天狗の松

又の名は

(小判の松 ・ コバの松)の寓話

(テスト版)

 

 

 

このスケッチは2008.12.2現在の「松の根っこ」です

この松の根っこは、枯れていますが朽ちてはいません。根っこから推定すると、根元では直径3メートルに円周率を掛けるとおおよそ10メートルの周囲を持った大木が想像されます。地上2−3メートルでも周囲6メートル前後と推定されます (ちょっと大きすぎるかな!)。又その根の張り具合周囲への広がり方から直立した松でなく枝が横に大きく張った威風な姿だったことも想像できます。この松は、標高420メートルの稜線の鞍部(コル)にあります。

長年の風雪により、現在はその面影を根っこに残すだけとなっています。

 

物語はこの「松の根っこ」から過去にと出発します

 

この物語は、多くの人に取材をし、それらの話の中から組み立てたフィクションです。取材で語られた内容は誰も目にしたものでなく、すべてが断片的な伝説であり寓話です。

しかし、伝説にしろ寓話にしろ、そこにはそれを実証する真実の瞬間があったはずです。たとえば、イソップにある「ウサギとカメ」の寓話のように、当然勝つべきウサギが負けたということは、油断をして失敗をしたという真実の瞬間があったからこそ生まれたのだと思います。

 

 

序章

それは遠い昔のことでした。

その村の人たちは、夏はお米を作り冬は炭焼きをして生活していました。ある冬の出来事です。その村人は、その日も炭の原材料のクヌギの木を伐採するために奥山を登っていました。すると山の頂上付近から「ドン、ドン、トン、 トン・・・・」なにやら太鼓のような音がしてきたのです。

その方角には、それはそれは巨大な大きな枝ぶりの松が立っていました。しかも3本も。

それらは当然村人が住む里からも視認できました。どうやら太鼓らしいその音はその巨大な松の方角から聞こえてくるようです。

その巨大な松は「コバの松」と呼んでいました。その辺を「コバ」と呼んでいたからです。村人は、吸い寄せられるようにそのコバの松を目指して山を駆け上って行きました。

やがて、村人がコバの松に近づくとピタッとその太鼓らしき音が鳴り止んだのです。

コバの松はいつものように稜線を横断する風を受けながら悠然と立っていただけでした。

村人は首をかしげながら仕事の続きをしようと山道をくだりはじめました。すると又「ドン、ドン、トン、トン・・・・」太鼓らしき音が聞こえ出しました。

「何の音だろう、どうも気になる音だのう」

ひとりごちた村人は又音のするコバの松に向かって登り始めたのです。コバの松に近づくと又先ほどと同じようにピタッと音が鳴り止んだのです。そんなことを数回繰り返しているうちに、あたりが夕闇に染まってきました。

「今日は仕事にならんかったのう」

村人は里に降りて行きました。

                                                        

 

この話の時代を探ります。

 

まず、今の集落の長老は

「わしが子どもの頃、さぁ10歳ぐらいだったと思うが、遊び連中とこの松を見に行った。そのときは立ってはいたが、緑色の葉はなかったように思う。もう枯れておった」。

この証言から、この「コバの松」は75年前には 立ってはいたが枯れていたことが分かります。

私より少し年長の人は「子どもの頃見たときは少し緑が残っていた記憶がする」。という、証言もあります。しかし、この巨大な松のそばには、あと巨大な2本の松があ ったとの、別の人の証言から、その松と見間違っているかもしれない。

又、その付近で鉱脈らしきものを趣味で探索していた人の重要な証言として、40数年前にその松を教えられ見たとき、今は亡き同伴者の山の木に詳しい人が、その枯れ松を見て、「この松は300年・・・いや500年・・・ひょっとして800年も生きていたと思う」と語っていたという。

また、伝説の中に狩猟の鉄砲が出てくるのですが、火縄銃では狩猟ができるかな、近代の村田式猟銃と思ったが。

 

(余計な話------>>)

