おじさんバックパッカーの一人旅
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2010年2月5日~9日 |
第1章 国境の街・ノーンカイ(Nong Khai)
2月5日。ビエンチャン発の国際バスは、国境を越えて、11時30分、タイ・ノーンカイのバスターミナルへ到着した。隣りの席の日本人は、今晩の夜行列車でバンコクへ戻るとのことで、ここで別れた。さて、いよいよイサーンの旅が始まる。
イサーンの大部分はコラート高原と呼ばれる標高150~200メートルの平原に位置する。年間平均降雨量は1200ミリと少なく、おまけに乾期と雨期の差が激しい。このため、しばしば旱魃と洪水に悩まされる。天水に頼る農業は生産性が低く、タイの典型的な後進地域である。このため、バンコクなどの歓楽街で働く女性にはイサーン出身者が多い。 以上のような背景があるため、イサーンおよびイサーンの人々は中央のタイ人(主としてタイ国の主要民族であるシャム族)からいまだに「ラオ」と呼ばれる。「ラオ」とは多分に蔑みの意を含んだ言葉である。一方、「イサーン」は広大な田舎のイメージから郷愁を呼び起こす言葉でもある。「イサーン料理」は多くのタイ人に好まれ、タイ料理の一角を占めている。
ノーンカイはメコーンに面した国境の街である。ラオの首都ビエンチャンは、メコーンの向こう、わずか25キロの距離である。この街が造られたのは1827年である。タイに対し反旗をひるがえしたビエンチャン王国のアヌ王を討伐する戦いによりビエンチャンは廃虚と化した。このため、ビエンチャンに代わる都市として建設され、以降、ラオに対するタイの監視支配の拠点としての機能を担った。また、ラオがフランスの植民地となった後は、ラオへの貿易拠点として発展した。しかし、1893年のシャム危機(フランスがメコーン左岸の割譲を迫り、バンコク港を武力閉鎖した事件)により、メコーン右岸25キロ範囲からタイの公権力が撤退する条約がフランスと結ばれた。このため、ノーンカイの公的機能は南方25キロに新たに建設されたウドーン・ターニーの街に全て移され、ノーンカイの役割は減少した。 しかし、第二次世界大戦後ラオが独立すると、ラオ親米政権へのてこ入れ拠点としての役割が増し、1955年にはウードン・ターニーで止まっていた鉄道がノーンカイまで延長され、1965年には米国の援助により、バンコクと結ぶミットラパープ道路(フレンドシップ・ハイウェー)も開通した。インドシナ戦争後ラオの共産化によりノーンカイの役割はいったん減少したが、1980年代後半以降のラオの開放政策により再びラオへの窓口として重要度が増した。1994年にはオーストラリアの援助で、メコーン最初の架橋であるフレンドシップ・ブリッジ(友好橋)が開通し、タイとラオを結ぶ最重要ルートとなった。さらに2009年には友好橋に鉄道が開通し、ノーンカイから列車でラオに入国できるようになった。
遊歩道のすぐ裏がターサデット市場であった。アーケードに沿って小さな店がぎっしりと並んでいる。日用雑貨を扱う店が目に付く。人々で大いに賑わっているが、国境のマーケットに付き物の怪しい雰囲気はまったくない。 街の中心を横切り、東端にあるワット・ポー・チャイ(Wat Pho Chai)を目指す。ちょっと遠いが、未知の街は歩くに限る。街は賑やかである。大きなショッピングモールこそないものの切れ目のない商店街が続く。ラオからやって来た身にとっては隔世の感がある。途中バスターミナルに寄って、明日のウドーン・ターニー行きバスの時刻を確認する。バスは沢山あり、発車時刻を気にする必要はなさそうである。バスターミナルの南側は市場となっていた。こちらは生鮮食料品が中心である。真っ昼間のためか、休業状態であった。
