廃虚の古都 アユタヤへの旅累々と続く廃虚に、栄光の歴史を偲ぶ |
2003年4月13日 |
今日はソンクラン、タイの正月元旦である。とは云っても1年で1番暑い季節、正午には太陽が真上から照りつけ、気温は毎日35度を軽く越している。正月とはいうものの、日本の正月のイメージとはほど遠い。
すでにタイに住み着いて3ヶ月が経つ。もはや気分はタイ人である。バンコク市内の探索も3回、4回と回を重ね、勝手も大分わかった。そろそろ足を郊外に伸ばしてみよう。まず手始めはアユタヤがよい。バンコク市内から北へ約80キロ、世界遺産にも登録されたタイの古都である。西暦1350年から417年間、35代の王がこの地を都として君臨した。しかし、古都といっても奈良や京都のイメージとはほど遠い。アユタヤは廃墟の街なのである。1767年、アユタヤを占拠したビルマ軍はこの王都を徹底的に破壊した。それ以来アユタヤの廃墟は今に至るまで時を止めたままである。 実はこのアユタヤ行きはタイに住み着いて以来暖めてきた大望を果たす機会でもある。その大望とは、列車の旅である。タイは日本の約1.4倍の国土を持つのだが、鉄道網の発達は比べようがないほど貧弱である。それでもバンコクを中心に5方向へ向け鉄道が延びている。そしてその中でも最大の幹線、北の都チェンマイに至るNorthern Lineがアユタヤを通過している。単にアユタヤへ行くだけなら車が圧倒的に便利である。バンコク北バスターミナルから20分おきに直通バスがでているし、市内の戦勝記念塔・アヌサワリー からロットゥ ライトバン が頻繁にでている。タクシーだって1,000バーツも出せば行くだろう。しかし、列車の旅がなぜか私の心を揺さぶる。 6時過ぎ、小さな手提げカバン一つを持って家を出る。カバンの中は案内書とカメラだけである。まずはタクシーでタイの東京駅とも云えるファランポーン駅を目指す。元旦の早朝のためか、いつもは大混雑している街も閑散としている。ところが、タクシーは一路バンコク1番の歓楽街パっポンへ行ってしまった。そんなに発音が悪かったのかなーーーー。 少々遠回りしてたどり着いたファランポーン駅はそこだけが別世界のようにごった返していた。正月休暇を迎え、おそらくこれから故郷へ帰るのであろう、広い構内は大きな荷物を抱えた人々が至るところ座り込み、歩き回り、駅のアナウスがひっきりなしに流れている。もちろん、上等な身なりの人など皆無である。ちょうど、今から数十年前の上野駅の雰囲気である。私は真っ直ぐに切符売り場に向かう。実は1週間前、ファランポーン駅は偵察ずみである。どこで切符を買うかを調べ、案内所で時刻表ももらってきた。日本のように時刻表が市売されていないので駅まで行って調べる必要があった。目指す列車は7時発Den Chai 行き鈍行205号列車である。快速や急行もあるのだが、どうせなら鈍行列車の3等席が好ましい。 切符売場窓口に並ぶ。タイには自動販売機などない。少々どぎまぎしながら、その旨を告げるとあっさりと切符は手に入った。やれやれである。値段は何と15バーツ。何たる安さか。すでに発車時刻15分前、表示板を見て9番ホームへ向かう。改札口などなくホームへはフリーパスである。ホームも多くの人が座り込み、また売店が至るところにあり、騒然とした雰囲気である。列車はすでに停車していた。十数両編成のいかにも鈍行列車という雰囲気の古びた車両が並んでいる。意外にも座席はすでに満員に近い。食料品やら水やら少々買い物をしておきたかったのだが、その暇はなさそうである。慌てて、空席を探す。1番前の車両まで行き何とか通路側の席を確保する。日本と同じ4人掛けのボックス席である。もちろん冷房などなく、天井で古びた扇風機が回っている。 時刻通り、ちょうど7時、列車はファランポーン駅を発車した。市街地は駅の間隔が短い、停まるたびに大きな荷物を抱えた人々が乗り込んできて、あっという間に超満員になってしまった。赤ん坊を抱いたお母さん、子供を何人も連れた家族連れ、いろんな人が乗り込んでくる。何と箱に入った子犬まで乗り込んできた。その人並を掻き分けて、菓子やら弁当やらの売り子がひっきりなしに行き来する。皆いやな顔もせず譲り合いながらおとなしく暑さと人息れに耐えている。 誰かがコーラの栓を抜いたとみえ、突然辺り一面泡が吹き飛んだ。立っていた若い娘さんなど顔中泡だらけとなった。