さあ」
いままで黙っていた達海さんが不意に言った。
「おまえ、足つるつるな」
年の瀬迫る隅田川総合病院のリハビリ室で、同じ空間にいるほかの誰にも聞こえなかったろう。まだ加湿器のほうが音が大きい。
「俺スネ毛うすいほうだけど、おまえ無いじゃん」
床にハの字に足を投げ出し、同じかっこうで向かい合う達海さんは私のヘンな脚に触れている。
ボトルから私の好きな香りのオイルをとって手のひらに注ぎ足し、少し多すぎるのをこの人は気にしない。乱暴に手をごしごし擦り合わせて、あふれたオイルがパタ、パタと先に私の膝へ落ちた。
そしてまた触れる。
五分五分と言われたこの脚に感覚がもとどおり蘇るように、何度も何度も節ばった指が膝から下を往復する。
贅沢すぎる気がして不謹慎にわずか頬がゆるんだ。
「・・・ほんとは無くない」
「ん?」
「今日は達海さんに触ってもらうから、きれいにしたの」
達海さんはなにも言わず、以降寡黙にマッサージを続けた。
長らくの付き合いになるが、サッカー以外では感情を強く表に出すことのない人だから、今なにを考えているのかさっぱり読めない。少しは心拍数を上げてくれているのだろうか。たっちゃんという子供っぽい愛称呼びも改めた。(しかし後藤さんには、10年放っておかれた恨みをどこかではらした方がいいとアドバイスをもらったので)ここしばらくは大人らしく達海さんと呼んでみている。効果はない気がする。自分自身も効果はあまり期待していない。
女心とかいう機微をめんどうくさがる性質もあるから、さっきのアピールもなに言ってんだこいつ、くらいに思われているのだろうか。思考が暗いトンネルへ進み始めると落ちた十数秒の沈黙を一時間に感じた。いけない。
「た、達海さんのも触ってあげる」
「はあ?」」
なに言ってんだこいつ、の表情に胸をえぐられる。が、ここですごすご引き下がることのできない明るい声音で言ってしまっていたものだから、手が届かないところまで逃げようとしていた三本ラインの黒ジャージを捕まえた。
すそを膝まで折りあげて、「いいってば」と言った声をかわし、手術痕は見なかったことにして、自分の好きな香りのオイルを適量手にとった。


「う・・・きもちわるっ」
背すじをぞっとさせて達海さんの顔がくしゃりとゆがむ。
無視していつもリハビリの先生がやってくれるようにマッサージを続けた、すね毛のまばらな硬質の脚のかさかさだった肌が、ぬめり光りはじめてツヤツヤにかわっていく。しかも女の子みたいなかおりをまとって。
「なに笑ってんだよ」
いつのまにか私の脚をマッサージしていた手は止まっていた。かわりに、達海さんはいたく不満そうに、仕返しに成功して嬉しい私を睨み見据えている
「そこくすぐったいからもっと上」
観念したように唇をとがらせて達海さんが注文をつけてきた。手をふくらはぎにずらしてさすった。
「へたくそ」
「ヘタじゃないよ。わたしは先生のやり方をいつも見ていて、コツも伝授してもらったのだから」
「だってへたじゃん。上だつってんじゃんか、う・え」
えー、と不平を口にしながらも膝まで高度をあげて・・・ひときわ、ひときわ優しく両手のひらを膝のお皿にあてた。
体温をわけ与える。
この膝に、のこる命をすべて与えたってかまわない。
「何べんも同じこと言わせんな。椿かおまえは」
だのに、せっかくこの人を想って勘当的に触れていたというのに。無神経な振る舞いにこちらも情緒をわすれ、おしりで前に進んで、腕をまくり、邪魔な髪を耳にかけて、ぐいとジャージを押し上げるとガバッと両手で達海さんの大腿をつかんだ。
前傾になるほど力をこめて圧迫し、やいどうだ、達海さんの反応を見上げてみると、
近い
無感動な顔が
「もっと上だろ」
と低く言った。
力んでいた肩からゆっくり力がぬける。
「ねえ」と催促する息のような声が耳のうぶ毛に触れて、かけた髪の一束がこぼれ落ち
「ハイそこー、ここはソープじゃありませんよー」
遠くで別の患者さんをみていたリハビリの先生にまのびした声で注意され、達海さんが「はーいもうしませーん」とバカみたいな返事をした。




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