おじさんバックパッカーの一人旅   

タイ民族揺籃の地 西双版納を目指す陸路の旅 (4)

越南に流れゆく瀾滄江の岸辺に座し、遥かなる旅路を思う

2005年1月31日

 〜2月5日


 
   第36章  ジンホン(景洪)へ向うバスの旅

 1月31日月曜日、いよいよ今日は州都・ジンホン(景洪)に向う。長かった旅の最終行程である。朝から何やら胸が高まる。100里を行く者は99里をもって半ばとする。それでも99里までは来た。8時半過ぎ、ザックを背負い、バスターミナルへ向う。街は霧に包まれている。ジンホン行きのバスは20分毎に出ているので、時間を気にする必要はない。昨日の経験で、チケット購入の勝手も分かっている。9時発のチケットを45元で得ることができた。うち、1元は傷害保険となっていて、1万元の傷害死亡保険証がチケットとともに渡された。バスは10数人乗りのワゴン車である。

 定員いっぱいの乗客を乗せて、バスは定刻にモンラーのバスターミナルを出発した。これから約4時間の旅である。乗客のうち、外国人は私1人であった。すぐに山道となった。霧に包まれたモンラーの街が眼下となり、次第に視界から消えていく。さすが州都に向う道、両側2車線と狭い道ながらも、確り舗装されている。通る車も多い。バスは巧みなハンドルさばきで、遅い車を次々と抜いていく。

 山を越えると小さな平地に出る。そしてまた山間に入る。その繰り返しが、どこまでも続く。平地は青々とした田んぼが広がり、山裾には高床式の小さな集落がみられる。タイ族の集落だろう。高床式はタイ族の住居の特色である。周囲の山は、中国に入国した際に気がついた通り、梢に茶色の葉を散り残す広葉落葉樹の純林である。どこまで行っても、この林一色である。何か不思議だ。と、その時ひらめいた。「そうか、そうだったんだ」。これらの林はすべてゴムの樹なのだ。どこかで読んだ西双版納に関する文章の中に、「どこまでもゴムの樹の林が続く」という一節があったことを思い出した。よく目を凝らして木々を見ると、表皮が傷つけられ、樹液採取用の椀が取り付けられているものもある。間違いない。それにしても、なんという大規模な自然改造なのだろう。どこまで行っても、どこまで行っても、すべてゴムの林なのだ。他の樹木の林などひとつもない。ここまで徹底するとは、やはり社会主義国・中国である。

 ゴムの木は、元々この地にあった樹木ではない。1950年代にマレーシアから移植された。帰ってから調べてみると、ゴムの木は熱帯雨林においては、常緑樹であるが、乾期のある亜熱帯では、落葉樹として振る舞うとのことである。

 小集落で何人かの乗客を入れ替えながら、バスはひたすらジンホンを目指す。大きく山を下って、孟醒農場(注 "孟"は右に旁として"力"が付く)の小さな街並みで10分ほどのトイレ休憩をし、さらに川を渡って、孟倉(注 "孟"は右に旁として"力"が付く)のバスターミナルへと滑り込んだ。モンラー(孟臘)を出発してから2時間、ジンホンまでのちょうど中間地点である。30分の昼食休憩だという。ターミナルには食堂はないが、発着場となる広場の周りには露店が幾つか並び、果物や軽食が売られている。

 広場はまさにゴミの山である。食べ残しの残飯、果物の皮、軽食の容器、紙くず、煙草の吸い殻、ありとあらゆるゴミが散らばり、壮観である。これこそ中国を象徴する景色である。中国に入国して気がついたのだが、この国にはごみ箱はない。灰皿もない。ゴミはすべて地面に投げ捨てるのである。これは、屋外だけでなく屋内でも同じである。食堂の床はまさにゴミの山である。肉や魚の骨、あるいは使った紙ナプキンや煙草の吸い殻などは、そのまますべて床に捨てる。気持ちいいほど、抵抗なく捨てる。客の去ったテーブルの周りは、汚いなどという表現を遥かに越えている。

 しかし、不思議なことに、翌日になると、すべてのゴミはきれいに片づけられている。ゴミ収集システムがしっかりしている感じである。この点、東南アジア諸国はゴミを散らかすという悪しき習慣はないが、ゴミ収集システムが不備なため、市場の周りなどは何日分ものゴミが散らかり、実に汚い。

 再びバスは走り始めた。いよいよ最後の最後の行程である。やがてバスは孟寛(注 "孟"は右に旁として"力"が付く)の大きな盆地に入る。見渡すかぎり稲田が広がり、その中に小さな集落が点在している。典型的な米作アジアの農村風景である。このままジンホンまで平地が続くのかと思ったら、再び山に入った。そしてすぐに再び平地に下った。ここも大きな盆地だ。椰子の並木の続くきれいな街並みが現れた。どこだろう。車外に目を凝らすと、孟罕(注 "孟"は右に旁として"力"が付く)という字がみえた。ガンランバー(橄欖霸)とも呼ばれる地である。いずれ、この地には改めて来るつもりでいる。バスは再び山道に入った。

