「なにをするのですっ、幸村」

真田幸村が夜を這ってきた。
はすでに灯りも消し、布団の中にいて半ば眠っていたからいざ幸村に組み敷かれてからようやく驚いて目を覚ます。
「い、いつ戻ったのですか。言ってくれたなら起きて待っていましたのに」
予定ではあすの夜に戻ると聞いていた。幸村はの顔をじっと見下ろしたまま、の上から退かない様子がまるで別人のように見えて、恐ろしくなった。
「幸、村?」
幸村は応えない。
顔がぐっと寄って、咄嗟、は顔を背けて目をぎゅっとつむった。
「なぜ避けられるのか。あなたは某のことを厭うておいでか」
「そうではありません、けれど」
「けれど?」
「あまりにも急すぎて」
「急でなければよろしいのか」
頬をそめて顔をそむけたままは小さく頷いた。

「なーんだ。やっぱそうですよねー、やっぱり原因は旦那ってことか」

幸村の喉から佐助の声がして、はもう一度びっくりしなおした。
佐助の声した幸村はの上を退いてぴょんと宙返りし、少し離れた位置に着地した。着地したのは猿飛佐助姿の猿飛佐助で、きっちり跪いていた。
「驚かせてしまってすみません。甲斐の虎様と真田昌幸様のお言いつけだったもので、無礼をおして夜這いさせていただきました」
「佐助ですか」
「佐助でございます」
「・・・父上の言いつけと?武田第一の家臣の妻を夜這えなどとまさか、なぜそのような命が下るのです」
「旦那と姫様はご夫婦になられたというのに一向に交わされるご様子がないから、お父君方がたいそう心配しておいでなのでございますよ。それで、どっちに原因があるのか探って来いとの特命をうけたわけです」
「・・・」
「ま、姫様はまんざらでもなさそうだってことなんで、わかっちゃいましたけどやっぱり問題は旦那というわけだ。自分の主ながらこれだけははずかしいなあ。あ、苦情は父君方にお願いしますね」
「佐助、おまえに言伝を頼みたいことがあります、これに」
「はいはい」
ひょこひょこと近づいてみると
バチーン!



「おお、佐助、戻ったか」
翌朝、庭の忍の気配に気づいて武田信玄が振り返った。
しかし信玄はその姿になんとなく違和感を覚える。
「ん?佐助か?」
「佐助でございます」
「ちょっと太ったか?」
「そうそう朝だから顔がむくんじゃって、って違いますよお館様!」
佐助の顔にはもみじ方の手形がはっきりと残っていた。顔の正面にあるから、これはビンタというよりは、掌底を正面から食らったに違いない。さすがに武門の娘である。
「ふむ、は母親に似てやさしい気性に育ったと思ったのだが」
「そりゃ普通の女の子なら怒りますって、だから言ったじゃないですか」
は普通の女の子ではない。美少女じゃ」
「で、次の任務なんですけど」
「つまらんやつじゃのーう」
信玄の親馬鹿のくだりを今まで何度となく聞いてきた佐助は慣れたもの、無視して続けた。
「次は旦那に姫の恰好で迫るんでしたっけ?」
「うむ、作戦も第二段階じゃ。真田家存続のため心して行け」
「本気ですか!?姫様でこれですよ!旦那の相手なんかしたらクビになるどころじゃすまないかもしれないじゃないですか。下手をうつと首だけになる」
「うまいこと言うのお」
「本気でヤバイんですって」
佐助は自分の顔正面の赤あざを指差して身振り手振りで危険を訴えたが、信玄は笑ってのけた。
「なに、要は幸村がやる気があるのかさえわかればよいのだ。正体をバラしてぶん殴られるのが怖いなら、正体をばらさず最後までサービスしてハイ夢でしたということにすればよかろう」
「そううまくいきますかねえ」
佐助のため息だけが武田屋敷にむなしく落ちた。






