三日続いた雨がいっとき止み、貴重な晴れ間がのぞいたころ、間もなくニズの自警団との折衝があるというのにテュオハリムの姿が見当たらない。宮殿の召使いや兵士に頼めば快く引き受けてもらえるものを、アルフェンという男は自ら廊下を走り回ってテュオハリムを探していた。
キサラやロウのところかもしれないと、二人が最近足しげく通う修練場に顔をだした。
探し人の姿は見当たらなかったが、キサラがいた。
「キサラ、どこかでテュオハリムを」
と言いかけて止める。
なにやらキサラの前に行列ができている。先頭の男が突然ひざまずいた。キサラに何か伝えている。まるでプロポーズみたいな光景だ。
「あれな。最近いつもなんだよ」
いつの間にかロウが横に並んで同じ方を向いていた。タオルで汗をふきふき、あきれた様子で言う。
「あれ全部、告ってんの」
「ええ!?」
「“おまえのそういう軽いところはよくないぞ。これが兄さんならなんちゃらかんちゃら”つって、一人残らずミキゥダと比較されて突っぱねられているらしいけど。キサラがぼこぼこにするたびに列が長くなってんだよ。そういうのが好きなお国柄なのかな」
「強い女をいい女とする文化は、しかり」
ロウの横にさらに宰相が汗をふきふき立っていた。アルフェンはびっくりしたが
「そういうもん?」
と、ロウは友達みたいな口をきく。
「そういうもんだな」
「じゃさ、孤島で一番強いのって誰?やっぱあんたか」
「姫様に決まっとろうが」
「嘘だろ!あんなに弱っちそうなのに」
「権力込みで、という意味でしょう」
自分の腕の横から今度はシオンが顔を出す。「わ!」と驚いたのはやはりアルフェンだけだ。
アルフェンが曲がりなりにもダナの代表として奔走している間に、仲間たちはかの国とずいぶん親しい関係を築いていたらしい。
「ああそういう。じゃ、ゲンコツだったら?そしたらおっさんだろ!」
宰相は胸を張り
「さよう、何を隠そうこの儂が…といいたいところだが、中の近衛だな」
「誰だそれ。左の近衛が女みたいな刀のにーちゃんだろ、赤毛の槍が右ので、もう一人いんの」
「孤島にな。一番おっかないから置いてきた」
「まじか!やりあってみてえ。っだめだ、わくわくしてきた。おっさんもう一試合やろうぜ」
「俺も」まぜてくれと言いかけて、あ!と思い出す。
「どうしたのよ急に」
「テュオハリム!ニズ!時間!」
「テュオハリムならさっき噴水のところでリンウェルと一緒にいるのを見かけたけど」
「ありがとうシオン!それから、絶対むこうの兵士をぼこぼこにしないでくれー!」
叫び声で言い置いて噴水まで最高速度で走った。
玄関広間に向かうテュオハリムの背中を見つけた。と同時に遠ざかるリンウェルの背中も横目に見つけた。
「テュオハリム、ニ、ニズ、ニズ、げほ…」
「ニズの者たちは到着が少し遅れるそうだが。その様子はなにごとかね」
「え」
大きく上下していた肩ががくりと落ちる。
「ふむ、まあいい。先に会談の間へ行こう」
腑に落ちないものを感じつつ気を取り直して歩き出す。
「リンウェルに用事だったのか」
「少々借り物をしていてね。返したところだ」
きっと骨董品の本とかだろう、そう思ったアルフェンだ。まさか極秘裏にに着せたレインコートを返したとは想像も及ばない。もちろんリンウェルの想像も及ばず、テュオハリムが着たと思ってえもいわれぬ表情を向けられてきたところだ。
ニズの自警団が到着し、首府の再建方針が話し合われた。
必要とされるのは華美でなく、粗末でもない、実用に耐える住居。この点はすでにかの国の技術協力が大いに助けとなってうまく運んでいるとおもったが、なぜか自警団の代表は顔色を曇らせている。
「心配ごとがあるのか」
アルフェンが親身になって尋ねると、あいまいに首をかしげた。
「いや…孤島の職人さんたちはとてもよくしてくれています。王命だと口をそろえていってね。ある人なんて休憩時間にうちの娘に人形の家まで作ってくれたんですよ。…しかしあまりにもうまくいきすぎる。だからなにか悪いたくらみがあるんじゃないだろうかとみんな不安がって。うちはほら、アウメドラの件があったもんだから」






不安がるほどうまくいっているミハグサールとは反対に、次にやってきたレネギスの名門連合との会議は大いに紛糾した。名門連合がだいぶ時間をオーバーして退室すると、さらに別の、また別の、また。
とっぷりと日が暮れたころ、ヴィスキントの夜景は窓の雨粒でにじみはじめていた。
アルフェンは大きく伸びをする。
「ようやく途切れたな。こんな時間だけど飯、どうだ」
テュオハリムは渡された報告書を見つめる姿勢のまま応答がない。かといって、文字を読んでいるようにも見えなかった。ただ一点、紙の上の虚空を見つめている。
「テュオハリム」
肩を叩いてようやく顔があがった。
年上に言うのもへんだが、なんだかあどけない。
「大丈夫か」
「ああ、すまない。なんの話だったか」
「めし食べようかって。それだけ」
「ふむ。私はもう少しここで仕事をしていくから、先に行きたまえ」
「食べない気がする」
テュオハリムは軽く目を見開いた。
「俺は、正直に言えば外交の大局なんて全然わからない。やれるだけ考えてみるけど、俺以上に一生懸命考えて、一番上手にやるのはいつもテュオハリムだ。できることと言ったら、友達が飯も食わず倒れる前に食堂に引っ張っていくことくらいだよ」
「…」
「飯に行こう。この時間じゃ料理人もいないだろうからよかったら俺が何か作るよ」
「君の料理は夜中に食べるものではない」
テュオハリムはかるく笑って立ち上がった。