 いつしかバスは、大きな川の上部を高捲く山道をうねうねと進みだした。その時、はっと気がついた。遥か下を激流となって流れているのは、瀾滄江、すなわちメコン川のはずだ。なんて馬鹿な、そのことにも気がつかず、ぼんやり外を眺めていたとは。ついに、メコン川に出会えたのだ。ラオのシェーンコック村で別れて以来、この川に再会することを楽しみに、ひたすら遥かなる旅を続けてきた。今、目の前に、瀾滄江とその名を変えた久恋の川が滔々と流れている。そして、数十分の後には、旅の終着駅・ジンホンに着くはずだ。胸に熱い思いが込み上げてくる。

 やがてバスは山を下り、大きな平地に入った。行く手に幻のごとく、大きな街並みが見えてくる。ジンホンだ!  瀾滄江が目の高さに接近し、大きく川幅を広げる。街並みはぐんぐん近づく。そしてついに、バスは、西双版納大橋で瀾滄江を渡り、ジンホンの市街地に入った。ついにやって来た。ジンホンへ。たった1人で。遥かなタイのバンコクの地を旅立ってから10日目、国境を二つも越えてやってきた。「西双版納を目指す陸路の旅」は、今、無事に果たされたのだ。感動が胸に込み上げてくる。バスは市内のバスターミナルへと滑り込んだ。 
 

  第37章  招待所

 バスを降りると、強烈な日差しが振りかかってくる。慌てて、Tシャツ1枚になる。「さて、どこに行こうか」と、荷物を背負ったその時、1人の若い女性が近寄ってきて、何かしきりに話しかける。しかし、さっぱり分からない。やがて女性は、両手を合わせて頬に当て、首をかしげるジェスチャーをする。「ねんね」の仕草である。やっと分かった。ホテルの勧誘のようだ。まさか中国で、ホテルの勧誘があるとは思わなかった。いずれにせよ。どこか安宿を探さなければならない。どんなところか知らないが、ひとまず、付いていってみるか。真っ昼間だし、危険はないだろう。

 女性は大きな通りを横切り、表通りの商店の隙間から裏に入る。そこはごみごみとした、庶民の居住区、古びたアパートが無秩序に並んでいる。その建物の一つに「○○招待所」との看板が掲げられており、そこの2階の受付に連れ込まれた。中国の宿は、おおまかにいうと、規模の順番に、大飯店、飯店、賓館、招待所となる。招待所とは、木賃宿、あるいはラブホテルや娼館を意味する。受付に若い女性が二人いて、「よくいらっしゃいました。さぁこちらへどうぞ」という感じで(もちろん、言葉は一言も分からないが)、3階の部屋に案内された。

 部屋はまぁまぁの広さで、ベッドが二つある。バスルームには、洋式トイレとシャワーがあり、お湯と水の栓がある。お湯栓を指さして、お湯が出るとのジェスチャー。さらに床を指さして「一生懸命掃除をした」とのジェスチャー。「さぁ、それではごゆっくり」と鍵を置いて出ていこうとする。待てよ、泊まるとは決めていない。それに値段も聞いていない。しかし、言葉がまったく通じない。困った。紙に「多少銭」と書いて示す。"How much"の意である。60元との答えが返ってきた。さてどうしよう。まぁ、いいか。これも何かの縁。ベットとホットシャワーがあれば不満もない。それに、60元(約900円)は魅力だ。案内書を見ると、ジンホンには安い宿がなく、最低でも150元はする。200元までは覚悟していた。しかし、外国人の私が、ここへ泊まっていいのだろうか。中国では許可されたホテルのみが外国人を泊めることができるはずである。この招待所が認可を得ているはずがない。

 ベットにねっころがりながら、自分でもおかしくなって、吹き出してしまった。昨日も、少々怪しげな宿に泊まった。今日はついに招待所だ。ますます"深夜特急"の香港編やマレーシア編に近づいてきた。
 

  第38章  ジンホン(景洪)の街

 すぐに街に飛びだす。やらなければならないことが幾つかある。とはいっても、現在位置さえ把握できていない。通りに出て、街路標示や目標となる建物を確認し、「地球の歩き方」に掲載されている市街図と比較しながら、頭の中に地図を作っていく。結論から言うと、掲載されている地図は間違いだらけ。大通りの名称からして違うのだから。おかげで最初は多いに混乱した。モンラーの市街図も間違いだらけであった。「地球の歩き方・雲南編」はガイドブックとして完全に失格である。この後も、事実と違うことが続々と出てきた。昔は、バックパッカーのバイブルとまで言われたこのガイドブックもそろそろ寿命のようである。

 ジンホンは、活気のある、実にきれいな街である。道は広く、歩道や二輪車専用道路が完備され、椰子の並木が洒落た雰囲気を醸し出している。連なる商店もあか抜けしており、ごちゃごちゃしたイメージのある中国の街並みとは大違いである。その上、高層ビルもなく、街全体が開放的雰囲気を漂わせている。ただし、逆に、歴史の重みと、生活の匂いが希薄なような気がしたのは、旅人の贅沢とでもいうのであろうか。しかしながら、この街でも至る所でカードと麻雀が行われている。中国は大丈夫なのだろうかと心配になる。

