おじさんバックパッカーの一人旅   

タイの偉大なる田舎 イサーンの旅

ノーンカイ、ウドーン、コーンケン、ローイエット 

2010年2月5日

         〜9日

 
第1章 国境の街・ノーンカイ(Nong Khai)

 2月5日。ビエンチャン発の国際バスは、国境を越えて、11時30分、タイ・ノーンカイのバスターミナルへ到着した。隣りの席の日本人は、今晩の夜行列車でバンコクへ戻るとのことで、ここで別れた。さて、いよいよイサーンの旅が始まる。
 
 「イサーン」とはタイ東北地方の別称である。サンスクリット語で東北を守護するシバ神を意味する「イシャーナ」が語源といわれる。面積、人口ともタイ全体の1/3を占める広大な地域である。そして、イサーンはタイの中のラオである。イサーンの住民の80%はラオ族である。ラオ族は、もちろん、ラオ人民共和国(ラオス)の主要民族であるが、本国における人口は約380万人である。これに対し、イサーンには約1500万人が暮す。いわばイサーンが今やラオ族の本拠地なのである。歴史の中で引かれた国境線がラオ族を2分してしまった。イサーンで話されている言葉は、タイでイサーン方言と呼ばれるラオ語である。主食も、タイで一般的な「うるち米(カオ・チャーオ)」ではなく、ラオ族の主食である「もち米(カオ・ニャオ)」である。

 イサーンの大部分はコラート高原と呼ばれる標高150〜200メートルの平原に位置する。年間平均降雨量は1200ミリと少なく、おまけに乾期と雨期の差が激しい。このため、しばしば旱魃と洪水に悩まされる。天水に頼る農業は生産性が低く、タイの典型的な後進地域である。このため、バンコクなどの歓楽街で働く女性にはイサーン出身者が多い。

 以上のような背景があるため、イサーンおよびイサーンの人々は中央のタイ人(主としてタイ国の主要民族であるシャム族)からいまだに「ラオ」と呼ばれる。「ラオ」とは多分に蔑みの意を含んだ言葉である。一方、「イサーン」は広大な田舎のイメージから郷愁を呼び起こす言葉でもある。「イサーン料理」は多くのタイ人に好まれ、タイ料理の一角を占めている。
 
 先ずは、今晩の宿を確保しなければならない。寄ってきたおばちゃん運転手のトゥクトゥクで案内書に載っていたマット・ミーガーデンG.H.へ行く。木々の茂る広大な庭にバンガローが点在する大きなG,H.であった。受付が何と、白人の女性。しかし、流暢な英語で満室だと断られてしまった。仕方がないので、歩いて近くのキアン・コーンG.H.に行くが、ここも満室。一体どうなっているんだ、観光地でもないノーンカイに旅行者が押し寄せているとは思えないのだがーーー。少々焦る。隣りのルアン・タイG.H.でようやく部屋を確保でき、やれやれである。このG.H.もすぐに満室になってしまった。

 ノーンカイはメコーンに面した国境の街である。ラオの首都ビエンチャンは、メコーンの向こう、わずか25キロの距離である。この街が造られたのは1827年である。タイに対し反旗をひるがえしたビエンチャン王国のアヌ王を討伐する戦いによりビエンチャンは廃虚と化した。このため、ビエンチャンに代わる都市として建設され、以降、ラオに対するタイの監視支配の拠点としての機能を担った。また、ラオがフランスの植民地となった後は、ラオへの貿易拠点として発展した。しかし、1893年のシャム危機(フランスがメコーン左岸の割譲を迫り、バンコク港を武力閉鎖した事件)により、メコーン右岸25キロ範囲からタイの公権力が撤退する条約がフランスと結ばれた。このため、ノーンカイの公的機能は南方25キロに新たに建設されたウドーン・ターニーの街に全て移され、ノーンカイの役割は減少した。

 しかし、第二次世界大戦後ラオが独立すると、ラオ親米政権へのてこ入れ拠点としての役割が増し、1955年にはウードン・ターニーで止まっていた鉄道がノーンカイまで延長され、1965年には米国の援助により、バンコクと結ぶミットラパープ道路(フレンドシップ・ハイウェー)も開通した。インドシナ戦争後ラオの共産化によりノーンカイの役割はいったん減少したが、1980年代後半以降のラオの開放政策により再びラオへの窓口として重要度が増した。1994年にはオーストラリアの援助で、メコーン最初の架橋であるフレンドシップ・ブリッジ(友好橋)が開通し、タイとラオを結ぶ最重要ルートとなった。さらに2009年には友好橋に鉄道が開通し、ノーンカイから列車でラオに入国できるようになった。
 