人々が寝静まった夜の宮殿は静かなものだ。
吹き抜けの天井のガラスを弱い雨が叩く音と自分たちの靴音だけが聞こえる。
歩きながらテュオハリムはまた虚空を見つめ始めた。疲れているのだろう。会話はあきらめたが、やがてテュオハリムのほうからぽつ、と口を開いた。
「私は、いそがしいだろう」
「うん?」
そのとおりだが妙な物言いだ。
「いそがしい。やらなければならないことがたくさんある」
「うん」
「“メナンシア4個分、プラス、レネギス”。いやメナンシアの四乗かけるレネギスくらいかもしれない。かの国の出現なぞ足せばいいのか引けばいいのかもわからない。私が一歩踏み外せば戦争だ。そのうえ踏み出す先は闇の中ときている」
テュオハリムの言葉は滔々としてやまない。
「レナとダナ、融和を求める同胞と隔絶を求める同胞の同士討ち、この大地バーサスかの孤島。どれも起こりうる。人がたくさん死ぬ。深刻だ。責任は極めて重大だ」
「テュオハリム、もしかして体調がかなりその…、ヤバいのか」
「間違えれば取り返しがつかない大事業の中で、重大な責任を負う中で、私は…人ともわからないひとに魅入られはじめていると思う」
アルフェンは足をとめた。
すこし先でテュオハリムも立ち止まる。
「自分のことを馬鹿だ馬鹿だと思ってはいたが、よもやここまでとは、あまつここに至ってとは、思わなかった」
「…」
「…すまない、血迷ったことを言った。忘れてくれたまえ。心配はいらない。務めは果たす。やると決めた務めだ」
話を切り上げてテュオハリムは歩き出した。
あとがついてこなくて振り返る。

「俺は世界が滅ぶかどうかというときに人を好きになったよ」




***




テュオハリムがアルフェンのことをときどき「アルフェン先輩」と呼ぶようになったころ、リンウェルは領将の元私室、すなわち悪い王様の部屋に招かれていた。
招いたのは、先日憑き物が落ちたテュオハリムだ。
運び込んだ猫足の長机にはリンウェルが詠唱に使う書物がずらりと並べられ、にその本の内容や成り立ちを一つずつ説明していく。それがテュオハリムに頼まれた今日のリンウェルの仕事だった。
“悪い王様”への猜疑心と、領立ダナ博物館の説明係を任されたような使命感とが戦いあって、使命感の高揚が勝ってここに来たが、いざとなるとリンウェルはひどく緊張した。
「えと、えと、こ、こっちは星ノ秘術っていう本で、代々私の家にあって、星霊術の最初に覚えるものとかが…。あ、でも、私の一族しか読めないから、すみません…。じ、じゃあこっちはあの、銀剣の梟っていう本で、」
テュオハリムはだんだんとリンウェルに申し訳ないことをしてしまったという思いがしてきた。
警備を考えて宮殿の外に出ようとしないを少しでも楽しませようと、またリンウェルと語り合った博物館の夢の最初の一歩にもなるだろうと考え、政務の合間を縫って実行に移したわけだが、リンウェルはまだ十代半ばの少女なのだ。知識と熱意が十分でも、初対面の国賓級の大人に順序だてて説明する練習などしてきていない。
が熱心にリンウェルの声に耳を傾けるからこそ、生真面目なリンウェルはプレッシャーにおしつぶされていく。小さな言い間違えを几帳面に何度も言い直しては顔を真っ赤にしていく姿を見かね、テュオハリムがリンウェルの肩をそっと叩こうとした、そのときだった。
「“銀剣の梟“は、あなたのお友達について書かれた本なのですか」
「え」
リンウェルは固まり、はにこにこしてリンウェルの、その頭の後ろに向かって首をかしげる。
「これはあなたのおはなし?」
フルルはリンウェルを心配してフードから顔をだしていたが、と目が合うとさっと髪の中に隠れた。
「あいらしや。お名前は」
「フ、フルル、ていいます」
「ふふるる」
「フルル」
「フルル」
はゆっくりとうなずいた。
「じっとおとなしくして、いい子」
「すごく怖がりだから、ですから」
「そう。いつもはどこで暮らしているのでしょう」
「いつもこの帽子。この帽子じゃないとだめみたいで、この前なんてせっかくかわいいレインコートを買っておでかけしたのに、慣れてないからずっと震えてて」
「そう。そうなの」
一歩下がって二人の様子を眺め、テュオハリムはの手練手管に感心する。
リンウェルは徐々にいつもの利発さを取り戻し、銀剣の梟の本に話をもどした。
「それで、これは、その…弱きを助ける勇敢なフクロウが主人公のお話で、空を飛ぶ姿が銀色に見えたから銀剣って呼ばれたの」
「フルルの翼はきれいな白ですから、陽の光をあびて銀色の勇者に見えることもあるかもしれませんね」
「そうだよフルル。もっと勇気を出さないと」
フルルは余計なお世話とばかり不満げに鳴いたが、なかなかいい調子である。
「こちらの黒い本と表紙が似ていますが続きでしょうか」
「ううん、こっちは“漆黒の翼”っていうんだ。もっと年代が古いみたいでいつ書かれたものなのかも誰が書いたのかもわからないの。勇者がフクロウと松明の力をかりて悪い王様を退治するはな、し…で…」
きゅうにリンウェルの背に後ろめたいものが見え隠れしはじめる。
はリンウェルが口ごもった理由は知るまいが、開いたページにちょうど悪い王様の国にそびえる黒々とした火山の挿絵があったからリンウェルはさらにばつが悪いようだ。
「…この形」
が見とがめ、リンウェルははっきりと慌てだす。
「これは、よくある山の絵!」
今日はよく晴れていて、獣の爪をかたどったような岩山群が城壁の向こうにくっきりと見えている。
は挿絵を見つめて短く思案し、門番をしていた左の近衛を室内に呼び寄せた。
「君に見せると何かわかるのかね」
「貴様には関係ない」
テュオハリムには常に殺気を向ける男だが、一見女のような綺麗な横顔が本をのぞき込もうと近づくと、リンウェルは顔を赤くしてのけぞった。

