「・・・ひょう」

母屋と詰所をつなぐ回廊でキュウゾウがふいに私を呼んだ。本当に不意だった。

「なんだ」

振り向くとキュウゾウは外を、少し上のほうを見ていた。じっと。ならうように目を
そちらへ向けるとカタカタと音が聞こえはじめた。白っぽい、金平糖のような雨が
降っていた。
雹だ。
私を呼んだのではなく、「ひょう」とつぶやいただけだったようだ。
雹か。


「・・・どうした」と今度はキュウゾウが私に尋ねた。
私は耳でその声を聞き、肌でキュウゾウの視線を感じたが、
じっと夜闇から目をはなすことはできなかった。
じっ、と
雹は天井を鳴らす。

がつがつがつ

返事も反応も返さない私に首をかしげて、キュウゾウはさっきよりもはっきりと声を
かけた。

「ヒョーゴ」

「はい」

キュウゾウは私の変わった返答に面食らう。
私は雹を見るのをやめて、音を聞くだけにとどめた。踵を返す。
むかしむかしのことを思い出す。
むかし
むかし
それは

「いや、なんでもない。行こう、今日は冷えるな」











雹の夜













むかし
むかし
それはひょうの降るような寒い夜のこと

昼寝から目覚めたばかりの姫君は夕餉を運んできた私の横をすり抜けて窓に寄った。
雨戸をあけて手を外に伸ばす。私はため息ひとつ落として膳を床に置いた。
ある大領主の屋敷に侍として雇われてみれば、押し付けられた仕事は領主の娘の世話
だった。どういう経緯でできた子かは知らないが娘は白痴だった。けれどとても美しい。
しぶしぶ、と表現するにはあまりにも私は彼女の世話をする事に対して積極的であった。
これが恋愛感情なのか憐憫なのか私には判じきれない。
ひょうが降ってきた。
天井が鳴っている。

がつがつがつがつがつ


ずいぶん大きな雹なのかもしれない。

様、おやめください」

あまり身を乗り出すので窓から遠ざけようとすると「うう」と姫は唸った。見遣れば姫の指先に
ひとすじ、赤色がはしっている。雹の切片に傷つけられたらしい。
白い肌はまるで死人だ、血の気をすかっかり洗い落とされた死体のようだ。そこに細くでも
赤が見えれば私はぞっとする。
天井に雹は、雹は

がつがつがつがつ









「ヒョウ」

一瞬、自分の名前を呼ばれたように思ったけれどすぐに違うと気付いた。姫は窓の外をじっと
見上げている。そうか、同じ発音なのか。私の名と、美しい白の指を赤く傷つけたあの忌まわし
き塊の名は。
窓から引き離す。座敷の中央まで引っ張ってきても姫はまだ名残惜しそうに空のほうを見つめ
ていた。
傷口に化膿止めの薬を塗り、軽く包帯でくるんだ。姫は音が気になるのかたびたび窓のほうへ
顔を向け、隙あらば動こうとするので包帯を巻き終えたあとも手首を放さないで畳に縫いとめた。
それでも狂ったように・・・実際狂っている姫は、私の手を放れようと・・・・・・・・・・放さないと、
放さないと言っているでしょう!
ともする間に音が遠ざかっていく。

がつがつかつかつ、かつ

「ヒョウ」

私は故意に姫の目を見ないようにしている。どこを見てそう音をつむぐのか見たくない。音が早く
消えてしまえばいいと思う。私と同じ発音を持つのに私はいっさい呼ばれないのになぜ、なぜ

「ヒョウ・・・ッ」

手を放さない
かつかつかつかつかつ
姫は暴れる
焦燥している
間もなく止む雹にせめて近づこうとしている

かつ   かつ         かつ


「ヒョゥ・・・」

私を見もせずに!

無意識に手首を縫いとめる手に力をこめていた。
広い座敷の真ん中に
雹に触りたがる白痴がひとり
雹に嫉妬した従者の侍がひとり
顔がゆがむ
手が痛む
心がひしゃげる





























「ヒョウゴ」

私は
弾かれたように顔を上げた。
姫君の自由なほうの指先が伸びてきていた。
醜く骨ばった私の頬に触ってきた。何かに驚いたように瞬きをはたはたとやって
ゆっくりと
ゆっくりと
ゆっくり

「ヒョウ」
と、微笑う。ほら聞き間違いだ、ヤキがまわったのだ。
様、いま“ヒョウ”は止みました。
そしてあなたの指先が触れるこれは雹ではありません。確かに似たような名前をしてはいますが、
まったく異なるものなのです。私に触るのはいけません。私につかまれているあなたの腕はうっ血
しているではありませんか。雹に触れるのもいけません。あなたのその指先をきずつけたのは
あの忌まわしき忌まわしき雹にほかなりません。ゆえに私に触るのも雹に触るのもいけません。

「ヒョウ」

もう雹の音はしないし、窓の外に興味がある様子でもない。
私はまた名前を呼ばれているような錯覚に陥る。
まったく自分に都合のいい錯覚もあったものだ。

姫を縫いとめていた手をそっと放してやる。
すうっと両手が伸びてきた。
私のゆがんだ顔とひしゃげた心を撫でる。
姫はもう雹を追わなかった。





































「ヒョーゴ」

「・・・はい」



むかし
むかし
それはもう雹も降ることのできないようなあたたかな夜のこと