おじさんバックパッカーの一人旅   

上座部仏教の故郷 スリランカ紀行(4)

キャンディ、ゴール、アンバランゴダ、コロンボ

2005年12月9日

     〜12月19日

 

   第23章 再び古都キャンディへ

 12月9日金曜日。今日は再び古都キャンディを目指す。8時30分に宿を出発、トゥクトゥクでナーヌ・オヤ駅に向う。どんよりした天気で肌寒い。待つほどにディーゼル機関車に引かれた9時40分発コロンボ行き列車が、遅れることなく、満員の乗客を乗せてやって来た。運よく座席を確保できた。2等席は2人掛けの座席で、リクライニングはない。もちろん冷房もない。東洋一と言われる車窓を眺め続けるが、今日は雲が低く垂れ込め、一昨日のような素晴らしい展望とはいかない。

 気掛かりが一つある。この列車は果たしてキャンディに行くのかどうかという最も基本的な問題である。宿のおばさんに念を押したのだが、間違いなくキャンディに行くとの答えであった。しかし、何となく胸騒ぎがする。検札に来た車掌に確認すると、案の定、キャンディには行かずジャンクション駅を素通りしてコロンボ方面に直行するとの答え。さぁ困った、どうしよう。車掌は、「ジャンクション駅の手前のガンポラで降り、そこからバスで行きなさい。ガンポラ着は1時です」と言う。そうするより仕方がないか。しかし、ガンポラなる街は案内書にも載っておらず、また、地図を見ると、ガンポラ駅は街から少し離れている。駅からトゥクトゥクにでも乗って街まで行き、バスターミナルを探さなければならないか。少々面倒なことになった。

 列車は快調に走り続けている。下り列車との待ち合わせ停車もないところを見ると、特急列車なのだろう。外は雨が降りだしている。デッキでタバコを吸っていたら、若者が「1本下さい」といって、10RP差し出した。その心がけに免じて、1本無償で恵んでやる。しばらくすると、隣の席に大学生らしい青年が座った。彼にもう一度相談してみる。「ガンポラでなく、ジャンクション駅の先の最初の停車駅・カドゥガンナワ(Kadugannawa)で降りて、バスで行くほうが便利だと思う」との意見である。なるほど、カドゥガンナワ駅はコロンボからキャンディに通じる国道に面しており、バスも多そうである。青年の意見に従うことにする。

 ちょうど2時、カドゥガンナワ駅で降りる。山間の小さな駅であった。駅前をキャンディに通じる国道が走っている。ふと思いついて、駅員にキャンディ行きの次の列車は何時か聞いてみた。30分待てば、2時半の列車があるという。万歳である。しかし、何で車掌はこのことを教えてくれないのだ。全体の列車スケジュールを把握できていないのだろうか。待つほどに、キャンディ行きの鈍行列車が20分遅れでやって来た。3時過ぎ、何とか無事に見覚えのあるキャンディ駅に辿り着いた。ヤレヤレである。雨は止んでいた。

 さて、どこに泊まろうか。前回泊まったセバナ・ゲストハウスは立地条件は最高で、部屋も満足なのだが、従業員が不親切だ。案内書を見て、ブルー・ヘブンというゲストハウスに電話をしてみる。「お待ちします」の答えを聞いて、トゥクトゥクの運チャンと値段交渉。最初からつきまとっていた男は200RPと言うので相手にせず。次の運チャンに100RPでどうかと言ったら、逆に相手にされなかった。その中間が相場のようだ。3台目の運チャンと150RPで合意した。後で宿で聞いたら、やはり150RPが相場とのことであった。

 到着したブルー・ヘブンは見晴らしのよい山の上のきれいなゲストハウスであった。街から遠いのが難だが、部屋も実にきれいで従業員も感じがよい。2泊することにする。今日の同宿はオーストラリア人のカップルと米国人のカップルである。スリランカに入国以来既に2週間経ったが、未だ日本人の旅行者には1人も会わない。
 

   第24章 ペラーデニヤ植物園

 12月10日土曜日。朝起きると雨である。郊外のお寺巡りでもするつもりでいたが、この雨では気が乗らない。急きょ、案内書にあるペラーデニヤ植物園(Peradeniya Botanical Gardens)に行ってみることにする。「キャンディ観光に欠かせない場所の一つ。総面積5.6平方キロメートルという広大さで、丸1日あっても足らないほど。植物の種類が4,000種以上ある」と、案内書に記されいる。街からバスで10分ほどの距離である。

 雨の中、街まで歩く。20分掛かった。キャンディには三つのバスターミナルがあるが、ペラーデニヤ行きのバスが出るという市内バスターミナルに行く。しかし、英語の案内もなくさっぱり分からない。うろうろしていたら、トゥクトゥクの運チャンが植物園まで200RPで行くというので乗る。しかし、途中、「植物園はつまらないから、象の孤児園に行こう。郊外のお寺を廻ろう」とうるさい。さらに、500RP札を渡すとお釣りをよこそうとしない。催促すると200RPをよこす。「No! 」と怒鳴って、やっと300RP取り返した。インドネシアのペチャも同様であったが、こういう大衆的な乗り物を乗りこなすのは苦労が多い。

 入園料300RP払い、園内に入る。雨にもかかわらず、思いのほか入園者が多い。ただし外国人はほとんどいない。園内をのんびりと歩き廻る。キャベツ椰子や大王椰子の並木が美しい。植物園というより広大な庭園という感じである。この植物園は、元々、14世紀の王・パラークラマ・バーフ3世が王妃のために造った庭園である。土曜日のためか、若いカップルの姿が非常にに多い。ベンチや木陰は全て彼らに占領されている。しかも、傘で姿を隠しながら、かなり濃厚なラブシーンを繰り広げている。他の行動から考えても、スリランカの人々は羞恥心が薄いようである。雨は降ったり止んだりだが、時折強く降る。その都度、大木の下で雨宿りである。

 庭園内の説明書きや木々に取り付けられた名札等は、全て、シンハラ語、英語、ドイツ語、フランス語である。これには少々頭に来る。東南アジアの場合、現地語、英語の次は日本語と相場が決まっている。雨宿りでいっしょになった係員に、「ここはアジアではないのか」と文句を言うと、笑いながらムニャムニャ言っていた。人々が梢を見上げている。つられて見上げると、大きな蝙蝠が梢に群れている。珍しい光景だ。園内に、歴代有名人の記念植樹がある。1875年に、英国エドワード7世の植えたという菩提樹が、130年の年月を経て大きく枝を広げていた。