は本当に“悪い王様”かもしれない。
左の近衛からその可能性が示唆された。学問の家系の出自で、孤島の歴史書の編纂にも長く携わっていたという男曰く、孤島のいにしえの歴史書にも別の世界に転移したと解釈できる奇妙な記述があるのだそうだ。
思わぬ大発見にリンウェルは興奮し、テュオハリムとて身を乗り出して聞いたものだが、孤島の人々は大きな動揺もなく受け止めていた。そういうことなら植物や病原体に共通性があることに一層納得がゆくと、そんな程度だった。
「この人のご先祖様が悪い王様!本物!すごい、すごい、実話がもとになってたんだ。ただのおとぎばなしじゃなかった!すごい!ほんもの…!」
童話の悪い王様と重ねて忌避していたはずがいまにもにサインをねだらんばかりである。
説が正しいならば、のご先祖は血気盛んにダナに侵攻した人物だと思うが、童話の由来を目の前にしてあまりその点は気にならないらしい。

後日、リンウェルはから一冊の本を贈られた。ずいぶんと大きな本で、リンウェルが受け取るとよろめくほどだった。装丁も凝っている。
「これはなに?」
「お礼です」とは言うが、リンウェルには何か贈った覚えがない。
「あなたの貴重な蔵書を見せてくださった。説明もとても丁寧で、おもしろかった。ありがとう」
言葉の意味を理解して、リンウェルははにかんだ。
本のことばかりでなく、もしかしたらはあの日のレインコートの持ち主がリンウェルだと気づいたのかもしれないとテュオハリムは思ったが、いまは黙って二人のやりとりを見守った。
リンウェルの指が表紙の文字をなぞる。
「タイトルからもう読めないんだけど、私に読めるかな。これはなんの本なの」
「王立博物館の図録集です。叶うことならば孤島の博物館にお招きしたかったのですけれど、難しいでしょうから」
「おうりつはくぶつかん!?」
リンウェルは本をがばと開いて食い入るように所蔵品の図録を読み始めた。
の公務の時間が迫り部屋から出されてからも「これをもらった」「このページを見て」とアルフェンたちに自慢してまわった。自慢するだけでなく驚くべきことに図録の説明を読みたいあまり、二、三日のうちに少し孤島の文字が読めるようになっていたから若者の熱意とはすさまじい。

さらに後日、今度はリンウェルからにプレゼントが贈られた。ファニーなブウサギの絵柄が入った街で人気のマグカップだそうだ。
はたいそう喜んで「毎日使います」と言い、実際、毎日使った。



シスロディアとガナスハロスの代表が退室した会議場で、アルフェンは二領連名の要望書とにらめっこし、きつく腕をしぼった。
「フォランド山脈をどうにかしてって言われてもなあ。これはさすがに」
「…」
「でも確かに、あの山道を行き来させるのは大変だし危ないし」
「…」
「かといって山を切り崩して街道を整備するなんて、孤島の力を借りられたとしても何十年もかかるだろうし、いっそ海路とかのほうが」
「あの二人の様子、古い本、マグカップ…」
「マグ…?テュオハリム、なにかいい案が思いついたのか」
「なるほど」
長く思案にふけっていたかと思えば急にアルフェンの横でなるほどした。



「というわけで、リンウェルにならって先日、様に私の自慢の骨董茶碗展を開いてきた」
久しぶりに仲間がそろった食事の場でテュオハリムがした満足げな報告に、全員の食事の手がとまる。
アルフェンの脳裏に、野営地で朗々と“骨董品の内なる声“を聞かされたときの皆の表情がよぎった。
誰も返事をしない。
会食の間が急に冷え込んできた。
アルフェンはなんとか温めにかかる。
「そ、そうか。喜んでもらえたならよかったな」
「うむ。終始にこにこして黙って熱心に耳を傾けておられた。すべて説明しおわったのは夜中になったほどだ」
「嫌われるわよ」
シオンの冷酷な銃が自信満々の顔に水鉄砲を浴びせる。
「失敬な」
「嫌われます」
キサラの鉄壁の大盾が横っ面をぶんなぐった。




***





テュオハリムが骨董屋で買ってキサラに怒られた30万ガルドの古代ダナの遺物よりも、リンウェルが露店で300ガルドで買った馬鹿げた柄のマグカップのほうがに喜ばれている。その事実には内心釈然としないものを感じながらも、市井のひとにとってのありふれたものやことに興味をそそられるというのはわからぬでもない。
テュオハリムは、ありふれた、陽の光の下の散歩に誘ってみることにした。

