立派な格好をしたシンドバッド王
美しい衣装を纏ったシェハラザード
宮廷画師のまえで、ふたりならんですまし顔。
国王と王妃を描いているわけではなく、あくまで非公式なものだ。
結婚はしていないから、大っぴらにはできない。
シンドバッド秘蔵の恋人の噂を聞きつけたエリオハプト王が、連れて来いと言って聞かないから、かわりに絵を持っていくことになったのである。
シンドバッドはなるべくくっついて胸を張る。
「おれのもんだぞ」という雰囲気をかもし出しているのだろう。
「はい結構でございまーす」
「ぷはーつかれた」
じっとカッコつけるのから解放されたシンドバッドは大きく息を吐いて脱力した。
「きみは平気かい」
「ええ」
「ではもう1ポーズ描きますので、リラックスなさってくださーい」
画師の声にシンドバッドはいやな顔をした。
一方のシェハラザードはさっとピースした。
「お、いいな」と王様がノッかって
二人で
ブイ!
「はしたないので下ろしてくださーい」
王様とうつくしいシェハラザードは「おこられたー」と子供のように笑いあっている。
遠目に映し、浮かぶ感情は音にせず、読まず、書き記すこともない。
「マスルール、私はそろそろ執務室に戻りますね」
けれど見つめ続けるのがつらい日もある。
今日がそれだ。
(疲れているのかもしれない)
そう思った。
***
21歳になった。
男のうちでは体つきは華奢なほうだと自分でも思う。かつて身をやつした「あの職」では、体が重くなることは命を落とすことと等しかったから、その名残かもしれない。しかし集中力と、体力を忘れて動くということに関してはシンドリアの誰よりも自信がある。
執務室に積みあがった仕事と、次々舞い込み、あるいは割り込んでくる仕事の処理に没頭した。
「ジャーファルくん、聞いているかい?」
声がする
王の声
ああ、はい。
顔をあげた。
シンドバッド王の奥にはマスルールと、スパルトスもいる。これだけの人数が執務室に入ってきて気づきもしないのは、集中力の弊害だ。これを自信とは我ながらよく言ったもの。
「休憩してきなさい」
「え」
「書類に押してある印が逆さまだよ」
「あ、いけない。訂正を」
「ジャーファル」
「はい王よ、すぐに」
「休憩してきなさい」
「・・・はい」
集中力に自信とは、本当によく言ったもの。
恥じる思いで席を立った。
シンドバッド王は「よろしい」と頷くと、スパルトスへ声をかけた。
「かわりに直しておいてくれるか」
「承知しました」
顔を伏せながらすれ違う。シンドバッドの服装は、画師の前にいたときとは違い、いつもの装いに戻っていた。
「もう画師は帰ったのですか」
「ああ」
「・・・」
「シェハラザードは疲れて汗をかいたからって風呂へ行った。俺でも肩こったからな」
なにも聞いていないというのに。
これ以上心を読まれぬよう、袖を合わせて持ち上げた。
「昼食をいただいてまいります。では失礼」
今からか?というシンドバッド王の声を背に執務室を出た。
***
人と会うのが億劫に思い、人のいないほう、いないほうへと足を進めた。
静かな中庭を横切ったとき、茜の空に白く透ける月が浮かんでいるのが見えた。
昼食を食べていない。
食べるべきだ。
もう日が暮れ始めている。
足をとめた。
いまから厨房へなにかもらいにいっては、夜の仕込みの迷惑になるだろう。
宮殿内の庭を気がねなく使える人間はかぎられている。
ジャーファルは(王がそこにいない時に限り)この中庭を気がねなく使える人間のひとりだった。
石造りの東屋に腰掛ける。
朝には植物の手入れをする庭師が入るが、夕刻になれば閑散として、まったくもって無駄な施設と成り果てる。
「用途を再検討すべきか」
・・・と呟いたものの、人のないこの中庭がいまのジャーファルにはありがたい。
視界にあふれる南国の鮮やかな花たちはいずれも西日で染め上げられている。王国建国以前にシンドバッドの屋敷の庭で同じような景色を見たことを、ふと思い出した。
(あのときは色とりどりの屋根がすべて金色になって、シェハラザード様が“きれい”と)
(いまは私がいるから怖くないと)
尊厳の始まりの日。
手のひらを見る。
(まだ握ることはできなかった)
やわらかくカギをつくるあなたの
指に
ひっかかって
ほどけないで
ほどけないで
いつのまにかずっとそう祈っていた。
(今はもう、つつんでしまえる)
まどろみかけたとき、靴音をきいた。
中庭を囲む廊下の天井は高いから音が反響する。
巨大な円柱のうしろ、長く伸びる人の影が壁面にうつっていた。政務官としてあるべき姿勢へ背を正す
壁に映る人影が突然しぼんだ。
かとおもえばよろよろと立ち上がり、再び歩き出す。影は数歩行ったところでまた崩れた。
支柱の間に影の主の姿を見、まどろみの心地から一気に引っこ抜かれた。
シェハラザードが再び立ち上がり、三度目倒れかけ、かろうじて円柱に手が届いた。しかし円柱にそってずるずると床に座り込む。