くたびれた足を引きずりG.H.へ戻る。途中、セブンイレブンでタバコを買おうとしたら、売っていない。タイではタバコの規制が日増しに強まっている。日暮れを待って再びメコーン岸辺の遊歩道を歩く。対岸のラオにも明かりが灯り、友好橋の灯がメコーンを横切って連なる。遊歩道には売春婦が何人か現れ、ぶらぶらしている旅行者を誘う。メコーンを眺めながら夕食としたのだが、その1人が私のテーブルに座り込んでしつこく誘う。食堂のおばさんがそれに気づいて、ようやく追い払ってくれた。夜の21時過ぎから激しい雷雨がやって来た。
2月6日。今日は北イサーンの中心都市ウドーン・ターニーへ向う。9時過ぎにチェックアウと、トゥクトゥクでバスターミナルへ行くと、発車間際のウドーン・ターニー行きバスが待っていた。9時40分に発車したのだが、例によって、客を求めて数メートル動いてはストップの繰り返し、その都度に客が現れるから不思議である。やっとターミナルを出たと思ったら、またストップ。今度は車掌がバスを降りて、客を探し始めた。何という執念深さ、あきれるよりも感心した。10時、バスはようやくまともに走り出した。 ウドーン・ターニーはノーンカイの南50キロほどに位置し、イサーンの4大都市の一つである(他の3つは、ナコーン・ラーチャシーマー、ウボン・ラーチャターニー、コーン・ケン)。街の名前は「北の都」を意味する。一般的には「ウドーン」と省略形で呼ばれている。 この街の歴史は新しい。街の建設は1893年の「シャム危機」に始まる。この年、植民地主義の醜い牙をむき出しにしたフランスは、タイに対し、メコーン左岸全土の割譲と右岸の25キロ範囲を中立緩衝地帯とする要求を突きつけた。タイにとっては国家存亡の危機であった。タイはこの屈辱的要求をのみ、かろうじて独立を維持した。このため、メコーンの右岸にあり、それまでノーンカイが果たしてきた国境警備の役割を担うべき都市としてウドーン・ターニーの街が急遽建設された。そしてまた、インドシナ戦争の際に、米軍の大規模な空軍基地がこの街に建設された。このことが街の急速な発展をもたらした。 バスは約1時間でウードン・ターニーの街入り口に到着した。大多数の乗客がここで降り、控えているソンテウに乗り換える。勝手がわからず、私はそのまま乗り続ける。バスは大きく街を半周するように走り、11時過ぎ、街西郊外の新バスターミナルへ到着した。周りに街並みもなく、閑散としたターミナルである。どうやら、街の中心に行くには先ほどのバス停で降りるべきだったようである。かろうじて、トゥクトゥクが1台いた。この街は、バックパッカーが訪れる街でもないのでG,H,はないようである。案内書に載っているウドーン・ホテルを指示する。到着したホテルは、大きなたたずまいだが、建物も古めかしく、宿泊者がいる様子もない。料金は朝食付きで520バーツと安い。部屋も立派であり不満はない。 洗濯を済ませて街に飛びだす。ただし、この街には特段見所はない。 戻って、今度は街の中心部に向う。街中には大きな交叉点が3つあり、いずれも特徴あるロータリーとなっている。3つのロータリー踏破を目指し炎天下を歩く。「時計台ロータリー」には時計がなく、温度計の電光掲示板が掲げられていた。気温は31度を標示していた。「噴水ロータリー」には噴水が出ていない。 夕食がちょっと困った。ホテルに大きな食堂はあるが営業していない。近所にもまともなレストランは見当たらない。その代わり、店先でイサーン名物のカイ・ヤーン(タイ風焼き鳥)を焼く煙をもうもうとたてている大衆食堂が何軒かある。その中の1軒に入り、カイ・ヤーンとカオニャオを注文する。大きな焼き鳥はとても1人では食べきれなかった。明日はコーン・ケンに向う。