「よい」
「…」
「お忙しいでしょう」
このにこにこ顔は手ごわいが想定内だ。こちらにも用意がある。
慈悲深い女の前でうつむいて目を伏せ、自らの腕を抱く。
「すまない、考えてみれば断られて当然だ。小賢しくもサインの簡略形を新たに編み出して、ともに過ごす時間を作ろうとした。哀れな男と笑ってくれてかまわない」
かくして、の背に手を当てて外を歩く時間を得たわけだが、ヴィスキントの街を闊歩することはさすがにできない。宮殿を華やかに取り囲む噴水や花壇を見て回るのがせいぜいだ。
それでもかまわなかった。
陽光のもとでの白い肌は透きとおり、そのまま光にとけて儚くきえるように思われるのは惚れた弱みというやつだろう。後ろから左の近衛が殺気を燃やしてついてくるのも気にならない。
そこにアルフェンとロウが通りかかり、修練場に誘われたのは想定外だった。

孤島が現れてより五か月。アウテリーナ宮殿に併設された修練場はすっかり人気スポットになっていた。
受付前には修練の相手を探してレナとダナと孤島の腕自慢たちが入り乱れ、汗のにおいと、兵士たちの熱気に満ち満ちていた。今も奥から怒号がごとき歓声と木剣のかち合う音が聞こえている。
「ふむ、姫君との散歩にはぴったりの場所だな」
すまない、本当にすまない、ロウの口を覆うのが間に合わなかった
アルフェンは表情だけで器用にテュオハリムに謝る。
「しかし、しばらく来ないうちにここもずいぶん活気が増した」
熱狂して、孤島の王とテュオハリムがいることにも気づかないほどだから。
「だろ」とロウは物知り顔で胸を張る。
「孤島の兵士連中が非番のときにここにきてストレス発散してんのさ」
「張り合いのある相手が増えてこちらの猛者たちも集まっているというわけか。おや、あの行列はなにかね。…先頭にいるのはキサラか」
「ありゃもう修練場の観光名所みたいなもんだよ」
「どういうことかね」
ロウがテュオハリムに観光名所の説明をはじめると、アルフェンはこの雰囲気のなかにぽつねんとたたずむ小さな娘が気にかかった。
手を前にそろえてじっと立ったまま動かない。孤島の人は顔の作りが実年齢より幼く見える。は体のつくりまで小柄だから余計に子供のように見えて、こんな場所に連れてきてしまった負い目がアルフェンをさいなんだ。
「少し怖い?」
カラグリアのちびっこにそうしたように膝をついて視線をあわせる。
は何度か瞬きをして、口角をあげて見せた。首を横に振る。それがまた、子供が大人に気をつかって笑ったように見えて心が痛む。
「あれは喧嘩とかじゃなくて鍛錬だから、大丈夫だよ」
励ますように小さな白い手をにぎってゆらす、とその上から褐色の長い指がついと触れ、の手を絡めとった。
「わたしのフィアンセを誘惑しないでもらえるかね」
「わ、悪い!決してそんなつもりじゃ」
「さて、姫君と私がここにいると知れては兵士たちも鍛錬に身が入らないだろう。騒ぎになる前にそろそろお暇する」
テュオハリムがきびすを返したときだった。
「もはや我慢ならぬ!」
左の近衛がめらめらと怒りの炎に身をやつし鬼の形相で扉の前に立ちふさがった。
テュオハリムの前に一文字に鞘を突き出す。
「剣を抜け!おのれテュオハリム・イルルケリス、卑劣にも姫様のご厚情につけいり、身の程もわきまえぬ非礼の数々目に余る!いまここで私と勝負しろ!」
「ふむ」
腕組みして嫉妬に狂う男を見おろす。
「受けて立とう」
「いざ!」

「許さぬ」

ぴしゃりと言ったのはだった。
大きな声ではなかったが、修練場は水を打ったように静まり返る。
はき、と左近をにらみ、凛然たる声で告げた。

「王の立つ地のその民に刃を向けるは王に向けるも同じ。右近」
「はいはい」

キサラ行列の先頭を粘り強く陣取っていた右の近衛がひょこひょことやってきた。

「左近が鞘を払えば斬りなさい」
「はい」

左近は突き出していた鞘をがくりとおろし、膝をついた。
うなだれ、四つん這いで震える左近がアルフェンにはなんだかかわいそうに見えてきた。歩み寄って左近の肩をそっと叩く。
「立てるか」
突然ぐわと鬼の形相が持ち上がった。
「おまえがやれ」
「え?」
あっという間に襟巻きをつかまれ引き寄せられる。
「おまえがあいつと戦え!」
「ええ!?」
指さす先はテュオハリム。
「やい喧嘩か!」
「祭りか!」
なにごとかとギャラリーが集まりだし、あれよあれよという間にアルフェンはテュオハリムとともに修練場の奥に押し込まれ、野太い歓声に取り囲まれた。
「待て待て待て、待ってくれ。わけがわからない。なんで俺がテュオハリムと戦うんだ」
「私゛が 戦゛え゛な゛い゛が ら゛だ」
左近が歯を食いしばって答える。
「いやそういうことじゃなくて!テュオハリムからも言ってやってくれ」
「アルフェンに勝ったら引き続き私が様のフィアンセということでいいのかね」
「いやあんたまで何言ってんだ。もし俺が勝ったら、だって俺にはシオンがっ」
「ほう、もう私に勝つ気でいる」
「わっ目が青い!」
こうなったら誰でもいい。アルフェンは自分をこの輪から解放してくれそうな人物の名前を手当たり次第に叫んだ。
「ロウ!」
ロウは観客にまじって盛り上がっている。
「キサラ!」
キサラはまだ行列につかまっている。
「お姫様!」
お姫様は困っている。横に立つ右近がに尋ねた。
「あれも斬っときます?」
「あれは…ダナの方ですから…」
「勝ったほうが姫のフィアンセだそうでーす」
「全力で行かせてもらおう」
途端に顕現した棍の長いこと。