「幸村」
「んあ・・・んー、もうおなかいっぱいでござる」
「おまえはまだわたくしをひとくちもかじってくれないではないか」
「んー・・・あ、あれ!?姫様っ!?」
自分のうえに妻となった姫君が寝間着でのしかかっているのに気付くと、幸村は電光石火の勢いで目を覚ました。大声をあげて起きあがろうとしたのを、姫君の人差し指を唇にあてられただけで処女のようにおとなしくなった。
「し、しずかに」
「ひ、姫様、どうなされました、このような刻限に」
「どうかしているのです。身体がうずいてしかたないの」
「どえええ!?どどどどこかお怪我を!?」
「うむ・・・」
「それは一大事でござる!どこでございましょうか!すぐにおさじをっ」
大声で飛び上がって、大股開いて、おいおいふんどし見えちゃってるよ?大声だされておさじ呼びにいかれてはさすがに大事になってしまうので、佐助は精一杯に切なげに振舞う。
「幸村、静かに・・・、おまえの声が身体に響くのです」
「へ!」
「ここに居て、さすっておくれ。後生ですから」
「さささ、然様でございましたか、気が付かず申し訳ございません」
幸村はガタガタ震えながら、ちょこんとの前に座った。
「して、お怪我はどのあたりでございましょうか」
しなやかな腕がするりと伸びてきて、硬直しきりであった幸村をいとも簡単に押し倒した。
「ひひ姫様っ」
「身体がほてって、中がうずく」
幸村の顔の横に手をついて、ゆっくりと幸村の胸板にやわらかな胸をおしつけていく。
「静めてくださりませ」
幸村は姫の顔と胸に視線をうろうろうろうろうろうろさせて、開きっぱなしになっていた口をようやく閉じたと思ったら生唾を飲み込んだ。
(もうひといき)
太腿を幸村の足の付け根に押し当
「ほぎゃああああああああ!」
幸村が大絶叫が響き渡るや佐助の世界が回転した。

巴投げ






「おお佐助、戻ったか」
「お館様、俺様言える立場じゃないけど姫様のためにも離縁させたほうがいいんじゃ」
「なにを言う」
「だって、新婚ほやほやの奥方に夜這いされて絶叫した後に巴投げですよ?一瞬走馬灯見ちゃった…」
「おまえには苦労をかけたな。だがこれで、未だに昔のなごりで姫様、幸村などと呼びあっとるあの二人も少しは意識して組んず解れつおっぱじめるに違いない。意識させて野郎作戦はこれにて完遂じゃ!」






作戦名をうまく名付けただけでご満悦の様子の信玄の屋敷をはなれ、上田城まで戻ると二の丸の庭から幸村が槍を構えて突っ込んできた。
「佐ぁすぅけぇえええい!」
「ゲ、いきなり見つかったっ」
昨晩の巴投げのあと慌てて変化をといて逃走して以来だから、幸村は今の今まで佐助のことを探し回っていたのだろう。跳んで木の上に逃げようと試みたが、先に装束の肩を背後の木の幹に縫いとめられて早々に観念した。怒り狂った幸村に追われて下手に逃げたらそれこそ手違いで殺されかねない。
「き、さ、まぁあああ!」
「うわああごめんなさいごめんなさいっ、あれにはワケがっ」
問答無用とばかりに襟首をねじり上げられ、後ろの木に叩きつけられた。
「ぐえ」
「姫様のはだ、裸を見たのか!?」
「…はい?」
「姫様の裸を見たのかと聞いている!答えよ佐助っ!」
「や、見てないですけど、ぐるぢいぐるぢい」
「ではなにゆえ姫のか、から、からだつきを知っておるのだ!姫様の風呂をのぞいたのならばいくら我が家の忍びと言えど斬らねばならぬ!そこへなおれ!」
「いやいや、だから見てないって!昨日のあれは完全に男子の妄想」
「むぐう」
「ホントに。苦労したんですぜ?旦那が実物見てがっかりしないように絶妙な大きさに調整したんですから」
「…姫の裸を見て真似たわけではないなら、よい」
佐助の装束を貫いていた槍を引き抜き、幸村は自分の足元を見つめた。
「なぜ、あのような真似をしたのだ」
普通先に聞くのそっちだよね、とはツッコまず、佐助は正直に父君方の心配事を幸村に話して聞かせた。