2月7日。コーン・ケンはイサーンのほぼ中央に位置する大都市である。この街の歴史は1783年に300人ほどの農民を引き連れてビエンチャンから逃れてきたラチャックルルアンがこの地に入植したことに始まる。しかし、この都市が大いに発展したのは1962年、東北タイ開発計画モデル地域に指定されたことによる。1966年にはイサーン最初の総合大学・コーン・ケン大学も開校した。さらに、現在、中国が進めている南北回廊(雲南省・昆明とバンコクを結ぶ道路)と、日本の援助で進められている東西回廊(ベトナムのダナンからインドシナ半島を横断してミャンマーのモーラミャインに達する道路)が、このコーン・ケンで交わることから更なる発展が約束されている。 前の晩、フロントの女の子にコーン・ケンへの行き方を聞くと、長距離バスターミナルからバスが頻発しているとのことである。この街にはバスターミナルが3つもあるのでややこしい。バスターミナルまではトゥクトゥクで行けとのことで、紙に「長距離バスターミナルまで。40バーツ」とタイ語で書いてくれた。これを運転手に見せればよい。 8時半過ぎチェックアウト。玄関先にいたトゥクトゥクの運転手に紙を見せると、50バーツだと抵抗する。「それじゃいいや」と去ろうとすると、慌てて追いかけてきて「OK OK」。到着したバスターミナルではコーン・ケン行きバスがエンジンをかけて待っていた。9時10分発車、ただし例によって、客を求めて、進んだり止まったり。その度に客が現れるから不思議である。ようやく郊外に出て、順調に走り出した。 変化のないイサーンの景色が続く。後ろの席の2人連れの男が絶え間なくしゃべり続けてうるさい。タイの男は概しておしゃべりである。トイレ休憩もなく2時間も走ると、コーン・ケン大学の標示を見る。バスは国道を離れ、街並みに入った。11時30分、終点のバスターミナルへ到着、数10のプラットホームの並ぶ実に巨大なターミナルである。英語標示もなく、これでは明日、ローイ・エットへ行くとき、バス探しに苦労しそうである。 この街にもG.H.はなさそうなので、近くのコーンケン・ホテルへ行く。7階建ての大きなホテルであるが料金は650バーツと安い。部屋もベランダが付いており満足である。すぐに街に出る。この街も特に見所はない。先ず目指すのは、街の北外れにあるコーンケン国立博物館である。今日もいい天気で日差しが強い。大きな緑地帯となった公園、市役所とゆったりした街並みが続く。銃の連続発射音がするので行ってみると、射撃場であった。本物の銃を撃つことが出きる。日本では考えられないことだが、タイ、ベトナム、フィリピン、韓国などにはこういう施設がある。
さて、続いてコーン・ケンの街を探索しよう。現在、街の北端にいる。街を縦断して、南端にある鉄道駅まで歩いてみるか。4~5キロだろう。巨大なバスターミナルの前は市場であった。生鮮食料品売り場を中心に、あらゆる種類の小さな店が路地いっぱいにひしめいている。その一角の大衆食堂で遅い昼飯を食べていたら、坊さんに道を聞かれた。タイ人と思われたようである。
今度は街の中心部を通って宿に向って引き返すことにする。3~4キロはあるだろう。メインストリートであるクラン・ムアン(Klang
Muang)通りを北上する。ここにも大きな市場がある。歩道は露店の列である。人通りも多く、街は大賑わいである。夕闇の迫るころ、ようやく宿にたどり着いた。くたびれ果てたが、コーン・ケンの街をほぼすべて歩き通したとの満足感はある。夕食に近くの食堂に行った。何と、メニューに日本食があるではないか。数週間ぶりに食べた日本食の、何と美味かったことか。
第4章 情緒溢れる小さな街・ローイ・エット(Roi- Et)へ 2月8日。今日はイサーン中央部の小さな街・ローイ・エットに向う。前々から行ってみたいと思っていた街である。この街に魅かれた理由が幾つかある。先ず、街の名前である。「ローイ・エット」はタイ語で数字の「101」を意味する。何とも変わった都市名である。二つ目は街の形である。一辺約2キロの正方形をしている。しかも街のど真ん中に真ん丸の大きな池がある。まるで絵に描いたような整った形である。三つ目に、その正方形の街を環濠と城壁が囲んでいることである。いまだに環濠と城壁が残っている街は珍しい。 