  宿に荷物を置くと、すぐに街に出た。G.H.の道1本北側が大河・メコーン(Mae Nam Khong)であった。川沿いには素晴らしい遊歩道が設けられている。対岸はついさっきまでいたラオだ。家々まではっきり見える。上流には友好橋が見え、足下の船着き場からはラオとの間を小舟が頻繁に行き交っている。国境の風景は心を惹きつける。遊歩道をのんびりと歩む。所々に休憩舎がある。ぎらぎらと照りつける太陽を避け、ベンチに腰を下ろして心ゆくまでメコーンの流れを見つめる。

 遊歩道沿いには洒落たレストランが並んでいる。今晩の夕飯はここにしよう。OTOP(一村一品運動)の店もある。大きな龍のオブジェが建っていた。ノーンカイの象徴で、メコーンに住むと語り継がれている竜王パヤ・ナークである。毎年10月〜11月の満月の夜、メコーンの水面から火の玉が立ち上る怪現象が見られる。パヤ・ナークの吐きだす火の玉だと言われている。

 遊歩道のすぐ裏がターサデット市場であった。アーケードに沿って小さな店がぎっしりと並んでいる。日用雑貨を扱う店が目に付く。人々で大いに賑わっているが、国境のマーケットに付き物の怪しい雰囲気はまったくない。

 街の中心を横切り、東端にあるワット・ポー・チャイ(Wat Pho Chai)を目指す。ちょっと遠いが、未知の街は歩くに限る。街は賑やかである。大きなショッピングモールこそないものの切れ目のない商店街が続く。ラオからやって来た身にとっては隔世の感がある。途中バスターミナルに寄って、明日のウドーン・ターニー行きバスの時刻を確認する。バスは沢山あり、発車時刻を気にする必要はなさそうである。バスターミナルの南側は市場となっていた。こちらは生鮮食料品が中心である。真っ昼間のためか、休業状態であった。

 ワット・ポー・チャイはそこからすぐであった。本尊のルアン・ポー・プラ・サイ仏はノーンカイ周辺で最も崇拝を集めている仏像である。「もともと、ラオのラーン・サーン王国で祀られていたが1778年にタイの軍勢に略奪された。しかし、タイに持ち去られる途中、メコーンに落ちてしまった。所が不思議なことに、数年後に浮かび上がった」と言い伝えられている。本堂に上がり、仏前に座す。金色に輝く小さな仏様である。次から次へと参拝者が訪れ、深い祈りを捧げていく。門前は大いに賑わっており、観光バスも含め参拝者の列が絶えない。

 今度は街の西端にあるホー族鎮圧記念碑を目指す。街を縦断する3キロほどの道程である。真昼の太陽がじりじりと照りつける。コンビニを見つけ、ジュースを買ってひと休みする。小1時間後にようやく到着した記念碑は市庁舎の前の広場に建っていた。思いのほか小さなもので、わざわざ見に来るほどのものではなかった。ホー族とは、実態はよくわからないようだが、特定の民族ではなく中国雲南省に巣くった匪賊らしい。1872年、突如ラオ北部への侵略を開始し、ルアンプラバン、ビエンチャンを瞬く間に席巻した。1886年にはついにメコーンを渡り、タイ領内への進出する事態となったが、タイはかろうじてこの地点で攻撃を阻止した。

 くたびれた足を引きずりG.H.へ戻る。途中、セブンイレブンでタバコを買おうとしたら、売っていない。タイではタバコの規制が日増しに強まっている。日暮れを待って再びメコーン岸辺の遊歩道を歩く。対岸のラオにも明かりが灯り、友好橋の灯がメコーンを横切って連なる。遊歩道には売春婦が何人か現れ、ぶらぶらしている旅行者を誘う。メコーンを眺めながら夕食としたのだが、その1人が私のテーブルに座り込んでしつこく誘う。食堂のおばさんがそれに気づいて、ようやく追い払ってくれた。夜の21時過ぎから激しい雷雨がやって来た。