この村田銃は私の祖父が猟師をしていて雨の日はいつも整備して、そのそばによっていってしかられたことを覚えている。明確に覚えているのは、薬莢の雷管を交換していた。今で言えば薬莢のリサイクルである。撃発の際に雷管が撃針で叩かれる衝撃により、火花が飛び散り薬莢内部の発射薬を燃焼させ、その圧力で弾丸を発射するのであるが、雷管は使い捨てのため、ペンチのような工具で雷管を取り替えていた。

又、弾丸は、鉄の小皿をコンロのようなもので暖め、棒状の鉛を溶かすと直径1センチぐらいの球になる。実包薬莢の作り方は、まず雷管を交換する。薬莢に 天秤で量って火薬を入れる。火薬がこぼれないように紙を詰める。次に弾丸を入れる。弾丸がこぼれないように紙を詰める。これをバンド型のホルスターに差し込んで持ち歩く。散弾の場合は、鉛弾丸の代わりに、鉛の仁丹粒のようなものを紙に包んで薬莢に入れる。おそらく4−5歳ぐらいの話であるが、猟期の雨の日はしかられながらそばで見ていた。したがって当時その原理は理解していた 少年でした(?)。

ここで問題はその村田式銃ををいつ手に入れたかであるが、明治5年(1873)に、治郎兵衛(私から数えて五代前)50歳の人が「軄銃猟業御願」届けを出して、許可されている文書が現存して入るが、村田銃ができたのは明治13年(1880)とすれば、治郎兵衛が使っていた銃は火縄銃か?。

 (<<------余計な話終わり)

 

だったら、この物語に出てくる鉄砲というのは火縄銃かもしれない。

又、この物語には小判が出てくる。小判が使用されたのは江戸時代、慶弔小判(1601)〜万延元年(1860)である。

そして、主役の松が巨大な威容を誇る姿になるには少なくとも200年は要するであろう。又75年前はすでに枯れていた。ただ威容な形は残っていた。

火縄銃を使った寓話に「ごん狐」がある。(ごんぎつねは、新美南吉作の児童文学)この物語は、江戸末期から明治にかけてぐらいと推定されている。

一方、この集落の町史から炭焼きが盛んになったのは1821−1845年の文書に炭の取引の条約などがみられ、その中に先祖の長と思われる茂兵衛、治郎兵衛等の名前が見られる。又、この物語に出てくる山伏についても悪徳山伏が横行し、取締りの文書 の記述もみられる。この時代は村全焼の記録もあり、商工は盛んだった半面不安定な時代でもあった。

それらから総合的に判断すれば、今の段階ではおおよそ200年前、1800年代の天保・弘化・嘉永・安政・万延・文久時代であろうと推定している。

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そして・・・

忠次郎さんは、夕食のときにその不思議な話を女房のマツさんに話しをしました。

「そら、お前さん天狗が悪さをしたんだに違いねえ」

「天狗だと?」と、忠次郎さん。

そんな話を伊助さんがしていたのを聞いたことがあると、マツさんは言うのです。

マツさんは村でも情報通です。

忠次郎さんは、新藏さん、治兵衛さん等村の仲間と冬は炭焼や柴刈りをして生計を立てていました。忠次郎さんの焼く炭は品質がよく池田の町でも評判でした。

明日は、その炭焼ガマから炭を出す窯出しと、次の炭を焼くための原木を窯に入れる日だったので早寝をすることとし深くは考えませんでした。

 

翌日は天気もよく朝早くから忠次郎さんとマツさんは山の窯へ出かけました。忠次郎さんが窯の中に入って炭を窯の入り口に出すと窯の外からマツさんが受け取りそばの置き場に立てかけていきます。窯の中は高温で2−3分もたたずに忠次郎さんは飛び出してきます。忠次郎さんの顔はすすと灰にまみれ真っ黒です。頭には頭巾 (ずきん)をかぶり、何枚も古着を重ね縫いをした窯着(かまぎ)を着ています。口と鼻は手ぬぐいを巻いてマスク代わりにしていますが、それも真っ黒です。そばの沢水で顔を冷やし又窯にもぐりこんでいきます。製品として出荷できる炭を出すと、残りはケンケラといわれる火をつけたときの小枝や灰と炭の粉がまぜった素灰 (すばい)を箕(み)ですくって窯の中を掃除します。このケンケラや素灰は忠次郎さんの家の煮炊きや囲炉裏やコタツに使います。