長年幸村を見守ってきた佐助である。
幸村が昔からあの美しい姫君に想いを寄せていて、それでいながら主家の娘に対してよこしまな感情を自戒してきた姿を知っている。結婚を許されて手に入れた途端に想いが消えるほど自分の主は軽薄な男ではないことも、佐助はよくわかっていた。
周りに夫婦仲を大層心配されている、そう言われて幸村ははっきりと鎮痛な面持ちになった。二の丸御殿の縁側に腰掛けて、佐助はずいぶん肩を小さくしている幸村に尋ねた。
「旦那がそういうことを破廉恥と言って苦手にしていることは重々知ってますけどね、女の姫様からはなかなか言い出せることじゃあないんだから、旦那からちょっと強引にでもそういう雰囲気を作ってあげないと」
「わかっている。わかってはいるが…。畏れ多くも友人として幼少のみぎりよりおそばにはべっていたから、妻として接するのがなんといえばいいか、築いてきた楽しい記憶と関係を全てなかったことにするような恐れがあるのだ」
「女として好きじゃなかったかもってこと?」
「す、好きだ」
膝の上においたこぶしに力を込めて、額に汗をかきながら幸村は言い切った。
「好きだが、ずっとその想いは追い求めてはならぬものだと耐え忍んで来たからなのだろうか。不甲斐ないことだが、思うように発することができぬのだ」
「旦那…」
「聞き流せ。言い訳にすぎぬ」
幸村は苦々しく言って立ち上がった。
「皆の期待はわかった、自分のやるべきこともわかっている。あとは一人でやる」
忍びごときにはその思いつめた背中を見送るよりほかなかったが、不安はしばらく佐助の心に居残って、まもなく現実のものとなった。



「幸村」
「はい、姫様」
「食事がおわったら、その…すこし外を見たいのです。ついて来てくれますか」
「もちろんでございます」
夕餉をはさんでの何気ない会話だが、佐助は天井裏からのほうに緊張の色を認めて気になり、こっそりとついて行くことにした。もちろん邪魔をする気は毛頭ないし、万が一おっぱじまってしまったら耳をふさいで背中を向けて、お人払いに専念するつもりである。
御殿の中庭に面した襖を開けて、部屋の中から並んで月を見上げる二人の間には絶妙な距離がある。
「今宵は月が大きゅうございますな」と幸村が言ったくらいでたいした会話も続かず、姫君は何がしたかったのだろうかと見守っていると、ついにが動いた。
「あの…足がしびれたようです」
「それはいけません、どうぞ足を伸ばしてくだされ」
「うん…」
足を伸ばして、その裾の間からちらりとふくらはぎが覗いた。
着物と言うのは恐ろしく肌の見えない衣であるが、だからこそ肌が見えたときには男の目はそこに釘付けになる。いま幸村はそのおみあしを確かに見たが、すぐさま顔をそむけた。裾を整え直した姫君の方もなにやら顔を赤くしているのを見るにどうもわざとやったらしい。
なるほど、姫君は攻勢に転じたのである。
お父君方の期待を知り、自分がなんとかせねばと恥を忍んで幸村を煽りに来たというのに、(がんばれ姫様!しゃんとしろ旦那!うひょーいい脚ィ)という天井裏の佐助の応援もむなしくその夜はそれきりだった。
あくる朝、城の北、太郎山の麓で謎の森林伐採騒ぎがあったが誰の仕業かようとして知れなかった。



