クロはああ見えて面倒見がいい。
「クロさんスギさん、次のオフ、合コンあるんですけどどっすか」
「あ゛ー、悪ィ。その日用事だ」
けれど時折こうやって短く誘いを断ることがある。返事にためらいも言い訳もない。
クロはいま彼女はいないはずだ。なんとなく尋ねてはいけない気がして尋ねなかったのに、今日、聞いてしまった。
クロが不思議そうな顔で一瞬黙った。
急に「やっぱりいいよ」と言いたくなった。でもクロのほうが早かった。
「いま妹がこっち来てんだ」
「ああ、そう。そうなんだ」
ほっとした。
「妹さんってクロに似てるの?」
「ビビるほど似てねえ。橋の下でひろったんじゃねえかって言われんよ」
「いくつ違い?」
「6個下。世良あたりと同じとこだ」
「へえ、けっこう離れてるな」
「そうだ。スギ、おまえさ」
クロの妹が俺に一度挨拶をしたがっていると聞かされた。
よかったら次の休みにと誘われ、俺は快諾した。
黒田の妹
「おーっす、来たぜぇ」
馴染みの居酒屋ののれんをくぐるようにクロが開けた、そこは、病室。
「お兄ちゃん」
中から発せられた声は明るいがどこかかすれていた。
綺麗なひとだ。
クロの妹だと忘れる。
いくらか健康をそこなっている特徴があってもなお綺麗で、それどころか儚げな色がそえられてより魅力的にうつった。声をかけるのは気が咎めるくらい。
「蛍、喜べ!スギ連れてきてやったぞ」
蛍さんがクロの後ろで病院の柱みたいになっていた俺に気づいた。
「こんにちは」と会釈してみる。
すると、蛍さんは「あ」のかたちで口をあけて、口の形が「わぁ」に変わって細い肩がもちあがり、白い頬に朱がさした。
「こ、こんにちはっ」
俺にとっては予想外の状況ではあったものの、挨拶したがっていたとは本当らしい。
予想以上に喜んでもらえてよかった。
病室に足を踏み入れると蛍さんは小さい電流が走ったようにぴっと背を正した。
「ふふ」
「なんだスギ、笑って」
緊張した面持ちの蛍さんが、クロの上着の背をぎゅっと掴んでいたのを見たからだった。
「改めて、これが妹の蛍。んでこの樹木みたいのが杉江だ」
「樹木って・・・。はじめまして、急にお邪魔してすみません。具合、大丈夫ですか」
「は、はい。幸せです」
「蛍おまえちっと落ち着け。深呼吸しろ。ヒッヒッ、フー」
言われるがままヒッヒッ、フーとそろってやる兄妹にまた笑ってしまった。似ていないけれど、どこか似ている。
ラマーズ法で落ち着きをとりもどした気になった蛍さんは、はっと何か思い出して横の棚を漁った。そして見慣れたユニフォームを俺に差し出す。
「杉江さん、サインを、いいですか」
赤と黒のレプリカユニフォームとマッキー。
「もちろん。ってあれ?これって」
このユニフォームはレプリカではない。
「おいこんにゃろ、それ俺のやったやつだろうがっ」
クロが気づいてツッコんだ。
よく見れば背番号は「2」。どうやらこれはクロの本物のユニフォームらしい。
「でも私これしか持ってないし・・・」
「なんか他にあんだろがっ、ほら、その、チラシの裏とか、ティッシュとか」
「クロ、ティッシュはひどいよ・・・」
「お願いします」
蛍さんは改めてユニフォームをぴんと引っ張った。
波打つ生地に置いたマッキーがじんわりにじむ。
視界に入る指はひどく細い。
近い。
病院の匂いとは違ういいにおいがした。
30分ほどで切り上げ、缶コーヒーを二つ買って車に戻った。
クリスマスが近いからか、車道も歩道も混雑していた。助手席のクロはあたたかい缶を手に持ったまま、俺の缶はオーディオの上のホルダーで熱を失っていく。
「結構悪いの?」
「治る」
「そっか」
「・・・ありがとな」
「うん?」
「今日。あいつおまえのファンだから」
「クロのファンっぽかったぞ」
クロはぶっきらぼうに否定したけど、あのルームウェアのうえに背番号2のユニフォームを着て応援する姿が目に浮かぶ。
負けたら火が消えたように消沈するのだろう。勝ったらほかの患者さんやお医者さんやナースさんやいろんな人に言うのだろう。
それからも何度かオフの日にクロと一緒に会いに行った。
「そんなんじゃ喜ばないだろ」と俺が言うのを聞かず、クロに押し切られて試合に勝った日の俺のユニフォームをプレゼントした。
蛍さんは細い体のすべてから喜びをあふれさせ、あまりに喜びすぎて具合を悪くした。
大きすぎる俺のユニフォームを着たままベッドにぐったりしている蛍さんの姿は、不謹慎だけれどかわいかった。
寒くなってくるとクロは俺を見舞いに誘わなくなった。
後ろめたさを感じながらもひとりでお見舞いに行ってみるとてっきり具合を悪くしているから誘われなかったのだと思っていたが、案外蛍さんは元気そうだった。