伝説によると、今から2,000年前、この街は大いに栄え、101の属州を持っていたとのことである。街の名前の由来である。伝説はともかく、街の周辺にはドヴァーラヴァティー時代やクメール時代の遺跡も多く残っており、古くから開けた地域であったことは確かである。街はいったん廃れたが、18世紀後半、ラオのチャンパーサック王国から入植した人々により再興された。 7時30分チェックアウト。歩いてバスターミナルへ向う。あの巨大なバスターミナルで、果たしてローイ・エットへ行くバスを見つけられるか大いに不安である。そもそも、直通バスがあるのかどうかも分からない。ターミナルへ入っていくと、いつものように「どこへ行く」と声がかかった。「ローイ・エット」と3度言うが通じない。案内書のタイ語標示を見せてようやく通じた。男は「ここで10分ほど待て」とプラットホームの椅子を指し示す。何やらよく分からないが、指示に従う以外にない。10分ほどすると、再び男が現れ「ついてこい」と言って、ターミナル脇の道路に連れ出された。男はやってきた1台の2等エアコンバスを停め、「これに乗れ」と指示する。ウドーン・ターニー発ウボン・ラーチャタニー行きのバスであった。こんなバスを一人で見つけられるわけがない。大助かりである。 バスは50%ほどの乗車率であったが、停留所ごとに乗客が増え、市街地を抜ける頃には80%ほどになった。冷房が効きすぎて寒い。郊外にでたところのガソリンスタンドで給油兼トイレ休憩となった。コーン・ケンのバスターミナルでは休憩しなかったようである。 すぐに国道2号線を離れ、地方道の208号線に入る。小さな集落が時々現れるだけの変化のない景色が続く。小さな街を一つ過ぎ、9時30分、街並みに入った。セブンイレブンが幾つもある比較的大きな街である。「どこだろう」と車窓を注視すると、「Maha Sarakham University」の標示が見えた。マハ・サラカムの街である。バスターミナルでトイレ休憩となった。 ここから、素晴らしい道となる。右側に大きな湖水が見えた。若い男の車掌が乗っているのだが、勤務態度はかなり悪い。時々、最後尾の座席にふんぞり返って、携帯電話でぺちゃくちゃ話し続けている。30~40分行くとまた大きな街並みに入った。どこだろう。時間的にはまだローイ・エットではないと思うがーーー。バスターミナルへ入ったが、英語標示もなくどこだかか分からない。バスは休憩することもなくすぐに発車した。街並みがドンドン濃くなる。胸騒ぎがする。懸命に車窓に眼を走らす。大きな建物が現れた。門柱に「ローイ・エット県庁」との英語の標示を見つけた。大慌てして、隣りの女の子に「ここはローイ・エットか」と聞くも言葉が通じない。車掌のところにすっ飛んでいって確認すると、「ローイ・エットだ」という。「止まれ! 降りる」と大声をあげる。 バスを降り、道端に座り込んでホットひと息つく。危ない所であった。時刻は10時半、コーン・ケンからわずか2時間半で着いてしまった。案内書の地図を眺める。どうやらここは街の中心部だ。バスターミナルで降りそこなったおかげで、かえって好都合であったようである。この街にもG.H.はないようだ。旅の最後だ、今日はこの街一番の高級ホテルへ泊まってやろう。地図を頼りにローイ・エット・シティー・ホテルへ行く。1流ホテルのたたずまいだが、料金は朝食付き990バーツと思いのほか安かった。 洗濯をすませて、街に出る。今日もカンカン照りである。
道を適当に辿りながら、ぶらりぶらりと西に進むと、立派な寺に行き当たった。Wat Klang Ming Muangとの標示がある。説明書きにはローイ・エットで一番古い寺院とある。さらに西に進むと、生鮮食料品を扱う大きな市場があった。この小さな街に不似合いなほど大きい。道を南に進むと、街の中心に大きく広がるプラーンチャイ湖の辺にでる。周囲1.5キロほどの湖水で真ん中に大きな島が浮かんでいる。湖の見学は後回しにして、東側に広がる街の繁華街を歩く。これまで訪れた3都市に比べるとずいぶん小さいが、それでも賑やかな街並みが続く。高層ビルや大型ショッピングモールなどはない。