不思議なことに、皆当たり前のごとく、顔色も変えずに黙って自分で泡を拭いている。加害者もわびの言葉一つ発しない。郊外にでると駅の間隔も長くなる。あいにく、朝日が当たるため窓のブラインドが下ろされてしまい外の景色は見えない。 アユタヤ駅到着予定時刻は8時42分である。その時刻がちかづくと不安になった。列車が駅に停まっても車内放送は何もない。窓から外も見えない状況で無事アユタヤ駅に降りられるだろうか。周りの人に聞こうにも英語など通じるわけもない。停車時刻を過ぎたが列車は走り続けている。4〜5分過ぎた頃停まる気配。慌てて人を掻き分けデッキに向かう。デッキから駅の標示がちらりと見えた。Ban Pa-inとある。一つ手前の駅のはずである。降りてしまわずに助かった。 9時、列車は20分遅れでアユタヤ駅に到着した。大きな駅で、多くの人が降りる。何も慌てることはなかった。日本と違いホームに高さがほとんどない。デッキの梯子を利用してホームに降り立つ。ついにやってきましたアユタヤへ。ホームでは物売りが列車に向かって殺到している。 駅舎をでた途端、数人の男に取り囲まれた。アユタヤ名物のツクツクの運転手である。片言の日本語を混じえながらしつこく誘ってくる。断っても断ってもなんやかんやいいながらつきまとってくるので駅舎の中に逃げ込む。それにしてもどうして私が日本人とわかるのだろう。地元の人と区別つかないような格好をしているし、色だって真っ黒なのだが。 実は、今日のアユタヤ見物には暖めていた腹案がある。レンタサイクルの利用である。自転車なら勝手気まま。一人歩きには好都合である。駅前の通りを突っ切り、少し進むと貸し自転車屋はすぐに見つかった。1日30バーツと標示されている。申し込むと、何の手続きもなく貸してくれた。何らかのデポジットを要求されると思っていたのだが拍子抜けである。よさそうな自転車を選んでくれ、おまけに「アンタライ(危険) 」と云って、鎖の鍵を貸してくれた。これで準備万端、真っ青に晴れ渡った空のもと、心浮き浮きとペタルをこぎ出す。今日も暑くなりそうである。 ほんの数十メートル進むと川にぶつかる。ここに渡し船がある。アユタヤは四方を川に囲まれたいわば中州にあるため、川を渡らなければならない。川面の小さな乗り場まで怪しげな階段を自転車を担いで下るのがひと苦労。乗客は二人のみ。ボートに毛の生えたような小さな渡し船はすぐに対岸に着いた。船賃はわずか 2バーツ、何ともやすい。 改めて、地図を確認し、体制を整えて出発する。まず目指すのはAyuthaya Tourist Information Center 。名前からしてアユタヤ観光の情報が得られるだろう。レストランぐらいあるかも知れない。朝からまだ何も食べていない。車の往来も少ない広々とした道をるんるん気分でペタルを踏む。気分は青春のまっただ中。言葉も通じぬ異国の地で一人ペタルを踏んでいると思うと、その度胸のよさに我ながら感心するやらあきれるやら。道端には相変わらず屋台が多い。 15分ほどでたどり着いたAyutthaya Tourist Information Center は期待はずれであった。真新しい、大きく立派な建物なのだが、閑散として人の気配もない。小さな事務所があり2〜3人の人影は見られるが、靴を脱いで行かなければならない。どうやら開設間近で、いまだ活動は開始していない様子である。 手持ちの案内書を頼りに、勝手に回ることにする。すぐ北方向に崩れかかった仏塔が見える。地図で確認するとWat Phra Ramである。遺跡の入り口にぽつんと番小屋があり、おばちゃんが一人入場券を販売している。近づくと、意外にも歯切れのよい英語で「入場料は30バーツ、自転車置場はそっち」。遺跡の中に人影はなかった。案内書によると、「この遺跡は1369年に建立されたアユタヤでもっとも古い寺院の一つ」とある。崩れかけた仏塔と、回廊の跡と思われる煉瓦済みの廃墟に一人たたずめば、平家物語ならずとも栄枯盛衰の思いにかられる。遺跡を出ようとしたらどこから現れたのか17〜18歳の白人の少女が一人遺跡に入って来た。 Wat Phra Ramの北西隣がWat Phra Sri Sanphetである。廃墟の中に三基の仏塔の建つこの寺院跡はアユタヤの代表的な遺跡である。1491年に建立された王室の守護寺院で、かつては高さ16メートルもの黄金の仏像が安置されていたと云うが、全てがビルマ軍に破壊尽くされてしまった。