眼鏡





この夜闇
癒しの里の夜
夜闇にまぎれてやってきたその男とはふすまのところでぼうっと突っ立って
畳の目でも数えているのかじっと下を見ていた。
その髪の色にその外套の色に、視線をはずしていても視界に入ってくる。
私は無視して外を見ていた。
私は無視して外を見ていた。
外しか見なかった。
ぼんやりすることに集中していた。
主のウキョウは今頃むこうの遊郭で野球拳でもやっている。
無粋な侍二人は離れにおいやられ、久々の暇をたまわったわけだが。
不意にため息が出てくる。


「ここでは浮世の憂さをわすれる」


珍しく口をひらいた男を振り返る。

「って」
むこうの人が言ってたと遊郭のほうを指差した。

さらに珍しく二言もしゃべった。
私は思わずぼんやりする集中力を分断されキュウゾウに集中した。
これは勘違いだろうか。
物憂げに外を見ていた私を励まそうとでもしたのではと
まさか
いやまさか
気味が悪い

「私から憂さをとったら眼鏡くらいしか残るまい」
「眼鏡は体の一部」
「は!?」

「って」
とキュウゾウは遊郭のほうを指差す。

「そう言われたのか?」

私は驚いて目を見張った。

「・・・・・・・・」

キュウゾウはしばらくしてから首を横に振った。
珍しく、気持ち悪いほど珍しく冗談など言おうと努力して
努力半ばでその気恥ずかしさに私を励ますのをあきらめたようだ。
キュウゾウは踵を返してしまった。
察するところ
私が遊郭で陰気に一人で夜闇など見ていたものだから
気まぐれに慰めようとしたのだろう。だろう?だよな?たぶん。いや、ちがうのか。
わからん。
奇怪な行動を起こしてくれたキュウゾウに待てと
声をかけようかと思ったがやめた。
足音が遠のいたらあまりの気味の悪さに笑えてきて、自分の歳を考えて
それをかみ殺し、苦笑いになった。
私は再び夜闇を見据えた。

そこにうっかり黄色い月などが姿を現したものだから、先ほど立ち去った男の髪色に重なる
ああほんとうに気味が悪い
なんでこういうときに月が出るかと小さくごちってから、


「さて」

歳のせいか、季節の変わり目に痛み始める膝をおして立ち上がる。
















きしむ鶯張りの廊下を進みキュウゾウにあてがわれた部屋へ。
開きっぱなしになっていたふすまのところで立ち止まる。
中でキュウゾウは背を壁に、肩に双刀を抱いて畳の目を数えていた

「・・・」

キュウゾウは私の足の辺りまで視線を移動させてそれ以上上は、つまり私の顔は
見ようとせずまた畳の目に視線を戻した。。
いつもは眠そうに一睨みしてくるものを、どうやらやはりふてくされている。
わかりにくいようなわかりやすいような。
その機微がわかるようになったのだから私もだいぶこれと長い付き合いになってきたものだ。
踏み込まず私は軽くふすまにもたれ、言う。

「キュウゾウ」
「・・・」
「ここは浮世の憂さを忘れるところだ」
「・・・」
「っと、先ほど言われた」

私の部屋でおまえが立っていたほうをあごで差す。
キュウゾウはさらに機嫌を悪くした。と思う。

「・・・憂さなどない」
「だろうな」

この男は自分のやりたいようにやっている。
憂さを憂さとも思わない。
それにしてはずいぶんふてくされているが。
「では私の憂さをわすれさてもらうとする」

部屋の敷居を越えて入ってキュウゾウの目の前に膝を着いてやって
しばらくじっとしているキュウゾウを見やる。
6秒くらいしてスルっと腕が伸びてきて奴の肩から転がった刀は私が支えた。
しがみついて馬乗りになってきたキュウゾウが腹の上でオレの
襟首をぐっとつかみあげた。
真面目な顔でキュウゾウは迫る。














「・・・眼鏡」

「?」

「しか、残らなくなってもいいのか」









ぶっと噴き出して私は笑った。
冗談でなく本気で、私が憂さを忘れると眼鏡を残して私の体が忽然と消えるのを
予想したらしい。誰だこれにでたらめを教えたのは。

また顔が緩むのを殺そうとして殺しきれず

「眼鏡は体の一部だろう」

と先ほどの彼の限界精一杯一生懸命の冗談を復唱した。