その女とは、しゃべったことはなかった。
いや、あるか。一度だけ。

しばらく前に、級長のその女はHRが終わると寝ていた俺の席にやってきて
つついた。

「あ?」
「体育祭の日、来ますか?」
「サボる」
「わかりました。じゃあ100m走に名前だけ書いておくので」

ぺこりと頭をさげると、教卓の周りにたむろしてる連中にまざった。
黒板には体育祭の競技名がかかれてた。

それだけだ。
俺は「さ」と「ぼ」と「る」しか云ってないわけだけら、会話とは云えない。
けっこう美人な女子だった。



我も彼も皆 中坊



ある夜
携帯の時計をみると8時をまわっていた。
腹が空いたし金もないので家にあるカップラーメンでも食おうと思いながら歩いていた。

そういやインスタントはヤキソバしかねーや、と気づく。
ヤキソバは気分じゃないけど仕方ねぇか、と思う。
そういや冷蔵庫にコーラ入ってたな、と思う。
炭酸ヌけてんだろーな、と思う。
炭酸ヌててもまぁまぁウメェしな、と思う。
やっぱ帰るか、と思う。
無人の道で、等間隔の外灯の間を歩く。

アパート街(ボロいアパートがやたらと立ち並んだ一帯がある)にさしかかったとき、
道の先で喧騒をきいた。
会話ほどの音量だが、この静けさのなかでは騒々しく聞こえる。
構わず進む。
5つほど先の外灯の下にようやく見えたのは、数人の男に囲まれる山吹の制服の女子だ。



そういえば、級長のあの女はたしか生徒会長でもある。

生徒会はそれほど活発でないらしいうちの学校でも行事などまともに
やってとりあえず世間体が保てているのは、かの敏腕生徒会長がいるから
だと誰もが言っていた、気がする。千石あたりが言ってたことだから信用ならねえけど。
真面目に仕事をしているから、生徒会長自身が真面目な生徒であっても下校
はおのずとおそくなるのは予想できることで、
加えて美人であるがためにナンパなどにでくわすこともあるだろう。



女は身体を強張らせていた。
男のひとりが彼女の肩を掴んでいる。
男の笑みは下卑ていて気色悪い。
女は肩をひいてその手を払う。
たいして強くはらったわけでもないのに男は頭にきたらしく、強引に女の髪を掴んで引いた。
間髪いれずに、鈍く音を立てて白い頬がはたかれた。

で、

髪を掴む男の手首を思い切り掴んだのは俺だ。

裏拳いっぱつ。これも俺だ。

男はぐるりと半回転して倒れた。
女も突然髪をはなされた反動でその場にくずれる。
振り返り、

顔をあげた女と目が克ち合う。

赤くなった頬
潤んだ目
唇がわなないている

別に、なんとも思わない。







それなら、俺はなにやってんだ
その場の女以外のものを殴りながら思う。


あ今おもいっきりやりすぎた、死んだか?
お、生きてる
しぶてぇな、死ね
んだよ、うるせぇな
こっちはイラついてんだよ



ごすっ



突然、
目の前にいた男が一瞬の残像をのこして、俺の視界からきえた。
殴ろうとはしていたけれどまだ殴ってない。
そいつは俺の足元につっぷして、夕立で作られた水溜りに膝を浸けていた。
女のカバンがそいつの横っ面をぶんなぐった、らしい。

残りの奴らを殴り倒したところで、会長に向きなおった。
頬が少しはれていた。

「・・・おまえ」

名前はたしか、

なんとなく覚えていた。



「あく・・・亜久津くん、こんばんは」
「・・・」
「怪我、ない?」
「一発もあたってねぇの見てなかったのかよ」
「あ、・・・ああ、そうね。そう。はやくてよく見えなくて。怪我なくてよかった」
「どっちかつーと、あんた」
「え?」

頬を指差す。

「はれてんぞ」
「え?・・・そういえばすご、痛」

そう言いながらへらへら笑っている。
気が動転しているだけかもしれない。

殴った時に留め具がはずれたらしく、ひらいたままののカバンからは
センチュリー英和辞典(厚さ5cm)と、ロイヤル英文法(厚さ4cm)が
とび出していた。相当の遠心力が期待できる。