入り口に自転車を止め、入場料を払って遺跡にはいる。壮大な廃墟である。ぽつりぽつりと、ガイドを伴った観光客の姿がある。一人で見物している外国人はさすがに私一人である。並べられた仏像は全て首から上が失われている。ビルマも仏教徒のはず、異教徒ならいざ知らず、なぜ仏像の首を切るという行為を行ったのか不思議である。Wat Phra Sri Sanphetの北隣が王宮跡なのだが所々に石垣の跡が残るのみで見るべきものは何もない。 Wat Phra Sri Sanphet の南隣に大きな寺院が建っており、大勢の参拝者で賑わっている。Wiham Phra Mongkhon Bopit である。廃墟の広がるアユタヤの中にある生きた寺院として異彩を放っている。この寺院もビルマ軍によって破壊されたがラーマ5世によって再建されたとのことである。参拝者に混じり、靴を脱いで本堂に上がり込む。建物一杯に金色に輝く大仏が鎮座している。この本尊はタイ最大の青銅仏とのことである。大仏の前では参拝のための三種の神器、すなわち、蓮の花のつぼみ、ロウソク、線香を持った人々が床に頭を擦りつけるタイ式の作法を持って熱心に祈りを捧げている。私も仏前に正座し、日本式の作法を持ってそっと手を合わす。 本堂の上がり口前に小さなお堂があり、鎮座する仏様に人々が褐色の液体を注いでいる。どうやら甘茶をかけているようである。日本でも、今から数十年前までは、お釈迦様の誕生日には仏像に甘茶をかける習慣が残っていた。今ではついぞ聞かなくなってしまったが。私も一つ15バーツの甘茶を買って、仏像に注ぐ。きっといいことがあるだろう。 Wiham Phra Mongkhon Bopitの前は広々とした芝生と樹木の広場となっており、お参りに来た人々がお弁当など広げながらくつろいでいる。私も木陰でひと休みする。高く昇った太陽がまばゆいばかりの真夏の光を降り注いでいる。さてこれからどこに行こうか。露店で買った水を飲み飲み地図を広げる。 再びペタルをこぎ出す。暑さは厳しいが、全身に受けるそよ風が何とも心地よい。次に目指すはWat Ratchaburana である。所々でソンクラン名物の水掛合戦が始まっている。若者たちが小型のピックアップトラックに水の入ったドラム缶を何本も積んで、所かまわず水を掛け回っている。一方、拠点に陣取り、通りかかる車に水を掛けているグループもいる。しかし、後で知るのだが、こんなのはまだ序の口であった。少々水を掛けられながらも、広い通りを東に向かう。 小さな標示が左に入る踏み跡をワット タミカラートと示している。云ってみると崩壊しかけた仏塔がぽつんと建っていた。戻って、Wat Rachaburana を目指す。30バーツを払って遺跡にはいる。小さな石門の奥に大きなクメール式仏塔が高々と建っている。その周りは廃墟と化した石造物が積み重なっている。この寺は1424年に8代王ボロムラーチャーが建てたものである。観光客は誰もいず、近所の子供たちが駆けずり回っている。子供たちには絶好の遊び場である。 道を挟んだ反対側がWat Phra Mahathatである。この大きな寺院跡はWat Phra Sri Sanphet と並ぶアユタヤ の代表的な遺跡である。14世紀後半に建てられた重要な寺院であったという。瓦礫と化した建物跡が累々と積み重なり、首のない仏像が無数に並ぶ。何とも異様な光景である。ビルマ軍の破壊はなぜこれほど徹底したのだろうか。案内書でおなじみの木の根に取り込まれた仏像の頭部がある。不気味とも云え光景である。ガイドに連れられた観光客の姿もぽつりぽつりと見える。ただし、一人で見て回っているものなど私以外にはいない。 Wat Phra Mahathatの前はちょっとした広場になっていて、いくつかの屋台が店を開いている。ちょうど昼時だがいまだ朝から何も食べていない。よほど何か食べようかと思ったが、どうもタイの料理は苦手である。タイの風土も、人情も、言葉でさえ、違和感がないのだが、ただ食べ物だけはどうしてもなじめない。どこかコンビニでも見つけてパンでも食べよう。 屋台の椅子に座ってココナツの果汁を飲みながら、さて次はどこへ行こうか考える。日本人の観光客なら、間違いなく、日本人町跡へ行くだろう。16世紀後半から17世紀前半に掛け、この東南アジア最大の貿易都市アユタヤに世界中から人々が集まってきた。