マツさんは、立てかけた炭の音を聞きます。窯の高温から真冬の外気にふれパチパチと音がします。もし、それで炭が割れると品質低下を招き価格は下がります。又、少しでも火が残っていると 炭はいこって(炭に火がつくこと)一晩でみんな灰になってしまいます。

窯の中が空っぽになると、今度は新しく用意してある原木を外からマツさんが窯の中の忠次郎さんに渡し、忠次郎さんは原木を立てかけていきます。隙間は粗朶( そだ・小枝)をつめて窯入れは終わります。その間も何回も窯から飛び出してきて、腰を伸ばしたり汗をぬぐったりしました。

マツさんは、仕事も終わり家に帰ります。

忠次郎さんは引き続き窯に火をつけ窯の中の木に火がついて燃えるまで柴(しば・小枝)をくべ(燃やすこと)続けなければなりません。夜食は準備してきています。

マツさんは、仕事も終わり家に帰ります。もう、夕闇が迫ってくる時刻でした。

 

マツさんの情報集め

マツさんは、昨日の忠次郎さんの話を村の人に聞いてまわりました。

まず、伊助さんの奥さんのスエさんをつかまえ昨日の忠次郎さんの経験を話しました。

「あの人はもう直ぐ帰ってくるで詳しい話は聞いたらええども、なにやら怖い目にあったというとった。」

「なんでも、夜のクド(窯の中の原木を蒸し焼きにするため、火がついたら空気を遮断すること)のことじゃ ったらしいがのぉ」

スエさんが語り始めると、伊助さんが帰ってきました。

「忠兵衛さんが、なにやら不思議なめにあったらしいでの、おめえさんが前にいっとっただろう、ほら、あの夜のこと」

と、スエさんは伊助さんに話しています。

「今日は忠兵衛さんは窯の火付けか、夜通しになるじゃろう。夜食はどうした。」

「今朝、山に行くとき夜の分も握り飯を持っていったのでそれを食べるじゃろ」と、マツさんは言った。

「ほんじゃ、一緒に晩飯でも食うか、今日は与兵衛のやつが雉が獲れたというのでもってきてくれた。これからさばいて雉なべでもするか、マツさん、家に帰って戸締りでもして来い」

と、伊助さんは言いました。

「それじゃ、ちょっくらと帰って風呂さ入ってくるでな、今年は良い葱ができたのでそれを持ってくるわ」

とマツさんはひとまず帰りました。

 

 

 

伊助さんの話

雉なべをつつきながら伊助さんは話し出しました。

昨年のことだったかのぉ。雪の降る寒い晩だった。夜間のクドが終わって山道も危ないと思って、炭小屋で寝ることにしたんじゃ。なにやらの気配で目が覚めたんじゃが、地面は揺れてないのに小屋がゆさゆさと揺れてるんじゃ。妙なのおと思って外に出ると、あたり一面真っ白の雪がただ深深と降っているだけで、風もない静かな晩じゃ。夢を見ているのかなぁと思い、又ムシロをかぶって寝ようとすると、又小屋だけがゆさゆさと揺れるんじゃ。又、起きだして戸をあけて外を見ても風も吹いておらん。そんなことを何回か繰り返すうち、薄気味が悪くなって寝ておれんかった。

あくる日、家に帰って家内のスエに話しただけで、それ以降そんな目にはあっていないのであれは 夢だったかもなぁと思い誰にも話してへん。大体、そんな話をすると、伊助は気が触れたと思われるのが落ちだからのぉ。しかし、忠次郎さんの話も不思議なことじゃなあ。

他にもだれぞ、そんなめにあっとるかも知れんで、聞いてみるだか。

伊助さんも昼の疲れと、お酒も回り寝てしまったので、マツさんはスエさんに礼を言って帰りました。

 

 

新藏さんの話

マツさんは新藏さんをつかまえました。そして、忠次郎さんが経験したことを話しました。

「新藏さんはそんな目にあったことがねえか」と、マツさん。

「忠次郎さんがそんなこというておったか、いや、わしもちょっと妙な怖い目にあったが、今から考えるとそんな事ありえないし、夢だったか、狐にでもだまされたかもしれんと思い黙っていたが・・・」と、新藏さんキセルにタバコを詰めながら話し始めました。