 ジンホンは雲南省西双版納タイ族自治州の州都である。かつては中国最果ての町の一つであったが、最近はアセアン諸国へのフロンティア都市として発展が著しい。自治州の人口は約80万人、うち、1/3が漢族、1/3がタイ族、残りの1/3が10以上の少数民族と言われている。

 まずは中国銀行に行って両替をする。ようやく、まともに「元」を取得した。次ぎに、Bangkok Airの営業所に行き、バンコクで購入したジンホン→チェンマイの航空券のRe-confirmを行う。カウンターの女性がきれいな英語で対応してくれた。中国入国以来始めて聞く英語である。何か嬉しくなった。「連絡先としてのホテルはどこか」と聞かれたが、招待所の名前を言うわけにも行かない。さらに、レンタ自転車屋を探して、街をあてもなく歩き廻る。明日は1日、ジンホン市内及びその周辺を自転車で探索するつもりである。ガイドブック記載の自転車屋は案の定ない。ようやく一軒の店を見つけひと安心。ついでにインターネットカフェを探してみたが見つからなかった。

 この街を歩いてみても、モンラーと同じく、看板・表札にはあのミャンマー文字らしき文字が併記されている。よくよく考えるに、この地のタイ族の言語ではないかとの気がする。それならば納得できるが、しかし、文字はどう見てもタイ文字やラオ文字とは違う。誰かに確かめてみたいが。

 店先にいくつかのテーブルとイスを並べた簡易食堂で夕食とする。おばさんは愛想がよく、手伝っている15〜16歳の少女も実にかわいい。明日もここへ来よう。それにしても今日は本当によく歩き廻った。おかげで、ジンホンの街は完璧に理解した。宿に帰る。日が暮れると寒い。
 

  第39章  宿を探し、早朝の街を放浪

 部屋のシャワーからお湯が出ない。受付に抗議すると(もちろん筆談)、「ホットシャワーが使えるのは、2階の共同シャワー室だけだ」との返事。部屋の電気もメインライトだけしか点かない。テレビもつかない。だんだん木賃宿の欠陥があらわになってきた。「やっぱり、明日は少しまともな宿を探そう」。隣の部屋からは男女の嬌声が聞こえてくる。

 翌朝8時、荷物をまとめて受付に行くが誰もいない。大声で呼ぶと、後のカーテンが開いて、パジャマ姿の女の子が眠そうな目を擦って出てきた。奥には布団が引かれ、2人の女の子がまだ寝ている。やはり、どうもまともな宿ではない。ひと声かければ、この子たちは夜ベッドへ来るのだろう。

 チェックアウトして街に出る。陽が昇る前の街は寒い。セーターにジャケットまで着ている。まず、ガイドブックに150元とある「版納大厦」に行くも、もはや存在していなかった。次ぎに、180元とある「景咏賓館」に行くが、じろりと見られて、満室だと邪険に断られた。そんなはずはないのだが、この胡散臭い格好が原因だろうか。中国へ入って気がついたのだが、皆、靴を履きこざっぱりした服装をしている。Tシャツにサンダル履きなどという東南アジアスタイルの人はいない。次ぎに行った、120元の「車里賓館」は休業中であった。だんだん侘びしくなってきた。大きなザックを背負い、言葉の通じぬ外国の街を朝からうろうろしている。やっぱり、街のあちこちにある「招待所」を訪ねるべかだろうか。30元〜60元の価格を掲げている。

 車里賓館のすぐ近くに「版納賓館」という大きな庭を持つ立派なホテルがある。行っても無駄だと思ったが、すぐ近くなので、勇を振るって、のこのこ入って行った。が、「料金は390元です」との返事。やっぱりと思い、諦めかけたが、「もっと安い部屋はありませんか」との言葉が口から出た。フロントの男性がしばらく考え、「150元(約2000円)でどうですか」と、耳を疑うようなことを言う。とたんに不安になった。「まさか屋根裏部屋ではないだろうなぁ」。思わず、「部屋を見せて下さい」と言う。男性は苦笑している。案内された部屋は、立派な、まさに390元でもおかしくないの部屋であった。思わず、万歳である。何でこの部屋が150元になったのか、いまもって不思議である。結局、このホテルに4泊した。
 

  第40章  ジンホン(景洪)の風景  (その1 瀾滄江)

 もはや何の懸案事項もない。最良のホテルが確保できたし、帰りの航空便も確保されている。あとは予定通り、西双版納の地を楽しむだけだ。今日は1日、市内とその近郊をレンタサイクルで廻るつもりである。昨日見つけておいた貸自転車屋へ行く。マウンテンバイクが20元で借りられた。

 まずは瀾滄江に向う。何を差し置いても、真っ先にここに行かなければならない。瀾滄江とはメコン川の中国名である。この川は、チベットに源を発し、ラオ、ミャンマーとの3国国境でメコンと名を変え、さらにタイ、カンボジヤ、ベトナムを流れて南シナ海に注いでいる。全長4,350キロにも及ぶ大河である。

