私は紙をひろった。

四つ折りの粗末な紙は、シンドリア王宮の磨き上げられた大理石の床には似つかわしくない。議場に近い廊下だ。重要な書類かもしれない。風にさらわれそうになったところを拾い上げ、落とし主を確かめるために四つ折りを開いた。
「…」
なんてへたくそな文字だろう。
けれどかろうじて読める。
ふむ ふむふむ
おや おやおや
読んでいくうち、思わず袖で口元をおおった。
「ジャーファルさん、会議はじまりますよ」
「すみません、すぐに」
背にかかったスパルトスの声に踵を返し、扉の開放された小会議場へ向かう。
「…どうかされましたか」と、私の不審をスパルトスが不思議そうに尋ねてきた。
「どうって?」
「嬉しそうに見えます」
おや、いけない。緩みそうになる頬を咳払いでごまかしてみたが二秒でくずれた。私は袖で隠していた言葉を正直に話すことにした。
「かわいい落し物をひろったものですから」
「おとしもの?」
「手紙のようです。文字からみてアラジンたちのものでしょう。あとで届けに行ってあげなくては。さて、もう時間ですね」
四つ折りの紙を大切に懐にしまい、表情と声を政務官へ整えてから小会議場で一人立ち上がった。
「みなさん、お集まりいただきありがとうございます。居住・商業区画の見直しについて、まずは昨日の続きから第八、第九地区をみていきましょう」
政務官の正しい声を以って、小会議場の重い扉がゆっくりと閉じられた。



閉じられた重い扉のその向こう、大理石の廊下にぬうっと黒い巨影があらわれた。
マスルールである。
ウロウロしながらやってきて、しばらく小会議場の前をウロウロ歩き回っていたかと思うと、どこへともなくウロウロと立ち去った。
太陽はさんさんと、風はさわやかに首筋を冷ましてくれるというのに、どうしたのだろう、うつむいて。



* * *



「ジャーファルおにいさんこんにちはー」
手紙を届けに子供たちを訪ねると、ちょうど三人とも揃っていた。
「こんにちは、アラジン、アリババくん。ああ、モルジアナ、新しい部屋にはもう慣れましたか」
モルジアナはぴっと背を正し、腕を背にやる気をつけの姿勢をつくりかけて、あわてて前に手を重ねる格好へ直した。不慣れをはにかんでペコリと頭を下げる。お礼を言う時にはこうするものだと、誰かがやさしい入れ知恵をしたのだろう。アリババくんかな。
「はい。ありがとうございました。とてもきれいな部屋で、てんがい付きのベッドまで」
「そう。気に入ってもらえてよかった。女官たちが喜んでいたよ。前の主人に比べて、女の子のほうがずっとお世話のしがいがあるって」
「モルジアナの部屋はもともとは誰が使っていた部屋なんですか?」
「マスルールだよ」
つい先日のこと、マスルールにはほかの八人将が居住するのと同じ、王の膝により近い場所へと部屋を移らせた。マスルールのその引越しが往復ではなく行きの一回で、しかもたった一人で終えてしまったのを目の当たりにしたときには、でたらめな力持ち加減と荷物の少なさにあきれたものだ。私はたすき掛けをして待ちかまえていたというのに。
上等な家具でしつらえなさい。畏れず清潔なシーツで眠りなさい。少しは望みなさい。学のない剣奴とあなどられた時代はいまや昔…、いけないいけない。なつかしさに浸ってしまった。
「ところで」ときり出して懐から四つ折りの紙を取って差し出した。
「はい、落ちていましたよ」
「これはなんですか」とアリババくんは小首をかしげた。
「なにって、この手紙、君たちのものでは」
三人はぽかんとして顔を見合わせ「知ってる?」「ううん」「モルジアナは」「いいえ」と素早く結論が出された。
「ちがいましたか。それでは王宮の中で子供を見ませんでしたか」
すると、
アリババくんはアラジンを指差した。
アラジンはアリババくんを指差した。
モルジアナはアリババくんを指差した。
二人の指先に気づくや、アリババくんは顔を真っ赤にして怒りだした。
「お、おまえらな!おれが一番年上なんだぞ、って、あっ、コラ待て逃げるなっ!」
あっという間に始まった鬼ごっこに「王宮内で走ってはいけませんよー」と声をかける。最近では見慣れた光景だ。私がにこにこしながらこれを言うと、シンは決まって「えこひいきだ」と唇を尖らせる。しかたがないでしょう。どうしても微笑ましくてしかる気になれないのですから。
遠くなった小さな背中たちに「ありがとう、ほかをあたってみますね」と告げ、さわやかな昼の庭を手紙の持ち主をさがして歩きだした。