それは、風もない穏やかな昼間だったそうです。

その山は立木を伐採したために太陽が地面いっぱいにあたり一面に笹竹や雑木(ぞうき)が背丈近くになっていました。クヌギ伐採は台木の上から切られていますがそれでも雑木の伸びが速くクヌギの台木からの新芽に十分陽光が差し込まなければ新芽は枯れてしまいます。一度クヌギを伐採すると5−6年は毎年下刈りをして山をきれいにします。

そのクヌギ林の下刈りをしていたときのことだそうです。突然風もないのに周りの笹や雑木がゆれたかと思うとたくさんの小石が飛んできたというのです。新藏さんは何が起こったのかわからず、あわてて地面に身を伏せ難を逃れたそうです。そのことはたった一度きりであったため、不思議なことじゃと思いながらも、誰にも信じてもらえんと思い黙っていたそうです。

「あれはやっぱり狐かタヌキがだましたのかのぅ」しかし、「忠次郎さんも伊助さんも不思議な目にあっておったとは・・・」新藏さんは考え込みました。

「わしが経験したこともまんざら夢でも狐の仕業でもないかもしれん」

 

そして、そのうわさは・・・

数日して、そのうわさは村中に広がっていったのです。

あっちこっちで、太鼓をたたくような音を聞いたとか、歩いていると突然石が横殴りに飛んできたとか、また山小屋で炭の荷造りをしていると大木が倒れたような大きな音がするので飛び出したら、何事もなかったようにあたりはシーンと静まり返ってたとか、うわさに尾ひれがついて、その話で持ちきりになったのです。

「茂兵衛さんが帰ってきたら、みんなで相談しよう。キット茂兵衛さんなら何か知っているだろう」と、新藏さんが言い出しました。

茂兵衛さんというのは、この村の有力者でみんなの信頼を集めている頭領です。今は、数人の配下と共に荷車数台で池田に炭を運んでいました。茂兵衛さんは、池田の炭問屋と、出荷量を決めたり価格の交渉とかをしていました。新藏さんや、忠兵衛さんの炭も茂兵衛さんが集め売りさばいてくれるのです。又、村の人たちは日常生活品の購入も茂兵衛さんに頼みました。茂兵衛さんの配下の者たちが帳面につけそれらを調達して帰りの荷車で運んでくるのです。

又、付近の村でも同じように、炭を焼いたり柴をしたりエネルギー産業をして暮らしていましたので、山の木を切った、切られたとの争いごとも多くありそれらを調整したり、代官に届けたり村の重要な仕事をしている人でした。

そんな茂兵衛さんですから、多くの他所の人たちとの付き合いも広く、知識もあり多くの情報も持っていたのです。

みんな茂兵衛さんの帰りを待っていました。

 

 

一部始終・・・

池田までは、片道8里ほどの山道です。早朝に出発して日暮れまでに到着しなければなりません。途中何箇所か荷車の通らない場所があります。そこは牛の背に乗せ変え運ぶのでとても時間がかかったのです。 そんなこんなで町で商用を果たした茂兵衛さんたちの一向は帰り道に向かっていました。

一度池田に出ると2−3日滞在して所要を済ませます。今回は炭の価格の交渉や、みんなから頼まれた品物の調達などに時間がかかり1週間ぶりの帰り道です。 今回は、商談もうまくいきひときわ帰り道を急ぎます。今は早春で咲く花は梅の花ぐらいですが、もう直ぐ陽光の中、ツツジやヤマザクラ、こぼれ落ちるようなキブシ、藤の花が美しくとても気持ちのいい街道です。

村の峠まで来ると、誰やら手を振っています。よく見ると新藏さんではありませんか。

「おぅ〜い」茂兵衛さ〜ん。新藏さんが両手を振ってかけてきます。

「新藏さん、何かあったのですか」と茂兵衛さんの配下のものがたずねます。

新藏さんは、ハァハァと息を吐きながらこの数日間のことを茂兵衛さんに話しています。配下の者たちは、心配になりました。茂兵衛さんが何も言わず「う〜ん」といったきり何も言わなかったからです。