日本人も最盛期には1,500人以上が住み、日本人町をつくっていた。その中の頭領が山田長政である。彼は駿府出身といわれ、静岡市の鎮守・浅間神社の近くに「山田長政屋敷跡」との碑が建っている。 しかし、この定番はどうも気が乗らない。今日は日本人観光客としてここに来たのではない。タイの歴史、タイの風土、タイの人情に肌で触れるために、鈍行列車に乗り、そしてこうして一人ペタルを漕いでいる。日本人きり行かないような場所は興味の外である。遺跡巡りはもういいだろう。アユタヤの町に行ってみよう。炎天下のもと再びペタルを踏み出す。 Wat Phra Mahathatの前の広い通りを北上すると、十字路に出る。本来ここを右に曲がるべきであったのだが、何を勘違いしたか、もっとも持っている地図は案内書の片隅に載っている粗末なものであるが、真っ直ぐ進んでしまった。古街道の趣のある道は曲がりくねりながらどこまでも続く。所々に、崩壊した寺院跡を見る。やがて家並みも絶え、林と小集落が交互に現れるようになる。さすがに道が違うなとは思ったが、あてのない旅、かまわずのんびりとペタルを踏み続ける。 この街道に入ってから、水掛けの洗礼を受けだしている。水を満載したピックアップトラックのいわば機動部隊が何台も走り回り、所々で待ち構える地上部隊と派手に水掛合戦を行っている。自転車でのこのこ走る私に対しては、双方ともバケツやホースでの本格的水掛けはしないが、それでも好意溢れる笑顔を持って少々の水をお見舞いしてくれる。また、子供たちは大型の水鉄砲をいたずらっぽく向けてくる。そのたびにハンドルを切り、ペタルに力を入れて逃げ回る。 町並みを抜け、集落が点々と現れるようになると、もう逃げ場はなくなった。集落ごとに十数人の若者の集団が待ちかまえている。ストップを命ぜられ、それでも遠慮がちにコップの水を少々襟元から背中に流し込んでくる。また、白や赤のパウダーを顔に塗りたくってくれる。タイの伝統的行事である。コップンクラップ(ありがとう)とお礼を言って、また次の集落に向かう。いつの間にか、もう身体中びしょ濡れである。 いくつめかの集落が現れた。若者たちが満々と水を満たしたドラム缶を用意して待ちかまえている。近づくと、道一杯に通せんぼをして停まれの合図。いたずら心を起こし、停まる振りをして、急ハンドルを切って横を通り抜けようとした。その瞬間、びちゃびちゃの道路にタイヤが滑り、見事にひっくり返ってしまった。路上に大の字にのびた私に、若者たちが駆け寄り抱き起こす。少々肘を擦りむいたが大したことはない。ちょうどよい機会と、案内書の地図を見せて、ここはどこかと聞いてみる。みんな集まってきたのだが、まったく英語が通じない。こうなれば、こっちも日本語だ。タイ語と日本語の奇妙な会話が始まった。 あいにく案内書の小さな地図は日本語のカタカナ表記。あっちを向けたり、こっちを向けたりしながらわいわい見ているのだが、分からない様子。道路表記で何とかわかると思ったのだが。元々、タイには地図を見る習慣もない。仕方がないので、「Ayutthaya Station」と云ったら何とか通じ、来し方を指さす。やはり戻るしかなさそうである。手を振って彼等と別れ、来た道を戻る。 30分ほど掛け、交叉点まで戻る。左に曲がってアユタヤの街中に入った。と同時に状況は一変した。何と、街中が水掛合戦で大フィーバーなのである。大通りは水を満載した車がひしめき合い、通りの両側はこれまた水を湛えたドラム缶や水道に直結したホースがずらりと並んでいる。双方相対し、歓声を上げながらすさまじい水掛合戦を展開している。何と、消火栓まで登場している。この状態が延々と続いている。もはや、自転車でのたのた走る私などターゲット外であるが、飛交う水流は嫌でも全身に降り注ぐ。しかも、車も人もめちゃくちゃに走り回り前へ進めないのである。いつのまにか全身ずぶぬれになってしまった。ソンクランの水掛もバンコクでは局地的だが地方では盛んと聞いていたが、想像を超えるすさまじさである。 何とかかんとか中心部を抜け、船着場にたどり着いた。コンビニでパンを買うどころではなかった。こうなれば、ずぶぬれのこともあり駅に行くより仕方なかろう。渡し舟で対岸に渡る。来るときは2バーツだったのだが、自転車代として1バーツ余計に取られた。乗客は二人だけである。自転車屋に行くとおばちゃんが今朝と同様笑顔で迎えてくれた。