姫の試みはそれから五日間続いた。
もともとという姫君は色恋沙汰には大して興味を示さず、信玄の影響で三国志はじめ大陸の書物に親しんでいるような人で、そんな人が足を見せたり、襟を緩めてみたり、手を握ってみたりと耳まで真っ赤にして取り組んでいるのに、旦那ときたら行き所のない欲を五日連続真夜中の森林伐採で発散している始末だ。
佐助はガツンと一言いってやるべく六日目の夜に幸村の寝室に乗り込んだ。
「旦那!ちょっとお話が…あー」
幸村は煮詰められた鍋の具のように小刻みに震えながら布団の上に座っていた。目の下には大きなクマをつくり頬はこけ唇は乾いてカサカサになっていた。
佐助はあごをひねって、言うべき言葉を一旦腹に収めた。
「あんま無理しないほうが…。結婚する前ならいざ知らず、様は旦那のものになったんだから我慢なんてしなくてがばーっといっちゃっていいと思いますぜ?」
「姫様を物のように言うでない。…おまえの言いたいことはわかっている、だがいま姫様をだ、だ、抱いたなら某はおそらく、いやほぼ確実になにもする前にひとりで暴発して終わる」
「超わかる」
「ゆえに…某は今、こらえる鍛練をしているのだ」
「もしかして、自分でもシてないの?」
「無論っ。これは己を律する鍛練にござる」
「よしなよよしなよぉ、体に悪いって絶対」
「では…おまえのケツを貸せ」
佐助は疾風のごとく逃げた。あの目はやばかった。
結果、六日目の森林伐採も止められないまま、七日目の朝を迎えた。
このままでは太郎山がはげ山になってしまうと城下の村々が化け物退治の陳情書を城に寄越してきた。もはや手段を選んでいる場合ではなかった。
夜に二つ布団を並べた部屋に二人を押し込んで襖をぴったり閉じた。



布団の上、寝間着姿で向かい合う二人の間に流れる時間は十秒が一刻とも感じられた。
「ゆきむ「姫様」
ようやく口火を切ろうとしたに遮って入り、幸村は立ち上がった。
「御前をまかります」
残された冷たい布団の上で呆然とする姫を置いて、幸村はその場を立ち去った。佐助は幸村の姿を見失ったが、本丸で火柱があがったのでほどなく幸村を発見した。
真田の次男がこんなになっているところを家臣に見せまいとひと目のない部屋へ引き込んだ。
「某は姫様になんということを」
「ホントだよ。今頃様は恥をかかされてきっと泣いておいでだ」
「姫様になんとお詫びすれば」
「下手に詫びたら姫様はもっとみじめな気持ちになりますよ。…ったくもう、こうなったらこの佐助がひと肌脱ぎます。姫様に変化して来ますからそれで予行練習してください」
「予行演習か…名案だが中身が佐助と思うと不気味でござる」
「こっちだってやりたくてやるんじゃないんですから、文句言わないでくださいよ。姫様の前でちゃんとしたいんでしょ!」
「う、うむ。世話をかけるな佐助」
「お給金はずんでくださいよね。じゃ、姫のお香とか着物とか借りてきますから、しばしお待ちを。布団でも敷いといてください」