 瀾滄江に架かる西双版納大橋の上にたたずむ。一本の大きな支柱に支えられた、洒落たデザインの吊り橋である。河口から2,000キロ以上遡ったこの地点でも、この川は未だ大河の風格を失っていない。平坦地にしては流れも速い。右岸は、石のゴロゴロした河原となり、左岸は港となって何隻かの貨物船が停泊している。ラオでメコンを遡った際に見かけた何隻かの中国貨物船の母港である。流れを見続ける。この水は、2,000キロも上流のチベットから流れ下ってきた。そしてさらに、2,000数百キロの旅を続ける。いったい何日掛かるのだろう。

 川面を見つめながら、この地の歴史に思いを馳せた。ジンホン(景洪)はこの大河の右岸に発達した街であり、この川とともに歴史を刻んできた。ジンホンを州都とする西双版納の歴史・風土は中国とは異なる。むしろメコンを通じて結びつく東南アジア諸国と共有する。西双版納は中国の歴史から見れば、まさに辺境の地である。そして、この辺境の地に、紀元前後から、漢族、あるいはチベット族の圧迫を避け、多くの小民族が、まるで吹きだまりに吸い寄せられるがごとく集まってきた。まさに、この地は中国大陸の隠れ里であった。その結果、この地は民族の坩堝と化した。現在でも26の少数民族が暮している。彼らは、中国大陸に興る大帝国とは別に、自らの国を建てた。南詔国や大理国などの名が、中国の歴史書に残されている。しかし、13世紀以降、彼らにとってこの地も安住の地ではなくなる。モンゴル帝国が大理国を攻め滅ぼし、中国大陸の国家として初めてこの地の支配権を確立した。つづいて興った、明王朝、清王朝もこの地を植民地支配した。そして、20世紀後半には、中華人民共和国の国境線の中に完全に組み込まれてしまった。これら中国からの圧迫を避け、多くの民族がさらなる新天地を求めて、メコン川を南に下った。タイ族やビルマ族もそれらの民族の一つである。そして現在も、少数民族の南への移動は続いている。
 

  第41章  ジンホン(景洪)の風景  (その2 民族風情園と蔓聴公園)

 市内を南に向う。中国の交通はラオと同じく車は右側通行。おまけに信号の解釈が日本と違い、赤信号でも左折、右折はOKのようで車が突っ込んでくる。慣れるまでは怖い。市街地の南の外れに、「民族風情園」という少数民族のテーマパークがある。入場料30元を払い園内に入る。客はほとんどいず、閑散としている。

 広い園内には、タイ族、ラフ族、ジノー族、ハニ族、プーラン族、ヤオ族の6つの少数民族の家屋が復元され、各民族の正装をした娘さんが案内役として待機している。ジノー族、ハニ族と廻り、タイ族の家に行く。タイ族はこの地では少数民族ではなく、この州の主人公であるはずなのだが、なぜか、この少数民族村に出店している。権力を掌握している漢族から見ての位置づけなのだろう。ここへは、ちょっとした楽しみをもってやってきた。タイ語が通じるのかどうか試してみたかったのである。この西双版納に住むタイ族はタイ・ルー族である。もちろん言語は、タイ語の1種を話すはずである。しかし、タイ語およびラオ語で話しかけてみたのだが、全然通じない。私のタイ語がおかしいのか、はたまた同じタイ語でもバンコクとはだいぶ違うのか。がっかりである。

 さらに、虎を狩る勇敢な民族として知られるラフ族を廻り、茶室でお茶を御馳走になり、小さな動物園、鳥類園を覗いて見学終了である。

 再び自転車を走らせて、市街地の南東に位置する蔓聴公園に行く。広大な面積を持つ森林公園である。中に演舞場、クジャク園、仏教寺院などがある。ちょうど行われていた民族舞踊をしばらく見学した後、クジャク園に行く。クジャクは西双版納を象徴する鳥である。多くのクジャクが放し飼いにされている。羽を広げた姿はさすがに美しい。大きな池の辺を辿り、1番奥にある仏教寺院まで行ってみた。雰囲気はタイやラオと同じである。オレンジ色の衣を付けた僧侶が修業に励んでいる。そこには、社会主義国・中国の姿は見られない。本尊にお参りして去る。

 夕食をと、昨日の簡易食堂に行く。おばさんと娘さんが覚えていてくれて、笑顔で迎えてくれた。しかし、ビアと言ったが通じない。紙に「卑酒(注 "卑"は口偏)」と書くとやっと通じた。続いて、料理を頼む際に、辛いのはいやなので、「辣 ×」と書いた。すると、「プーラー」という。なるほど「不辣」だろう。いい言葉を覚えた。タイ語でも「マイ・ベット」と言う言葉を最初に覚えたが。

 夜の街をぶらついてみる。夜9時を過ぎても、街の中心部はにぎやかである。路上ミュージッシャンの周りは人だかりである。ただし、飲みや横丁のようなところはない。何となく健全都市である。と思ったら、若い女が寄ってきて、何か言いながらそっと袖を引く。ホテルに帰ると電話が鳴った。若い女の声で、「ニーハオ。????」。この電話は毎晩かかってきた。中国語が分からないのがちょっと残念である。
 