 3時間ほど園内をぶらついた後、退園する。植物園の向かいには、スリランカ最難関の大学と言われるぺーラーデニヤ大学のキャンパスが広がっている。覗いてみたが、大きすぎてその全貌は把握できなかった。バスに乗って市内へ帰る。街は相変わらず人々でごった返している。いったいどこからこれほどの人が湧きだしてくるのだろう。雨も止んだので、ケーキを買って歩いて宿に帰る。登りのため、30分も掛かった。宿で美味しいスリランカ・ティーを入れてもらって、ベランダでケーキを頬張る。今晩の宿泊客は私一人のようだ。日暮れとともにどこからともなく賛美歌が聞こえてくる。

 
第25章 首都コロンボ(Colombo)へ

 12月11日日曜日。今日はいよいよ首都コロンボに向う。何となく気が重い。理由は幾つかある。先ず第1に、適当な安宿が見当たらないのである。若者はY.M.C.AなりY.W.C.Aに行けばよいが、おじさんにはちょっとである。第2に、騒音と雑踏の大都会はどうも性に合わない。案内書にも、「コロンボは最もスリランカらしからぬ大都会である」と記されている。正確に言うと、コロンボは既に首都ではないらしい。1985年、コロンボの南10キロほどのコーッテ(Kotte)に国会議事堂が移され、以来、この都市が首都とされている。しかし、実質的には今もコロンボが首都である。

 9時30分、宿を出て、トゥクトゥクで鉄道駅に向う。切符を買って、ホームに入ると、10時30分発のコロンボ行き鈍行列車は既に入線しており、座席も8割方埋っていた。慌てて座席を確保する。列車は定刻に発車した。2等車両でも、立っている人がだいぶいる。しばらくしてカドゥガンナワ駅に停まった。懐かしさを覚える。列車は山間部をのろのろと走っていく。天気は3日ぶりに回復し、青空が広がっている。山を下るに従い、暑さが増してくるのが肌で感じられる。朝は、Tシャツ、長袖のポロシャツ、セーターを着ていたが、Tシャツ1枚になる。平地に下り着くと、車窓の景色はがらりと変わる。湿田と湿地帯が至る所に広がり、水牛が泥沼の中に身体を沈めている。豊かな田園風景である。列車はスピードを上げて快調に走り続ける。やがて大きな街並みに入り、13時40分、コロンボ・フォート駅に滑り込んだ。

 駅は首都の中央駅にしてはずいぶん小さい。と言うよりも、お粗末といってもよいかも知れない。ホームの数はそなりにあるものの、駅舎は古びた小さな木造建てで、待合ホールもないし、まともな売店さえもない。キャンディ駅の方が遥かに立派である。スリランカの鉄道は、下車駅の改札で切符を全て回収している。日本と同じシステムである。記念に切符が欲しいとお願いしたらあっさりと渡してくれた。

 改札口の外に出る。駅前広場もなく、駅は雑踏渦巻く大通りに面している。トゥクトゥクさえも待機していない。さてどうするか。どこか宿を見つけなければならないのだが。構内に鉄道案内所があるが、日曜日のため休みである。上品な身なりの男が寄ってきて、目的も言わずに、しきりに話し掛ける。どうせ、地方からのお上りさんや、勝手の分からぬ外国人をたぶらかす輩に決まっている。どこの国でも、空港や首都の中央駅にはこういう輩がいる。うるさいので、「あなたの目的は何ですか」と、直接聞いてやった。「安くていいホテルを紹介したい。車も用意してある」。「何というホテルだ」「レイク・ロッジです」。くどくどと説明を始める。レイク・ロッジは案内書にも載っている安宿で、宿泊候補の一つであったが、避けたほうがよさそうである。

 通りまで出て、流しのトゥクトゥクをつかまえ、「ホテル・ニッポン」と指示する。ここも案内書に載っている安ホテルである。名前はニッポンだが日本とは関係ない。単なるイメージとしての命名らしい。キャバレー「ハワイ」の類いである。走りながら運チャンは、「ホテル・ニッポンはよくない。レイク・ロッジへ行こう」としきりに誘う。レイク・ロッジはよほど紹介料が出るのだろう。辿り着いたホテル・ニッポンは、古びた典型的な安宿で、ラブホテルとも取れるたたずまいであった。1番安い部屋で1850RP。他都市に比べれば高いが、コロンボでは仕方がない。もちろん冷房もなく、テレビもない。ホットシャワーから熱いお湯が豊富に出ることだけが取り柄であった。ホテルの前の歩道には物乞いがたくさんたむろしている。

 すぐに街に飛びだす。真昼の太陽がぎらぎらと輝いている。中央高地から来たせいか、強烈な暑さを感じる。ヌワラ・エリヤではセーターを着ても寒かったのに。コロンボは旅の最後にもう一度訪問し、見学はその時するつもりでいる。今回は、1泊のみ。明日は列車でゴールに向う予定である。ルピーの手持ちが少なくなってしまったので、両替したいのだが、今日が日曜日だということをうっかりしていた。案の定、どこの銀行も閉まっている。ちょっと困った。街には兵士が溢れている。辻辻には土嚢でトーチカが築かれ、、背嚢を背負い、小銃を持った兵士が通りに目を光らせている。それに反し、警察官の姿は少ない。軍が警備の前面に出ているのだろう。11月の大統領選挙で、タミール勢力に対し強硬派のラジャパクサ氏が当選したため、2002年2月以来続けられてきた休戦協定が破られることが危惧されている。

 先ずフォート駅に行き明日の列車の時刻を調べる。駅前に広がる街がコロンボ1番の繁華街・ぺター(Pettah)である。ただし、この街は繁華街などという生易しいものではない。戦後まもないころの上野アメ横や、新橋駅前のヤミ市を思い出させるたたずまいである。小さな間口の商店が軒を並べ、その前にはぎっしりと露店が並ぶ。道はすれ違うのもままならない凄まじい雑踏である。客を呼び込む掛け声が飛び交い、トゥクトゥクが激しく警笛を鳴らしながら人込み人込みを掻き分ける。首都の商店街などという上品さのかけらもない。あるのは、溢れ出るエネルギーだけである。

 男が近寄り、"Exchange  Exchange"とささやく。闇両替屋のようだ。ちょうどいい。レートを聞くと、1万円=8,300RPとのこと。悪くはない。先日銀行で1万円=8,290RPであった。両替に応じる。その後、ぶらりぶらりと宿まで戻る。たまには日本食が食べたくなった。案内書に載っている日本料理店を探してみたが、既に廃業していた。