やがて一向は、峠から村の入り口に着きました。

村の入り口には、多くの村人があっちこっちに固まりになり、不安そうなまなざしで話し合っています。

「みなさん、仕事もせずにどうしたのですか」と、茂兵衛さんは尋ねます。

「新藏から聞かれたでしょう。不思議な出来事を。みんな現実のものと思えなかったので、夢かも知れないと思って黙っていたのですが、忠次郎さんがマツさんに話し、マツさんが尋ね回るとあっちこっちで不思議な怖い目にあった者が大勢いて仕事が手につきません」と村人の一人は茂兵衛さんに言ったのです。

茂兵衛さんは、それに答えず「みなさんから頼まれたものを買ってきましたよ。後で私の家にとりに来てください。いいですか、心配しなくていいから仕事を続けてください。」

村人達は、茂兵衛さんが何も言わないので不満でしたが、茂兵衛さんも何か考えているのだろうと、それぞれの仕事場に引き上げました。

 

 

天狗・・・

茂兵衛さんは、みんなの言うことを無視していたわけではありません。茂兵衛さんは商売や村の代表者として、あっちこっちの村や、代官所に行っていますから、多くの情報を持っていました。新藏さんが言っているのと同じような出来事を聞いてもいました。

それは「天狗の仕業じゃ」というのが多くの人たちの見方でした。しかし、その天狗というのを誰も見たことがないのです。

誰も見たことがないのに、天狗の面妖、服装、行いなど人々は熱く語ってくれるのです。天狗は鼻が長く真っ赤な顔をしている、白髪で長い髪をたらし、その装束はというと頭には頭襟(ときん) と呼ばれる帽子のようなものをつけ、鈴懸(すずかけ)と呼ばれる法衣をまとい、 結袈裟(ゆいげさ) をかけ、腰には法螺貝(ほらがい)と螺緒(かいのお)と呼ばれるザイルのような紐、引敷(ひっしき)と呼ばれる座布団のようなものをぶら下げ、手には羽うちはと錫杖(しゃくじょう)と呼ばれる杖のようなものを持ち、ひと歯の高下駄を履き、背中には空を飛ぶための羽までついているという。

背中の羽、ひと歯の高下駄を除けば山伏の修験者の姿と大差はないのです。(山伏の詳細はネットなどで調べてください)

彼らは、その山伏が死んでよみがえった姿だとか、高度な修業を積んだ山伏とか、いやそれは山の神の化身とかと思っているのです。

誰も見たことがないのですが、それがさも事実であるように、いやみんな事実として捉えているのです。

実は、茂兵衛さんが今困っている問題があったのです。その山伏達が村へ降りてきては村人に食べ物や日常品を無心するのです。村人達は山伏の異様な姿と山で修練しその容貌はまさに鬼のようであるため仕方なく物品を提供していたのです。そればかりか、深編み笠に尺八を持った虚無僧たちも同様に村人を困らせていました。茂兵衛さんたちの村も数年前には大火があり、村のほとんどは焼き尽くされる難に会い決して裕福ではありませんでした。

ただ、それらの山伏や虚無僧は一部の不埒者でほとんどのものは深山幽谷を歩き回り修験を重ねていたのですが・・・。

そんなこんなで、茂兵衛さんも隣の村の仲間達と代官所に取り締まりのお願いや、虚無僧たちのお寺に出向き、実情を述べ交渉をしていました。

 

決断・・・

茂兵衛さんは、みんなを集めて説明しようと思いました。それは、茂兵衛さんの配下の者たちには、天狗のことなど村人に話さないように言っていたのですが、村人が騒げばいずれは尾ひれがついて、話が大きくなりこれ以上山伏とのトラブルは避けたかったのです。

その日は、仕事も終わり村の主だった人たちが茂兵衛さんの家に集まりました。もちろん忠兵衛さんや、伊助さん、新藏さん、与兵衛さんも集まりました。

「皆さん、今日は寒いのにお疲れのところご苦労さん。今日は、皆さんがいろいろ不思議な事件にあったことについて、私が知っていることをお話しようと思って集まってもらいました。」と、茂兵衛さんが切り出しました。