 
 第2章 北イサーンの中心都市・ウドーン・ターニー(Udon Thani)へ

 2月6日。今日は北イサーンの中心都市ウドーン・ターニーへ向う。9時過ぎにチェックアウと、トゥクトゥクでバスターミナルへ行くと、発車間際のウドーン・ターニー行きバスが待っていた。9時40分に発車したのだが、例によって、客を求めて数メートル動いてはストップの繰り返し、その都度に客が現れるから不思議である。やっとターミナルを出たと思ったら、またストップ。今度は車掌がバスを降りて、客を探し始めた。何という執念深さ、あきれるよりも感心した。10時、バスはようやくまともに走り出した。

 ウドーン・ターニーはノーンカイの南50キロほどに位置し、イサーンの4大都市の一つである(他の3つは、ナコーン・ラーチャシーマー、ウボン・ラーチャターニー、コーン・ケン)。街の名前は「北の都」を意味する。一般的には「ウドーン」と省略形で呼ばれている。

 この街の歴史は新しい。街の建設は1893年の「シャム危機」に始まる。この年、植民地主義の醜い牙をむき出しにしたフランスは、タイに対し、メコーン左岸全土の割譲と右岸の25キロ範囲を中立緩衝地帯とする要求を突きつけた。タイにとっては国家存亡の危機であった。タイはこの屈辱的要求をのみ、かろうじて独立を維持した。このため、メコーンの右岸にあり、それまでノーンカイが果たしてきた国境警備の役割を担うべき都市としてウドーン・ターニーの街が急遽建設された。そしてまた、インドシナ戦争の際に、米軍の大規模な空軍基地がこの街に建設された。このことが街の急速な発展をもたらした。

 バスは約1時間でウードン・ターニーの街入り口に到着した。大多数の乗客がここで降り、控えているソンテウに乗り換える。勝手がわからず、私はそのまま乗り続ける。バスは大きく街を半周するように走り、11時過ぎ、街西郊外の新バスターミナルへ到着した。周りに街並みもなく、閑散としたターミナルである。どうやら、街の中心に行くには先ほどのバス停で降りるべきだったようである。かろうじて、トゥクトゥクが1台いた。この街は、バックパッカーが訪れる街でもないのでG,H,はないようである。案内書に載っているウドーン・ホテルを指示する。到着したホテルは、大きなたたずまいだが、建物も古めかしく、宿泊者がいる様子もない。料金は朝食付きで520バーツと安い。部屋も立派であり不満はない。

 洗濯を済ませて街に飛びだす。ただし、この街には特段見所はない。先ずは北に向う。県庁の裏は大きな緑地帯となっていてその一角にラク・ムアン(市の柱)があった。さらに少し進むと、道はノーン・プラチャック公園に突き当たる。大きな池とその中に浮かぶ島からなる公園である。岸辺は芝生に覆われ、その中に木々やベンチが点在している。実に美しい、タイらしからぬ公園である。照りつける太陽の光は強烈だが、何人かの市民が木陰で憩い、或いは散策を楽しんでいる。

 戻って、今度は街の中心部に向う。街中には大きな交叉点が3つあり、いずれも特徴あるロータリーとなっている。3つのロータリー踏破を目指し炎天下を歩く。「時計台ロータリー」には時計がなく、温度計の電光掲示板が掲げられていた。気温は31度を標示していた。「噴水ロータリー」には噴水が出ていない。「プラチャック王子ロータリー」には、ラーマ5世の弟で、この街の建設者であるプラチャックの銅像が建っていた。街は非常に賑やかであり、大きな商業施設こそ見当たらなかったが、街並みが途切れることなくどこまでも続いている。この街の道路は碁盤の目になっておらず、多くが斜めに交差する。このため、方向感覚を保つのにかなり苦労した。

 夕食がちょっと困った。ホテルに大きな食堂はあるが営業していない。近所にもまともなレストランは見当たらない。その代わり、店先でイサーン名物のカイ・ヤーン(タイ風焼き鳥)を焼く煙をもうもうとたてている大衆食堂が何軒かある。その中の1軒に入り、カイ・ヤーンとカオニャオを注文する。大きな焼き鳥はとても1人では食べきれなかった。明日はコーン・ケンに向う。