  第42章  ガンランバー(橄欖霸)へ  (注  "霸"は土偏)

 今日はガンランバーへOne Day Tripする。ガンランバーは、ジンホンの南東約32キロに位置するモンハン(孟罕 注 "孟"は旁として"力"が付く)の街を中心にした地域である。そこは、西双版納の原風景が色濃く残っている場所として知られている。「ガンランバーに行かなければ西双版納に行ったことにはならない」とまで言われる。今回の私の旅は「西双版納を目指す陸路の旅」である。この地に行かずして旅を終えることはできない。

 8時頃、バスターミナルへ行く。モンハン(孟罕)行きバスは多数あるので時間を心配することはない。窓口で切符を買おうとするのだが、人々はまったく並ぼうとはしない。金を握った手を横から次々と窓口に差し出し、我先にと切符を求める。モンラーでも状況はまったく同じであった。人心穏やかなラオやタイから来るとこの国はまったく疲れる。しばらく遠慮していたが、いつまでたっても埒が明かない。「モンハン」と大声で叫び、金を握りしめた手を窓口に差し出す。料金は9元+保険料1元であった。

 バスは12〜13人乗りのワゴン車。人が集まり次第すぐ出発する。モンハンは1昨日モンラーからジンホンへ向う途中に通った。椰子の並木の美しい街並みを持っていた。車は西双版納大橋を渡らず、遠回りをして、2キロほど上流の瀾滄江大橋を渡った。西双版納大橋は有料のため、近距離バスは避けるのであろう。すぐに、ジンホンとモンハンを隔てる山越えの道となる。峡谷となった瀾滄江が左眼下に見え続ける。

 約40分のドライブで、モンハンに付いた。バスターミナルはなく、道端がバスの発着場となっている。街並みは極めて薄い。細い坂道に沿って市場となっている。すれ違うのもままならないほど人が溢れ、食料品、雑貨、あらゆるものが売られている。売り手も買い手も皆タイ族である。女性はタイ族特有の巻きスカートをはいている。市場の入り口には、トゥクトゥクがたくさん客待ちしている。ジンホンやモンラーなどの大都会には、もはやこの乗り物は見られなかった。ぶらりぶらりと周辺を歩き回るが、別段面白いこともない。西双版納泰族園(注 "泰"は人偏)に行ってみることにする。とはいっても、この施設は「地球の歩き方」にも載っておらず、どんな施設なのかよく分からない(まったくもって、こんな重要な施設を載せないとはなんというガイドブックなのだ)。

 街からメインストリートを南に1キロほど行ったところに大きな門がある。ずいぶん高いなぁと思いながら入園料50元(約750円)を払い中に入る。と、いっても何かあるわけでもなく、辿ってきた道路がそのまま奥へ続いている。辺りは閑散として人影もない。しばらく行くと検札所があり、そこでパンフレッテをもらって初めて了解した。この施設こそ、「西双版納に行ったことにならない」といわれる、まさにその場所なのである。要するに、タイ族の生活保護区である。「付随する田園等の生活手段も含め、タイ族の集落を広範囲に保護区とし囲い込み、公的保護を与えている」地域なのである。

 進むに従い、タイ族の集落が点々と現れる。高床式の家々が並ぶ。小道を荷車が通っていく。鶏と犬が庭先を駆け回り、子供たちの声が聞こえる。明らかにここは中国とは異質の空間、昔ながらのタイ族の生活がある。しばらく進むと、いくつかのお土産物屋の並ぶ広場があり、4〜5人のおばちゃんが立ち話をしている。「ニーハオ」と挨拶すると、「ニーハオ」と笑顔の答えが返ってきた。このような人と人との接し方は中国にはない。中国に入って感じたが、我々他所者に対し、近親の情は余り示されない。

 その中の1人のおばさんが寄ってきて、しきりに何か話しかける。まったく分からない。そのうちに、付いてこいとのジェスチャー。私も行くあてがあるわけでもない。「まぁいいか」と、付いて歩き出した。しかし、どこまでも歩いていく。不安になって、おばさんに、紙とペンを渡して筆談を試みたが「字が書けない」とのジェスチャー。近くにいた娘さんに通訳してもらうことにする。と、いっても彼女も英語はしゃべれない。筆談による通訳である。その結果ようやく分かった。おばさんの家は民宿をしており、泊まっていけということらしい。「ジンホンのホテルに泊まっている」というと「食事だけでもしていけ」という。以上全部、筆談通訳による会話である。悪いと思ったが、家まで遠そうなので断った。

 木造建築のきれいなお寺があった。蔓春満古佛寺との標示がある。集落の人が三々五々お参りしては去る。わたしも、仏前に手を合わせ、ここまで無事来れたことを感謝する。昼を過ぎ、腹も減った。1軒の民家が、泰料理の看板を掲げている。庭先にいた娘さんに、「吃飯 是?」と紙に書いて見せると、どうぞと、高床式の家に案内してくれた。テラス状の板敷きの広間で、低い丸テーブルと風呂場のイスのようなちっちゃなイスが並んでいる。もちろんお客は誰もいない。