 
第26章 城塞都市ゴール(Galle)へ

 12月12日月曜日。今日はスリランカ南部最大の都市・ゴールを目指す。ゴールはインド洋に面する港町で、堅固な城壁で囲まれた城塞都市として知られている。古来、東西貿易の中継地として栄えてきた都市で、特に、14世紀には多くのアラブ人がこの地に移住し、海のシルクロードの拠点として発展させた。16世紀初頭、スリランカの産するシナモンの貿易独占を狙って進出してきたポルトガルは、城塞を築いてスリランカ支配の拠点とした。17世紀半ばに、ポルトガルから支配権を奪ったオランダは、さらに城塞を強化し、現在の形に完成させた。ゴールは1988年に「ゴール旧市街とその要塞群」として世界遺産に登録され、現在、スリランカ観光の一翼を担っている。

 9時発の列車に乗るべく、8時前にトゥクトゥクで駅に向う。切符は簡単に手に入った。ホームのベンチに座り、ぼんやりと駅の様子を眺める。通勤時間帯と見え、超満員の乗客を乗せた近距離列車が次々と発着する。デッキには多くの人が危うい格好でしがみついている。ちょうど9時に、私の乗るマータラ(Matara)行き急行列車が入線した。その瞬間、ホームで待っていた乗客が我先にと入り口に殺到する。開いている窓から荷物を座席に放り込み、席取りをする者もいる。大きなザックを背負った私はとてもこの席取り競争には参加できない。ただ呆然と見つめるだけである。それでも運よく、最後の1座席を確保できた。

 列車はすぐに海岸に沿って走り出した。海があまりにも近いのでびっくりする。線路の横はもう砂浜である。ちょっと大きな波が来たら線路まで届いてしまう。インド洋大津波の際、列車が波に呑まれ、多くの犠牲者を出したが、さもありなんとの感を強く持った。ただし、その分、展望が素晴らしい。目の前にインド洋が無限に広がり、茶色の砂浜はどこまでも延びている。しかし、ビーチで遊びに興じている人影はない。時折、小さな漁港が現れる。列車は横揺れがかなり激しい。

 列車の中は賑やかである。物売りがひっきりなしに行き来する。楽器を奏でたり、歌を唄って小銭をねだる物乞いも行き来する。単に手だけを出して、小銭をせしめようとする要領のいいじいさんもいる。見ていると、乗客は割合気前よく、1RP、2RP硬貨を恵んでいる。

 スリランカ随一のビーチ・リゾートであるヒッカドゥワ(Hikkaduwa)を過ぎ、ゴールが近づいたと思われるころ、デッキでタバコを吸っていたら側にいた男が「次の停車駅がゴールだ」と教えてくれた。単なる親切と思ったら、この男、ゴールで下車後もつきまとう。「知り合いがトゥクトゥクの運転手をしているから、安く宿まで送らせる」と、のたまう。まったくもってこの国は油断も隙もない。振りきって改札口を出る。途端に、待ちかまえていた何人ものトゥクトゥクの運チャンに囲まれる。このことは想定内である。駅前にTourist Information がある。地図やパンフレットをもらおうと立ち寄ってみたら、こちらの要望は聞こうともせず、熱心にツアーに誘う。何という観光案内所だ。相変わらずつきまとってくるトゥクトゥクの運チャンや得体のしれない人間を振り切り、旧市街に向って歩き始める。15分も歩けば着くだろう。南国の太陽が真上から照りつけ、さすがに暑い。

 ゴールの街は新市街と旧市街の二つの街からなる。海に突き出した岬の中に開かれた街が旧市街、ここが城壁に囲まれた城塞都市である。多くのゲストハウスはこの旧市街にある。岬の根本部分には新市街が広がっており、鉄道駅やバスターミナルはこの新市街にある。目の前に10メートル以上あると思われる堅固な城壁が立ち塞がっている。その上からは赤茶けた石造りの時計台が聳え立っている。城門を潜り、旧市街に入る。と、そこは別世界であった。ここがアジアの街かと目を疑う。古びたコロニアル風の建物が連なり、その奥に教会の尖塔が望まれる。人通りも少なく、街はまるで眠ったような静けさである。

 しかし、うっとりと見とれている暇はなかった。自転車に乗った男が、次々とつきまとってくる。"No thank you"を連発しても、何やかんや言って離れない。やっと振りきったと思うと、次が現れる。いずれも「紹介屋」である。何とかして、私といっしょにゲストハウスに入っていって、紹介料をせしめる魂胆である。炎天下逃げ回り、いささか璧僻した。最初にカリッズというゲストハウスに行ったのだが、部屋から海も見えず、料金も高いので諦める。続いて、案内書に載っているランバート・ビューというゲストハウスに行ってみた。岬の最先端にあるゲストハウスである。ところが、看板も出ていない普通の民家で、門も堅く閉ざされていて営業している気配がない。門前に一瞬立ち尽くすと、つきまとっていた紹介屋が呼び鈴を押した。すると、中から婦人が出てきて、宿泊は可能だという。紹介屋は婦人に何かしきりに訴えていたが、私が「つきまとっていただけで、連れてきてもらったわけではない」というと、すごすごと去った。案内された2階の部屋はまさにビューティフルである。目の高さに、街を囲む城壁があり、その背後にインド洋が無限の広がりを見せている。さらに屋上に上がると、もはや目に映る景色は、海だけとなる。「インド洋に沈む夕日が素晴らしいですよ」と婦人が説明する。むべなるかな。しかも、宿泊費は朝食付きで1300RP、非の打ち所のない宿に行き当たり嬉しくなった。部屋数はわずか四つ、夫婦で営む小さなゲストハウスである。婦人は実に上品で物静かである。

 頼んで昼食を作ってもらい、その後、城内見学に出発する。街を囲む城壁の上には所々要塞がある。1番大きな要塞が、城門のすぐ横、時計台の建つムーン要塞(Moon Bastion)である。上に登ると、旧市街、新市街が一望できる。城壁は幅2mほどあり、その上を歩くことができる。一周してみよう。少し南に進むと、歩哨の兵士が立っており、100mほどの間が通行禁止になっていた。城壁のすぐ側に軍の施設があるらしい。兵士に、「ハロー、通り抜けてもいいかい」と話し掛ける。「どっから来た」「日本」「OK。急いで行けよ」。なかなか融通が利く。