***




テュオハリムが全力で勝ちに行き、アルフェンが全力で負けにいった試合が大ブーイングで幕をとじてからしばらくしたころ、テュオハリムは宰相に呼び出された。
椅子にどっかと腰かけた大男は、つるりと光る頭をふかぶかと下げた。
「儂のおらぬうちに、左の近衛が無礼を働いたと聞きおよんだ。お詫び申しあげる」
「いや、こちらこそお詫びする。私が姫君を宮殿の外にお連れしなければあのような騒ぎにまきこんでしまうこともなかった」
「それはそう」
顔をあげ、威圧するように目玉をぎょろりと剥いた。すぐに豪快に笑う。
「なんてな。かまわぬ。警備なぞに気を遣わずにもっとおもてに出ればよろしいと、儂は常々そう思うておる。姫を表に出さぬのではなく表に出なさる姫を守るのが近衛どもの役じゃ。それを中の近衛があんまり過保護にするから姫が刷り込まれて、まったく…」
「中の近衛」
「ああ、いい。まあ、孤島にそういうのがおるというだけ」
煙たがるように手をふり、話を切り替えようとするから余計テュオハリムには気にかかる。言い方から察するに、ほかの近衛よりもとねんごろな間柄であるように思われた。
「それは…」
唇だけが先に動いて、いちど、声にならなかった。
「うん?」
「……どのような男だろう」
宰相は目と鼻をまん丸にひらいてから、わっと笑った。
膝を打ち
「や、これは失敬。貴殿がお若いことを忘れておった。政をするときはいかにも老獪なやり口で上手に押しとおすから、てっきりいまも婚約なぞ本気にしていないものかと」
とやはり笑われ、テュオハリムにしてはめずらしく恥ずかしくなった。
笑いの余韻をまだのこし「まあやれるだけがんばりなさいよ」と他人事のように言った。
女王の貞操の危機とは思わないのだろうか。あるいはテュオハリムの努力がやがて無に帰すと知っているようにも聞こえる。意中のひとが他にいるとか。中の近衛という名がよぎったが、これ以上の醜態を人前にさらせるほどの人格は持ち合わせておらず、口を閉ざした。
宰相はこのテュオハリムを憐れむように眺めて、ひじ掛けに頬杖をした。
「姫様がこの地に来たのは阿呆どもが戦をおっぱじめないためだ。やたらと技術協力をさせたのも、能力の倫理的な活かし方を示そうとした。そう簡単に考えをかえる連中じゃないと進言はしたが…、それはともかく、当初、姫は孤島のことしか頭になかったことはまちがいない」
「…」
「しかし、儂が見るに、途中から思いがけず愉快になってしまったんじゃないかと思う。孤島ではこうも馴れ馴れしく無礼を働かれることはありえぬからな」
「…」
「案外貴殿の攻勢とてきいているやもしれぬぞ。孤島の王の歴史を紐解くと攻めれば百戦して負けなしだが、どうも守りで乱れることがある」
「戦の話だが」と付け加えた。
「こちらには姫に恋慕したとて逢引きにさそえる者などおりゃあせん」
「そういうものだろうか」
「孤島の王とはそういうものだ」






は朝のジラーヌ樹海に立っていた。
赤髪の右の近衛は樹海に続く坂まではついてきたが、そこからはひらひら手を振って二人を見送ってくれた。
「かまわないのかね」
「俺が付いて行っちゃあ、姫様がかまうでしょ」
テュオハリムが少し目を見開いてに視線をおくると、ほぼ同時に顔を逸らした。
「守護はよろしくお願いしますよ」
の後頭部を見つめたまま、無言でうなずいた。

異様に大きく育った植物の葉脈をめずらしそうに触り、
たまった朝露を指さして「あれはなんでしょうか」と尋ねられ、
隙間のあいた吊り橋をにこにこして渡り、しかし渡り終えて握った手は冷たく少し震えていた。
樹上から降ってきたズーグルにおどろき、外というのはおもしろいなとテュオハリムは子供みたいなことを、表情には出さず、思った。
植物に擬態したズーグルを棍のひと薙ぎで転ばせとどめを刺そうとすると、ゆるしてやってほしいというから、ぽいと蹴って下層におとした。
「ありがとう」
「お安いご用だ。ほかにも願いがあればぜひ聞きたいものだな」
「民の安寧」
「もっと愚かな」
「もうかなえてくださった。もう十分」
てごわい。

「あなたは」

見上げて問われ、しばらく言葉がでなかった。
はじめてから個人的な、他愛もないことを聞かれた気がしたのだ。

「あなたの願いごとはなんですか」

言われたまま素直に頭の中に探しに行くと、の艶姿より先に、握手をして笑うレナとダナより先に、遺物博物館より先に、友の顔がうかんだ。




***





あの日のジラーヌ樹海の問いかけに
「フォランド山脈の街道開通」
と答えてから幾日か過ぎたころ、ガナスハロスの自警団から届いた陳情書には、ほとんど子供のような年齢のダナ人たちが身売りをさせられていると書かれていた。
その二日後、レネギスの老人たちが集団で自決をはかったとの報が入った。未遂に食い止められたが、ダナとの共生を拒んでのことだった。
その夜にはカラグリアの過激派が、レネギスの変容で孤児となった子供たちを人質にとり、施設に立てこもる事件が起きた。要求はすべてのレナ人のカラグリアからの排斥。
シスロディアの元“蛇の目”の活躍で子供たちは助け出され、怪我をしていた者は待機していたシオンと有志のレナ人が素早く治癒術を施した。おかげで人質に死者はなかった。事件の首謀者は三分の二がその場で殺された。
百人に尋ねて百人が大成功だと喜ぶ結果だろう。…ひとり、衆目から隠れてすすり泣く首謀者の親がいる。兄妹が、恋人が、友がいる。この怨嗟もやがてめぐる。
フィアリエを思い出した。
完全無欠の王に問いたくなった。
君ならなんとした、と。