お見舞いの品はETUのロゴが入った黒いマフラー。
大喜びでかかげられた。
「落ち着いて、あんまり喜びすぎるとまた」
俺が苦笑してなだめると、はっとして振り上げていた両手を下ろし、おとなしく首に巻いた。
「あと、これも。よかったら」
「バッジだぁ。知ってます。これ、みんなここに」
サポーターの子たちの間では、マフラーに好きな選手の背番号が入ったバッジをつけるのが流行っているらしい。この前サインを求められた女子高生から聞いた話だった。
蛍さんは宝物でも貰うように両手で受け取った。
感動してうっとり見つめていた瞳がぱっと開く。頭に?をたくさん浮かべて俺を見た。
「あの、これ・・・お兄ちゃんの」
「ファンでしょ」
バッジの番号は「2」
どことなく不満そうな顔がうれしい。賭けは成功した。
「うーん、でもお兄ちゃん女子サポいないから、私ががんばらないと」
不満そうな顔から、はにかんでまんざらでもない顔にかわった。賭けは成功じゃないかも。
点滴の針がある手で胸元のマフラーにバッジをつけようとしているのは目に痛くて
「貸して」
胸に触ったりしないように気をつけながらマフラーにバッジをとおす。
近い。
いいにおいがする。
「クロのこと大好きだね、蛍さんは」
「大好き!」
即答にびっくりした。苦く笑う。
「うらやましいよ」
「杉江さんはご兄弟とあんまり仲良くないですか」
そういう意味じゃないんだけど。
「うちは兄貴いるけど黒田家の足元にも及ばないかな」
「オーッス、来たz・・・ぬお!スギ!?」
「あは、お兄ちゃんだー。見て見て、ETUマフラー」
ここで蛍さんが「お、お兄ちゃん・・・!?」と深刻な顔で動揺したら修羅場っぽかったけれど、蛍さんは俺が来た時よりもよほどナチュラルに、自然体で喜んだ。
賭けは負けだな。
でも悪くない気分だった。
「お!おっおまえ、よぅ・・・」
最初は大声ではじまり尻すぼみに声が小さくなった。
二度と来るかと誓ったはずのラーメン屋で、横に座るクロは唇を尖らせて目をあわせようとしない。
醤油ラーメンが運ばれてきた。
「いや、なんでもねえ」
クロは箸を割って、ラーメンを食べ始めた。
俺の前にも塩ラーメンがやってくる。
「蛍さんのこと?」
ボッ
クロは派手にむせた。
お冷をついでクロの前に置く。
「あとでな」
「・・・おぅ」
ラーメンを食べ終えて車に戻ってしばらくしてから、ひどく言いずらそうにクロから口をひらいた。
「あいつは、バカなんだよ」
唇をとがらせて、ふてくされるようだ。
「まともに学校行けなかったから友だちもいねえし、しゃべるのなんて家のやつか、病院のひとくらいでよ。人付き合いもひの字も知らねえバカだから、かまったら、すぐその気になっちまうんだよ」
遊びなら離れろ
けどおまえはそんな奴じゃないと知っている
本気なら、頼む
そんなことを言われた。
俺は「わかった」と応えた。
「でも一つ問題があるな」
「・・・病気のことか」
「お兄ちゃんに勝てる気がしない。いまのところ」
「な!」
クロは耳まで真っ赤になった。
「お兄ちゃん大好き、だって。まえ似てないって言ってたけど、空気読まずに言いたいことすぐ言うところ似てると思うよ」
「う、うるせー!!」とクロはひとしきり車内で大暴れして、俺は笑った。
俺はこのとき、少し調子にのっていたのだと思う。
「そういえば、ほかの連中にも会いたがっていたよ」
「ほかぁ?」
「練習見に来たいって」
「バカ。寒ィだろが」
「じゃあ今度練習のあとみんな連れてこようか」
「・・・」
「クロ?」
「そんなに大勢でおしかけたら、死ぬ準備みてえに思うだろ」
「・・・やっぱり悪いのか」
「治る」
クロは前を見て言った。
クロは強く、言葉をつげなくなった俺は本当にバカだった。
ほどなくして、蛍さんは突然体調をくずした。
病院からの電話はちょうど試合後のバスがクラブハウスについた時間で、タクシーを呼ぶより俺が車で送ったほうが早かった。
面会は家族だけに許され、すぐに駆けつけらたのは東京にいるクロだけだった。
血相かいたクロを追いかけることは出来ず、俺は病室から一番近い待合用の椅子に腰掛けて待とうと思った。
病室の前を通り過ぎると、
「ったーく!心配かけんじゃねえよチビスケめがぁああ!」
と元気なクロの声が聞こえた。「お兄さん声をおさえて」と病院のひとにたしなめられて「あ、すんません」と謝る小さめな声も聞こえた。
「バ!別にし、心配なんかしてねえよ!・・・あ、すんません。・・・おまえが言うな!おーまーえーがー!誰のせいでこんな心配したと思ってんだ!・・・あ、すんません。・・・だぁかーるぁあ!心配なんかしてねえって!おまえの耳は藤壺か!・・・あ、すんません、え、節穴?」