それからしばらく待つと、述べた布団の上で落ち着かない幸村は廊下の鴬張りをわずかに軋ませ人が近づいてくるのを聞いた。佐助である。
中身は佐助だとしてもあの晩のようにそっくりに真似ているのだろうと思うと、幸村は我知らず背筋を正しくしてそれを待っていた。
「幸村、そこにいますか」
「なっ、そこからもう始めるのか」
「え」
本格的でござるな、とつぶやき佐助の本気に負けじと幸村も気合を入れる。咳払いをひとつした。
「ああ、いるぞ」
いつもならかつて武田の姫であった人に未だにそんな口をきけないのだが、佐助の演技に応えて幸村も旦那様然に振る舞って見せた。
襖を開けて覗いたの顔した佐助は恥らうように廊下ばかり見つめていて、幸村は名演技に思わずうなる。
「え、ええとでござるな…廊下は寒いでしょうから、まずはこちらに」
「わかりました」
佐助扮するがしずしずと部屋の中に進んできて
「あっ」
と声を上げたときには足元の座布団のへりを踏んでスっ転んでいた。幸村は相手が佐助とはいえその姿で倒れられたら体が勝手に動き、の体をすんでのところで受け止めていた。
「す、すまぬ、幸村」
「おまえは本当に演技上手だな、感心する」
の双眸が瞠られた。
「なにを…?」
「ああ、そうであったな。本当に転んだのだと思わねば話が先に進まぬな」
「そんなっ、わたくしが偽りでしなだれかかったとお思いなのですか」
「それで次は一体なにをすればいいのでござろうか。おまえはずいぶん経験がありそうだからよく知っているのだろう」
顔をカッと紅潮させは幸村から体を離して無言で首を横に振った。
「そう嫌そうな顔をするな、おまえから焚き付けてきたのでござろう。某とておまえにこのようなことをしたくてしているわけではない」
「では…結構です」
「急にいったいどうしたというのだ」
「わたくしに触るな!」
ぴしゃりと言われて幸村は演技であることも忘れて震えあがった。
はぶるぶると怒りに体を震わせて、声にならない声が唇をわななかせ、頬を涙が伝った。
「…おまえが、こ、このような男だったとはにわかに信じられません。佐助か、おまえは佐助なのでしょう?またわたくしをだまして」
はよろよろと後退り、襖に肩をぶつけた。間違いなく怒り、とめどなく涙をあふれさすの姿に幸村は動揺を隠せない。
ほおずきのように色づき、くしゃくしゃに乱れたあの顔の皮膚のどこに偽りをはさむ隙間があるだろう。
まさかとよぎった。
「ひめ、さま…?」
唇のはしからこぼすようにつぶやく間に、間違いなくこれは本物のだと幸村は気が付いた。
「あ…ああ、…ああ」
口をあんぐり開けて、幸村は総毛立つ。
「姫様…姫様、これは、違うのです、姫様」
足に力が入らず立ち上がれないまま、膝をひきずって不格好に近づこうとすると「近寄るな」と一喝され、幸村の体は雷に打たれたように動けなくなった。は涙を流しながら、虚ろに笑うような顔を作ってこう言った。
「おまえなのね…、夢だと言って」
「ゆ、夢で御座る」
は素早く身をひるがえし、廊下の向こうへ走って消えた。
幸村は四つん這いのまま世界を止めて、そこへ鴬張りの床を鳴らして人が近づいてきた。姫である。姫は口を三日月のようにして笑ってこういった。
「お待たせー旦那、んじゃ、はじめよっか。言っとくけど先っぽたりとも入れるのは無しだからねー…って、旦那どしたの?」
すがる糸は途切れた。幸村は布団に足を取られてもつれながら走りだし、真正面の壁に顔をぶつけて方向転換すると、本物が消えて行った方へ駆け去った。
事を知らず取り残された佐助は首をかしげるばかりだった。






は寝間着姿に素足のままで二の丸を飛び出し、三の丸の蔵屋敷が並ぶ間を長い髪を散らして駆け抜けた。
ここに嫁いだ時に教えられた秘密の埋め門の鉄扉にたどり着き、力の限り押したが門には黒鉄の錠がかかっていてびくともしなかった。砂利を踏んで走った足はどこかで切って血が出ていたが今は痛みを感じない。拳を作って錠を手で何度もたたくと痛くて涙が出そうになったのには歯を食い縛って堪えたのに、ここを案内された時に幸村と秘密基地みたいだと笑ったのを思い出したら涙があふれてきた。
錠を壊すため振り上げた拳が後ろから掴まれる。
「血が」
幸村は眉をひそめ、の腕と体とを掴んで地面に足がつかないように持ち上げた。
「放せっ」
はじたばた足を揺らして後ろの幸村のすねを蹴り、身をよじったけれど幸村は腕を緩めなかった。それどころかが蹴ったところに血が付いたのを月明かりで見て、さらに眉根の皺を深くした。
「手当をいたしますゆえお静かに」
「黙りや!わたくしは甲斐に帰るのです、お前の顔などもう見とうないっ」
「姫様!」
「…」
「本当に血が出ているのです。某からはもはやお詫びよりほか発する言葉はございませぬが、手当が先です」
一人で行くと言って聞かないを無理やり抱きかかえ、運ぶあいだ幸村はずっと髪を引っ張られていた。なのには夜中の迷惑に配慮して泣き声は殺していたのが、らしくて幸村は場違いにも少しほっとしていた。