 
 第3章 イサーンのモデル都市。コーン・ケン

 2月7日。コーン・ケンはイサーンのほぼ中央に位置する大都市である。この街の歴史は1783年に300人ほどの農民を引き連れてビエンチャンから逃れてきたラチャックルルアンがこの地に入植したことに始まる。しかし、この都市が大いに発展したのは1962年、東北タイ開発計画モデル地域に指定されたことによる。1966年にはイサーン最初の総合大学・コーン・ケン大学も開校した。さらに、現在、中国が進めている南北回廊(雲南省・昆明とバンコクを結ぶ道路)と、日本の援助で進められている東西回廊(ベトナムのダナンからインドシナ半島を横断してミャンマーのモーラミャインに達する道路)が、このコーン・ケンで交わることから更なる発展が約束されている。

 前の晩、フロントの女の子にコーン・ケンへの行き方を聞くと、長距離バスターミナルからバスが頻発しているとのことである。この街にはバスターミナルが3つもあるのでややこしい。バスターミナルまではトゥクトゥクで行けとのことで、紙に「長距離バスターミナルまで。40バーツ」とタイ語で書いてくれた。これを運転手に見せればよい。

 8時半過ぎチェックアウト。玄関先にいたトゥクトゥクの運転手に紙を見せると、50バーツだと抵抗する。「それじゃいいや」と去ろうとすると、慌てて追いかけてきて「OK OK」。到着したバスターミナルではコーン・ケン行きバスがエンジンをかけて待っていた。9時10分発車、ただし例によって、客を求めて、進んだり止まったり。その度に客が現れるから不思議である。ようやく郊外に出て、順調に走り出した。

 変化のないイサーンの景色が続く。後ろの席の2人連れの男が絶え間なくしゃべり続けてうるさい。タイの男は概しておしゃべりである。トイレ休憩もなく2時間も走ると、コーン・ケン大学の標示を見る。バスは国道を離れ、街並みに入った。11時30分、終点のバスターミナルへ到着、数10のプラットホームの並ぶ実に巨大なターミナルである。英語標示もなく、これでは明日、ローイ・エットへ行くとき、バス探しに苦労しそうである。

 この街にもG.H.はなさそうなので、近くのコーンケン・ホテルへ行く。7階建ての大きなホテルであるが料金は650バーツと安い。部屋もベランダが付いており満足である。すぐに街に出る。この街も特に見所はない。先ず目指すのは、街の北外れにあるコーンケン国立博物館である。今日もいい天気で日差しが強い。大きな緑地帯となった公園、市役所とゆったりした街並みが続く。銃の連続発射音がするので行ってみると、射撃場であった。本物の銃を撃つことが出きる。日本では考えられないことだが、タイ、ベトナム、フィリピン、韓国などにはこういう施設がある。

 30〜40分も歩くと、街並みが途絶えた先に目指す国立博物館があった。芝生の敷き占められた庭園風の広大な敷地を持つ。しかし、本館前には大型観光バスが3台横付され、館の内外を大勢の若者が無秩序に騒ぎまくっている。とても、静かに博物館を見学する雰囲気ではない。展示物は思ったほどではなかったが、バーン・チェン遺跡出土の土器を見ることが出来た。紀元前3600年ごろまで遡るインドシナ半島最古の農耕古代文明である。見学を終え、入館時に預けた荷物を受け取ろうとすると、受付の女の子が妙にそわそわしている。去ろうとすると「さようなら」と日本語で言うではないか。この言葉を言いたくて、そわそわしていたようである。かわいい女の子であった。庭には古いバイ・セーマー(寺院の聖域を示す結界石)が数多く展示されている。中にはドヴァーラヴァティー時代のものもある。

 さて、続いてコーン・ケンの街を探索しよう。現在、街の北端にいる。街を縦断して、南端にある鉄道駅まで歩いてみるか。4〜5キロだろう。巨大なバスターミナルの前は市場であった。生鮮食料品売り場を中心に、あらゆる種類の小さな店が路地いっぱいにひしめいている。その一角の大衆食堂で遅い昼飯を食べていたら、坊さんに道を聞かれた。タイ人と思われたようである。

