ちゃん』とか『もう我慢できない、ここで抱きたい』とか」

言ってみてから幸村の顔をが覗き込むと、幸村の顔が内部で爆発した。

「ハッ、ハレン、ハレレッ、チ、ハレ」
「言えていませんよ。ちゃんと声をお聞かせなさい」とは喉を震わせて笑う。

最後くらいは自由にと扉を開けてもらった姫君は思いのほか明るく、思いのほか饒舌であった。
そして時折、あぶら汗をびっしりかいて、ごく稀に幸村の肩にひっついて泣いた。
神経のすり減る作業に思われたが、幸村は足しげく姫君のもとに通い、やたら仲が良かった。
それが三ヶ月も続いたある日に

「そこから一歩も入らず聞きなさい」

姫は襖越しに幸村にこう言い放って「もう会いに来なくてよい」と命じた。
それきり幸村はのもとに通うことはなくなり、佐助が夜にちょこっと幸村をのぞいたりすると、飲めない酒を無理に飲んでふらふらになって佐助に間接技をかけたり、佐助を押し倒したり、佐助を脱がせたり、佐助に先っぽを入れようとしたり、先っぽだけ入れられかけた佐助に本気の反撃をされたり、姫様ぁ姫様ぁとバカみたいに繰り返して泣いたり、もう一回佐助を組み敷いてみたり、その末に佐助の頭突きをくらってようやっと大人しく(気絶)なったりと、大変なアレぶりだったのである。

そんなことが四、五回繰り返された頃、酔っ払っていない幸村が佐助を呼び出した。
密命である。



***

「姫様」

明け方、横たわっていたの部屋の天井から猿飛佐助が突如推参した。

「驚いた、ついに枕元に死神がきたのかと思いました」

は少し疲れたふうだったがちっとも怒らなかったから、佐助はまず第一関門を突破したと安堵する。
実はもう返事もできない状態だった、というのでは佐助は主から賜った命令を全うすることができない。

「死神なら天井裏にいたあれかな。あれなら俺がぎったんぎったんにしといたのでご安心くださいな」
「安心じゃ」

は笑った。
血色は良いとはいえないけれど、かあいらしい笑い方は相変わらず。

「そうそう、その調子で元気だして。おれいいもの預かってきたんだ」
「いいもの?」
「旦那からの文。旦那ね、へこんでたよ。姫にもう会いたくないっていわれたって」
「・・・このような姿を見せとうない、まもののようじゃ」
「こんなお美しい魔物見たことないですけど。まあいいや、じゃ読みますよ」
「うん」
「拝啓・・・ううん?旦那ってばおカタく書いてるから俺様が旦那語に変換して読むね」
「そうして」とは嬉しそうにうなずいた。


姫様、
お元気ですか、某は元気でござる。
前に姫が見たがった岩清水の凍るところは今ならいつでも見れるでござる。
綺麗なので持って行こうと思って手に乗せていたら、お屋敷に着く前に溶けたでござる。
今度は溶けないように走って参りまする。
でも姫に会いたくないと言われて、走っていってもお見せできないかもしれないのが残念でござる。
先日はまた奥州との小競り合いがあり申した。姫様は会ってみたいとおっしゃいましたが政宗殿は男前な御仁なのであまり会わせたくないでござる。


早くもの鼻の上をすべって布団の上に涙がしとしと落ちた。
佐助はそれを見なかったふりをして、読み続ける。


姫は元気でおいでなのかといつも心配で、この前も襖の前まで参って引き返したでござる。
その前も、その前も引き返したでござる。
と、手紙をかきはじめてみたものの、姫に会いたくなってしまったので自分で行くでござる。


「ひめさまー」

が驚くよりも早く、襖の外から元気のいい声がした。
佐助は襖へスタスタと歩み寄り、従者よろしくひざまずいて丁寧にそれを開いた。

両手でひしゃくの形をつくった幸村が縁側のむこうでわっと笑っていた。

「姫様、持ってきたでござる!」

幸村の吐く息は白くけぶる。
走ってきたのだ。
どこから。
両手の中には岩清水、いや岩清「氷」
岩清水の凍ったのを走って持って来た。

「ご覧下され、走って持って参りましたゆえまだちょっと氷がありまっ」

幸村はに氷を見せようとするあまり、足元の飛び石につまずいて見事に転倒した。
しかも手の中の氷をぶちまけてしまった。
青ざめる幸村の目に
しとしと涙を落とすが映った
幸村は青を通り越して白くなった。

「わわわわわっ!申し訳ございませぬっ!氷はまだありましたゆえすぐにとって参りますれば、すぐに!すぐに!」

だめだこりゃと冷静にため息をついたのは佐助である。
庭にひょいっと降り、幸村の背にまわる。

「せー、の!」
「ぬおっ」

幸村の背中に忍の回し蹴りがめり込んだ。
廊下で一回転した主がの部屋に文字通り転がり込んだところまで見届け、従者よろしくひざまずいて丁寧にそれを閉じた。



***

姫様の手は血管が浮いていた。
前はもっとツヤツヤしていて、プルプルしていた。と思う。
いや間違いない。だってあの日、岩清水までお連れしたときに某は確かに姫の手を間近にみたのだ。
転がり込んで目の前にあった手をじっと見ていたら、姫様は手を布団のなかに隠してしまわれた。
それから姫様の顔を見上げると、姫様は顔までそむけてしまわれた。

