昔の炭焼きの記憶


炭焼きがまの跡

犬の散歩ルートに比較的原形を残した「炭焼き窯」がある。この集落、おおよそ50年前には8Ku(林野90%)内に炭焼き窯が80ヶ所程度あったといわれる。現在完全な形で稼動しているところは1ヶ所もない。筆者が小学生のころのエネルギーは木材及び木炭である。学校のストーブはもちろん薪で、小学校高学年になって石炭を利用していた。木炭の原木は「くぬぎ」が上炭として利用されていた。

炭の焼き方は、下図のようであったと記憶するが地方によって異なるかもしれない。記憶を整理して次からもう少し詳細に記載しよう。

(画像の上にマウスを置くと炭の原木に変わる)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ----昔の炭焼きの手順----

概要

現在の炭焼きはどのようになっているのかよくわからないが、体験談とか炭焼きを始めようとかはドラム缶などで木炭、竹炭を焼き、木酢、竹酢を採集したりしているようである。ここでは、40〜50年前に本格的に焼いていたのを子供心に経験したことを記憶をたどって紹介する。

@作業期間

炭は年から年中焼いていたのかと言うとそうでない。11月頃〜3月終わり頃まで、である。理由はその期間以外は稲作に煙が障害を与えると言われていたこと。又、原木の伐採は紅葉し木が休眠状態に入ったときに伐採しないと次年度新芽が出ないこと、あるいは夏にこんな暑いしんどいことやってられないことなどだったと思う。

A窯の設置

窯は、原木の運搬の便、消火、窯製作の石や赤土の採集の便などの関係で山の斜面で道端で、できれば小川のあるところが理想である。その多くは仲間の窯で、順番を決め交代で使用していた。窯は、一度造ると修理をしながらず-と使っていた。

(左の写真は50年前の原木伐採現場の現在のようす)

 

 

B原木の伐採

原木は、くぬぎ、ホソ(コナラ)で松なども炭になるが記憶にはない。40−45年ぐらい(径15-25cm.)が適切で90cm.に玉切りする(もちろん当時はチェンソーなどなく全て鋸を使用=しんどく 木が切れなくて息が切れる)。

 

(左の写真は同現場での「しいたけ」の原木採集のようす)

C運搬

伐採現場から広い道路まで(大ハチ車/バタバタ(オート三輪自動車)の通れる道まで)

◇架線--大規模は山間をワイヤーを張りジーゼルエンジンのウインチによる。ただし、これらは林業を生業としている山師といわれる人たちであって一般小規模は下りのみ8番線(焼きなまし鉄線)を張りそれに滑車をつけて木をぶら下げて自然の重力を利用して下の道路まで落下させる。これはスピードが伴うので危険危険。上の人が鉄線をたたいて合図し下の人が滑車をはずす。

 

◇人力--急な上り勾配は担ぐしかない。平坦及び下り勾配はキンマに頼る。キンマとは、おそらく木馬がなまったものでないかと思う運搬機である。Fig-2を参照

伐採現場から広い道路までは条件がよければ(登りがない)雑木を並べてレールをつくり枕木(レールの下敷きになるものであるがこの場合レールの上)を5寸釘で歩幅程度に設置する。その上をキンマと呼ばれるそりに原木を積んで人力で引っ張っていく。途中沢渡りもありスリル満点。急な下りなど図の方法により操作していたのを見ていた。100kg.以上は積んでいるから子供心にも怖かった。

2006.6.20追記

2006.6.19付けの毎日新聞朝刊に関連記事が掲載されていたので巻末参照してください

 

◇道路運搬

牛と大八車の活躍

それぞれの方法により広い道路まで小運搬が済めば、そこに集積された原木を予定の窯まで運搬する。(そこに窯があれば炭を運搬)一般の人はバタバタ(バーハンドルのオート三輪=1気筒でキック始動ブゥーブゥーでなくバタバタという音がする)などもっているはずがなく、動力は人の肩と牛である。

牛は、田んぼをたやがし、大八車を引っ張り、大きくなれば子牛との交換で利ざやを稼ぎ人間より貴重な存在であった。少し風邪気味のときなど獣医がビールを飲ませていた。大八車は今の自動車のようなものでどこの家にもあったように記憶している。

D集積-窯入れ

大八車で運ばれてきた原木は窯の前(横)に集められる。

窯入れから窯出し間ではおおよそ1週間のインターバルだったと思う。したがって、窯出し後すぐに窯入れができるよう原木を集めなければならない。(間隔があいて窯がさめると効率が悪い)