大丈夫らしい。
ほっとした。
診療時間はとっくに終わっていて待合の椅子は暗がりにある。非常灯だけがポツン、ポツンと灯っている。
時計の音が聞こえる。
15分ほどでクロは病室を出てきた。
クロは俺を見つけると、手を上げてかっと笑った。
「おう、すまねえなスギ」
「大丈夫そうでよかったな」
「ん?そうだけど、おまえなんで知ってんだ」
「声デカすぎ」
「マジでか」とクロはびっくりしていた。
「・・・あのさ、クロ」
「いけね。お袋たちに電話しねえと。こっち来ちまう」
そう言って病院の外へ走っていった。「走らないでください!」と通りがかりの看護師さんに怒られて、早足に直して遠ざかる。
俺は一瞬蛍さんの病室の方角を見てから、クロの走っていったあとを辿り歩いた。
病院の駐車場でクロを見つけた。
ジャケットがあったって寒いのに、クロはワイシャツ一枚だ。
だいじょぶだって、こっちは心配ねえ。大丈夫。ホントだって。大丈夫。心配ない。
そんな励ましの言葉を繰り替えし、ずいぶん明るい声で電話を終えた。
声をかけるとクロは、試合後疲れているのにアシに使った詫びにコーヒーをおごるといって、自販機の前に立ちスラックスのポケットをまさぐった。
パンパン叩いた。
数回ジャンプした。
「あり?」
財布ごとジャケットをクラブハウスに忘れてきたらしい。
「戻ろう」
「一晩くらい財布なくてもどうってことねえよ」
「戻るぞ」
「だからいいって。なんならあいつに借り・・・るのは俺のプライドが許さねえ、うん」
「いいから」
半ば強引にクラブハウスまで連れ帰る間、クロは今日の試合の自分のハイライトを誇らしげに語って聞かせた。
けれど、俺の反応が鈍いのに気づき始めると言葉は減っていった。
あるところからはむすっとし始めた。
言葉は減りきって、さっきなくなった。
ラジオから流れる音楽は自然音みたいに身体に触れずとおりすぎていく。
「なんであいつなんだろな」
この声のトーンを待って俺はわざわざクラブハウスへ戻る道を走っていた。
「あいつはいい奴なんだよ」
財布もジャケットもどうでもよかった。
クロが誰に対しても元気に振る舞うのがただ、もどかしかった。
「むかしから体弱かったけど、ちゃんと医者の言いつけどおりにやってきたし、手術も、薬も、全部がんばったじゃんか。授業も部活も、遠足も文化祭も、プールも、スタジアムも行けなくても文句言わなかったじゃんかよ。治ったと思ったら転移転移で、もうさ、もう、やめてやってくれよなあ」
クロは、俺はあいつになにもしてやれない。兄貴失格だと言った。
俺がかわりになりたいと、震える息を殺した。
「優しくする方法がもう思いつかねえよ・・・っ」
ああ、
なんてやさしい兄だろう
<< □
おまけ
「え、この前倒れたのって試合見て興奮しすぎたからなの?」
面会できるようになってから最初のオフの日に見舞うと、蛍さんはたいそう申し訳なさそうに肩をすくめて事件の顛末を語った。
もじもじと指をもて遊び、しゅんとしている。
よほどクロに怒られたのだろう。
「お兄ちゃんたくさん映ってたし・・・」
確かにあの試合はクロがいい仕事をしていた。
背番号2番のユニフォームを着てマフラーに2番のバッジをつけて、懸命に手拍子を打つ蛍さんの姿が容易く思い描ける。
あまりにもこの二人の絆が強すぎて永遠に勝てる気がしない。
微笑ましいけれど軽くへこむ。
途方もない。
「そ、それに」
蛍さんは突然意を決したように自分の手元へ向けて声を発した。
「杉江さんがゴール決めた、か、ら・・・」
あれ・・・これ、キスしたい。
でも急にしてびっくりさせて具合悪くなったら大事だ。
けどキスしたい
キスを待たれているんじゃないだろうか
いやたったいま俺は黒田家の兄妹愛に感動したばかりだ。
不謹慎だ。
けどキスを
せめてあの赤い、耳に
「オィース!来たぜぇ、ってスギ来てたのか」
「わぁ、お兄ちゃん!」
恥ずかしがっていた顔が急に太陽のように明るくなった。
「んむぅ?なんだスギ元気ねえな。こいつに病気うつされたか?えんがちょ」
「えー、お兄ちゃんのほうが不潔だよ。遥かに」
「んだとこのガキャ!」
イチャイチャ、イチャイチャ
黒田家の妹攻略には、まだかなりの時間を必要とすることを俺は悟った。
「そういや、今度の土曜に兄貴たちが来るってよ」
「え、クロん家って二人兄妹じゃなかったのか」
「おー、あと上に兄貴が二人いんよ」
「三人ともそっくりなの。すごくうるさいの」
「んぁ?俺は兄貴たちほどシスコンじゃねえだろが・・・っておい、スギ、なんで泣いてんだ」