疲労困憊のまま元私室をたずねると、にしてはきびしい顔をしてテュオハリムに自分の寝室へ帰るようすすめた。無視をして押し入った。今日の門番は左右の近衛ではなかったことが幸いした。
人質事件で孤島はなんの口出しも手出しもしなかった。レナとダナの言い争いは王命だといってとりもつのに、レナとダナの殺し合いには関与しない。興味がないのだ。
自国の民の侵攻を防ぐ、はそのただ一念をいまも一途に貫いている。余念はない。
果実酒のグラスを木卓に一度置いて、頭の痛みに眉間をおさえる。
「もうお休みになられたほうがいい」
正しい指摘だ。無視をする。
「楽譜に興味がおありかね」
ブウサギ柄のマグカップの横には、テュオハリムの書架にあった譜面が開いて置かれ、はいままでこれを眺めていたと知れた。まえに自由にとって読んでいいと言った。
反対側から見たってわかる。アバキールがよく練習で弾いていた曲だ。変な弾き方をしてみなを笑わせた。思い出の曲が頭の中でひびきだす。
やさしく笑った顔が今日ばかりは憎らしい。
「…孤島の譜面とはだいぶ違うと思って見ていました」
「一度そちらの音楽も聴いてみたいものだ。なにか楽器は」
首を横に振った。
「では少しやってみたまえ」
やや強引に言って立ち上がりガラスケースに向かうと、「いいえ」と静かな声が引き留めた。
「いけません」
「それも慣習かね?」
挑発するように言ったのにはまじめに首を横に振った。
「それはあなたの大切なもの」
「誰かから何か吹き込まれたようだな」
「なにも聞いていません。古いもので、たくさん使われていたあとがあります。今は手も触れない。でも大切にとってあります。だから」
「名推理だ」

「なにかのあてつけのようにわたくしに触らせてはいけない」

強く優しい言葉に返せず、長く黙り込んだあと、背を向けたままテュオハリムが言った。唇の端からこぼすような声になった。

「友達と演奏した」
「ではまた、その日まで」

「来ない」

「…」
「一人死んだ。私が殺した」

さなぎとも友達になれなかった生き物にはわかるまい。
完全無欠の王にはわかるまい。
その背後の書架に四重奏の楽譜ばかり並ぶ愚かさが。
怒っていた肩から努めて力を抜き、一つ息を整えた。

「友達と仲直りもできそうにない人間が、三百年間の仲たがいをつなげようとしている」

君がやれ!そう叫んで捨てたくなった。
きっと私よりうまくやる。
でも私がやる。
叫びを喉の奥に圧し戻す。
「すまない」

左手を、細い指がぎゅっと握った。

振りむくと、うつむいて、目をみはって、こまって、唇を一文字に引き結んで頬を固くしている人がいる。
「…なにをして」
思わず問うと、もっとこまった顔をして、ただ手を強く握ってきた。
さなぎと友達になりそこねたような生き物は、孤高の王は、人を本気で励まさなくてはならない状況に陥ったことなどこれがはじめてだったに違いない。

こつん、とひたいが背に触れた。

「…あなたに、とりいろうと」

突如として那由他に広がる星の海に放り出されたような感覚があった。
直後にテュオハリムの全身の細胞が覚醒する。
しめった指も、髪がわかれてのぞいたきりの首も、頭から丸ごと食ってやりたい凶暴な衝動にかられた。
体を正面に向け、冷たい頬に手をそわせる。
ははっとして顔をあげ、思い出したように頬を赤くした。
顔を寄せると慌てて一歩下がった。一歩近づく。
また一歩下がられ、テュオハリムはの太ももの間に膝をいれるほど近づいた。
ついにが寝台に膝の裏を打って倒れこむまであと半歩というところでノックの音がわりこんだ。
「姫様、お話し中のところ申し訳ありません。宰相閣下がお話があるとのことです。開けてもよろしいでしょうか」

「よい」
「よくない」
「よいっ!」






宰相と入れ替わりにテュオハリムが部屋をでてきてしばらく、彼はその場で深く目をつむり、少し上を向いて、じっとしていた。
孤島の門番とメナンシアの門番が不思議そうにテュオハリムを見上げる。
「あの、テュオハリム様、どうなさったんです?」
「かみしめている…」




***





翌日、底が抜けたような青空の下、ヴィスキントの街のあちこちから黒い煙があがった。
怒号、悲鳴、何かが崩れる音がした。金属の合する甲高い音が聞こえる。
会議場に伝令は転ぶように飛び込んできた。
「なにごとだ」
「孤島の兵隊がっ、突然襲い掛かってきて」
テュオハリムは椅子を倒して無言で立ち上がる。
「…」
「城にいた連中はいま街中で暴れています!」
「アウテリーナ宮の警備をすべて解除する。戦えるものは民を守れ」
「俺たちも行こう」
アルフェンとテュオハリムが宮殿の脇から外に出ると、すぐに仲間たちが駆け寄ってきた。一様に混乱を隠せないまま街に駈け出そうとしたとき、ふいにテュオハリムが足をとめた。
「テュオハリム」
棍を握るテュオハリムはアウテリーナ宮殿を見据えていた。兵士が出払ったアウテリーナ宮殿は不気味なほどに静かに、美しく、そこに鎮座している。
テュオハリムが玄関広間に向かって歩き出し、アルフェンとキサラもうんとうなずきあってあとを追う。