 さらに南に進む。右は、インド洋から押し寄せる波が城壁の根本を洗っている。左には、旧市街が広がっている。この城壁のお陰で、ゴールの旧市街は大津波の被害を受けずにすんだ。城壁の真下のわずかな草むらに、巨大な爬虫類が這っている。インド・リク・オオトカゲだろう。小さな要塞跡の物陰には、必ず若いカップルが潜み、傘で姿を隠しながら濃厚なラブシーンを演じている。1キロほど南下すると、我がゲストハウスの前に出る。何人かのお土産物売りのおばちゃんがたむろしている。向きを東に変え、200mほど進むと灯台がある。沖合は、洋の東西を結ぶメイン航路である。遥か水平線には、タンカーと思える大きな船影が2〜3見える。海に下る階段があり、小さなビーチで子供たちが戯れている。

 向きを北に変える。二つほど小さな要塞を過ぎると、城壁上は歩けなくなる。左に降り立つと、そこは広場となっていて、裁判所がある。にわかに真っ黒な雲が押し寄せてきた。雨が来る気配である。慌てて宿に戻る。と同時に激しい雷雨となった。楽しみにしていた「インド洋に沈む夕日」も絶望的である。宿の奥さんによると、「サイクロンが来ていて天気が不安定」とのこと。今夜の宿泊客は私1人である。

 
第27章 ゴールの1日

 12月13日火曜日。昨日、旧市街をほとんど歩いてしまったので、今日は別段行きたいところもない。ぶらりぶらりと、新旧両市街を歩き廻ってみることにする。9時過ぎ、宿を出る。今日もカンカン照りである。先ずは、郵便局へ行って自宅宛の葉書を投函。入国以来、使用可能なE-Mailにお目にかかれていない。自宅への連絡は葉書が頼りである。続いてセイロン銀行へ行って両替。この国ではまったく問題なく日本円の両替ができる。旧市街の東側の出口・OldGateより城壁の外にでる。ここに小さな漁港がある。道端は即席の魚市場、あちらこちらで今朝水揚げされたばかりの魚をさばきながら売っている。カツオに似た魚が多い。

 鉄道駅に行き、列車時刻を調べる。明日、アンバランゴダまで列車で行くつもりでいる。列車駅の東側はバスターミナルである。整備されたターミナルではなく、多くのバスが無秩序に発着している。周囲は多くの露店が並び人々でごった返している。その背後に、ゴールの新市街が広がっている。海岸線を走るバイパスの一本奥の道が繁華街である。ありとあらゆる店が並び、雑踏が渦巻いている。お土産にスパイスを買おうと思っているのだが、何種類かを詰め合わせにしたものは見当たらない。スリランカのスパイスは、シナモンをはじめとして、種類も豊富で世界的に有名である。16世紀以来ヨーロッパ諸国はこのスパイスを求めてスリランカに進出してきた。スリランカ・カリーなど、何種類ものスパイスが入っている。1キロも進むと、繁華街は終わった。街外れのごみ捨て場では、カラスと犬と猫が互いにけん制しながら残飯をあさっていた。南部最大の街と言っても、小さな田舎町である。

 再び旧市街に戻る。こちらの街は人通りも少なく、真昼の気だるさが支配している。普通の格好をした老人がつかつかやってきて、金をくれとせびる。どうもこの国では物乞いも、プロとアマの境目が曖昧である。案内書にあったゴール国立博物館に行ってみた。300RPもの入館料を取られたが、規模も小さく、まったく見る価値のない博物館であった。

 早めに宿に帰り、スリランカ・ティーを入れてもらって、海を眺めながらのんびりとする。至福の一時である。しかし、日暮れが近づくと、またもや黒い雲がが広がり、日没は見られない。宿の主人が「あなたの来る前日までは、素晴らしい日没が見られたのに」と気の毒そうに言う。夕方、米国から来たという50〜60歳代の元気のよいおばちゃん3人連れがチェックインした。日が暮れると、どこからともなくアザーンの声が聞こえてくる。この街はムスリムの姿が目立つ。スリランカのイスラム教徒の比率は8.5%であるが、この街は、歴史的要因もあり、特にムスリムが多いようである。

 
第28章 仮面の街・アンバランゴダ(Ambalangoda)へ

 12月14日水曜日。今日はアンバランゴダへ One Day Trip する。ゴールの北北西約50キロ、列車で40分ほどの海沿いの街である。この街を有名にしているのは悪魔払いの仮面である。解説書によると、ゴールからアンバランゴダにかけての地域は、古来、仮面劇の盛んな地域であった。仮面劇には2種類あり、新年などの祝祭に演じられる民衆劇・コーラムと、病気治療としての悪魔払いの儀式であるサンニ・ヤクマである。これら仮面劇に用いられる多くの種類の仮面が、このアンバランゴダで盛んに造られており、今ではスリランカを代表する民芸品となっている。私も是非この仮面を記念に得たいと思っている。

 10時40分発のコロンボ行き列車に乗るべく駅に行く。ホームで待っていると、同宿であった、米国人のおばちゃん3人連れが大きな荷物を提げてやってきた。この列車でコロンボへ移動するという。「一緒に行きましょう」と言うので、「いや、私は3等車なので」と答えると、唖然としていた。彼女たちは当然2等車である。待ちくたびれるころ、マータラ始発の列車が50分遅れでやって来た。既に満員の上、ホームから我先にの乗り込むので、あっという間に超満員、座れるどころかデッキから奥にも入れない。まぁ40分の我慢、デッキに陣取る。2等車も満員のはず、大きな荷物を持ったおばちゃんたち、無事に乗れたか心配になる。

 12時過ぎ、アンバランゴダのホームに降り立つ。2等車を覗いてみたら、おばちゃんたちは無事に座席を確保していた。小さな駅舎を出る。すぐに、トゥクトゥクの運チャンが寄ってきたが、しつこさはない。駅前の国道を突っ切ると、そこがアンバランゴダの繁華街、小さな通りは車と人でごった返している。乾物の強烈な匂いがあたりに立ちこめ、威勢のよい客引きの声と車の警笛が響き渡り、騒然とした雰囲気である。スリランカの街の中心部は、どこでも、いつでも、湧きだしたように人で溢れている。