「シェハラザード様っ」
青ざめ、ぐったりとして反応がない。
手から力がぬけていて、持っていた布が膝にひろがった。布はさきほど画師の前で着ていた衣装であった。
髪は湿り気を帯びているから、シンドバッドが言ったとおり、湯につかってきたその帰りだろう。
シェハラザードの背に片手をまわし支えると、顔を隠す濡れ髪を耳のあたりになでつける。湯あたりにしては顔色が悪い。
「シェハラザード様、聞こえますか。シェハラザード様」
揺すると、うすく目がひらいた。長いまつげの奥、宝石の色に似た瞳がジャーファルに気づく。
一瞬、微笑んだように見えた。
「だいじょうぶ」
声を聞けたことにほっとした。
「ただの貧血です」
そう言ってジャーファルから離れようとすると「あら」というつぶやきを残して支柱に頭をぶつけ・・・る寸前でジャーファルが支柱とシェハラザードの頭の間に手を入れた。
「医者を呼んでまいります」
「いいえ。それにはおよびません」
「では部屋までお連れします」
「あるけます」
「・・・」
そう言ってジャーファルの手を離れた頭が右へフラフラ左へフラフラしている。フラフラは重い右側へと特に大きく傾く。
「・・・失礼」
言い置いて抱き上げた。
肉のやわらかさ、あたたかさ、畏怖とあせり、石鹸のにおい、緊張。重みは使命感と等しい。ああ、おかしい、こんな、いつからこんなに、とっくに、男と女みたいに。
空っぽの袖が下へふわりと垂れて正気に戻った。
「おもいですから」
「軽いですよ。うで一本分」
ジャーファルは笑って見せる。
誇らしさとはちがう何かが腹の奥でざわめいていた。
***
途中、すれ違った女官に驚かれた。
「お加減が悪いらしい。なにかあたたかい飲み物を」と頼んだのは、本当に必要であったことと、怪しまれないためのいやらしい根回しだったような気がする。ベッドにシェハラザードの体を横たえたとき、わずかに軋んだベッドの音が官能的なそれに聞こえるというありさまだ。
自制が人よりよくはたらくことは、せめてよかった。
「シェハラザード様、つきましたよ」、
「・・・」
ねむっているのだろうか。
湯上りの薄着ごしに、清潔なにおいが届く距離。
シェハラザードを直視することは避け、ベッドの傍らの椅子に腰掛けた。シンドバッドがこの椅子に腰掛けているのを、ジャーファルは何度か見たことがある。
部屋をみまわす。
ジャーファルはこの部屋があまり好きではない。
自分に割り当てられている部屋よりもここはずっとこじんまりとしている。マスルールの部屋ほどではないにせよ、物が少ない。
だがベッドの横の棚だけはにぎやかだ。
飾り小物が並んでいる。
月と太陽が描かれた砂時計、小さな絵皿、絵皿には指輪やイヤリングがのっている。鳥の形の指人形。花を内包した宝石。ほかにもたくさん。素材も作りもまちまちで、ひとつひとつ作られた国がちがうと見た目で分かる。シンドバッドからの贈り物だろう。
「ありがとう、ジャーファル」
ジャーファルは視線を戻した。
まぶたは眠そうに落ちているが、その奥の瞳はさっきよりもしっかりとジャーファルを見ていた。
「無理をなさらないでください。シンでさえ疲れたと言っていましたから、血のめぐりが悪いあなたならなおさらのはずです」
「そうね。ごめんなさい」
「・・・」
言葉につまり、ジャーファルは自分の膝へ目をおとした。
大人しく自分の膝に重ねた手のひらは、もう目の前のひとよりもずっと大きくなった。
拳をにぎり、へんな衝動が駆け上がってくるのを、必死に抑えた。衝動を具体的に言うと「私だったらあなたに無理をさせたりしない」とかなんとか言いそうな衝動だ。はずかしいったらない。
おさえる。
おさえる。
「あなたも疲れているのではない、ジャーファル。ヤムライハが、あなたが休憩しているところを見たことがないって」
「大丈夫です」
「・・・」
「俺は男ですから」
・・・アピった。
アピってしまった。露骨だ。しかも普段は「俺」なんて使わないのに。
(アホ、私)
「そう?ならよいのだけど」とシェハラザードは「男ですから」じゃない部分に応答した。
もどかしい。
昔なら、「ありがとう」と褒められて、ただそれだけで満たされていた。
たりない。
たりない。
もっとほしい。
((汚れてしまったなあ)
(いっそ、あなたがシンのお妃様になってしまったらあきらめがつくかもしれないのに)
”どうして王の求婚を断ったのか”
かつてジャーファルが尋ねたその問いに、「しばりたくないから」とシェハラザードは手本のように答えた。いいえ、もうひとつ。シェハラザードが隠している理由をジャーファルは知っている。シェハラザードは自らを醜聞のもとと思っている節がある。
出自がわるい。シェハラザードの家系がその領地に強いてきた悪行は情状酌量の余地のないものだった。
見た目がわるい。片腕が欠損している。
生殖機能がない。