「アラジン!待てこんにゃろー」
モルジアナの足にはかなわなすぎて絶望したので、俺は魔法のターバンで空を逃げるアラジンにターゲットを絞って追いかけ続けた。あいつらめ!俺のことを一番子供だなんてなにを根拠に。俺はもう一七歳だ!
「あはは!アリババくん、こっちだよ」
手をペチペチ鳴らして笑いながら挑発してきたアラジンにイラっときた。こうなったらアモンの炎でびっくりさせてターバンからふり落としてやるっ。今日という今日は俺の堪忍袋の緒がk
「どーてーさんこっちら、手ぇの鳴るほーうけい!」
堪忍袋が吹っ飛んだ。
「お・ま・え・なァ!そんな言葉どこのシャルルカン師匠から習っブヘェ!」
鉄壁にぶち当たった、と思った。鼻を打ったせいでクラっときて、地べたに倒れそうになったのをたくましい腕がしっかと支えてくれた。
腕の主はマスルールさんだ。そしてこれはいわゆるお姫様だっこだ。…かあさん、カシム。ぼくはファナリスにこう抱かれる星の下に生まれたんでしょうか。
「…」
「あ、大丈夫です。ありがとうございます」
無言の目に大丈夫かと尋ねられた気がして、俺はそう返した。すると、マスルールさんは俺を地面に下ろし、どこへともなく、ウロウロ、ウロウロ、と彷徨い歩きだした。足取りはまっすぐではなく、顔は地面に向けられている。
「マスルールさん、どうかしたんですか?」
背に呼び掛けるとのっそり振り向いて、
「いや」
と短く返った。
再びウロウロと遠ざかっていく背はなんだか痛ましく、哀愁さえ漂っているようないないような。
この異変を見たアラジンも俺のそばへ寄ってきて、いたく心配そうにつぶやいた。
「マスルールおにいさん…せいりかな」
ああ、俺はシャルルカン師匠を殴る勇気がほしい。