 先ずは街の北約1キロにある仮面博物館を目指す。ここでは展示品の見学とともに、仮面の購入、製造工程の見学も出来るらしい。繁華街を抜けしばらく歩くと、目指す博物館に着いた。1階が仮面の展示場、2階が販売コーナー、裏手では仮面の製造が行われている。民間の博物館で、入場料はタダだが、仮面販売が主たる目的で、博物館は客寄せという感じである。先ずはサリーで正装した若い女性に導かれて展示場に入る。仮面の展示とともに人形を使って仮面劇の様子をも展示している。奇っ怪な面相の仮面が多数並んでいるが、何を現しているのかはさっぱり分からない。つづいて2階へ行き、記念に最も奇怪な仮面を一つ購入した。おそらく、コロンボの土産物屋でも売っているだろうが、アンバランゴダで購入したことに価値がある。

 ぶらりぶらりと街の中心部へ戻る。あちらこちらに仮面製造販売の工房を見る。中心部から緩い坂道をちょっと西に下ると海岸に出た。小さな漁港となっていて、周りの路地は、魚市場となっている。大きな太刀魚をぶら下げた少年が、「買ってよ」と寄ってきたが、そうもいかない。

 バスで帰ることにしてバスターミナルへ行く。鉄道駅のすぐ横である。大きく立派なターミナルで、しかも、各プラットホームに英語で行き先表示がなされている。お陰で、誰に聞くこともなくゴール行きのバスを探し当てた。車掌が、「ガッラ、ガッラ、ガッラ」と大声で呼び込みをしている。"Galle"を地元の人はガッラと呼んでいる。

 海岸に沿って走るバスの車窓をぼんやりと眺めていた。そして、ハッと気がついた。半壊、あるいは全壊した建物が累々と続いている。津波の傷跡だ。アンバランゴダからゴールに掛けての海岸は、津波被害の最も大きかった地域である。この海岸だけで数万人が死んだといわれている。破壊された建物の横では、到るところで新築工事が始まっている。復興への力強い槌音である。その一方、未だ大きなテントも張られている。目を凝らせば凝らすほど、津波のツメ跡の大きさが見えてくる。大きな街並みに入った。スリランカ最大のビーチリゾート・ヒッカドゥワ(Hikkaduwa)である。この街は、スリランカで最大の犠牲者を出した。しかし、街の中心部には、もはや津波のツメ跡は見られず、大きなホテルが建ち並ぶ砂浜がどこまでも続いている。海岸で遊ぶ人影は少ない。郊外に出ると、再び津波のツメ跡が目立ち始める。

 1時間15分のドライブで無事ゴールのバスターミナルに到着した。早い時間に宿に戻る。空は未だ晴れ渡っており、今日こそは「インド洋に沈む夕日」が見られそうである。カメラとタバコと、駅前の露店で買ってきたピーナッツをもって屋上に上がる。心ゆくまで沈む夕日を見るつもりである。目の前には無限の海が広がっている。城壁の上のベンチでもカップルが肩を寄せ合って、その瞬間を待っている。やがて真っ赤な夕日が、ゆっくりと水平線に近づいてくる。海が赤く染まりだした。ついに夕日は、水平線に接触し、そしてゆっくりと海の下に沈んでいった。最後の一筋の光が消えると、海は急激に暗さを増し、濃紺から黒へと変化していく。その中を1艘の漁船が母港への帰還を急いでいる。

 
第29章 再び首都・コロンボへ

 12月15日木曜日。スリランカを去る日が近づいている。今日は帰国に向けて、首都コロンボへ向う。いわば最後の移動である。7時40分発の列車に乗るべく、7時前に宿を出る。夫婦で玄関まで見送ってくれた。実にいい宿であった。この時間、まだトゥクトゥクは活動していない。駅まで歩く。ちょうど8時。列車は20分遅れでゴール駅を発車した。数人立っているほどの混みようで、通路側の座席を確保できた。相変わらず車内は賑やかである。物売りと物乞いが車内を行き来する。列車は快調に走り続ける。特急列車とみえて、途中駅にほとんど停まらない。10時30分、わずか2時間30分でコロンボ・フォート駅に着いてしまった。

 今回も宿のあてはない。駅構内の鉄道案内所(Railway Information)に行き、どこか紹介してもらうつもりである。ところが、何と! クローズしている。今日は木曜日の平日。おかしいなぁ。そういえば、駅に着いてから誰も声を掛けてこず、何となく雰囲気がおかしい。ハタと気づいて、案内書のカレンダーを確認する。やっぱり。今日は12月15日、フルムーン・ポヤ・デーの祝日である。12月の満月の日は、仏教徒にとって聖なる日。一切の労働を断って休息し、静かにお寺参りをする日なのである。ちょっと困った。銀行も航空会社も休みだろう。

 こうなると、宿のあては前回宿泊したホテル・ニッポンきりない。行ってみると、「部屋は2,500RPと3,000RPの2種類です」とぬかす。「1,850RPの部屋があるだろう」と私。ようやくチェックインした。今日はすぐにやらなければならないことが幾つかある。一つ目は、スリランカ航空の事務所に行ってバンコクまでの帰路便の予約をする必要がある。明日、明後日と二日間コロンボ観光をし、18日の日曜日の便を予約したい。二つ目は空港までの足の確保である。バンコク行きUL422便の出発時刻は朝の7時45分。したがって、夜明け前の4時半にはコロンボを車で出発したい。ただし、コロンボにはタクシーがないので、ホテルで車を予約してもらう必要がある。安ホテルではこのサービスは期待できないため、最後の1日は、まともなホテルに泊まるつもりでいる。そのホテルをどこか予約しなければならない。三つ目は両替である。またもや手持ちのルピーが残り少なくなっている。

 街に飛びだす。既に土地勘はある。案の定、銀行は全て閉まっている。「だめかなぁ」と思いながら、スリランカ航空の事務所に向う。フォート地区に建つ超高層ツインビルのワールドトレイドセンター(W・T・C)にある。ビル入り口で厳重な荷物検査を受けた。幸運にも、事務所は開いていた。休日のためか従業員は少なく、20数ヶ所ある窓口のうち開いているのは数ヶ所のみ。しかも、お客がたくさん待っているにもかかわらず、気にする様子もない。お昼になると次々と窓口を閉鎖していく。きれいなサリーに身を包んではいるが、勤労意欲は余り感じられない。長い待ち時間となった。50分も待たされて、ようやく順番が来た。18日の日曜日はフライトがなく、19日の月曜日の便を予約する。これで、スリランカ脱出の第一段階突破である。