ふさわしくない。ここにいてはいけない。その負い目が、家具の少ない部屋にあらわれているように思われて、だからジャーファルはこの部屋が好きではないのだ。
負い目を感じるなと誰かが言って「はいわかりました」といく話ではない。一方で、シンドバッドはシェハラザードが彼のそばから消え去ることを許さないだろう。
(・・・私では)
(だめなんだろうか)
「シェハラザード様は、どうしてシンが好きなんですか」
長いまつげが震えた。
諦められるだけの理由を教えてほしかった。
変になった空気をノックの音が割る。
柑橘の果実で香りづけした白湯が運ばれてきた。
ジャーファルは椅子を立って女官からそれを受け取ると、シェハラザードにも聞こえる声で言った。
「国王陛下に伝言をお願いできますか。シェハラザード様の体調がかんばしくないと」
「承知しました」
女官が下がり、グラスをベッド横の棚に乗せ、椅子に戻る。
シェハラザードはシンドバッドを呼ばれたくなかっただろう。心配をかけるから、迷惑をかけるから。
ジャーファルの、この従者としての当然の行いは自身が何かしてしまわないための予防線であるとシェハラザードは知るよしもない。
さて
「教えてください」
シンが来る前に。
沈黙がひろがる。
シェハラザードはベッドに上半身を起こし、空白を埋めるようにグラスにひとくち口をつけた。
「・・・改めて聞かれると、うまくいえるかわからないのだけど」
グラスを膝の上に持って、揺らぐ水面をじっと見つめる。
「彼の楽しい冒険譚にはいつも大勢の登場人物がいます」
言葉を慎重に選びながら、ゆっくりと音をつむぐ。
「けれど冒険がクライマックスに近づくにつれて、お話にはシンドバッドしか出てこなくなる。シンドバッドは真実を、クライマックスの盛りあがりにたよってごまかしてしまうの」
みんなと旅立ち、仲間思いのシンドバッドが最後には一人になって冒険を終える悲しみを、わたしは一度だって彼の口から聞かされたことはありません。それを不思議に思ったことは何度もあるのです。
・・・けれど、尋ねることはできませんでした。冒険をたのしげに語って聞かせるシンドバッドの下のまぶたが、もうすこし赤く腫れていなければ、聞けたのかもしれません
「シンドバッドが生涯冒険を続けるなら、わたしは彼が生きるより一日多く生き、冒険の話に笑って、そのたび「助手にして」と願っていたいと、そう思うのです」
ジャーファルは言葉を返せなかった。
うなずきたい部分と
くやしい部分と
羨ましい部分と
いいから幸せになれよと思う部分と
それでもどうしてもあなたが好きですと
あと
あと
心で渦を巻く。
突き抜ける。
立ち上がる。
つられて上向いたシェハラザードの横に手をついて、ベッドが軋んだ。
触れる寸前に
「ばか」と、ジャーファルの渦巻いた感情からぽろっとこぼれた。
シェハラザードがなにか言う前に唇を押し当てた。
「シェハラザード、大丈夫か!」
ノックもせずにシンドバッド王が飛び込んできた。
肩でぜいぜいと息をしている。
女官の伝言をきいた瞬間からここまで走ってきたのだろう。
「シン、遅いですよ」
ジャーファルは腰に手をあて、指をさして遅参のシンドバッドを糾弾した。
「ああ、すまんすまん」
「すまんではすみません。まったく、もとはといえばあなたが他国の王に自慢したいからってシェハラザード様に何時間もポーズをとらせたのがいけないんです。反省なさってください」
「いや、本当にすまなかったと思っている。具合はどうだ」
シェハラザードはベッドの上で真っ赤な顔をして停止している。シンドバッドの呼びかけにもこたえない。この様子を見るや、シンドバッドは苦笑を凍らせてベッドに飛びついた。
「まさか熱があるのか?風邪か?ジャーファル、ねぎ!ありったけのねぎをここへ!生姜と、レモンと、あとあれだ、わかめ酒!」
「それを言うならたまご酒です」
「そうそれ大至急たのむ。とりあえずシェハラザードは横になって、ほら、わあーせっけんのにおいがしてすごいエロい添い寝したい・・・じゃなくて、今日はなにもしないから安静にしておきなさい」
すでにナニかされちゃったシェハラザードはシンドバッドの肩越しにジャーファルへ顔をむけた。
ジャーファルは唇をなめる仕草をして見せる。
できるかぎりいやらしく、男なのだと意識せずにはおれないように。
瞬間、シェハラザードの頭から湯気がたちのぼった。
ミッションコンプリート。
「ジャーファルッ、ねぎだってば!ねぎ!シェハラザードの鼻にさせるサイズのやつな!」
「シェハラザード様にそんなことしたらぶっ飛ばしますよ。あと負けませんよ」
「ん?なにか言ったか」
「どうぞお大事になさってください。おやすみなさいませ」
以来、ジャーファルが攻勢に転じたのかどうかは、はて、さて。
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