* * *



「ヘキシッ!…んあー誰かオレ様の噂してやがんな。ヤーラシィー」
オレにパッションを寄せる恋の気配にいざなわれ、明るい廊下を振り返った。
ウロウロ
「アン?おまえかよ」
ウロウロ
「どしたあ?」
「いえ」
ウロウロ
「どしたよ?」
「別に」
「ウソつけ」
目も合わさないですれ違って行こうとした後輩チャンの襟首を、つま先立ちでひねりあげてやった。ちょ、おまえ屈めこのデカブツ!足ツッちゃう!
「絶対ェどうかしてンだろが。先輩が相談にのってやっから遠慮なく話してみろ?そうかそうか、さてはエロ本を落としたんだな。図星だ。ヤだヤだこれだから童貞は」
(イラァ)という擬音が聞こえたような気がしたが、オレは真摯に後輩指導を続けた。
「もしくはアレだ。自分でも探してんのか?ったく、おまえは見かけによらず青いんだから!」
後輩の尻っぺたをベシベシ叩いて叱咤激励してやった。
「イテテ、手首が折れるかと思った。なんだこの硬さ。おまえのケツにサンデーでも入ってんじゃねえだろうな」
オレの慈愛に満ちた励ましに声もあげられないほど感激しているらしいマスルールは、すっと腕を持ち上げた。
「先輩」
指をさしている。オレの10メートル後方の廊下だ。
「落し物してますよ」
「マジでか」
イケネ、さっき茂みで拾ったエロ本かな。どこだどこだ。あいつ指さしたの確かこのあたりだよな。あれ?え?マジでどこ?見つかんねえけど。チリひとつないけど。
「なー、なにが落ちてんの?」
「先輩ののうみそ」
「てんめええええこのサクランボーイっ!」
「シャルルカン!」
突然の一喝に不意をつかれ、オレはすくみあがった。
マスルールと逆サイドの廊下、仁王立ちするのは厳格(子供除く)なる政務官、ジャーファルさんだ。怒気を放ちながらズンズンとこちらにやってくる。怖い。
「なに大声をあげてるんですか、ここは王宮ですよ」
「ジャーファルさんっ、だ、だってマスルールが」
「いないじゃないですか」
「へ?」
振り返ると誰もいない。オレの銀髪が怒髪天を突いた。
「あんの特大チェリーヤロォオ!」
「シャルルカン!」
「はぃ…」
「言ったそばから君というひとは。王宮で下品な言葉を使うのはおやめなさいと何度言ったらわかるんです。ここには純粋無垢なかわいい子供たちだって暮らしているのですからね。彼らに悪影響を与えた日には私は心を鬼にして君の下半身が使いモノにならなくなるまでザクザクやらねばなりません。いいですか、そもそも我々が八人将として厚遇を受けているはそれだけの責任があるからなんですよ。君はもう少し将として自覚を持【すごく中略】わかりましたか!」
「もうしませんごめんなさい」
かたい廊下に長時間正座させら、逃げられないよう曲げた膝と手首を後ろ手に赤い紐的なもので縛られ、オレは潤む目からなにかこぼれてしまわないよう奥歯を強く噛みしめながら、コクコクとうなずいた。
「わかればいいんです。ところで、このへんで子供を見ませんでしたか」
「王様の隠し子ですか?」
「いねえよ」
「んじゃアラジンたち?」
「違う子で」
「や、見てなッスね」
「そうですか、ありがとう」
ジャーファルさんはすっかりいつもの調子に戻って、ほがらかに礼を言うとオレを通り過ぎて行った。
はぁ…ようやく開放された。こわかった。さっさと外の酒場にでもエスケープしよっと。よっこらセックs…ん?

「ジャーファルさんヒモ!ヒモォ!」
遠くから「誰がヒモですか!ちゃんと稼いでますよ!」とプンスカ怒った声が返って…それきりだった。
二時間後、廊下で赤い紐に縛られて動けない姿をカワイイ女官に(白い目で)発見された。それから三カ月間、オレには「緊縛放置大好きシャルルカン」という二つ名がつけられた。
とってもつらかったです。



* * *



王宮の裏手は鬱蒼としていて、切り立った崖がそびえているばかり。そんな場所に自らおもむく者は、公務をサボりたい王様か、探し物をしている人くらいのものだ。
木漏れ日の降る木の枝に腰かけ幹にもたれ、心地よくまどろんでいたとき、見慣れた姿が視界にはいった。
大男が暗い顔で、崖の影になって薄暗い渡り廊下を行ったり来たりウロウロウロウロ。ちょっとした怪談だ。俺は怪談も大好きなのでちっとも臆さず大声をはりあげ手を振った。
「おーいマスルール」
「…」
主の声にはすみやかに反応し、うつむいていた顔をあげた。枝を飛び降り、渡り廊下へ寄る。
「どうした。こんなところで」
「…」
「探しものか」
「…」
廊下の手すりにゆったりと片肘をつき、マスルールの表情を覗きこむ。
「ん?」
「…いいえ」
「そうか」
「…」
「じゃあ言えるところまででいい」
いいえと言ったのに、という顔をしている。
マスルールは図体のわりにつつましい唇をつぐんで、一瞬小さく開き、なにも言わないまま引き結んだ。
やはり言ってはくれないか。おしかった。
でももう少し待ちたかったので、俺は手すりにのった木の葉を指でツンツンもてあそびながら、もう少し待つことにした。
「紙を」
唇の端からこぼすような声音を、ひとつもこぼさず正確にひろう。小さい声を聞くの、結構得意なんだ俺は。
「かみ」
繰り返してみる。なんだか子供に尋ねるみたいにやさしい調子になってしまった。どうか怒らないでほしい。
「むかし、字を練習していたときの」
「ああ、ジャーファルに教わってたときのか」
「はい」
「そういえば、筆圧が強すぎておまえは何本も筆を折ってたっけ。ハハッなつかしいな」
「引越しのときに出てきたんです」
…偶然、と一拍遅れて取ってつけた。いま、わずかにまつげを伏せたのは、俺に嘘を言ったことを悔いてだろうか。
ふむ。
剣、眷族器、服と歯ブラシくらいしか持たないマスルールが、“偶然”、ただ一枚の懐かしい紙っぺらを持っていて、どこかで落として、王宮の裏手にまで探しに来たそうだ。
ふむ。
「そうか。どれ、俺も探そう」
「いいえ」
返りが早い。
「いいんです」
感情が動かない(ように見える)ひとの心の震えを見てしまったとき、なにも見なかったふりをして半歩下がり、見守るに徹するのも俺は結構得意だ。
本当はすごく、なにかしてやりたいのだけど。
「そうか」
笑む。
「はやく見つかるといいな」