寝具が二つ並べられたままの部屋に戻ると、水を張った手桶と清潔な布、包帯と軟膏がすでに用意されていた。
力いっぱい黒鉄と戦っていた小指が骨折していないかと心配したが、骨は無事だった。ただ内出血して変色しており、幸村は自分が槍で突かれたときよりもよほど痛く、血の気の引く思いで治療した。手のひらも足先も氷のように冷たいのがいたく可哀そうだった。
幸村は、手当ての間に二度も佐助と見間違えたことを話して深く詫びた。
この部屋でついさっき逃げ出したことも今更に謝った。
の興奮は時間が経つにつれて徐々に疲れておさまっていったが、つぐんだ口の中にはまだ苦い言葉を含んでいる表情だった。
「…姫様がきゅうに大胆になられたのは、誰かに聞かされたのですか。父とお館様が我らのことに心を痛めていると」
言うと、はくしゃと顔を崩してその拍子にまた涙がこぼれ、顔を手で覆ってうなずいた。右手の包帯が痛々しい。
「死ぬほど、恥ずかしかった」
そうだろう、そうだろうとも。幸村は改めて深く悔いた。
「姫様は聡明で御心に勇気をお持ちであられる」
「…」
「その在りようがずっと、某の憧れでございました」
「おまえが賢いという女が、あのようにふしだらな真似をしたのですよ。お笑いぐさです」
「某が不甲斐ないばかりにとはいえ、今思えばそんな姫様が某のために恥をおして一生懸命になってくださったのがたまらなく愛しいように感じ入るのです」
幸村はの背に両腕をまわして抱きしめた。顔を覆っていたもこれにはびっくりして体を離そうとしたが、思いのほかしっかりと抱きしめられていて、腕はほどけなかった。
「某は昔も今も変わらず姫様のことが慕わしゅうございます」
「…佐助、なのですか?」
「幸村にございます」
腕にさらに力がこもっては息を止めた。妙な迫力を感じていたのである。
「姫様にひどい仕打ちをした後に調子のいいことだとはわかっております、お叱りは聞きます、必ず、しかし明日の朝に」
「ま、待って」
「佐助あっちへ行っていろ」
早口に言って天井裏でカタンと小さな音がしたのを聞くや、幸村は性急に体を傾ける。
布団に横たえられたは足も腕も体の前に縮こまらせて顔をそらす。さらされた首筋に幸村はえもいわれぬ魔酔をかがされてうなじに吸いつくのを止められなかった。

耐えに耐えた末、一度タガの緩んだ頭からは恥も畏れも何もかも外にはじけ飛び、今はただこのかわいい人がもっとかわいくなってしまったのを貪るよりほか体は動かない。うわごとのようにと繰り返し、吐息は乱れ、触れるのも畏れ多かったの夜着を片手で乱暴に肩から摺り下ろす。くっきりうかぶ鎖骨をつたって唇と鼻先を突きこんで下へ下へとなぞっていく。
「ゆ、幸村、名を呼ばないで」
乳房にしゃぶりつく幸村には声を返す余裕はなかった。それでもは切なげにこういうのだ。
「姫と呼んでいてお願い…、おまえが別の人になってしまったようで、怖いの」

声音は腰に響き渡り、幸村は果てた。

果てちゃった。

死にたい。

なにもかもこれからだという時に。

さっきまで獣のようだったのにきゅうに仏像みたいになってしまった幸村を見て、なにごとかとが顔をあげる。
幸村は慌てて、しぼんだ<天覇絶槍>を隠した。
「幸村…?」
愛しげな声に呼ばれ、恐る恐る顔をあげてみればそこには、夢でしか見たことがないような半分までひん剥かれたの艶姿がある。しかもそれが小首をかしげて心配そうに幸村を見つめているなど、この世の春としか言いようがない絶景であった。
その時である。
幸村の<天覇絶槍>は再び<天覇絶槍>しはじめた。
いや、すでに完全に<天覇絶槍>している。
「な、なんと!!」
「どうかしたのですか」
「姫様は…姫様はやはりすごいお方にございます!この幸村のちっぽけな心配事など姫様のまえには杞憂でございましたっ」
「なにがです?」
「この真田源次郎幸村、姫様がおそばにいてくだされば無限に御座います!!」
「無限?」
「うぉおおおお!燃えてきたぁああ!たぁぐぅいるぅああああ!!」
「え、なにっ、痛い!待って、幸村、バカ、待て、イヤ、待って…!待てと…言っているのが聞こえないのですか!!」



巴投げ