 娘さんも暇そうなので、筆談で雑談をした。「尓是日本 (注 尓は人ベン。以下同じ)」と聞くので「是」と答える。逆に「尓是泰族 (注 泰は人ベン。以下同じ)」と聞くと「是」と答える。「尓話泰語?」と聞くと「是」である。よし、とばかりにペンをおいて、タイ語で話しかけてみたが、全然通じない。「謝謝 泰語?」と書いたら「尓是説泰語謝謝」と聞いて来る。うなづくと、「應離」と書いて、「インリー」と発音する。「コップンクラップ(タイ語)」「コプチェイ(ラオ語)」と言ってみても首を横に振るだけ。同じタイ語系の言葉でもだいぶ違うようだ。「尓年齢多少」と聞いたら、「十九」との答えが返ってきた。外を指さし、「那遍有洗手間」と親切である。さらに「我們這里的泰楼可以住的1個晩上20元」と書いてきた。そうと分かっていれば、ここで1泊してみたかったが。

 ふと思いついて、街で見かけるあのミャンマー文字らしき文字について聞いてみた。すると「是泰族語」との答えが返ってきた。やはり西双版納タイ族自治州ゆえに泰族語(タイ・ルー語)がすべて併記されていたのだ。言語は泰語(タイ・ルー語)であることが分かったが、それでは、文字そのものは何文字なのだろう。タイ文字でもラオ文字でもないことははっきりしている。私にはミャンマー文字に見える。それともタイ・ルー語は独自の文字を持っているのだろうか。帰国してから調べて分かった。あの文字は「タイ・ルー文字」と呼ばれる文字であった。タイ・ルー族は言語だけでなく独自の文字まで持っていたのだ。そして、その文字はビルマ文字と同じくモン文字を基にして作られたものであったので、二つの文字はよく似ていたのだ。すべての疑問が解決した。

   タイ・ルー文字
    中国雲南省の西双版納に住むタイ族の言語を書き表すための文字です。
    北タイのラーンナー文字と同じくモン文字の形を受け継いでいますが、
    文字組織にはタイ文字の影響が見られます。
     ※ 「インド系文字の仲間たち」より抜粋
     (http://www3.aa.tufs.ac.jp/i-moji/tenji/nakama/fellowship.html) 
        
 さらに彼女が「尓今天午回去」と聞くので、「是」と答えると、「等一下到下面去看演出」と書いた。よく分からないが、どうやら演舞場で民族舞踊が行われるようである。ただし、舞踊には余り興味はない。これだけ会話ができれば、ガンランバーにやって来た甲斐があったというものである。帰ることにする。ぶらりぶらりと、集落内の小道を出口に向う。着飾った娘達が三々五々と演舞場に向って行く。
 

  第43章  蔓飛龍仏塔(マンフェイロンフィーダー)へ

 今日はジンホン(景洪)の街の南約60キロのモンロン(孟龍 注 "孟"は右に旁として"力"が付く)の街にOne Day Tripする。モンロン郊外にある蔓飛龍仏塔は西双版納のシンボルと言われている。であるなら、この仏塔を見ずして西双版納を去るわけには行かない。バスターミナルのチケット販売窓口で「モンロン」というと、外の方を指さして何か言い、チケットを販売してくれない。窓口が違うのかと思い、別の窓口へ行くが、やはり同じである。どうもよく分からない。「バスへ直接行け」と言っているようにも思える。ターミナルは、チケット販売窓口の奥に大きな待合所が有り、その前に各地に向う大小のバスが控えている。行ってみると、一番奥に「景洪⇔孟龍」とフロントガラスに標示したワゴン車が停まっていた。28元払いバスに乗り込む。今朝は寝坊してしまい、既に時刻は9時半なのだが、車は客待ちをしてなかなか出発しない。

 10時、ようやく6〜7人の乗客を乗せて、ワゴン車は走り出した。案内書によると2時間ほどの行程である。郊外に出ると、道はとたんに地道となった。しかもかなりのガタガタ道である。初めは工事中なのかと思ったほどである。丘陵地帯に入る。周りの林は例のごとくすべてゴムの木一色である。大きな湖水を過ぎる。道はますます悪化し、凄まじい悪路となった。穴ぼこだらけの上に、大石がゴロゴロしている。もはや揺れるというような生易しいものではない。車は、傾き、跳ね上がり、どすんと落下する。必死に掴まっているのだが、座席から振り落とされそうである。しかも、もうもうたる砂ぼこりである。この悪路が延々と続く。もはや外の景色どころではない。これでも道か!  ラオの悪路の遥か上手を行っている。

 時々、高床式のタイ族の集落が現れる。いずれも趣のある集落なのだが、今は、この超悪路に耐えるのが精いっぱいである。車の速度は自転車並み、これではモンロンにいつ着くことやら不安になる。1時間ほど走り、小さな集落で小休止。その後も道の改善の兆しはまったくない。トラックが道の真ん中で動けなくなっている。この道では無理もない。

