広い屋敷ははるか遠くで高い塀に囲まれていた。


その屋敷の南の庭園を通りかかった。




紅は歌を唄っていた。

ジョウロを傾けながら、花の中で唄っていた。

その様子がいかにも神聖で、魔の領域は踏み込めないもののように思えた。

それ故にか、私は庭園に足を踏み入れる一歩手前で立ち尽くしていた。

躊躇われる聖の領域。


呪いの子、と一歩先の花が呟いた気がした。













 秘 密 の 海 原













「紅麗」


見えない結界の向こうから声がした。

歌はやんでいて、彼女がこちらを見ていた。


「ああ、紅麗。いるなら声をかけて」


笑いながら言う彼女の色白の頬に朱がさした。


「歌まで唄っていたことは皆には内緒よ」


そう言って、私に微笑った。

私はただ足元に視線をおとしていた。



「紅麗。紅麗どうしたの、こっちで一緒に話しましょう」


ジョウロ片手にもう片方の手を振る。

白い肌が陽光に透けるようだ。

彼女はまだ呼んでいる。

私の足は目に見えず震える。



どんな猛者を前にしてもこの足が竦むことはなかった。

それが彼女の前だと


「紅麗、どうかしたの」




「・・・道が」

「道が?」


呟いた言葉を、彼女はひろってくれた。


「道がない。そこまで行く道が」


思いつきでついた嘘を繋げた。

いかにも稚拙で、意味のわからない理由を紡いでしまった。


「みち。そうだったの。大丈夫よ、花を少し踏んでしまっても」


花の命を奪うなと言って、頬を叩かれたのを思い出す。


「花は強いもの。あなたに踏まれたくらいでは負けないの」


彼女はそう言ったけれど、彼女が水を与える花を踏むのか

私が。



花を踏み潰すなどいかにも魔に見合う行いだ。

典型的で解りやすい。

それでなぜ

この足は

震える。






彼女はしばらく私を見て、動き出さないのにしびれをきらしたのか

こちらへやってきた。


なぜだろう

彼女は花をひとつとて踏まなかったように見えた。


白いスカートの裾が軽く揺れる。

微笑む君は、あっという間に私の前にやってきて

私の手をとった。


やわらかい両手が私の右手に触れる。


「紅麗には何が似合うだろうね」

彼女は庭園の花を見渡した。

彼女に似合うものはたくさんある。

白い服や陽光や、花や草、木も、空も。

陽に属するすべてが良く似合う。





「紅麗は、白詰草かなあ」


可笑しそうに笑ったから、もちろん冗談なのだ。


「そう。うん。白詰草。バラとか、そういう高貴なものもいいけれど」


彼女はうつむいて足元を見つめて、しばらくなにか考えているようだった。

長い睫毛をふせると、頬にその影ができた。



あの白い花が、自分に似ているはずがない。



「あちらに咲いているの」

ふと視線をあげた彼女が指した方向に、その花を確認できなかった。

けれどいかにも愛しそうにそちらを見るので、きっと

咲いているのだろう。


「とても大切だから、誰にも秘密なの」

「そうか」


奇妙な感覚があった。

彼女がその方向を愛おしそうに見るのが見ていられない。

とても大切だと彼女が云ったのが苦しい。





「行こう」


手を引かれた。

栗色の髪が揺れる。

彼女は私の足の震えなどまるで知らずに歩き出した。

二人で歩いている間、足が竦むことはなかった。












庭園を抜けてすこし行くと、小川へくだるゆるやかな斜面があった。

一面に緑の芝生

一面に白い花

咲いている


一面に 「ここはほら、斜面になっているでしょう。だから向こうから見えないの」 「おまえが育てたのか」 「いいえ。わたしは見つけただけ」 彼女は斜面の中腹まで下って、腰をおろした。 手招きされて、私もそのそばに座った。 「飾りをつくるから待っていて」 彼女は上機嫌で、鼻歌さえ唄っていた。 白詰草を少しずつ摘みながら器用に紡いでいく。 その様子を傍らに、私は先刻の彼女の言葉を考えていた。 ”紅麗は、白詰草かなあ” 意図が知れない。 戯れで言っただけなのかもしれない。 真逆のことを言って滑稽に見せたのかもしれない。 紅が そんなことをするだろうか きっとしない では なぜ しばらくすると歌がとまった。 「花の命を奪うなと言ったけれど」 彼女は独り言のようにつぶやいた。 「わたしは今、あなたほど大切なものはないと思っているの」 言葉が見つからず、考え事もわすれて ただ 嬉しかった。 紅の手の中、紡がれたのは一対の指輪だった。 足が竦む。 彼女の心が踏みにじられるのがこわい。 彼女が悲しむのがこわい。 彼女が怖がるのがこわい。 彼女まで呪われてしまうのがこわい。 彼女にふりかかるかもしれない苦しみのすべてがこわくてならない。 呪いの子、と声が頭に響く。 紅の手が私の手首に触れた。 「触るな」 その手を突き放す。 彼女は少し驚いた顔をして、それから穏やかな表情に戻った。 また触れる。 手の平を優しく暴かれる。 「触るな。触るな。・・・触らないでくれ」 「誰かがあなたに触られたらいけないと言ったの?」 呪いの子、と声が頭に響く。 もう世界でただひとり、 紅だけはすべての紅を傷つけるものから守らなくてはいけない。 それでも紅はいとも簡単に触れてしまう。 この震えをとめてしまう。 まるで紅が触れる場所から呪いがきえていくようだった。 「大丈夫、ここには誰もいないもの。わたししかいないもの」 紅の声が響き渡る。 紅の声だけが真実だ。 紅は指輪の片方を私の手の平に置いた。 私はただ、本で読んだように紅の左手をとる。 小さな手の平、くすりゆびに手作りの指輪をとおす。 「・・・くすりゆびの指輪をわかっておいでなの」 「本で読んだ」 「わたしも、本で読んだわ」 紅は、私の左手のくすりゆびに指輪をとおした。 紅は白い服を着ていた。 夕刻、小川のほとりに二人で立って指輪をはずした。 指輪になった白詰草は少ししおれていた。 「紅」 「はい」 「どうしてこの花が私に似合うと言った」 「・・・白詰草があなたに似合うわけじゃないの」 紅は二つの指輪を解いて寄り合わせる。 「とても大切だから、だから紅麗なのよ」 紅の手の中 二つの指輪は一つの輪になった。 それを小川に流した。 数日後、また二人でその傾斜へ行った。 一面の焼け野原。 小川だけがぽつんと残っている。 あれが私に監視をつけぬ時などない。 或いは紅にさえ監視をつけているかもしれない。 紅は気丈にも、黙ってその光景を見つめていた。 紅の手は震えていた。 その手を握ると、震えはとまった。 私たちは繋がれた手の中で ただ この流れの先が屋敷の高い塀を越えて、海へいけばいいと祈っていた。