勝手にモーツアルト解説 |
ロイトゲープという人物
ホルン協奏曲第1番はヨーゼフ・ロイトゲープ Joseph Leitgeb (1732-1811)のために作曲されたとする説が最も有力とされています。モーツアルトのホルン協奏曲は第1番〜第4番までありますが、第1番が最も新しく、モーツアルトの死の直前に書かれたものとされています。これは、完成したかどうか不明で、見つかった原稿が一部未完成であったので、後世の人が補筆し完成したもので遺作となっています。特に有名なのが、ジュスマイヤー版で、ジュスマイヤーが未完の第2楽章ロンドを完成させました。妻コンスタンツェ
Constanze Mozart (1762-1842) がロイトゲープへのために完成させたとも言われています。なぜこれほどまでに妻は完成を急いだのでしょう。実は、ロイトゲープはモーツアルト家にとって大切な援助者であったからです。表向きは名ホルン奏者兼ヴァイオリン奏者ですが、彼は実業家でチーズ商人でもあったのです。陽に陰にモーツアルトを援助したといわれています。愛称は「のろまなロバ」で、モーツアルトがつけました。モーツアルトより22歳年上で、このホルン協奏曲を書いていたころは、ロイトゲープは60歳近い歳をとっています。したがって、曲の内容もロイトゲープに合わせたかのように平易で易しい曲になっています。数あるホルン協奏曲の中で、世界で一番愛されているといっても過言ではないでしょう。今まで妻コンスタンツェは悪妻とされていましたが、現在は良妻賢母の見本であるされています。(絵は Constanze) |
交響曲第39番・第40番・第41番の謎
交響曲39番・40番・41番は短期間のうちに作られました。第39番1788年6月26日、第40番1788年7月25日、第41番1788年8月10日で、場所はウイーンです。これらの作品が作られた目的や、演奏記録が不明確です。どうも、第40番の改訂版が作られ、それらに関わる情報から、第40番だけは生前に演奏された可能性が高いのです。演奏されたのは1791年4月16日と17日の2日間で、場所はウイーンと推測されています。これ以外にも演奏された形跡が残されています。他の2曲の演奏の情報はありません。モーツアルトは1791年12月5日ウィーンにて35歳の若さで逝去します。この三大交響曲が完成してから3年後ということになります。そうすると、この3年間は経済的に苦しかったことが多く語られていますので、金にならない大きな仕事をなぜしたのかが一番疑問に残るのです。父ヨーハン・ゲオルク・レオポルト・モーツァルト Johann
Georg Leopold Mozart (1719-1787)は、金銭的なことには厳しい目で見ていたようですが、これらの作品はちょうど父が逝去してから1年後に作られているのです。個人的に解釈すれば、モーツアルトは金銭面を度外視して、これらの交響曲を作ったのではないか。父の呪縛から解き放たれ、自分の一番やりたかったことを成し遂げたのではないかと推察します。第39番は「優しさ・平安」、第40番は「激しさ・苦悩」、第41番は「力強さ・理想」。人生の縮図を表現しているかのようです。この後は、交響曲を作っていません。有名な「魔笛」は友人のエマヌエル・シカネーダー Emanuel
Schikaneder (1751-1812)が、生活苦のモーツアルトにオペラの音楽の制作を依頼します。フランツ・フォン・ヴァルゼック伯爵から依頼された「レクイエム」は未完成でしたが、ジュスマイアーが補筆完成させます。この大きな二つの作品でモーツアルト家は生活をつなぐことができたといわれています。(絵はSchikaneder) |
ピアノ協奏曲第20番とベートーベン
このピアノ協奏曲はベートーベンに強烈な印象を与えた一つです。この曲の特徴は、モーツアルト作曲のピアノ協奏曲27曲のうち短調の曲が第20番二短調と第24番ハ短調で、第20番は第1楽章の二短調の暗いイメージから始まり、第2楽章は変ロ長調の中間部にト短調を挿入し緊張感を持たせ、第3楽章は二短調から始まりコーダ部分でニ長調に転調して明るい曲想で力強く終わります。全体的に「暗から明」への変化が際立っています。ベートーベンはこの手法を、交響曲第5番と第9番に取り入れます。ベートーベンにとって節目となる重要な曲に取り入れたのです。ベートーベン交響曲9曲のうち、短調は第5番と第9番だけです。ところで、ベートーベンは第20番のカデンツァを残しています。この曲に相当心酔していたようです。(絵は若い頃のBeethoven) |
ピアノソナタ第14番とベートーベン
ピアノソナタ18曲中短調曲は、第14番ハ短調と第8番イ短調の2曲です。この第14番は1784年に完成し、フォン・トラットナー夫人に献呈されています。現代の人が聴けばごく普通の曲に聞こえますが、モーツアルトの曲中最も激しく展開する内容で、劇的です。当時の曲としては異例の激しさだったようです。ベートーベンはこの曲の影響を強く受けた一人で、三大ピアノソナタ第8番(悲愴)・第14番(月光)・第23番(熱情)に強く表れています。その他として、1785年に幻想曲ハ短調K475と組で「ピアノフォルテのための幻想曲とソナタ」として発刊されたので、現在では、幻想曲と第14番を連続して演奏されるようになったといわれています。 |
アイネ・クライネ・ナハトムジーク
アイネ・クライネ・ナハトムジーク Eine kleine
Nachtmusik ト長調 K525は、セレナーデ最後の第13番で、標題音楽です。この題名はモーツアルト自身が作り出したもので、直訳ですと女性形の「小さな夜の曲」という意味です。この曲がどんな目的で作られたのかが謎とされていますし、また、第5楽章まであったとされているのです。とにかく、モーツアルトと言えばアイネ・クライネというように、モーツアルトの代名詞になってしまったほどの超人気曲です。 |
トルコ行進曲
1783年頃にピアノソナタ第11番が作曲されたとされ、第3楽章がRondo Alla Turcaになっています。よって、後世の人々はこれを「モーツアルトのトルコ行進曲」と命名し、単独で弾かれることが多くなりました。この曲はトルコのリズムを用いたとされています。当時はトルコブームで結構流行っていたらしいのです。トルコというのは厳密には間違いでオスマン帝国が正しく、オスマン帝国の行進曲が現代の行進曲の起源ともいわれています。オスマン帝国の楽曲は太鼓等の打楽器がリズムを構成しています。モーツアルトのこの曲も低音部で打楽器を模倣しています。オスマン帝国の楽曲と比較すると、やはり西洋風の音楽の香りが強いですね。 |
モーツアルトの死因
1791年12月5日逝去。ウィーン市の記録では急性粟粒熱(ぞくりゅうねつ)とされていますが、1485年に登場しオーストリア周辺では1551年以降大発生は起きていません。イギリスの1578年の発生が最後となります。したがって、実際の死因はリューマチ熱であったと考えられています。リューマチに罹ったのは幼少期で、馬車での旅が原因ではないかとされていて、これよりも有力な説は出ていません。リューマチ熱とは、A群溶連菌に感染して後1〜3週間に生じる全身性の非化膿性疾患の一つである。特徴として結合織の炎症が関節、心臓、血管、神経等を冒すとされる。特に心臓では弁膜、心内外膜、心筋が好発部位であり、5〜15歳が好発年齢である。(リューマチ熱 原典:ウィキペディア) |
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