 2時間ほど走ると、突然、道が舗装道路に変わり、にぎやかな街並みに入った。一瞬、モンロンに着いたのかと思ったが、東風農場という街であった。乗客が何人か入れ替わる。「このまま舗装道路が続いてくれ」と、祈ったのだが、街を出ると再び凄まじい悪路が待っていた。相変わらず丘陵地帯が続く。

 出発してからおよそ3時間を経、蔓湯と思われる小集落を過ぎると、突然道が舗装道路に変わった。簡易舗装だが、地獄を抜けて天国に昇ったような気持ちである。同時に周囲が大きく開けた。ここから先の景色は実に素晴らしかった。幼苗の植わった青々した田んぼが、見渡すかぎり続き、その中に高床式の小集落が点在する。彼方には、ミャンマー国境となる山並みが霞んでいる。途中下車して、探索してみたいような、風情ある小集落を幾つか過ぎると、右手にモンロンの小さな街並みが見えてきた。やがて車は南から大きく回り込むようにして街並みに入った。

 モンロンは丘陵を背にした小さな街であった。もう、数キロ先はミャンマー国境である。街の中央は大きな市場になっている。既ににぎわいのピークは過ぎているが、それでも、活気を失っていない。さて、時刻は既に1時過ぎ、ジンホンから3時間少々掛かった。案内書には2時間などと大うそが書かれていたが。昼飯など食べている時間はなさそうである。朝から何も食べていないが。すぐに、市場前にいるトゥクトゥクに、ガイドブックの蔓飛龍仏塔を示して、「ここに行ってくれ」というと、運ちゃんが何かムニャムニャ言う。「行かない」と言ってるようでもあり、去ろうとしたら、隣にいた男が慌てて呼び止め、5元札を取出し示す。なぁんだ、運ちゃんは「料金5元」と言っていたのだ。

 凄まじいガタガタ道を、2キロほど北に進むと、丘の裾に沿ってタイ族の集落があった。立派なお寺もある。集落内の上部でトゥクトゥクは停まった。目の前に、丘に向って長い長い石段が続いている。「あそこだ」と運転手が指さす。

 覚悟を決めて、階段に挑む。真上に昇った太陽が、真昼の強烈な日差しを浴びせかける。「飯も食わずにこの重労働」。泣き言の一つも言いたいが、これもまた旅の思い出になるだろう。辺りに人影はまったくない。その時、下の方から呼ぶ声が聞こえる。振り向くと、おばちゃんが階段を駆け上がってくる。何事かと思ったら、5元の入場券が差し出された。

 登るに従い、眼下に素晴らしい景色が現れる。どこまでも広がる稲田。点在する集落。これぞまさに西双版納の原風景であろう。ようやく山頂に達した。そこには、真っ白な仏塔がたたずんでいた。16.29メートルの主塔を8.3メートルの8つの副塔が取り囲んでいる。豪華ではないが、何か音楽でも聞くような優雅な調べが感じられる。この塔を見るために、あの猛烈な悪路に耐えてここまでやって来たのだ。この塔は1203年、この地のタイ族の領主によって建てられた。その色から白塔とも呼ばれている。座り込んで塔を見つめ続ける。塔は、強い日差しを浴び、その白色の全身を輝かせていた。

 モンロンの街に帰る。街の南側の丘の上にも仏塔が見える。こちらは黒塔と呼ばれ、蔓飛龍仏塔と対になる仏塔である。この塔は1204年に建立された。トゥクトゥクの運ちゃんが「行かないか」と誘ったが、もう体力の限界である。街の中心には大きな狛犬の像が二つ建てられていた。時刻も既に2時半、ジンホンに戻ることにする。

 街の北端にあるバス発着場に行くと、ちょうどジンホン行きのマイクロバスが出るところであった。バスは人の歩みほどの速度で、のろのろと街中を進む。運転手は窓から身を乗り出し、「ジンホン、ジンホン」と大声で乗客を集める。その声に応じて、店先から何人かの乗客が現れる。街を出ると、バスはやっと速度を上げた。
 
 集落ごとに乗客が乗り降りするのだが、その度に、運賃を巡って運転手と大もめする。双方怒鳴り合い、終いには、運賃やお釣りを投げつける。見ていて、楽しいやら、あきれるやら。なんという国なんだろう。帰路も当然、あの地獄のごとき悪路が続く。子供が車酔いで、もどし始めた。誰も知らん顔である。ようやく、ジンホンの街に入ったと思ったら、車は道端に止まった。運転手が客席にやってきて、1人1人から運賃を取り立てる。またもや大もめである。モンラーの望天樹からの帰路で見た光景と同じことが繰り返されている。6時過ぎ、ようやくバスはターミナルに着いた。もうくたくたである。

 いつもの簡易食堂に行く。今日はギョウザが食べたい。しかし、この食堂のメニューにはない。紙に「餃子」と書いて示すと、しばらく考えていたが、近所のギョウザ屋から出前を取ってくれた。なかなか融通が利く。

 赤ん坊を背負った貧しい身なりの女性が、食事客に、靴を磨かせて欲しいと頼み回っている。哀れを催す光景である。ここは社会主義の国のはずなのだが。驚異的な経済発展の陰で、貧しいものが置き去りにされていく。地下の革命第一世代は、この光景をどう眺めているだろう。
 