扉をくぐった先に、左右の近衛を従えてが立っていた。
アルフェンたちを見やって、王はほの暗い笑みを浮かべた。
「これは一体どういうことなんだ!」
アルフェンが思わず叫んだ声は高い天井に残響した。静謐な空間にの声もよくとおった。
「演算が済みました。もといた場所に戻ります」
「戻る…!?戻るって…、でも、なぜそれでメナンシアを攻撃することになる」
「兵たちにもう好きに殺してよいと伝えた。ここばかりではありません、五領すべてで。よい発散になろう」
「なに!」
「右近、左近」
よびかけを号令に長槍と刀がの前で交差したかと思うと、もの凄い速度で飛び掛かってきた。
激しく火花が散った。
アルフェンが剣で左近の刀を受け止め、キサラが大盾で右近の槍撃を防いだ。修練場とは比べ物にならない、殺意のこもった一撃に腕がしびれる。二人のうしろでテュオハリムは沈黙して動かない。
ロウが素早く前に飛び出すが、盾の表面をはしった槍はその勢いのままロウの脇腹を薙ぎ払った。
「うおっ」
思わず声をあげてロウが後ろに飛びすさる。服の前垂れは半ばまで切られた。
さらにシオンとリンウェルの援護が加わっても二人の近衛は寸んでのところですべてかわして、間髪を入れず攻めてくるからアルフェンも言葉をはさむ隙がない。
「テュオハリム!」
やっとのことでそれだけ叫ぶと、その男は大理石の床に優雅な一歩を踏み出した。
その目が、足が、迷いなく向かう先がであるとわかると、左の近衛はバネのように地面を蹴って身をひるがえしテュオハリムの背中に斬りかかった。
振り下ろした刀は奇岩と合した。
麗しきアウテリーナ宮の大理石から獣の爪がごとき大岩がそそり立ち、二人だけをその中にとじこめていた。

真っ暗な中にテュオハリムの眼だけが蒼くひかっていた。
そのわずかな明るみでをじっと見た。
「見え透いたことをする」
「…」
体を寄せると胸の間に細い腕がつかえた。
「悪しき王は力を合わせたレナとダナに追い払われる。それからというものレナとダナは仲良く暮らしました。めでたし、めでたし。置き土産のつもりか」
外から、岩を破壊しようとする音がする。
振動する岩との頭との間に手を差し入れた。
「無駄なこと、みなすぐに気づく。君の臣民たちが我々にしたことを忘れたわけではあるまい。あのむやみやたらな親切を」
「…」
亀裂が走る音がした。
「私に、これから先ずっと、あの馬鹿げた柄のマグカップを見て君の遺物だと愛でろと言うのかっ」
「…ごめんなさい」
こわばる頬で正しい笑顔を作れなかったは、テュオハリムの腕に手を重ね、そっと下ろさせた。
「わたくしは王です。王の道を選ばなければならない」
二人を包んでいた岩が粉々に砕け散った。
の姿を探し、土煙の中から見上げた二階の手すりの上に、見たこともない老婆がをかたく抱いて立っていた。
老婆たれども生気は隆々として、猛禽のような眼でテュオハリムを一瞥した。それから腕の中のに視線を落とし、やけに優しい声をだす。
「姫様、中の近衛ばばが参りましたよ。さあ、参りましょう、さあ」
言うなり天窓を突き破って跳躍し、右近と左近もあとについて疾風のように姿を消した。
ヴィスキントが鬨の声をあげた頃、他領の首府もまたレナとダナとが力をあわせ孤島の兵を圧倒し始めていた。
レナは星霊術で、ダナはフライパンと農具を振り上げて勇猛果敢に立ち向かい、ついに海岸線まで乱暴な兵隊たちを追い詰めた。
海には大艦隊があって水面を黒く埋め尽くしていたが、放たれた砲弾はすべてレナが星霊術で跳ね返した。思いもよらぬ反撃に動揺したのか、逃げてきた孤島の兵を船内におさめると大慌てで離岸した。しんがりの船が苦し紛れに放った最後の大砲弾は、人々の頭上を大きくそれて遥か遠くの山脈に消えていった。




***





その島は突然に消え去った。
一夜のうちにティスビムに水平線が戻った。
最後の砲弾がフォランド山脈に激突し、どういう技術かしれないが瓦礫も残さず、山道に山崩れも起こさせず、シスロディアとガナスハロスの最短経路を結ぶ平坦な道を作ったと知ったころ、テュオハリムの目測のとおり、かの国の偽悪は五領すべてで暴かれていた。
慌てて転んだ人はいたけれど、フライパンで戦った奥様さえ刀と打ち合って勝ったし、破壊された建物だってもともと半壊していてこれから解体と撤去の重労働が控えていたものだったのだから、気づかないでいられるはずがない。
王の壮大なおせっかいに照れくさく頭をかいて、それからというものダナとレナは互いに手を取り合って……
とは、さすがにいかないが、それでもいっときダナとレナも区別なく協力し、勝利の喜びに思わず抱き合ってジャンプし、あわてて離れたあの瞬間が確かにあった。

「もとからバレるつもりでやったんだろうな」
アウテリーナ宮殿の玄関広間から二階へ続く階段に座り、上を見上げてアルフェンは独り言をつぶやいた。
まもなく修理はおわるだろう。突き破られたあの天窓だけは明らかな損害だ。
孤島のひとびとがいなくなり、アウテリーナ宮は少しひろくなった。
シオンは食堂で残されていた最後のお餅を食べ終えて、からになった皿をしばらく見つめた。
キサラはわずらわしかった行列が消えてせいせいし、静けさに何度か振り返った。
ロウは、修練場の扉を押し開いた先で父が笑う夢を見た。
アルフェンは「いちからやろう」と膝を押して立ち上がった。
ミハグサールの壊れた家々をあっという間に建て直してくれる腕自慢たちはもういない。カラグリアで言い争いをするレナとダナをいさめて椅子に座らせる官吏もいない。それはもともと自分たちの力でやらなければならなかったことだ。
やると決めていたことだ。
なんだか闘志さえ湧いてきた。

