いま研修で東京に来てます



地元で獣医をやっている妹からメールが来たのは昼のことだった。
俺がこっちに来てからは正月以外ほとんど顔を合わせていないが、兄妹仲はさほど悪くない。取り立てて良くもない。中庸の妹だった。
ロッカールームで、練習のユニフォームを着替える前に返信を短く打った。

夜飯でも食うか。研修はどこだ

食う。六本木です


「コシさーん、夜、飯どうっすか」
「悪い。ちょっと用事がある」

迎え行く

シンプルな兄妹だと、地元の友人が表現したのを覚えている。






村越の妹






「着いた」とメールすると、ケータイを見つめていたが顔を上げてきょろきょろと車を探しているのが見えた。
六本木のイルミネーションの下、すれ違うカップルの片割れがキャメルのコートをまとう妹を振り返る。
一人目
二人目
骨格も顔も声もどこも似ていないが、あれは実の妹だ。
学生の頃、ちょうどスラムダンクが流行っていたから、赤木兄妹といわれていたこともある。
見つけ、駆け寄ってきた。

「兄さん」

助手席に乗り込んで「ありがとう」と言われた。

「でかいカバンだな」
「教材が入ってるの。重くて」
「うしろ置いとけ」

先にシードベルトを締めてしまって広いシートで後ろを向こうともたもたしていたので、カバンを取って後部座席に降ろしてやった。
はシートベルトの前を握って、正面を向いた。

「・・・」
「・・・飯、食いたいもんは」

音楽のボリュームを少しだけ上げてから、車を出した。







食べたいものを聞かれ、は悩んだ末に「ヘルシーなものがいい」とシートベルトの前を握りながら言った。

「寿司でいいか」
「お寿司って脂肪つかない?」
「おまえ別に太ってないぞ」
「そ、そういうんじゃないよ」
「なにが」
「・・・じゃあお寿司」

築地に進路をとった車の中で、痩せ気味の妹がヘルシーな食事を要望した理由はアスリートの体調管理に配慮していたのだと、しばらくしてから気がついた。
これは、好きなものは決まっているくせに、まず俺の要望をとおそうとする癖がある。
親父が帰りにチューペットとソフトクリームを買ってきた日のことだ。はソフトクリームが好きなのに、俺もソフトクリームのほうが好きだから、「チューペットがいい。二回食べれるもん」ともっともらしい言い訳まで付け加えて言った。親父ははチューペットの方が好きなのだと勘違いをして次からにはチューペット、俺にはソフトクリームを買ってきた。お袋が「ばかねえ」と苦笑して教えてやるまでずっと。

思い出し、ちょっと高めの店へと進路を修正した。







「ふー、おいしかった」

回らない寿司屋からシートに戻って、妹は腹をぽんと叩いた。キャメルのコートが台無しだ。
ただ、最初より打ち解けた。
兄妹で変な話だが、シンプルな兄妹には緊張をほぐすための時間がほんのすこし、必要だった。

「どこ泊まるんだ」
「赤坂」
「地図」

ケータイのデータフォルダを開いてわたされた。
パソコン画面に表示した地図を写真にとったらしく、ピンボケで読みにくい。
まだ目的地をとらえきれていないのに、は気が早くケータイを引っ張りもどそうとする。
「まだわかんねえ」とこちらが渡さず軽い引き合いになると、一定時間操作していなかったために画面の輝度が一段階落ちた。適当にボタンを押してもう一度輝度をあげようとしたら、どうやら別のボタンを押したらしい。写真が表示された。

ゴリラみたいな男がボールを蹴った瞬間の写真だった。時計も出ている。

の手が画面をガッ!と掴んで俺の手から奪い取った。
勢い余ってうしろの窓ガラスに頭をぶつけた妹は、真っ赤な顔で唇をわななかせていた。
待ち受けになっているゴリラみたいな男は村越という。

「い、いつもは世良選手、なの、です」
「・・・」

これはちょっと、打ち解けすぎだ。
音楽のボリュームは大きめのまま、車は築地市場を出発した。






幅広の道路をゆく。
たくさんの車と、高層ビルと、クリスマスイルミネーション。
目で追いかけるうちに、は眠たそうにシートをずるずると下がっていった。
キャメルがほんとうに、台無しだ。
頼っていた音楽が今度はうるさく思えてきてボリュームをわずかにしぼる。

「兄さん」

唇の端からこぼれたような呼びかけだった。
目はとろんと眠たげだ。

「このまえのゴール、見たよ」
「ああ」
「かっこよかった」
「ああ」






「サッカー、たのしい?」






「・・・まあな」



それきり、横が静かになった。
寝たのかと思ってチラと見ると、袖を口にあてて涙をぽろぽろ流していた。
ギョッとした。
ハンドル操作だけは誤らないよう、注意を助手席と前方に二分する。

、腹痛いのか」

は首を横に振った。

「フグか?」

は首を横に振った。

「貝、・・・ウニかっ」

の頬をおちる涙が止まらない。
コートの袖越しに苦しそうな声が聞こえてきた。

「よかった。お兄ちゃんずっと怒ってた、から」
「べつに、怒ってねえだろ全然きょう」
「おこってた」

そんな覚えは

「十年ずっと」

「・・・」

「よかった」

よかった

よかった

そう繰り返して、は高そうなコートのそでを目に押しあてた。






十年前、英雄が消えた。
愛すべき、尊崇すべき、輝かしいチームは崩壊した。
崩れて粉々になったチームをかき寄せて、兄は必死で必死で、必死だった。
愚直な兄よりずっと思いやりの深い妹は、兄にソフトクリームをゆずって喜ばせる機をうかがい、機は十年間一度もおとずれることはなかった。
なぜなら兄にゆずることのできるサッカーを妹は持っていなかったのだ。






やや強引に車線変更をした。
明るい駐車場に初心者みたいな車の停め方をする。
を置いて降りてコンビニに駆け込んだ。
早足に車に戻った。

「アイス、買ってきたぞ」

叱るような勢いでソフトクリームを差し出す。
サッカーと同じ、兄の分野においても俺は技術のないバカヤロウだった。
はほうけながらも受けとって、うえのほうを食べると、「さむい」「おいしい」と情けない顔で笑った。

「ありがと」
「おう」






ソフトクリームで泣きやんだ妹をホテルまで送り届けた。
にこにこしているが、はまだどこが恥ずかしそうだった。

「そうだ兄さん、これ、世良選手のサインもらってきてくれる?」

恥ずかしさを散らすように、新品の大学ノートを渡された。

「ああ」
「“へ”って書いてもらいたい」
「・・・」
「あと今度、彼氏と一緒にスタジアムに応援に行くね」
「・・・誰だ」
「まだ言ってなかったっけ。あのね、同じ獣医の」



「はい」
「今度東京に来るなら、連れて来い」
「・・・あ、うん・・・」
「必ずだ」
「・・・はい」






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おまけ



「世良、サインをくれ」

「どうぇえええ!?」
「妹がおまえのファンなんだ」
「あ、コシさんの妹さんッスか、こ、光栄っす。名前入れますか?」
「ああ。“村越さんへ”で」
「え・・・あの、下のお名前はぁ・・・」

「名 前 で 呼 ぶ 気 か ?」

「い、いえ!めめめめっそうもありません!」