 次はホテルの予約である。いつもの通り、飛び込みで行く手もあるが、一流ホテルでは、ザックを担ぎ、Tシャツ、サンダル履きでは、宿泊を拒否されかねない。事前に予約しておいたほうがよさそうである。腹づもりとしてグランドオリエンタルホテル(Grand Oriental Hotel)を考えている。4つ星ホテルで、料金も一流ホテルの中では最も安い。しかも、案内書には「1875年創業のコロニアルホテルで、シンガポールのラッフルズやムンバイのタージマハルホテルに匹敵する歴史を有する。玄関やロビーは重厚な造りで、客室に置かれたアンティークな家具やランプシェイドなど植民地時代の雰囲気を残す」とあり、魅力的である。フォート地区の一角にあるホテルへ行ってみる。まさに案内書記載の通り、古風なコロニアル風の建物で、歴史と風格が感じられる。大いに気に入った。フロントへ行き、17日、18日の2泊を予約する。確り、デポジットを取られたが、1泊6,300RPであった。これでスリランカ脱出第二段階終了である。

 安心して、フォート地区をぶらつく。ここは、政府機関や、一流ホテルの建ち並ぶ首都コロンボの心臓部である。内戦再開となれば、LTTEのテロ攻撃の危険が高いため、凄まじい警備体制である。軍が要所要所を固め、銃を携えた多数の兵士が警備に当たっている。到るところバリケードが張られ、人通りも少ない。外務省からもこの地区へは近づかないようにと警告がでている。しかし、街並みは素晴らしい。時代を感じるコロニアル風の建物が建ち並び、アジアの都市とは思えない雰囲気である。街の中心に時代掛かった時計台がある。写真を撮ろうとカメラを構えたら、武装した兵士がすっ飛んできた。撮影禁止だという。注意してみると、到るところに「最高機密地域。撮影禁止」の立て札が立っていた。無理もない、時計台の隣は大統領官邸なのだから。フィルムを没収されないでよかった。

 バリケードの隙間を抜け、ぶらりぶらりと最深部に向う。歩哨に立つ兵士に声を掛ける。「ハロー、もう少し行ってもいいかい」。真っ黒な顔から白い歯がのぞき、「何しに行く」「いや、単なる観光だ」「どっから来た」「日本だ」「写真は絶対ダメだぞ」。さらに進んでみる。私服の男がとびだしてきた。「どこへ行く」。こんどはニコリともしない。もはや尋問である。そろそろ引き返したほうがよさそうである。

 フォート地区を南に抜け、旧国会議事堂(この建物も素晴らしい。ただし撮影禁止)前を通って海岸に出てみる。波打ち際に沿って一本の遊歩道が走り、その横は大きな広場となっている。ゴール・フェイス・グリーンと呼ばれる場所である。休日のためだろう、遊歩道には家族連れ、若いカップル、若者のグループなど多くの人々の姿があり、波打ち際で波と戯れている人も多い。広場では凧を揚げたり、クリケットをしたり、各々の休日を楽しんでいる。

 北の方向に灯台が見える。行ってみようと遊歩道を歩きだす。所々に昔の大砲が海に向って筒先を向けている。フォート(Fort) という地名からもわかる通り、植民地時代にはこのあたりに砦が築かれていた。大砲はその名残である。軍の検問所が現れた。兵士にさらに進んでもいいかと聞くと、OKとの返事。なおも進む。再び検問所がある。ここから先は、特別許可が必要なので、申請書類に記入せよとの指示。そこまでして、進むつもりはない。地図を見ると灯台は大統領官邸のちょうど裏手に当たっている。

 今度は遊歩道を南にたどる。飲み物や軽食を売る洒落た屋台が並び、洗練されたビーチリゾートの趣である。頭上から振りかかる直射日光は強烈であるが、海風が心地よい。所々に設置されているベンチは、全て若いカップルに占領されている。日傘で姿を隠し、皆、確り抱き合っている。2キロも歩くと、コロンボの最高級ホテルの一つ・ゴールフェイスホテルに行き当たり、遊歩道は尽きた。地図を確認すると、ここから東へしばらく進めば我がホテルの近くに行ける。しばらく歩くと、ATMがあった。試しに、シティーバンクのカードで操作してみたら、スリランカ・ルピーが出てくるではないか。これで、今日の三つの課題全てが解決した。

 いったんホテルに帰り、今度は南に向う。1キロほど歩くと小さな湖水の辺に出る。ベイラ湖(Beira Lake)である。フォート鉄道駅の南側にも同じ名前のベイラ湖がある。元は一つの巨大な湖であったものが、埋め立てにより二つの小さな湖に分かれてしまったらしい。湖の真ん中に小さな島があり、岸辺から橋が架かっている。行ってみると、そこはまさにカップルが愛をささやく場所、全てのベンチ、木陰は傘で姿を隠した二人連れに占領されている。キャンディでもゴールでも、そしてこのコロンボでも、スリランカの若者は屋外で激しく愛をかわしている。ラブホテルがないためか、それとも羞恥心が薄い国民性なのか。目のやり場に困ってしまう。 岸辺近くにガンガラーマ(Gangarama)寺院がある。コロンボ中心部で最も大きな仏教寺院である。行ってみると、今日がフルムーン・ポヤ・デーであるためか、多くの参拝者で賑わっていた。本尊に詣でる。境内には立派な菩提樹が大きく枝を広げている。この国でも、仏教寺院は誰でもフリーパスである。湖畔のベンチでひと休みしていたら、10歳位の少年が、クリケットのバットとボールをもって通りかかった。クリケットとはどんなものかと、少年を相手にトスバッティングを試みる。まぁ、野球の親戚みたいなものだから、すぐに慣れる。しばらく遊んで別れようとすると、少年が「5RPくれ」と、手を出す。まったくもって、この国はーーー。宿に引き上げる。

 夕食にホテル付随のレストランに行く。お客は誰もいない。歩き廻って咽が渇いたのでビールを注文する。ところが、従業員の態度がおかしい。「ブッディ、ブッディ」と言って、にやっと笑い、「紅茶でいいか」と妙なことを言う。しばらく意味がわからずポカンとしたが、ハッと気がついた。「ブッディ」とは"Buddhi"のことだろう。今日はフルムーン・ポヤ・デー。禁酒日なのだ。この日は、一流ホテルでも酒類の提供はしないと聞いている。ようやく理解した。「紅茶でOK。ただし泡の立つ紅茶を」と、ニヤッとして答える。しばらく経つと、紅茶用のポットと紅茶カップが運ばれてきた。もちろん中身はビールであった。紅茶カップでビールを飲む。