唯一、テュオハリムのことが気がかりだった。

テュオハリムは元私室に近寄らなくなった。マグカップは愛でるどころか視界に入れることもできず、雨の夜には悲しくなった。
なまじ顔がいいだけに彼の悲嘆は誰の目にも明らかだったが、テュオハリム・イルルケリスという男は依然、有能であった。
各首府のインフラ整備計画は恐るべき速度でまとまり、自警団のなかから役割ごとに責任者が任命され、適切な労働管理がなされるか客観的に評価する一団まで組織された。
各地で自律的に動き始め、テュオハリムは多少楽になった、とはいかないのがつらいところだ。問題はまだまだ山積みだ。テュオハリムの手腕をもってしてもあと十年は片付きそうにない。
結婚に反対していたテュオハリム様親衛隊の女性たちですら、一凛の濡れた花のようになってしまったテュオハリムを憐れみ始めたころ、リンウェルは、彼をはげまそうと仲間が集った会食の間で突然、爆発するように言った。
「私は帰ってくるとおもう!」
本をわきに抱えてテュオハリムをきっとにらんだ。
「帰ってくるもん!」
「リンウェル…」
アルフェンは優しい声をかける。リンウェルは興奮して今にも泣きだしそうに見えたのだ。
これに対し、テュオハリムはスプーンを暖かいスープにさしいれたまま動かず、テーブルクロスを見ているからリンウェルはアルフェンを振り切った。両手で本を開く。
漆黒の翼のおはなしだ。
悪い王様の国にそびえる巨大な火山が黒々と描かれている。
「この時代には異次元同士をくっつけまわっているあの研究員はいなかったもん」
フルルが突然フードの中から顔をあげた。
「それなのに悪い王様は大昔にここに来たんだもん」
フルルは目を見開いた。
「だから絶対、孤島は自力でこっちに来られるんだもんっ!」
フルルは狂ったようにリンウェルのまわりを飛びはじめた。その尋常でない様子にはリンウェルも思わず勢いをそがれる。
「え、なに、ちょっとフルル…」
そういうリンウェルもはたとして目を瞠り、宙をみた。
「…星霊たちがびっくりしてる」



かの島は突然に現れた。
ティスビムの人々は囲った海に稚魚を放流する手をとめて、姿を変えた水平線に、わっと笑って顔を見合わせた。
おおあわてで迎えの小舟を漕ぎ出して、けれどどういうことかいくら漕いでも孤島にはちっとも近づけない。大船団もやってこない。
しかし、忽然とが宝物庫に現れた。
「あれは時空のゆがみによる蜃気楼。アウテリーナ宮殿のこことわたくしの城の居室をつなげる技術を開発した。安定しています。次元をつなげた状態を王のいる地とするかどうかはいま議会が話し合って決めています」
まじめな顔でわけのわからないことを言い、それからテュオハリムにむかって深く腰を折った。
謝り、ここに戻れるかどうかはわからなかった、と言った。
では行かなければよかったとテュオハリムが言うと、これには謝罪の言葉は紡がず、は背筋を起こした。

故郷の星空を民から奪うことはできない。
そしてわたくしはまたあなたに会いたかった。
これが王の道です






もどかしくも周りに制され互いに支度をすませると、テュオハリムはイルルケリス家の最正装で赤じゅうたんを走って孤島の最正装に身を包んだとだきあった。口づけて、左の近衛はその場で卒倒し、アウテリーナ宮殿で盛大なパーティーがはじまった。

料理は街の人が次々に運んでくるし、異次元からも来るし、キサラの行列は過去最長を記録するし、ロウは宰相と相撲をはじめるし、音楽はかけつけたテュオハリムの友だちが精いっぱいに弾くし、秘密の杜から飛んできたたくさんのフクロウたちが眠気もこらえて青空を羽ばたいた。
フィアリエは震える手で弦をおさえ、必死に笑って祝いの曲を弾くから、テュオハリムは壇上から降りて、一度フィアリエを抱きしめた。「戻りなさい」と鼻水交じりの声でつきはなされて、音楽が続く。
めちゃくちゃな式次第でも大いに盛り上がり、アルフェンは心からお祝いしていたはずだったが、いつのまにか主役の二人が消えていることに気が付いた。

城の中を探しに行くと、元領将の私室の前に、扉を守るようにキサラと右の近衛が立っていた。
どうやら二人は中らしい。
「おーい!ここにいたんだな」と手をあげ駆け寄ると
「こほん」
と咳払いをされた。
キサラは、首をかしげるアルフェンをちらりと見、逸らし、小声でいう。

「その、ついさきほど、テュオハリムが姫君を抱えるようにして…、こう、切羽詰まった様子で」

朴念仁のアルフェンもこの時ばかりは鋭く了解した。世界を救う最終決戦のあとに自分にも身におぼえがあった。
回れ右して帰ろうとしたとき、後ろの扉が音をたてて開いた。

「まさか、早すぎる!」

アルフェンの目にあられもない二人の姿が飛び込んできた。
イルルケリス家の最正装は前が大きくはだけ、装飾の紐は変な形でたわみ、なん箇所か引きちぎったような断面をみせている。その後ろのは幾重にも重なる襟が無理やりに引っ張られた様子で頭の先までせり上がり、しかし抜けず、その上からずれた重い帯が絡まって身動きがとれなくなっている。
獣のような目をしたテュオハリムが、肩で息するあいまに口をひらいた。

「服を、脱がせてくれたまえ」



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