「帰りなさい」

冷たい声音でおっしゃる。
手を隠して、顔を隠して、某が命令に従ってこの場を退けば姫様ごと見えなくなる。

「いやでござる」
「無礼なっ」

姫は驚かれたご様子だった。
違いない。
はじめてそむいた。

「このわたくしの命じたことに否やと申すか」

姫の目に火を見た。
唇が乾いている。声がかすれている。首がやせて細い。
それでもその目に火を見た。

「恐れながら」

膝をにじり寄せる。

「それがしの主はお館様でござる」

カッ!と音が聞こえた気がしたほど姫君の全身が怒りを表現した。
振り上げられた血管の浮いた手の甲はバシと音を

・・・音をたてるには至らなかった。
某の頬を打とうとしたそれは簡単に手首を捕らえることができた。

「放しなさい」

姫は腕を引こうとするがそんなもの、こんなもの・・・。
血管が浮いているからなんだというのだ。こんなに温かいのにこんなに好きなのにどうして会ってはいけないのか。
ししおどしが二回も打つ長い間、姫は某に捕まえられた腕をなんとか引こうとし、
ししおどしが三回目打つころについに力尽きた。
布団の上でうなだれて、乱れた寝巻きを整えることもなさらない。
ここまで姫を弱らせてからでないと某は姫に口をきくことさえできないとは、我ながら情けない。

「お聞かせくだされ。どうして会い来てはいけないとおっしゃられたのでござるか」
「・・・」
「佐助とはお会いになられたではありませぬか」
「そなたの掴むその腕の醜さを見よ、馬鹿者」
「馬鹿でござる。馬鹿でござるが姫様の手は醜くないことを知っております」
「言うな。同情されるなどみじめなだけじゃ」
「同情では」
「もういい」
「強情な」
「聞きとうないっ」
「姫様の手はあたたこうござる!」
「それはそなたの手が冷たいからじゃ!」
「そ・・・それはそうでござるが・・・」

姫様がいっそう声をあらげた、というか泣きそうな声を出したので驚いて思わず放してしまった。
細い手首がうっ血している。
ぞっとした。

「申し訳ございません姫様、痛かったでござるか・・・」
「冷たい」

ぽつりと姫様がこぼした。

「岩清水をもってきたから冷たい」

ペタ、と姫の両手が某の左手をさわった。
熱い両手は長く続いているという微熱のせいだろうか。
今怒らせてしまったせいだろうか。
ごしごしと、姫の両手が某の左手をさする。

「さむかったろうに」

ごしごし
あったかい

「大丈夫でござる」

ごしごし

「大丈夫です、姫」

ごしごしさすられていた手はきゅうと、か弱い力に懸命に握られていた。
握られたのは左手なのに別の部分がきゅうとひきしぼられたようだ。
なんといとしげな

「姫様はたぶん、お手がしわしわになっていったり、唇がかさかさになっていったり、髪がパサパサになっていったりする姫様を、それがしが嫌いになると思われたのでしょうか」

「うん」
「しわしわでかさかさでパサパサでもそれがしの姫様は姫様なので、それでいいでござる」

うなだれていた頭が鎖骨のあたりに押し当てられて、誠に焦る。
おでこが熱い。

「・・・姫様。お願いがあるのですが」

応えてはくださらなかった。
熱い吐息が肌にじかにあたった。
血の音で動揺がバレていないとよいが、あ、いや。バレバレなのはわかっている。
なればこそ、声がブレるのを恐れずに申し上げよう

「ま、毎日一度だけ、御前にその、あがりたく」
「ならぬ」

ぎゃふん!
この雰囲気なら許してもらえるのではないかと思ったが、さすがお館様の一門の御方、某ごとき未熟者では計り知れない!



「元気になったら会いにゆきます」

元気に・・・なってくださるのか、あなたは。

なすすべなくて、あごをぐっと引き言葉をのむ。
我慢がきかず、身体を抱きこんでみる。
抗う声も力もない。
ぎゃあぎゃあ騒がれてポカスカ殴られたほうがまだよかった。
最後だからサービスされているようで、そんなサービスはいらない。
某が未熟者だからといって、
がきっぽいからといって、
童貞だからといって、
今生のわ・・・

前のめりに倒れこんで、姫様の身体を下敷きに覆いかぶさる。

「それがしの元気は全部姫様に差し上げまする」
「ぜんぶ」
「全部でござる」
「半分でよい」
「な、なにゆえ」
「幸村は元気が一番じゃ」
「では半分」
「どうやって」
「ど、どのへんまでおーけーでございましょうか」
「・・・半分?」

生殺し!






それから姫君のからだは徐々に快方に向かうのであるが、このときに真田幸村の元気を
半分与えられた
ことが要因なのかどうかは、はたして、はたして



おしまい