暗闇の中で



数える





ひと

ふた






両手両足あわせても足りない
髪の毛の本数を入れたって
罪は数え切れない
あなたはそれをすべて許してくださった









 数 え る 









「くれいさま」

呟いた声は酒の匂いと一緒に床に沈殿した。


かつて紅麗が暮らした屋敷。
雷覇も分相応の部屋をもらっていた。
今は廃屋と化してしまったその屋敷のかつての部屋には酒瓶だけが
ごろごろと転がっていた。


紅麗は過去に消えた。
雷覇はそれがいかにも紅麗らしいと思った。
こちらに来てからの彼に未来などなかった。
この屋敷は彼から未来を奪いつづけた場所だ。
此処でひたすら失った。
引き離されて
とりあげられて
あるいは壊されて失った。


此処には未来などない。
だから、彼が過去を選んだのは当たり前のことにおもえるが
雷覇は憤る。


「時空をわたっちゃうなんて、いくらなんでも反則ですよ」

追いかけることもできない。
待つこともできない。

「ぼくにいたっては生きることさえままならない」


自嘲の笑みが浮かび
消える。
頭が朦朧とするのはアルコールの過剰摂取によるもの。
末端神経が反応しないのも然り。
電気をつけわすれたまま夜がきてしまったのも然り。
視界が歪んだのも
頬が濡れたのも
嗚咽が漏れたのも


「くれいさま」

もう会えぬとわかればこそ、恥かしげもなく何度も呼ぶ

「くれいさま」


雷覇はふと思い至る。
もはや彼の傍に仕えることは贖罪などではなかったのだ、と。
彼は最初から雷覇を許していた。

「くれいさま」

憎まれればどれほど楽だったかしれないけれど
彼は雷覇を憎まなかった。おろか、傍においた。
ひどく不器用にではあるが信頼してくれた。



うれしかった



「くれいさま」

いつからか
ただ
あの哀れな少年を悲しませないことばかり考えて生きていた。

「くれいさま」


喜ばせてあげることができないからせめて
彼を悲しませるすべてのものから守ろうと。

今は守ることもできない


「くれいさま」


最後の一声をしぼりだして
雷覇の視界は完全に歪んだ。
暗闇さえ歪むのだからいよいよ危うい。
急性アルコール中毒かなあとやけに冷静に思っていたとき、

ドシン、と音がした。

窓でも開いたろうかと思う
部屋の中を風が動いている
髪が揺れる
眼前の暗闇に風が吹き込む。。





幻覚と幻聴を、見て聴いた。
それは雷覇のよく見知る紅麗によく似た少年で
闇の中にその姿を浮かばせて

下戸だと言ったのはやはり嘘かと、彼によく似た声で云った。


「くれいさま」

たぶん、夢だとわかっていた。
途端に顔にウィスキーボトルが飛んできて、痛かった。


「質問に答えろ」

「ナイスキー」

幻覚の傍らで幼声が幻覚のキックを称えていた。



熱が蒸散していく
アルコールと一緒に。

震える



「下戸です」


雷覇のそれは呻き声に近かったのにも関わらず
紅麗はそうか、と短く返してきた。


ふと気づけば部屋の中の風は止んでいる。
暗がりだったはずの部屋にはカーテン越しの月明かりが差し込んでいる。
小金井と紅麗が立っている気がした。


「明かりをつけてこい」

「はーい」

小金井が壁際に駆け、スイッチを押す。












目がくらむ。







視界に色が戻ってきて、もう一度それを見る。
左頬にひどい火傷があった。




「・・・これはその」


雷覇はつぶやく。

「ネロがパトラッシュと一緒にルーベンスの絵を見ちゃったのと同じ現象なんでしょうか」

「何をわけのわからないことを言っている」

「おれ、ちょっと外出てくるね」

「ああ」

小金井は含みをもって笑って扉を開けた。

「ごゆっくり」

そう言い置くと、ひらひら手を振って出て行った。



紅麗はそれを見送ってから、崩れている雷覇に視線を戻した。
仁王立ちで睨みつける。

「いつまでその顔でいる気だ」

雷覇はぽかんとして涙と鼻水の出た顔で見上げている。

「いつまでも」

「酔っ払うのもいい加減にしろ」

「いつまでも」

「貴様ふざけて・・・」

紅麗は途中で言葉を止めた。



「いつまでもお傍でお守り申し上げます」



紅麗は少し黙って
それから無表情に、愛想笑いもせず







「わかっている」


と云った。

































「いやあ、すみません紅麗様」

「まったくだ。帰ってきた早々なぜ主が忍に肩をかさねばらなん」


雷覇はえへへとだらしなく笑った。


「なにを笑っている」

「秘密です」

「酒くさい。しゃべるな」

「御意」


散々自棄酒を飲み散らかした末、歩くことさえままならなかった雷覇に
紅麗は嫌な顔をしながら肩をかした。
外の空気を吸うために。


「いつ戻ってこられたんですか」

「今。おまえ見ていただろう」

「なんだか視界が歪んでるなとは思ったんですけど、酔っていたもので」

「飲み過ぎだ。鼻血まで出ているぞ」

「いやこれはさっき紅麗様が蹴ったビンが」

「酒くさい。しゃべるな」
























外はよい月夜だった。


かつて雷覇はこの屋敷で
紅麗が悲しまないようにとだけ考えて生きてきた。


雷覇は屋敷を振り返る。
屋敷はわずかな月明かりに静かに照らされている。





明かりの中で




数える


ひと

ふた





両手両足あわせても足りない
髪の毛の本数を入れたって
これからあなたが体験する喜びは数え切れない









「紅麗様」

「なんだ。・・・また、何を笑っている」











”帰ってきた早々なぜ主が忍に肩をかさねばらなん”




帰ってきた、と。