水 バルコニーの風は少し冷たかった。 「ねえ、雷覇さん」 「はい」 「この前、紅麗とね」 「はい」 「人の身体について話をしたんです」 「エッチな話ですか」 ぼくが茶化すと、紅という女性は少し笑ってから続けた。 「人の身体はおよそ60%が水、という話になって」 「ええ」 「そうしたら紅麗が、だから自分は炎だからみんなを蒸発させてしまうのだろうか、って」 彼女は少し目を伏せて、にがく微笑った。 「それで貴女はなんと」 「恥かしくて言えないわ」 「やっぱりエッチな話になったんですね」 「雷覇さんはどうしてもその方向に持っていって欲しいんですね」 「ぼくだって健全な男の子ですから」 「あら、おいくつ?」 「恥かしくて言えないわー」 彼女はまた可笑しそうに笑ったから、ぼくはとりあえず安心する。 彼女がにがく微笑った表情など、彼に見せたらどんな顔をするだろう。 彼はきっと誰にも見せないように悲しい顔をするだろう。 だからぼくは彼女を笑わせなければいけない。 彼のために。 バルコニーから屋敷の中に繋がる扉の向こう、彼が見えた。 ぼくらの姿を確認すると、廊下をこちらへ進んでくる。 ふと傍らの少女の表情から笑みが消えた。 「雷覇さん」 声は囁き声だ。 「どうか紅麗をお守りください」 バルコニーの扉が開いた。 「ここにいたのか」 「紅麗様、こんばんわ」 「ああ」 「紅麗、ほら、今日は月が満月なのよ」 いつの間にか彼女は何もなかったように笑っていた。 「ああ。・・・おまえは部屋に戻れ」 「あらどうして。ふたりだけでお話?」 「そうですとも。紅麗様とぼくとでエッチな話をするんです」 「雷覇」 「そうなの。それじゃあ私は行かないと」 くすくすと声をもらしながら彼女が窓の桟を離れると、 彼は屋敷へ戻る扉を開いたまま押さえていた。 二人はすれ違いざまに視線を交わす。 「具合は」 「平気よ」 「そうか。薄着はするな」 「うん。おやすみなさい」 彼女はぼくにも手を振って、おやすみなさいと言った。 「はい、おやすみなさいませ」 ぼくは笑ってそう返して、彼と一緒に彼女の背中を見送った。 彼はずっと扉をおさえていた。 「何か御用でしたか。紅麗様」 扉を閉じて、外に出てきた。 彼女が云ったとおりの満月を少し見上げて、すぐに闇を見つめた。 彼は何も言わなかった。 「あなたの話をしていたんですよ」 彼は視線を寄越すことさえしなかった。 けれど意識がこちらへ向いたのはなんとなくわかった。 「昨日あなたとエッチな話をしたって」 睨まれた。 「ああはい。それは冗談なんですけど。はずかしいと言って、 教えてくださいませんでした」 「そうか」 「何の話をなさったんです?」 「おまえには関係ない」 「やっぱりエッチなことなんだ!」 もっと睨まれた。 彼は黙ったまま暗闇に視線をうつした。 屋敷を取り囲む人工の森には音がない。 そこにあって、彼の声は闇と馴染むような静けさを持っていた。 けれど凛としている。 「人間の身体について話した」 「・・・それは、エッチな話ですか」 ぼくは本日二度目のボケをかましたが、いよいよ燃やされそうだったので 「申し訳ございません」と加えた。 黙ってしまうかと思ったが、意外にも彼は続けた。 「人の身体は60%以上が水でできているという話になった」 「ええ」 「だから私が燃やせば、いとも簡単に消えるのだとそんな具合のことを言った」 彼はゆっくりと視線を左腕におとした。 「それで、紅さまはなんと」 「・・・」 一瞬の間があった。 「自分はのこる、と」 声音がわずかに穏やかさを帯びた気がした。 「のこる?」 「私の炎は骨まで燃やすと聞いたが、それでも自分は、なんとして残る、と」 彼女がはずかしいからといって教えてくれなかった話の続きとは、 この言葉がまさにそれなのだろう。 目に眩しく、耳に痛いほど初々しい。 「ところで紅麗様、先ほど具合をお尋ねになっていらっしゃいましたが?」 「最近眩暈がするらしい」 「少しお疲れなのかもしれませんね」 「そうだな」 「看にいってさしあげてはいかがですか」 「ああ」 彼は桟を離れ、扉を開いた。 「おやすみなさいませ紅麗様」 「おまえも休め。今夜は冷える」 彼はそう言い置いて中に戻った。 ぼくはしばらく笑顔で やがて苦笑で いつしか祈るように指を組んでいた。 ぼくは、彼女の身体に埋め込まれたいびつな機械のことを知っている。 おそらく眩暈があるのもその所為だ。 胸の異物が脳への血流をさまたげているのだろう。 彼女は、異物のことを知っているのだろうか。 知っているならば、知っていながら「平気よ」と笑ったのだろうか。 「どうか紅麗をお守りください」 解っていたのだ。 胸の爆弾も それで紅麗さまが脅迫されることも 自分が殺されることも 紅麗さまが悲しむことも なにもかも だからぼくに彼を託した。 それから数日後、最悪の日はおとずれる。 彼女の命が消えるその一瞬 ぼくは生涯ではじめて、主以外の人間の命令に誓いをたてた。 「どうか紅麗をお守りください」 そして彼女は宣誓のとおり、彼の炎に燃やし尽くされても たしかに残った。 「私の炎は骨まで燃やすと聞いたが、それでも自分はなんとして残る、と」 ただひとつ、今でも気にかかることがある。 彼は、彼女の宣誓のあと なんと云ったのだろうか。 「人の身体はだいたい60%が水でできているんですって」 「だから・・・私は炎だから、みなを蒸発させてしまうのだろうか」 「あなたの炎は、骨まで燃やすとお聞きしましたけれど」 「ああ」 「わたしは、それでもわたしは・・・なんとしてものこります」 「それなら、ずっと一緒にいられるな」 back