  第44章  ジンホン最後の1日

 Bangkok Airwaysが週2便、ジンホン(景洪)とチャンマイおよびバンコクを結んでいる。この便がジンホン国際空港に発着する唯一の国際便である。私は明日2月5日のチャンマイ行きチケットを既に予約してある。今日がジンホンにおける最後の1日である。気の向くままにジンホンの街をぶらついてみるつもりである。

 西双版納熱帯花卉園に行く。街の西部に位置する広大な植物園である。ホテルから街の中心部を横切り、のんびりと歩いて行く。この街の地理はもう知り尽くしている。相変わらず朝は寒い。40元の入園料を払い中に入る。園内は植物園というより自然公園という感じで、広大な敷地内に池や木々の茂る庭園が配されている。幾組かの中国人団体観光客がおり、あちこちで記念撮影に余念がない。

 ゴムの木の林があった。行ってみると、係員が樹皮に傷をつけてゴムの樹液を採取する様子を実演してくれた。真っ白な樹液が、取り付けられた椀の中にぽたりぽたりと溜まっていく。園内中央には周恩来総理来所視察記念碑が建てられている。彼は、1961年、ビルマとの首脳会談出席のためこの地を訪れている。蔓聴公園にも彼の来訪記念碑が建てられていた。いまでも国民に人気のある政治家なのだろう。もし彼がいなかったら、毛沢東の中国は暴走して、自滅の道を歩んだであろう。偉大な政治家であった。

 街中の荘洪路に向う。今日がジンホン最後の日、お土産を買わなければならない。私でも浮世の付きあいがいくらかある。この長さ300メートルほどの道は、民族工芸品市場と名付けられ、お土産物屋が並んでいる。ただし、そのうち半数は、緬甸宝飾店の看板を掲げたミャンマー人の経営する宝石店である。ロンジーをはいたミャンマー人(といっても、ほとんどがインド系だが)がたむろし、余り雰囲気は良くない。プアル(普耳 注 "耳"はサンズイ)茶の看板を掲げるお茶屋に入る。お茶の原産地は雲南であるといわれている。現在においても、雲南を代表する産物である。特に、ジンホンから北へ百数十キロの地点にあるプアル(普耳)の名を冠したプアル茶は世界的に有名である。

 一軒の食堂に入る。昼をだいぶ過ぎたためか、客は誰もいない。ウエイトレスの女の子が「味はどうか」と言うようなことを聞きに来たので、「美味」と紙に書いた。これをきっかけに筆談が始まった。「年齢多少」と聞くと「18」と答える。私の歳を聞くので「61」と書いたら、隣に「爺」と書かれてしまった。「尓是泰族」と聞くと、「漢」と1字だけ書いた。

 すべての予定が終了した。もう、明日の飛行機に乗るだけである。最後に、瀾滄江に別れを告げてこよう。ごちゃごちゃした通りを抜け、右岸に沿う通りに出る。椰子の並木の美しい通りだ。ただし、平日の昼下がりのためか人影は薄い。石段を河原に降りる。大石、小石のゴロゴロした河原を水辺に向う。石は水苔に覆われ滑りやすい。雨期にはこの河原一杯に川幅が広がるのであろう。流れにそっと手を差し入れてみる。この水が海に出会う日はいつのことなのだろう。水辺に腰を下ろし、流れゆく水を見つめる。そして、遥かなる旅路を思う。水の、そして私の。
 

 第45章  さらば 西双版納、タイ民族揺籃の地よ

 昼少し前にザックを背負いホテルを出る。このホテルには感謝感激である。結局4連泊した。通りに出てタクシーを拾う。「Airport」というが、やはり通じない。紙に「飛機場」と書いて示すと、隣に20元と書いてよこした。ほんの15分ほどで、郊外の空港に着いた。まだ真新しく、立派な空港である。しかし、国際線のホール入り口はまだ鍵がかかっていた。空港ビルには小さな売店があるだけで食堂がない。

 空港外の簡易食堂に入る。やって来た女の子に「米線」と書き示す。雲南風うどんである。食べ終わり、「多少銭」と書き示すと、女の子は「11」と書いた。その時である。彼女の口から「シップイェッ」という言葉が漏れた。思わず我が耳を疑った。聞き返すとやはり「シップイェッ」という。11を表すタイ語である。否、彼女に聞くと、泰語、即ち、タイ・ルー語だという。ついに、最後の最後に、証拠をつかんだ。まさしく、この地はタイ民族揺籃の地であることの。何やらとてつもなく嬉しくなってしまった。

 数十人乗りの小さな双発プロペラ機の機内から下界を眺め続ける。累々たる山並みが続く。その中を1本の川が山々を縫うように走る。瀾滄江、否、すでにメコンと名を変えているのだろうか。遥か遠い昔、タイ族はこの川に沿って、この山並みを越えたのだ。真っ赤な太陽が、その山並みの彼方に沈んでいく。「タイ民族揺籃の地・西双版納を目指す陸路の旅」がようやく終わる。
                                       (完)
 

 

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