 考えてみると、スリランカ入国以来、スリランカ人が飲酒する姿を見たことがない。街を歩いても酒場やバーなど見かけなかった。タイやラオスやミャンマーでも人々はあまり酒を飲まない。仏教徒は習慣的にあまり飲酒を好まないようである。
 

   第30章 コロンボ放浪

 12月16日金曜日。今日はコロンボ南部を歩き廻ってみるつもりである。9時前に宿を出る。今日も朝からカンカン照りである。先ずは歩いて、スリランカ政府観光局に行く。本当は、スリランカに入国したら真っ先にここに来たかったのだが、心ならずも、最後になってしまった。カウンターの後に並んでいるサリー姿のきれいなおねぇさんが、旅の相談に乗ってくれる。残念ながら、私はもうその必要がない。ここに来たのは、"Travel Lanka" という素晴らしい英文の小冊子をもらいたかったためである。列車の時刻表、バスの路線案内、主なホテルの紹介等々、スリランカ旅行に必要な全ての情報が簡潔に記載されている。スリランカ個人旅行の必需品である。

 トゥクトゥクでコロンボ南部のバンバラピティヤ(Bambalapitiya)地区に向う。賑やかな街並みは途切れることなく続く。コロンボの人口は220〜230万人だが、市域は意外と広い。このあたりにはカジノもあるとのことだが、私の興味の外である。先ずは、市内の重要仏教寺院の一つとされるワジララマヤ(Vajiraramaya)寺院に行ってみる。仏塔の建つ静かな寺で、境内に人影はなかった。近くにあるはずのヒンズー教寺院バンバラピティヤ・カディレザン(Bambalapitiya Kadiresan)を探してみたのだが、見つけることが出来なかった。諦めて、コロンボの代表的なお土産店・ランカ・ハンズ・エックスポーズ(Lanka Hands Exports)に行く。少々お土産も買う必要がある。スパイスの詰め合わせセットが得られた。少々歩いて、スリランカ紅茶局(Sri Lanka Tea Board)に行ってみる。国営の紅茶販売店である。品ぞろえは豊富だが意外に小さな店であった。「最高級の紅茶が欲しい」と言ったのだが、物事はそう単純ではないらしい。好みにより、また飲み方により、いろいろな種類があるとのことである。トゥクトゥクに乗ってひとまず宿へ帰る。

 午後からは、コロンボ国立博物館に行ってみることにする。スリランカ最大にして最古の博物館である。地図で確認すると、宿から2キロぐらい南なので歩いて行けそうである。ベイラ湖の岸辺を抜け、炎天下を歩く。ふと、咽の奥に違和感を感じる。何となく身体も重い。風邪の前兆である。ちょっとヤバイ。体力を使い過ぎたか。緑の森が広がる一角に達した。ヴィハーラ・マハー・デーウィ(Vihara Maha Devi)公園を中心とする緑地帯である。その緑の中に、図書館、タウンホール、各種博物館などが点在している。ここでは雑踏渦巻くコロンボがまったく違う顔を見せている。国立博物館もこの緑の中にあった。コロニアル風の堂々とした白亜の洋館である。ところが、博物館は金曜日が休館日。遠路はるばるやって来たのに、ガッカリである。

 ヴィハーラ・マハー・デーウィ公園の中を散歩する。広々とした森の中に花壇や池を配し、また子供向けの遊具などもある。まさに都市の中のオアシスである。しかし、ここでも目立つのは若いカップルである。ベンチというベンチが占領されている。今日は平日なのだがーーー。近くにコロンボ大学があるためだろうか。再び延々と歩いて宿に戻る。夕方、夕日が見られるかもしれないと思い、海岸に行ってみた。海岸の遊歩道は、相変わらず夕涼みの人々で賑わっていた。凧がたくさん揚がっている。人垣の中をのぞいてみると、蛇使いがコブラを操っている。ところが、突然、真っ黒な雲が広がり、雷鳴が轟きだした。慌てて宿に逃げ帰る。と同時に、激しく雨が降りだした。

 夜に入ると、咽の違和感は痛みに変わった。熱も出てきたようだ。今年の6月、マレーシアのペナンで高熱のため入院したが、どうもその時の初期症状と似ている。いやな予感がする。明日になれば立派なホテルに泊まれるので、ゆっくり休養できる。

 
第31章 スリランカ最後の二日間

 12月17日土曜日。朝起きるが、症状は好転していない。早すぎると思ったが、朝8時にグランド・オリエンタル・ホテルに出向き、チェックインする。すぐに、フロントで明後日早朝の車の手配を頼むと、ロビー内にある旅行社に案内され、そこで予約できた。1,400RPである。これで帰国へ向けての障害は一切なくなった。心配は体調だけである。バンコクまで行けば勝手知った病院もある。

 案内された部屋は、古風な調度品によって独特の雰囲気を醸し出している。大いに満足した。持参の薬を飲み、しばらくベッドに横になったら、少し楽になった。近くのぺター地区、フォート地区を散歩する。フォート地区の警備は相変わらず厳重である。内戦はいつ口火を切るのだろう。人通りの少ないビルの谷間には点々と物乞いがいる。ワールド・トレード・センターの3階、4階にたくさんの宝石店が出店しているので覗いてみる。宝石は紅茶、スパイスと並んでスリランカを代表する産物である。古くは紀元前10世紀、ソロモン王はスリランカ産のルビーをシバ女王に贈って、その心を射止めたと言われる。もちろん、私は買うつもりは毛頭ない。

 ベター地区はまさに街全体がバザール。こちらには兵士の姿は見られない。明日、郊外のキャラニヤ(Kelaniya)に行くつもりなので、偵察にバスターミナルへ行ってみた。雑然としたターミナルで、周辺でも多くのバスが発着しており、勝手がさっぱりわからない。
 体調がやはりよくない。ホテルへ帰り、ベッドの上でぐったりする。
 
 12月18日日曜日。朝起きると体調はさらに悪化している。咽の痛みはなくなったが、おそらく体温は38度はあるだろう。何とかバンコクまで我慢しよう。外は雨が激しく降っている。この状態ではキャラニヤ行きは無理だ。1日ホテルで休養することにする。最後の最後になって、なんともさえないことになってしまった。しかし、考えようによっては、途中でなくてよかった。雨は1日降り続けていた。
 

   第32章 さらばスリランカ、試練の島よ !