 1時間も歩くと、ラク・ムアン(市の柱)に行き当たった。なかなか立派な祠である。その隣りにはプラ・メー・トラニー(自らの髪をしぼって洪水をおこし、悪魔からブッダを護ったと伝えられている大地の女神)の像が祀られていた。ディスコやバーが立ち並ぶ道を進むと、左手に近代的な高層ビルが聳え立つ。ソフィテル・ラジャ・オーキッド・コーケンというコラート随一の超最高級ホテルである。ちょっと立ち寄ってトイレを拝借。なおも、くたびれ果てた足を引きずって進むと、途切れた街並みの先にコーン・ケン鉄道駅があった。かわいらしい小さな駅であった。

 今度は街の中心部を通って宿に向って引き返すことにする。3〜4キロはあるだろう。メインストリートであるクラン・ムアン(Klang Muang)通りを北上する。ここにも大きな市場がある。歩道は露店の列である。人通りも多く、街は大賑わいである。夕闇の迫るころ、ようやく宿にたどり着いた。くたびれ果てたが、コーン・ケンの街をほぼすべて歩き通したとの満足感はある。夕食に近くの食堂に行った。何と、メニューに日本食があるではないか。数週間ぶりに食べた日本食の、何と美味かったことか。
 

 第4章 情緒溢れる小さな街・ローイ・エット(Roi- Et)へ

 2月8日。今日はイサーン中央部の小さな街・ローイ・エットに向う。前々から行ってみたいと思っていた街である。この街に魅かれた理由が幾つかある。先ず、街の名前である。「ローイ・エット」はタイ語で数字の「101」を意味する。何とも変わった都市名である。二つ目は街の形である。一辺約2キロの正方形をしている。しかも街のど真ん中に真ん丸の大きな池がある。まるで絵に描いたような整った形である。三つ目に、その正方形の街を環濠と城壁が囲んでいることである。いまだに環濠と城壁が残っている街は珍しい。

 伝説によると、今から2,000年前、この街は大いに栄え、101の属州を持っていたとのことである。街の名前の由来である。伝説はともかく、街の周辺にはドヴァーラヴァティー時代やクメール時代の遺跡も多く残っており、古くから開けた地域であったことは確かである。街はいったん廃れたが、18世紀後半、ラオのチャンパーサック王国から入植した人々により再興された。

 7時30分チェックアウト。歩いてバスターミナルへ向う。あの巨大なバスターミナルで、果たしてローイ・エットへ行くバスを見つけられるか大いに不安である。そもそも、直通バスがあるのかどうかも分からない。ターミナルへ入っていくと、いつものように「どこへ行く」と声がかかった。「ローイ・エット」と3度言うが通じない。案内書のタイ語標示を見せてようやく通じた。男は「ここで10分ほど待て」とプラットホームの椅子を指し示す。何やらよく分からないが、指示に従う以外にない。10分ほどすると、再び男が現れ「ついてこい」と言って、ターミナル脇の道路に連れ出された。男はやってきた1台の2等エアコンバスを停め、「これに乗れ」と指示する。ウドーン・ターニー発ウボン・ラーチャタニー行きのバスであった。こんなバスを一人で見つけられるわけがない。大助かりである。

 バスは50%ほどの乗車率であったが、停留所ごとに乗客が増え、市街地を抜ける頃には80%ほどになった。冷房が効きすぎて寒い。郊外にでたところのガソリンスタンドで給油兼トイレ休憩となった。コーン・ケンのバスターミナルでは休憩しなかったようである。

 すぐに国道2号線を離れ、地方道の208号線に入る。小さな集落が時々現れるだけの変化のない景色が続く。小さな街を一つ過ぎ、9時30分、街並みに入った。セブンイレブンが幾つもある比較的大きな街である。「どこだろう」と車窓を注視すると、「Maha Sarakham University」の標示が見えた。マハ・サラカムの街である。バスターミナルでトイレ休憩となった。

 ここから、素晴らしい道となる。右側に大きな湖水が見えた。若い男の車掌が乗っているのだが、勤務態度はかなり悪い。時々、最後尾の座席にふんぞり返って、携帯電話でぺちゃくちゃ話し続けている。30〜40分行くとまた大きな街並みに入った。どこだろう。時間的にはまだローイ・エットではないと思うがーーー。バスターミナルへ入ったが、英語標示もなくどこだかか分からない。バスは休憩することもなくすぐに発車した。街並みがドンドン濃くなる。胸騒ぎがする。懸命に車窓に眼を走らす。大きな建物が現れた。門柱に「ローイ・エット県庁」との英語の標示を見つけた。大慌てして、隣りの女の子に「ここはローイ・エットか」と聞くも言葉が通じない。車掌のところにすっ飛んでいって確認すると、「ローイ・エットだ」という。「止まれ!  降りる」と大声をあげる。