窯入れは、(fig-1参照)少なくとも二人で、一人は釜の中に入り口(60cm高/50cm巾)を這って中に入り(入れば側壁を除いて立てるスペースはある)もう一人が外からかがんで2−3本づつ原木を入れる。中の人は原木を引っ張り込んで中で立てていく。窯内は熱く汗は出るわ、目はちかちかするわ、灰埃りで鼻は真っ黒になねわ、で、1−2分で外に出て態勢を立て直す。服装は、古着の着物のようなものを幾重にも重ねて縫い合わせ耐熱性を高めたものを身にまとい、頭は頭巾をかぶっていた。立てに原木を並べてゆき、その上には細い枝とか粗朶(*1)を積み込む。

 

*1

粗朶(そだ=伐りとった木の枝)

原木を伐採する時、このページの背景のように原木の年輪がが30−40年たち、下草が生えない山の場合はいきなり伐採できるが多くの場合、原木(クヌギ、コナラ)以外にツツジ、カシや名も知らない木々が生えている。それらを伐採し掃除した後原木を伐採する。それらや、原木の枝を90cm.程度にそろえその辺に生えているフジ弦で持てる程度の束にししたものを粗朶とか柴(おじいさんは山へ柴刈りに・・・の柴)とかと呼び、家庭用燃料にしたり、窯の火付けに使用する。

その年、最初に窯入れする前にそれらを燃やし窯を暖めるのにも使う。

 

 

E火付け

窯に原木を並べ天井側面等に粗朶をつめて準備が整うと入り口から火をつけ、新しい柴をどんどん焼べる(くべる)。煙突から白い煙が黙々と出ている。朝から炭出しをして、昼から原木を入れるので火をつけるのは夕方である。これは窯の中の粗朶に火をつけ原木に火をまわす重要な作業であるから途中火を絶やすことができないので夕飯は握り弁当である。(Fig-4-1 Fig-4-2)

 

F火がついた

黙々と出ていた白い煙が、青い色に変わってくる(Fig-4-3)

 

 

 

 

 

 

Gくど

青い煙が透明にちかくなるとともに喉に引っかかるような匂いに変わってくる。(Fig-4-4)そのタイミングでのぞき穴および煙突を密閉して空気を遮断し蒸し焼きにする。

このタイミングで品質が決定される最も重要な判断であり、「勘」と「経験」がものをいう。

--遅すぎると、歩留まりが悪く又は灰に変わってしまい、早すぎると生焼けで炭に火をつけると煙が出る--

H炭だし

原木を窯入れしてから1週間(炭はもう少し早くできていると思われるが中が熱くて入れない)、窯内の温度も人が数分は入れる程度に下がり、入り口のレンガを崩す。

中に入って気がつくのは、天井、側面に満タンにあった柴類が「がさ−」と減り全体の容積は半分程度になっている。外からの空気が入るので「ピリッ」「パリッ、パリツ」と炭ばはじける音がして怖かった。

先ず、入り口にある「すばい」をかき出し、上部の「ケンケラ」を出す。最後に、目的の炭を2-3本ずつ中の人が外の人に渡す。最後に次の人が焼くので箒などで灰をかき出す。顔、鼻はタオルで覆っているが汗とものすごい埃で真っ黒・・。

出した炭は、一晩立てかけておいた後、大八車で自宅まで持って帰る。もし、少しでも炭に火が残っていたら、炭は一晩でいこってしまう(燃えてしまうの意)。だからといって水をかけると割れる。

 

I保管

昔は炭小屋という小屋があって(吉良さんが隠れていたところ)、持ち帰ったものを長いまま菰(藁で編んだもの)で巻いた炭俵とか、10cm程度に切断し(炭を挽くのこぎりがあった)紙袋などに入れてそこで保管していた。


 

 

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以上、子供のころ実際に経験した、又は見ていたことの記憶をつなぎ合わせ記載したが、炭焼きには場所、地域、原料などによりいろいろとその方法はあるが、ここに記載したものは「菊炭」と呼ばれ(炭の切断面が菊の花に似ている)火持ちがよく、パチパチはじけず(はじくと使用場所の周辺に穴が開く、特に和裁をする場合の鏝<コテ=アイロン>暖め用では致命的)高級炭として江戸末期からこの地方で生産されていた本格的方法である。

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2006.6.20追記

2006.6.19付けの毎日新聞朝刊の記事

くしくも「キンマ」のことが書かれていた。私が子供のころ目撃したのと同じ