 12月19日月曜日。いよいよスリランカを去る日が来た。朝4時に起きるが、激しく雨が降っている。ロビーで車を待つが、約束の4時半になっても来ない。フロントの男性が心配して旅行社に電話してくれた。5分遅れで、ワゴン車がやってきた。前も見えないほどの激しい雨の中を空港に向う。体調は好転の兆し見えず、胸が激しく痛むようになっている。バンコクに着いたらすぐに病院へ行こう。

 約1時間のドライブで空港に着いた。運転手は確りとチップを要求する。もう、この国の勝手には慣れている。先ずは銀行窓口に行き、余ったスリランカ・ルピーをUS$と交換する。イミグレーションを通過してしまうと、免税店でもスリランカ・ルピーは使えないらしい。いたってローカルな貨幣である。空港内は早朝にも関わらず混雑している。しかし、大部分が徒党を組んだインド人である。彼らはまったく傍若無人である。イミグレや荷物検査で並んでいても平気で横入りしてくる。イミグレを経て免税店に行く。1店しかない。バンコク・ドンムアン空港や成田空港とは比ぶべくもない。インド人どもが何やら大量に買い込み、インド・ルピーが大手を振って飛び交っている。この国がインドと極めて近いことを再認識する。

 定刻7時45分、UL422便は降りしきる雨の中、バンコクへ向け離陸した。機内はガラガラである。日本人らしき姿は見られない。スリランカ旅行中、ついに1人の日本人旅行者とも会わなかった。

 機内で、時折襲う胸の痛みに耐えながら、25日間にわたるスリランカの旅を思った。未知の国を旅したが、トラブルもなく、危険な目にも会わず、こうして長い旅を終えることが出来た。その意味では、外国人が安心して旅の出来る文明国の一つと言ってよいだろう。案内書にも、「内戦を別にすれば、世界で最も安全な国の一つ」と記されている。しかし、カルチャーショックを受けたのもまた事実である。何か我々日本人とも、また今まで多く旅した東南アジア諸国とも価値観が違う。見知らぬ外国人にも、まったく臆せることのないその「積極性」。平気で物や金をねだる「したたかさ」。また、「羞恥心のなさ」も心に残る。世界は広い。いろいろな文化が存在する。そのことをまた一つ知った旅であった。

 そして最後に、やはり胸を痛めるのは民族紛争である。現在の状況はまさに内戦再開前夜であった。スリランカの歴史は、紀元前の昔から、シンハラ人とタミール人の闘争の歴史そのものである。歴代のシンハラ王朝は、常に、南インドを拠点とするタミール勢力の侵攻に悩まされ続けてきた。タミール勢力の脅威から逃れるために、都を南に南に移しながら長らえてきた。そして、植民地時代、英国が紅茶栽培の労働力として大量のタミール人を南インドから移住させたことにより、両民族の関係はより複雑になってしまった。

 英国の植民地支配に対するシンハラ人の抵抗運動は、シンハラナショナリズムを勃起させる。彼らは自らのアイデンティティを「仏法の島」と「アーリア人の血」に求めた。「宗教」と「血」という、今も世界中を悩まし続けている魔物が、このときスリランカにも現れてしまったのである。独立後、この魔物は、矛先をタミール人に向ける。それまでの歴史上のシンハラ勢力とタミール勢力の戦いが、王朝間の戦いの要素が強かったのに対し、このときから両民族の戦いは、「宗教」と「血」の戦いに変質してしまった。そして、1956年に第4代首相に就任したS.W.R.D.バンダラナイケは「シンハラ唯一主義政策」を実行し、両民族の対立を決定的にしてしまう。

 追いつめられたタミール人もまた、「宗教」と「血」によって武装した。1976年、タミール・イーラム解放の虎(LTTE)を結成し、1983年には独立武力闘争を開始する。以降泥沼の戦いが続く。1993年5月にはプレマサダ大統領が暗殺され、1998年1月にはシンハラ人の精神的な支え、仏歯寺が爆破される。一方、シンハラ政府側も1995年にはLTTEの首都・ジャフナを陥落させ、多数の一般住民を殺傷した。スリランカは「殺戮の島」とさえ呼ばれるようになった。

 その後北欧諸国の仲介により、2002年2月、スリランカ政府とLTTEは停戦合意に署名し、和平交渉を開始した。しかし、2003年4月以来、和平交渉は中断したままである。停戦合意は今も基本的に守られてはいるが、2005年大統領選挙で、強硬派のラジャパクサ氏が当選したことにより、再び緊張が高まっている。

 これほどまでに憎み合い、殺し合っている両民族だか、この旅行期間中、私には外観上シンハラ人とタミール人の区別がつかなかった。シンハラ人はアーリア系の民族で、色が白く、一方タミール人は、インド土着の民族で、色が黒いと言われる。しかし、長い間の混血により、今や外観上では区別がつかなくなっている。シンハラ人とタミール人の区別は今や個々人の心の問題なのだろう。
 
 願わくは、1日も早く、J.R. ジャヤワルダナ大統領の演説、『憎悪は憎悪によって止むことなく、慈愛によって止む』を自国において実践されることを。
 そして、この島が、その名前"Sri Lanka" が意味する「光輝く島」となることを祈ろう。
                                                                                          (完)

   
   余章 バンコクにて

 バンコク到着後、すぐに「Bangkok Hospital」に行った。市内の大きな私立総合病院である。海外旅行障害保険に加入しているので診療は無料である。東北大学を卒業したという日本語ぺらぺらの医師が、レントゲン検査、心電図検査も含め、ていねいに診察してくれた。注射を打ち、薬を飲んだら胸の痛みも取れ、熱も下がった。ある雑誌によると、タイの医療は世界1と評価されている。ちなみに第2位は米国、日本は世界第4位である。

 12月23日金曜日、未明のエア・インディアで日本へ帰国すべく、バンコク空港で暇を持て余していた。待合室の隣の椅子に、大きなザックを抱えた1人旅らしい日本人の青年が座った。話してみると、大阪の会社員で、何と、これからスリランカに向うという。正月休みを利用しての2週間の旅とのこと。スリランカでは、ついに日本人旅行者には1人も会わなかったが、最後の最後に、ついに仲間に出会った。何やら嬉しくなって話が弾んだ。

 0時40分出発予定のAI306便がバンコク空港を飛び立ったのは午前3時を過ぎていた。
                        
以上
 

 

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