・・・さすが敏腕生徒会長。


へらっと笑ったままのの口から血が垂れた。
「おい。血出てんぞ」
「え?」


は顎を伝って落ちる血を手で拭って「鼻血!」と叫び、上を向いた。
バカだコイツ

「ちげーよ、口ん中切れてんだよ」
「口?中?ど、どうしようっ・・・うう、鉄の味ィ・・・」

対処に困って仕舞いにはまた上を向いた。

「鼻血じゃねぇっつーの」

俺は呆れてひとつ息を落としてから、血を吐くように促した。
は慌ててカバンの中からポーチを探り出して、丁寧にもポケットティッシュに
血を吐き出した。

そしてその血を見てまた青ざめるのだから手におえない。

「血の味ヤだねぇ」
「知るか」

は新しいティッシュを取って、


喰った。


しばらくもごもご口を動かし、唐突に左の頬が膨れた。
ティッシュを口の中で傷にあてているらしい。
ハムスターみてェ
呆れた。

「あふふふん、あひはほうへ。わはひほふ」
「ティッシュ出してからしゃべれ」

そのとき、道の向こうから人の声が聞こえた。

倒れた連中の財布から札を素早く拝借してその場を逃げた。
は動けないままだ。
ぼうっとして、人の声がする闇を見ている。

「バカかおまえ、生徒会長だろ!」

被害者にせよ、暴力沙汰に関与したと知れれば立場が悪くなるのは明らかだ。
は俺の声を聞いて、慌てて辞書と文法書をカバンに放り込むと、俺のあとに続いた。






駅前まで来たところで、いくらか裕福になった俺の金での頬にはるシップと
紙テープを買った。
はたいして何も言わず、俺のあとをずっとついてきていた。
俺も何も言わなかった。
はっきりいえば、話すことなどなかったのだ。
接点は体育祭の競技を決めるときのあの会話だけだ。
それでもはついてくる。
道を行く大人たちは、オレの髪とのスカート丈を見比べて目を丸くしていた。
校則違反と校則模範。
の頬は腫れているものだから、大人たちは『荒れる若者』について邪推しているのだろう。

だから、人がいない方へいない方へすすんできて、住宅街のなかの小さな公園までやってきていた。

時間が時間だけに、誰の気配も無い。
21時をまわる。

は血だらけになったティッシュを口から出して捨てた。
俺がベンチに座るとも座った。

端と、端に。

間が持たないからさっき買ったシップを取り出し、渡す。
はシップのシールを剥がすのに悪戦苦闘する。
見れば、手が震えていた。
生っ白い、細い手だ。
人を殴ったことなんてはじめてだったのだろう、手だ。

「貸せ」

シップを貼ってやった。



貼っているとき顔と距離が近かったから。
だから
なんとなく



痛むのと反対の頬にキスをした。
別に意味はない。
は、痛いと一言つぶやいただけで、へらへら笑うので今度は唇にくれてやった。
今度は痛いとも言わなかった。

「帰らなくていいのかよ。優等生だろ」
「いいよ」
「・・・じゃあ飯食うか?」
「食う」

奴は何度も頷いた。

嬉しそうに。



24時間営業のファミレスで、
奴はドリンクバーとオムライスと、デザートにパフェを頼んだ。
噛む度に頬が痛いと嘆いていた。

奴がトイレに行った隙に、ドリンクバーの中身を
コーラとコーヒーとジンジャーエールとなっちゃんとファンタのミックスに
摩り替えてみた。
戻ってきた奴にそれとなく勧めると、簡単に飲んだ。
色で気づけ。
奴はキレて、俺がとっておいたエビを奪って喰った。

喰いながら、ご機嫌をうかがうように俺の顔をちらちら見やがる。
俺がなんも言わないと、
「あの、それじゃ」
かわりに―――といってパフェの上にのっていた苺をフォークに刺して
寄越した。