自転車を返し、駅に向かう。待合室のベンチに座りほっと一息つく。荷物も服も何もかもずぶぬれである。いくら真夏とはいえ、そう簡単には乾かない。おまけに顔には赤や白のパウダーが塗りたくられている。いい経験をしたものである. 時刻は1時20分、時刻表を見るとちょうど1時32分発の列車がある。急いで切符売り場窓口に行き、「バンコクまで」というと、横の方を指さしてタイ語で何やら云うだけで、切符を売ってくれない。はてなと思い、いったん引き下がる。さて困った。さっぱり勝手が分からない。指さした先にはプラットホームがある。切符なしに勝手に乗れということなのか。まさか。しばしうろうろしてはたと気がついた。ホームよりに閉まっている切符売場窓口があり、何やらに標示がしてある。タイ語だが「バンコク13:42 13:45」は読める。ようやく意味が分かった。おそらく、「バンコク行きの切符はこの窓口で買え」ということなのだろう。しかし、13:32分の列車はどうなってるんだろう。また、13:42の列車は時刻表にあるが、13:45の列車など載っていない。 暫く待つと、窓口が開いた。どうやら推理は正解だったようである。言葉の通じない世界では、なんたって勘が重要である。少々くたびれたし、身体もびしょ濡れなので、2等車で帰ることにする。「バンコク 2nd class」というと切符が手に入った。やれやれである。価格は 40バーツ。それにしても安い。人々で賑わうホームをぶらぶらしていたら、すばらしく上等な下り列車がホームに入ってきた。標示を見ると「EASTARN ORIENTAL EXPESS」とあり、行き先をChiang Mai と示している。何と、かの有名なオリエント急行ではないか。バンコクからシンガポールまでを47時間で結ぶ夢の超豪華国際列車である。しかし、なぜこの列車がチェンマイに向かって走っているんだ。時刻表にだって載っていない。(帰ってから調べたら、1999年からバンコクとチェンマイの間も走るようになったとのことである。いつか乗ってみたいとの希望が膨らむ)。 やがてアナウスがあり、上り列車が到着する気配。人々が線路を横切って向こう側のホームへ向かいだした。(日本のよう反対側のホームへ向かうための跨線橋や通路はない。ホームに高さがほとんどないこともあり、テンデンバラバラに線路を横切って反対側のホームへ行く)。念のため、ホームにいた駅員に切符を示して見ると。こっちのホームで待つようにとのジェスチャー。私の切符には13:42発の列車が指定されている。ということは、先に来る列車のはずだが。勝手がさっぱり分からない。やがて列車がやってきた。今朝乗ったのと同様のおんぼろの鈍行列車で、すでに満員である。ますます心配になり、別の駅員に切符を示してみる。やはりこっちのホームで待てという仕草。切符の「2nd class」と書かれた部分を指さすところを見ると「2等車だから次の列車だよ」といっていると思われる。確かに、停車している列車はどの車両もおんぼろで、2等車を連結している気配はない。 鈍行列車が発車して、暫く待つと、急行列車がやって来た。どうやらこれが私の乗る列車のようである。ただし、先の鈍行列車に比べ乗り込む人はほとんどいない。どの車両が2等車かよくわからないが、一番上等そうな一両目に乗り込む。ガラガラで、2〜3人きり乗っていない。なかなか上等な座席で、二人掛けのリクライニングシートである。 発車したと思ったら、すぐに警笛を鳴らしながら停まってしまった。窓から見ると、水掛合戦の車が、警報も遮断機も無視して、踏切内を我がものに行き来している。さすがタイである。列車は大平原の中をひたすら南下して行く。至るところに湿地帯が広がり、所々に集落が現れる。窓から過ぎゆく景色をぼんやりと眺めるのは、列車の旅の醍醐味である。ただし、冷房が利きすぎていて、濡れた身体には寒くて仕方がない。どうやらこれで、無事バンコクへ帰り着けそうである。 順調に走っていた列車も、バンコク市街地にはいると、停車を繰り返すようになる。単線なのだろう。3時15分、15分遅れで列車はファランポーン駅のホームへ滑り込んだ。何やら我が家に帰り着いたようなほっとした気持ちで雑踏渦巻くホームへ降り立った。アユタヤ冒険旅行の無事の終了である。
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