「パパ」

幼い声ではない。
リビングのソファーから首だけ振り向けた。
あの人と同じ姿、同じ声に成長した娘がリビングの入り口に手をおいて立っている。
ほんとうに生き写しのようだ。唯一異なる点をあげるなら、表情にとぼしいところは自分が悪影響を与えてしまったのだろうと思う。

「いま、少しいいですか」
「どうしたんです。改まって」

はリビングに足を踏み入れ、四木の横に30センチの隙間をあけて腰掛けた。
は正面の低いテーブルを見つめてしばらく黙っていた。
四木はから言葉が出るのを待つことにして、ウイスキーグラスを手に取る。

「今度、会ってほしい人がいるの」

グラスのなかで氷がカランと音をたてた。

「そうですか」

予想はできていた。
娘はうつくしい。
表情はあまり変わらないけれど思いやりのふかい、優しい子に育った。
まわりの男がほうっておくはずがない。
しかたのないことだ。

「来週の日曜なら家にいますよ」
「・・・どうしてなにも聞かないの。何のために連れてくるのかとか、誰だ、とか」

の眉が切なげにひそめられた。
カタギでない父親に”ただの彼氏”を会わせるような愚かなことをする子ではない。
だが、なにか聞くべきなのか。
は聞かれることを求めている。
そうか。
では

「どうしてうれしそうではないんですか」
「パパ・・・」

うつくしい色合いの瞳がうるんだ。
表情にとぼしいとはいえ、嬉しければ笑うし、悲しければ泣く。腹が立ったら怒・・・ったところはあまり見たことがない。チシャ猫のしっぽを振り回して「パパのばかあ」と暴れた時くらいだろうか。

小さな頃から言いつけをよく守り、反抗期らしい反抗もなかった。思春期にはいってから洗濯物を嫌がられたということもないし、へんに避けられた覚えもない。誕生日と父の日には毎回手紙つきのプレゼントをおくってくれる。
自分のような人間が片親だったというのに、よくここまで育ってくれたと思う。
つらいことも寂しいことも悲しいことも我慢もあったろう。
そんな娘の幸いに反対する道理があるだろうか。

涙をこぼす寸前ではソファーの上で膝を抱き、顔をうずめてしまった。
くぐもった声がする。

「パパが一人になってしまいます」
「そんなことを気にして」
「そんなことではないですっ」
「そんなこと、ですよ。気にしなくていい」
「だめ!」
「・・・」

娘が声を強めることは滅多にない。こんなにかたくななのも。
膝に隠れた表情が気にかかった。



「私がパパを守るんです」

四木は目を見張った。



「守ってあげてね」

赤いほっぺたと四木の黒いそでをひと撫でして去っていった。

「四木さんを」



どうして

「ママと」

まだ赤ん坊で

「やくそく」

あのとき
目が
ひらいて

「・・・」

四木は言葉をのんだ。
真実を知ったとしてどうなることでもない。
グラスを置き、前傾で大腿に肘をつき指をくむ。



が幸せになるのとならないのとでは、幸せになったほうが私は幸せです」

膝から顔をあげたのが気配でわかった。
これをあえて見ずに、四木はつづけた。

「ちゃんと幸せになりなさい」



ほそい指が、四木の組んだ手に乗った。
強張った両手が包みこむ。
涙で湿っていた。
「パパ」「パパ」と何度もかすれた声が繰り返す。

「パパ」 「ありがとう」 「だいすき」 「パパ」 「だいすき」



この子からはもう、じゅうぶん過ぎるほどにもらった。
そうでしょう、さん


















ひとしきり泣いてが落ち着いてきた。
グラスのなかの氷をとりかえてきて、お酌までしてくれた。
今度は向かいのソファーに腰掛ける。

「あの、パパ」

先ほどよりも言いにくそうだ。

「なんです」
「パパは・・・再婚はしないんですか」
「・・・」

言葉が足りないと思ったのか、は慌てて言葉を尽くした。

「好きなひとができたらパパのしたいようにして欲しいと思って」
「・・・いいえ」
「どうして」

グラスの琥珀を揺らす。
少し笑った。

「もう先に死なれるのは嫌ですから」

ストンと音が聞こえた気がした。



「わたし、ママのことが好きなパパが好きです」

は顔をほころばせて言う。
なつかしい。
四木はこたえあぐねて、親ぶった言葉に逃げることにした。

「もう寝なさい」
「・・・はい。パパも飲み過ぎないように」
「はい」

がソファーを立ち上がり、廊下へ向かっていく。
つい昨日まで、一緒に寝たいと言い出せなくて廊下からこちらをのぞきこんでいたような気がするというのに。
はやいものだ。
四木はグラスを傾けた。
ああ、そうだ。
あの子が選んだ相手ならば人格に心配はいらないのだろうが、呼びかける名前くらいは知っておくべきか。

、その人の名前は」

「赤林のおじさま」
「結婚は許さん」






ピピピ、ピピピ、ピピピ






聞きなれた目覚まし時計の電子音が、こちらが現実だと教えている。

・・・夢か。

四木は、ひどく疲れている身体を起こした。
土曜の朝だというのにうつうつと服を着替え、リビングへ行くとテレビがついていた。
テレビの前では五歳の娘がWiiというゲームのなんとかボードの上で、頭を前後に揺らしていた。
テレビ画面の中ではMii(ゲーム内でのの分身らしい)が飛んでくるサッカーボールをゴールへヘディングしている。

「パパ」

懸命にヘディングしながら現実のが「おはようございます」と笑う。
憂鬱な気持ちがふっと抜けていった。

「おはようございます。いま朝ごはんを作りますから、テレビゲームはしまっておきなさい」
もう食べました」
「?なにを」
「カニピラフ」

「四木の旦那のぶんもありますよ」
「・・・」
「そんな顔しなくても大丈夫ですって、こう見えて結構料理うまいほうなんで。ちゃん、おいちゃんの料理おいしかったもんねえ?」
「おいしかったです」
「ほらあ」



四木の頭の中で混乱と怒りがどす黒い炎となって渦巻いた。

なぜ赤林が土曜の朝に我が家にいるのか
なぜ赤林がリビングのソファーを陣取っているのか
なぜ赤林がうちの娘に朝ごはんを作って食わせているのか
なざ赤林が四木のぶんまでカニピラフを盛り付けているのか
なぜ赤林のMiiが作成されているのか
なぜあんな夢を見たのか
予知夢なのか
なぜよりにもよって組のなかでも信用ならない赤林なのか
なぜロリコン疑惑のある赤林なのか
なぜ赤林は、なぜ赤林が、なぜ赤林と、なぜ赤林、なぜ

「いやあ、そんなびっくりしないでくださいよ旦那ァ。たまたまいい蟹が手に入りましてねえ、旦那の家が一番近くだったもんですから持ってきてみたらちゃんだけ起きてて、パパは土曜日だからお寝坊です。朝ごはんまだですって言うじゃないですか。そいじゃおいちゃん一肌脱いじゃおうかなってなもんで。そんで腹ごなしにちゃんとWiiフィット対決してたんですけどねい、いやあ歳ってのは怖いモンでもう身体がバッキンバッキンいっちゃって」

「赤林さん」

静かな声音だ。
四木の表情はどこか哀れっぽいものを見るようなそれだった。

「はいはい」

「赤林さんは、なぜ生まれてきたんですか?」



パパは本気で怒ると静かに命の根源を問います。






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