 バスを降り、道端に座り込んでホットひと息つく。危ない所であった。時刻は10時半、コーン・ケンからわずか2時間半で着いてしまった。案内書の地図を眺める。どうやらここは街の中心部だ。バスターミナルで降りそこなったおかげで、かえって好都合であったようである。この街にもG.H.はないようだ。旅の最後だ、今日はこの街一番の高級ホテルへ泊まってやろう。地図を頼りにローイ・エット・シティー・ホテルへ行く。1流ホテルのたたずまいだが、料金は朝食付き990バーツと思いのほか安かった。

 洗濯をすませて、街に出る。今日もカンカン照りである。先ずは、ローイ・エットの象徴と言われる巨大仏像の立つワット・ブラーパー・ピラーム(Wat Burapha Phiram)を目指す。この寺に建つプラ・プッタ・ラッタナー・モンコン・マハー・ムニー(Phra Buddha Rattana Mongkol Maha Muni)仏は、台座も含め高さが67.85メートルもあるタイ1番の背高仏である。街のあちこちから家並みの間に金色に輝く姿を仰ぐことができる。ちなみに、世界一の背高仏は、日本の茨城県牛久市に建つ牛久大仏の高さ100メートルである。10分ほどで到着した寺は、境内に学校を併設していて、子供たちの声がにぎやかに響いていた。見上げる仏像は確かに巨大ではあるが、何となく違和感があり、ありがたみは感じられない。宗教的対象というより、観光対象との観が強い。台座の中に仏像が納められていて、何人かが熱心に祈りを捧げていた。

 寺の裏手に、街の東を区切る環濠と城壁が続いていた。幅10メートルほどの環濠には噴水などもあり、きれいに整備されている。その内側に続く城壁は高さ2メートルほどの土盛である。ちょうどプレーの街の環濠と城壁と同じ構造である。芝生で覆われた城壁に座り、しばし、ローイ・エットの街並みを眺める。

 道を適当に辿りながら、ぶらりぶらりと西に進むと、立派な寺に行き当たった。Wat Klang Ming Muangとの標示がある。説明書きにはローイ・エットで一番古い寺院とある。さらに西に進むと、生鮮食料品を扱う大きな市場があった。この小さな街に不似合いなほど大きい。道を南に進むと、街の中心に大きく広がるプラーンチャイ湖の辺にでる。周囲1.5キロほどの湖水で真ん中に大きな島が浮かんでいる。湖の見学は後回しにして、東側に広がる街の繁華街を歩く。これまで訪れた3都市に比べるとずいぶん小さいが、それでも賑やかな街並みが続く。高層ビルや大型ショッピングモールなどはない。

 湖の南側から橋を渡って島に入る。ここに立派なラク・ムアン(市の柱)があった。湖水には噴水が立ち上り、島は木立の中にベンチなどが点在する。なかなか良い雰囲気である。散策している人も多い。北側の橋を渡って島を出る。この辺りも小さいながら繁華街になっている。街の西端にあるワット・ヌア(Wat Neua)を目指す。「北の寺」を意味するこの寺はローイ・エットの代表的な見所である。道は意外に遠かった。商店街も終わり住宅地となった道を20分も進むと、右側に小学校があった。どうもよく分からないが、目指す寺はその奥のようである。

 山門を潜る。誰もいない。参拝者どころか僧侶の姿もない。まったく人の気配がないのである。不思議な寺である。案内書に載っている壁のない礼拝堂がある。柱だけで屋根を支えている。同じような構造の礼拝堂がランパーンのワット・プラ・タート・ランパーン・ルアンにあったことを思い出す。上がり込んで仏前に座す。壁がないので周囲からの光が溢れ、何となく落ち着かない。庭の一角に大きな菩提樹が茂り、その前に黒ずんだ古色蒼然たる仏塔がある。下膨れした珍しい形をしている。この仏塔こそが、8世紀のドヴァーラヴァティー時代に建てられたと考えられているプラ・サトゥープ・チェディ(Phra Satup Chedi)である。「ローイ・エット」の地名とともにこの街の悠久の歴史を語っている。夕暮れの迫った道をホテルに戻る。