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茂兵衛さんの話・・・(イラストは雨が降ったら描きます)

皆さんが怖い目にあったのはおそらく天狗の仕業と思われます。私も、商売柄あっちこっちの土地に行ったり他国から行商に来た人たちとお話します。皆さんが経験されたことと同じようなことを聞いたことがあります。みんな天狗の悪さだといっていますが、その天狗とやらを誰も見たことがないというのです。

そして、その天狗とやらは、大きな悪さをして村人をびっくりさせたり困らせたりしていますが、人を殺傷したとか、命に危険が及ぶようなことは聞きません。ただ、2-3日つれまわされて気がつくと元の場所にいたという人はいます。

その天狗というのは、誰も見たことがないのにその姿形は詳細に語られています。すなわち、今、皆さんを困らせている一部の悪徳山伏によく似ているのです。空を飛ぶための羽をつけているという話も聞きました。みなさんは山の恵みを受け生計を立てています。山はやさしく皆さんをいつも見守ってくれています。しかし、その反面、山の恐ろしさ、自然界の不思議さ、神秘さなどもよく知っているでしょう。また、山には神様が住んでおられると考えられ祠を作りそこで祀ごとをして、毎日の平穏無事を祈っているでしょう。

そんな山を崇拝し、そこで修業を極める山岳信仰の修験道者を山伏といっていることもご存知と思います。ほとんどの山伏は深山幽谷を歩き回り、又はこもって難行苦行をしている僧です。当然形相も変わり為すことする事が常軌を逸した行動をするものや、霊力を身につけるものもいるでしょう。

そんな山伏の姿と、皆さんが山を神聖なものとしてあがめる反面、山の怒りも知っている。そこに自然界の力が加わったとき、皆さんの心の整理に天狗という者が描き出されたのではないかと私は思っています。

ですから、皆さんが天狗の仕業と思えば、それはそれで素直に受け止めてください。特に逆らったり抵抗などしてはなりません。明日から皆さんもいつも通り仕事をしてください。私の話はこれで終わります。

 

ここで、与兵衛が立ち上がりました。

「天狗か山伏か知らねえども、今度現れたら、おらがズドンと一発ぶちかましてやる。」

与兵衛は、村一番の鉄砲の名人です。また気が荒いのも一番の若者です。茂兵衛さんがたしなめます。

「与兵衛さん、無茶をしてはいけません。今、私が言ったように、人畜に危害を加えようというのでなく、ただ脅しているだけです。ほおっておきなさい。」

他のみんなも「そうだ、おら達びっくりしたし、怖い目にあったが、身体のどこかが痛くなったこともない 。かかわりあって、抵抗して怪我でもしたら、それこそ一大事だ。」

みんなは、茂兵衛さんの言われたとおり、騒がず自然に受け入れようと、なだめすかしましたが、若い与兵衛は「おらは、みんなみたいに臆病でねぇ」といって出て行きました。

「まあ、したいようにさせときなさい。いくら与兵衛さんでも、見えないものは撃てないでしょう」と、茂兵衛さん。

さあ、皆さん明日も早いのでしょう。早く帰って休んでください。

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 与兵衛の鉄砲・・・

それから2-3日たち、与兵衛は『おらは、みんなのように臆病者じゃねえ」と、憑かれたようにぶつぶつつぶやきながら愛用の鉄砲を担ぎ、今日も巨大な松を目指して山を登って行きました。巨大な松がある近くのそれも大きな枝を張った松の枝に腰をかけ、巨大な松から太鼓の音がするのを、この2日間ずっと待ち続けました。

あの松の2股に分かれたところに天狗が飛んできて腰をかける。そして太鼓をたたくというのが与兵衛の考えでした。腕には自信があり、気が荒いのですが、じっと待つことも大切なことを猟師である与兵衛は知っていました。

午後も遅くなって、今日もだめかとあきらめかけたとたん、ゴーと一陣の風が、吹いたかと思うとドン、ドン、ドンと太鼓らしき音が聞こえてきたではありませんか。

 

2009の冬に続きを記載予定