山門を潜る。誰もいない。参拝者どころか僧侶の姿もない。まったく人の気配がないのである。不思議な寺である。 明日はいよいよバンコクに戻る。しかし、バスの事情がよくわからない。この街始発のバスがあるのかどうかーーー。長距離になるので、出来たらVIPバスか1等エアコン・バスに乗りたいしーーー。フロントの女の子に相談する。ただし、英語はほとんど通じない。「11時発のVIPバスがあり、予約が可能だ」とのことなので、予約を頼んだ。夕食から帰り確認すると、「電話をしたが予約は取れなかった。明日の朝、もう一度電話をしてくれと言われた」と子供の使いのような返事。「では、明日もう一度電話をしてくれ」と頼んで引き上げたが、どこまで通じたのか多分に疑問である。最悪、2等バスを乗り継いで行くことも覚悟せざるをえないかーーー。
2月9日。イサーンの旅を終え、今日はいよいよバンコクへ戻る。昨日、バスのチケットをフロントに頼んだが、あてにできそうもない。バスターミナルへ行って、自分で何とかしなければならないだろう。7時30分、チャックアウトするべく荷物をまとめてフロントへ行く。すると女の子が「11時発のVIPバスの予約がとれた」という。よかった、よかった。それではチェックアウトするにはまだ早すぎる。部屋に戻る。ふと思いついて、バンコクのホテルに電話して今晩の予約をとる。おそらく、バンコク着が19時~20時となる。夜遅く宿探しをするのはいやである。 10時、改めてチェックアウト。「バスのチケットはバスターミナルの窓口で料金引き換えに取得せよ」とのことである。トゥクトゥクを捉まえてターミナルへ行く。例によって、男が「どこへ行く」と声を掛ける。「11時のVIPバスを予約ずみだ。チケット窓口はどこだ」と私。「こっち、こっち」と男はプラットホームに私を連れ出す。1台の発車間際のバスが停まっている。「このバスだ。切符はそっち」と男。切符売りのおばさんが切符を切ろうとする。どうもおかしい。バスはバンコク行きだが、2等エアコンバスである。「このバスは違う。騙す気かーーー」私が語気を強める。「バレタか」と男はニヤニヤ。危ない所であった。 改めて、チケット販売窓口に行くが、民間バス会社の窓口がすらりと並び、しかもタイ語のみ。さっぱり分からない。3カ所ほどで聞いてようやく窓口にたどり着いた。チケットを入手してやれやれである。始発ではなく、ムクダハーン(Mukdahan)からのバスのようである。
マハ・サラカムの街までは来たときと同じ道である。ただし。今度はバスターミナルへ寄ることもなく、西に向う。窓外には、田圃、林、小集落と変化のない景色が続く。主要国道2号線に出て、一路南下する。もうバンコクまで1本道である。2時間半ほど休みなく走り、13時30分、ドライブインで昼食休憩となった。驚いたことに、VIPバスの乗客は昼食代が無料である。レジでチケットを提示するだけでよい。VIPバスにはこんなサービスがあったのだ。知らなかった。 ナコーン・ラーチャシーマー(コラート)の街を過ぎ、4時過ぎにドライブインで5分ほどのトイレ休憩。見覚えのあるLam Takhong貯水湖を右手に見て、サラブリ(Saraburi)の街を過ぎると、窓外の景色は雰囲気を大きく変える。道路が頻繁に立体的に合流分岐し、街並みが頻繁に現れる。夕日が大きく傾きだしている。やがて、街並みは途絶えることがなくなり、バンコクが近いことが知れる。ドンムアン空港が現れた。バンコク到着である。ついに夕日が、ビルの向こうに消えていく。 18時半過ぎ、バスはバンコク北バスターミナルに到着した。ラオ北部周遊とイサーンの旅の終焉である。
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