へらへら笑っていて、こっちまで笑える。
俺は実際に笑ったりはしなかったけれど

「なんかね、ヒーローみたいだった。ケンカ」
「そのあと金取るヒーローはいねぇだろ」
「悪人だね。なんであの人たち殴ってくれたの?」
「知らね」

それは本当にわからない。

「ケンカ好き?」
「めんどくせーのは嫌いだ」
「でもすごい世話焼きね。ほら」

奴は自分の頬のシップを示した。
そういえば、"俺が"やってやったのだ。
ついでに、確かキスまでした。
千石のようだ、と思いかえして嫌悪におちいる。

「どうしたの?」
「別に」
「うん」

は俺の顔を眺めながらまた笑った。
綺麗に笑うくせに
人懐っこい感じだ。
千石がへらへら笑っているとむかつくがこれは違う、気がする。

「楽しいねぇ」
は奇怪な色をした飲み物をストローでくるくるかき回した。
氷が小さく音を立てる。
「あは。もしかしなくても楽しいのわたしだけ?」
が殴ったのはウケた」
「ああ、そう。すごい遠心力かかっちゃって。バシーン!!って。あっイデデッ」

笑いながら頬を押さえた。
、とはじめて呼んだことにも気づいてない。

は始終へらへら笑っていた。

嬉しそうに。









「じゃ、もう帰るね」
ファミレスを出たところでが云った。

「あぁ」

は少し先へ出てくるりと振り返って頭を下げる。
両手は前にそろえてカバンを持っている。
シャツのボタンは一番上までとまっている。
スカートは膝の少し上。
靴下は紺のハイソックス。
磨かれたローファー。
優等生以外の何者でもない。
頬のシップはういていた。

「ありがとうございました、いろいろ」
「あぁ」

似合わない。
夜遅くにファミレスにいるのもそうだし、
俺といることなど不似合いの最たるものだ。

俺は、携帯をもっているだろうか、と半ば関係ないことを考えていた。
千石菌がうつっている気がしてゾッとした。

「ありがとうついでに」
「あ?」
「携帯おしえてもらっても…いいですか」

とか云うものだから、俺は面食らった。

「別に」

嫌じゃない。

千石みたくうざったくなるほどかけてくる奴でもないだろうし。
顧問のジジィみたく小言をいってくるわけでもないだろう。
部活出ろ、という地味連中でもない。
頭に花もない。渦巻きもない。
語尾も正常だ。
だから別に…

ここまで考えて、無理に理由付けをているようでアホらしくなった。

ディスプレイを起こして番号を表示してからさっさと渡す。
はこれだけでも笑う。
そしてすぐに頬が痛いと嘆いた。

最新だ、と騒いで物珍しそうに俺の携帯を眺める。

「お金あるんだ」
「まあな」
「托鉢はほどほどにね」

たくはつの意味を俺は知らない。やはりつりあわない。

「…よし。次はアドレスを拝見」

勝手にボタンを押していくがやがて首を傾げ始める。

「あれ…えーと。どこのボタンかしら」
「よこせ」

素早く奪い、アドレスを表示させてから再び渡す。
一瞬驚いた顔をされた。
自分でも驚いて、悔しくなる。

「早くやれ」
「あ、うん、ごめんね」

慌てて指を動かしていた。



「えーと・・・これで、@docomoね、了解。ハイ」

携帯がかえってきた瞬間、手が触わる。
微弱な電流でもうけたようにひっこんだ細い指を見て、
俺は少し自惚れたことを思っていた。

「ありがとう。じゃあ、帰るね」
「ああ」
「うん、それじゃ」

手は遠ざかった。

早足に離れていく姿を見るのはやめて反対方向に歩く。

俺の家はこっちだからだ。

見れば、タバコは残り一本で途中で買おうと思った。

あの女はタバコは嫌いそうだと勝手に思った。

否応も無く、あの女が気に入ったのだと思い知る。



「あくつくーん!」

かなりはなれたところから突然叫ばれた。
は携帯を頭上にかざして
「あっ、あとでっ、あとでメールするねー!」
と云った。
すぐに「イデッ」と頬を押さえた。





「ばかじゃねーの」
再び早足に逃げていくその背に、絶対に聞こえない音量で呟いた。














家の一番近いコンビニが見えてきた頃、携帯が震えた。

『新着メール 1件』

1行目に携帯の番号が書いてあった。

2行目に告られた。







タバコと、あとキスミントを買って帰った。