 明日はいよいよバンコクに戻る。しかし、バスの事情がよくわからない。この街始発のバスがあるのかどうかーーー。長距離になるので、出来たらVIPバスか1等エアコン・バスに乗りたいしーーー。フロントの女の子に相談する。ただし、英語はほとんど通じない。「11時発のVIPバスがあり、予約が可能だ」とのことなので、予約を頼んだ。夕食から帰り確認すると、「電話をしたが予約は取れなかった。明日の朝、もう一度電話をしてくれと言われた」と子供の使いのような返事。「では、明日もう一度電話をしてくれ」と頼んで引き上げたが、どこまで通じたのか多分に疑問である。最悪、2等バスを乗り継いで行くことも覚悟せざるをえないかーーー。

 
 第5章 バンコクへの帰還

 2月9日。イサーンの旅を終え、今日はいよいよバンコクへ戻る。昨日、バスのチケットをフロントに頼んだが、あてにできそうもない。バスターミナルへ行って、自分で何とかしなければならないだろう。7時30分、チャックアウトするべく荷物をまとめてフロントへ行く。すると女の子が「11時発のVIPバスの予約がとれた」という。よかった、よかった。それではチェックアウトするにはまだ早すぎる。部屋に戻る。ふと思いついて、バンコクのホテルに電話して今晩の予約をとる。おそらく、バンコク着が19時〜20時となる。夜遅く宿探しをするのはいやである。

 10時、改めてチェックアウト。「バスのチケットはバスターミナルの窓口で料金引き換えに取得せよ」とのことである。トゥクトゥクを捉まえてターミナルへ行く。例によって、男が「どこへ行く」と声を掛ける。「11時のVIPバスを予約ずみだ。チケット窓口はどこだ」と私。「こっち、こっち」と男はプラットホームに私を連れ出す。1台の発車間際のバスが停まっている。「このバスだ。切符はそっち」と男。切符売りのおばさんが切符を切ろうとする。どうもおかしい。バスはバンコク行きだが、2等エアコンバスである。「このバスは違う。騙す気かーーー」私が語気を強める。「バレタか」と男はニヤニヤ。危ない所であった。

 改めて、チケット販売窓口に行くが、民間バス会社の窓口がすらりと並び、しかもタイ語のみ。さっぱり分からない。3カ所ほどで聞いてようやく窓口にたどり着いた。チケットを入手してやれやれである。始発ではなく、ムクダハーン(Mukdahan)からのバスのようである。

 11時5分、5分遅れでバスがやって来た。24人乗りのVIPバスである。ローイ・エットから乗り込んだのは2人だけであった。バスは休憩することもなく、すぐに発車した。さすがVIPバス、乗り心地は満点である。トイレは付いているし、横2座席+1座席で実にゆったりしている。もちろん、フルリクライニングシートである。車掌が1人乗車している。すぐに、パーンケーキとミネラルウォーターが配られた。乗客は皆、紳士淑女で静かである。

 マハ・サラカムの街までは来たときと同じ道である。ただし。今度はバスターミナルへ寄ることもなく、西に向う。窓外には、田圃、林、小集落と変化のない景色が続く。主要国道2号線に出て、一路南下する。もうバンコクまで1本道である。2時間半ほど休みなく走り、13時30分、ドライブインで昼食休憩となった。驚いたことに、VIPバスの乗客は昼食代が無料である。レジでチケットを提示するだけでよい。VIPバスにはこんなサービスがあったのだ。知らなかった。

 ナコーン・ラーチャシーマー(コラート)の街を過ぎ、4時過ぎにドライブインで5分ほどのトイレ休憩。見覚えのあるLam Takhong貯水湖を右手に見て、サラブリ(Saraburi)の街を過ぎると、窓外の景色は雰囲気を大きく変える。道路が頻繁に立体的に合流分岐し、街並みが頻繁に現れる。夕日が大きく傾きだしている。やがて、街並みは途絶えることがなくなり、バンコクが近いことが知れる。ドンムアン空港が現れた。バンコク到着である。ついに夕日が、ビルの向こうに消えていく。

 18時半過ぎ、バスはバンコク北バスターミナルに到着した。ラオ北部周遊とイサーンの旅の終焉である。
     
                                                (完)

 

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