マスルールの背中が遠くなったのと入れ替わるように、うしろのほうで土を踏む音を聞いた。
「シン、王宮で子供を見かけませんでしたか」
「隠し子はいません」
「そうじゃねえよ。向こうで手紙をひろったんです」
「手紙?」
「これです」とジャーファルは四つ折りの紙をとりだした。「どれ」と受けとり読んでいると、ジャーファルはこらえていたものがあふれた様子で「フフ」と息をもらした。
「すみません。あまり見せてはいけないとわかっているんですが。この子、学校か、剣術か、魔法か、ともかく先生に恋してるんです、きっと。字が一生懸命でほほえましいじゃないですか。ぜひ届けてあげたいと思いまして。あ、もちろん読んでないことにしますよ」
幸せそうな政務官の顔をみて、俺は目をぱちくりした。ぱちくりには気づかず、落とし主のかわいらしい姿に思いを馳せるジャーファルのテンションはうなぎのぼりだ。
俺は、注意深く水を差す。
「あのさ、ジャーファル。これの持ち主に心当たりは」
「それがわからないから聞いてまわってるんです」
「じゃあ宛先のひとは」
「それも書いていないんです。手がかりはそのツソさんという文中の名前だけなんですが、私の知る限りそんな名前の宮勤めは覚えがなくて」
「…あ、そう」
「一体どなたでしょうね、幸せ者は。私がこんな手紙を受けとったらかわいらしさにあてられて卒倒してしまいます」
俺は思案のためにちょっとだけ視線を宙にやる。
「…シン?」
「うん」
手紙を四つ折りに戻し、ジャーファルの手のひらへと返すことにした。
「さっき、マスルールが子供と一緒にいるのを見たよ」
あれが行った方向をまっすぐ指し示す。
「マスルールが。めずらしいですね」
「そうだな」
「ありがとうございます。あと、いつまでもそんな寝間着みたいな格好でサボってないで今すぐ執務室に戻ってください。私もあとで手伝いに行きますから」
「はいはい」
「はいは一回」
「はーい」
軽快な足取りのジャーファルの背を見えなくなるまで見送った。
それから俺は、複雑な心境を振り払うようにうーんと空へ伸びをした。ふうと息をつく。
「そうだなあ」
頭の後ろに腕をやり、木漏れ日との名残をおしみつつ執務室の方角へ歩き出す。
今日はジャーファルくん卒倒しちゃって使いモノにならないだろうから、俺が仕事がんばんないとなあ。



* * *



さあ、今日の授業をはじめましょう。昨日の宿題はやってきましたか。
「…いいえ」
おや。いつもはなんだかんでちゃんとやってくるのに、誰でも好きな人に手紙を書くという課題はまだ難しかったですか。
「…すみません」
ああ、なんだ。筆が折れているじゃないですか。そういうことなら咎めませんよ。
さあ、今日の授業をはじめましょう。













おしまい