主君に大将の位を賜った。
いけないと思ったことは三つ。
一つ、この戦の勝敗はもはや決している。自軍の負けだ。かねてよりこの主君につかえていた古参の大将が討たれ、
雇われ侍の自分などを大将にすえるのだから窮状は言うまでもない。
もう一つ、この主は小物だ。
利に急ぎ、目の前の戦にとらわれて自陣さえ滅茶苦茶。誰か一人が逃げ出せば皆一斉に
この国からいなくなる、一触即発の糸が張り詰めている。
さらに一つ、美しい姫だ。












主君は今朝方、日の上るより早くその身一つで逃げ出した。このような戦況では敵方にでも見つかって
殺めれとられることはわかりきっているというのに。姫を残して逃げ出した。主君の奥方は十年前に病死し、姫は養女であった。
望みを見出せぬままの軍議を終えて寝殿へ続く廊下を進む。
今やこの城の主たる姫君に伝えなければならないことがある。
敵軍がこの城に迫ったときこの城に火を放つ。あなた様は辱めをうける前に自害なさりませ。それを伝えなければならない。
疲弊した兵のひしめく屋敷で姫君だけが今も明るく笑っているだろう。きっとお方様が逃げたことも知らない姫君は
無邪気に邪気をふりまくだろう。明日皆殺しになるともしれないのに、姫君だけはそう在るのではないだろうかと
思いをめぐらせた。
ため息をついた。
ため息をついた矢先、すばやく息を呑んだ。
縁側に腰掛けている姫を見つけてしまったのだ。素足を揺らしている。
城壁を越えて飛び込んできた矢にさらされるかもしれないからあれほど外に出るなといったのに。
唄をうたったりしていないのがせめてよかった。
早足に寄り、有無を言わさず手を引いて部屋に押し込み障子をとじた。

姫」
「おお、カンベエ」
「自暴自棄でもおこされましたか」
「そう見えるかえ」

不敵に微笑むその姿。養父は小物であったがこれはなんとなく希代の名君の風さえある。贔屓目なしに聡明である。
武技こそ知らぬものの戦略と戦術はよくよく学んでいた。二、三度「指南せよ」との仰せをうけて教鞭をとったこともあった。
殊更、戦略に関しての機知は冴え渡るものがあるように思われた。
それでもまだまだ子供だ。
子供なのだ。
こども・・・


「そなたに話がありましたから、すこし留まれますか」
「は。して、お話とは」
「うむ、妾は降伏しようと思う」

思考が一瞬止まった。
そして怒りと疑問が沸騰した。
それを言うのか。これまで必死に戦い、尽くしてきた自軍の将に。疲れきった兵たちはそれでもなおこの屋敷に留まっているというのに。
いや、違う。主が逃げた今この国のために戦う理由などないのだ。しかしていまさら降伏したところで生き残った兵は殺される。
それほどに戦局は混沌を極め、兵は疲弊してしまった。ほうっておいても離反者や自殺者がでる。
「そなたに頼まれて欲しいのは、敵方に降るときに妾の民がこれ以上つらくならないように謀反をおさえてもらいたい。
そなたは欺瞞と虚勢の臣将たちとは違うから皆の信頼も厚い」
「謀反など起こる前に皆殺されましょう」
「否や、それはこの姫が尽力しようぞ」
「何を仰せになるかと思えば。畏れながら、あなた様のお力で戦局がどうにかなるとお思いか」
「戦局はどうにもならぬ、我らの負けじゃ」
「ではどう尽力なさる、戯言はおよしなさい」
ぴしゃりとしかりつけるがどうも子供をしかるのと勝手が違う。相手が子供の反応を返さないのだ。
静かに座して長いまつげを揺らしもせずに手のひらは重ねて膝の上。

「カンベエ」
「・・・」
「妾は美しいか」
「おっしゃる意味がわかりかねますが」
「妾は美しいかえ」

その豊かな笑みの理由がわからない。いまが戦の真っ最中であることも忘れるような穏やかな笑みをたたえて、
可憐な唇がなにをつむぐのか。わからないまま次の言葉を待つ。

「敵大将を虜とする」

カンベエは立ち上がった。引っ叩きたい。
「顔を打つなよ、この顔は使える」
「やんごとなきご身分のあなた様がっ、気でもふれられたか!」
「落ち着きやれカンベエ。そなたらしくもない」
「某は反対いたす、無謀だ。うまくいく保障などない愚策だ」
「愚かなのはわかっている、でもそなたもわかってくれると思っていた」
「子供の戯言に付き合っている暇はありませぬ」
「こども・・・」

長い睫毛が頬に影がおちた。うつむいている。

「大丈夫、うまくいく」
自分自身に言い聞かせるような小さな声音は、誰かを説得しようとか信用させようという言霊は感じられなかった。
わかる。降伏したのちに兵が生きるか死ぬかについては一か八かの策だが、敵将は必ず姫に惚れる。それほどにこの女は美しい。
カンベエが冷静さを欠き、動揺するほどに。

「ね、カンベエ」
「聡明な方と思うておりました」
「うん」
「とんだ間違いだった」
「うん」
「魔性め、そうやって、自分だけ寵愛となって生き残るおつもりか」
「・・・ほら、そなたも妾が気に入られることがわかっている」




どんと突き倒す。
長い髪が床に広がる。

「カンベエ」

怖気づきもせず、組み敷いた下から両手を伸ばされる。
その腕を通り越して胸に顔をうずめる。
心臓を貪り喰う獣のように
乱暴に。
細い腕が己の頭を抱きしめるのを感じる。


「こわいよ、カンベエ」

やがて律動の合間、耳元に消え入る声が響く。
吐息が熱いのは心地よいからか、恐ろしいからか。
耳にあたる彼女の頬がしっとりと濡れているのは汗か、悲しみか。
こわいとは自軍の将に抱かれることか、敵軍の大将に抱かれることか。





「こわい、カンベエ、カンベェ・・・っ」




性器をしめつける痺れに似た感覚
脳を蕩かすようなあまやかな感覚
果てたあと、ずっと抱きしめていた。生娘のように白い肌にてんてんと赤い血。にじんでいる。さきほどまで確かに生娘だったのだ。
背の高い将にだきあげられては喜び、
木に登ったきりおりられなくなっては口をつぐんで涙をこらえ、
木の上にいたのをカンベエに助けられてはしがみついて額をすりよせてきた。
腕の中で泣く小さな体温に「泣かないで、いいこいいこ」と背中をとん、とんとたたいた。あの日々。
今も腕の中
小さな体温
すりよせられる額




もういちど会えたら いいこいいこ して

それが最後の睦言。