クメールの栄光 アンコール旅行記クメールの神々を訪ね、カンボジアの悲劇を見つめる旅 |
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子供たちのキラキラと輝く目が今も脳裏を離れない。引き込まれそうな、深く澄ん瞳。もはや日本では決して、そしてタイですらめったに、見ることのできない瞳。この瞳に囲まれるたびに、この国に限りないの未来を感じ、そしてまた、この子らの明日に幸あれと祈らざるを得なかった。
長く続いた内戦。何百万人という同胞を殺害し、社会と民族を破壊しつくた異常な政権の出現。そして今なお、残置地雷の恐怖におびえるアジア最貧国の一つ。カンボジアのイメージは暗く、せつなく、そして、無気味ですらあった。しかし、不安にさいなまれながら訪れたかの国は、貧しさと内戦の深い傷跡は残るものの、明るい南国の太陽の下、笑顔のあふれる人々が暮らす、美(うま)し国であった。そして何よりも、輝く目を持つ子供たちの存在が、この国の未来を明るく感じさせてくれた。 15世紀以降のクメール民族の歴史は屈辱と絶望にさいなまれた暗く悲しい物語である。タイのアユタヤ王朝、ベトナムの阮(グエン)王朝という強国からの圧力に翻弄され、19世紀にはフランスの植民地とされる。さらに20世紀後半は、東西両陣営の代理戦争の場と化し、血で血を洗う内戦が続く。その上、クメールルージュと呼ばれる狂気の過激派集団の支配を許し、200万人とも300万人とも言われる同胞が大虐殺される。曲がりなりにも、戦渦が止んだのはほんの十数年前である。 しかし、過去を振り返れば、クメール民族は輝かしい歴史を持っている。東南アジア史上最大の王国といわれ、9世紀から15世紀に掛けてアンコールの地を王都として栄華を誇ったアンコール王国は、紛れもなくクメール民族の国家である。当時、全ての道はアンコールに通じるといわれ、その支配はほぼインドシナ半島全域に及んだ。現在でも、タイの社会にはクメールの影響が色濃く残されている。そして現在、その栄華の跡であるアンコール・ワットや アンコール・トム等のアンコール遺跡群は世界遺産に登録され、人類の宝と認知されている。 アンコールワットを一度は訪れてみたいと思っていたが、うち続く内戦は訪問のチャンスを与えてくれなかった。しかし、還暦を迎える歳になって、タイ駐在という思っても見ない境遇が訪れた。カンボジアは隣の国、飛行機でわずか1時間の距離である。アンコール・ワットへの思いがむくむく湧きあがってきた。一方、未知なる国への一人旅は心に不安の影を落とす。しかも、調べた旅行案内書の解説は最悪である。イミグレーションやビザ取得の際には賄賂が要求され、治安はよくなく、残置地雷の撤去も終わっていないとある。こんな国に一人で行って大丈夫なのだろうか。 思いが、不安に勝った。行ってみようと決めた。バンコク国際空港8時発PG930便の小型機は、ほぼ満員の乗客を乗せて、あっという間に大空に舞い上がった。高度が低いので地上の様子がよく見える。大都会・バンコクの街並みが後方に消えると、もうそこはカンボジア上空である。見下ろす景色は劇的に変化する。いたるところ田が開け、その中を何本もの川が蛇行を繰り返しながら流れる。なぜか、どの川も異様なほど茶色い。そして、不思議なことに、集落がまったく見当たらない。道路も見えない。あれーーー? と思うまもなく機内アナウスがSiem Reap(シェムリアップ)空港着陸を告げている。瞬間、海が見えた。否、海ではない。東南アジア最大の湖・Tonle Sap Lake(トンレサップ湖)のはずである。街並みも見えないままシェムリアップ国際空港に到着した。何? これがプノンペン国際空港とともにカンボジアに二つきりない国際空港? 原野の中に一本の滑走路があるだけで、ただ1機の飛行機の姿も見当たらない。 地上に降り立つ。降り注ぐ太陽の光がまぶしい。ついにカンボジアにやってきた。この大地はカンボジアなのだ。うれしさがこみ上げる。滑走路脇の空港事務所と思しき小さな建物に急ぐ。まずはビザ申請をしなければならない。バンコクで取得しておけばよかったのだが時間がなかった。案内書によると、ここで賄賂を要求されるとある。恐る恐る申請書と写真、それに手数料の20US$を差し出す。何事もなくビザは簡単に下りた。次はイミグレーション。机を二つ並べただけの簡単な関門だが、ここでも賄賂が要求されるとある。係員がにこにこしながら話しかけてくる。「カンボジアは初めて? ホテルは決まっているの? 何日滞在するの?」。尋問などという雰囲気はまるでない。こんなフレンドリーなイミグレは久しぶりである。今から十数年前、初めてタイを訪れたときのイミグレもフレンドリーであった。その瞬間、タイがすっかり好きになってしまった。残念ながら、今ではまったくお役所的になってしまったが。このカンボジアもすばらしい国である予感がする。賄賂を要求するなどと誰が悪口を書いたのだ。 小さな建物の外に出る。目の前は原野が広がるだけで何にもない。タクシーなど影も形も見えない。パック旅行の出迎えと思しき数台のワゴン車が止まっているだけである。結果から言うと、2日にわたる旅行期間中に、ただ1台のタクシーも見かけなかった。おそらく、この町にはタクシーなどないのであろう。 乗客のほとんど全てがパック旅行客であったようである。人混みから離れ、一服していたら、一人の若者がにこにこしながら近寄ってきた。依頼してあった私のガイドであった。名前も目印も知らされていなかったので、うまく会えるか心配していたが、これでひと安心である。Mと名乗り、なかなかの好青年である。トヨタ車のカムリが用意されていた。このときは何も感じなかったのだが、この車はカンボジアでは恐ろしく貴重な最高級車であったのだ。相談の結果、まずはアンコール・トムに行くことにする。 原野の中の一本道をしばらく進むと、チェックポイントが現れた。アンコール遺跡群を見学するには、ここで見学許可証を購入する必要がある。3日券が40US$。高い気もするが、カンボジアにとって、このアンコール遺跡群の観光収入こそが最大の国家収入のはずである。この後も、遺跡に近づくと、必ずチェックポイントがあり見学許可証の提示を求められた。しばらく進むと、目の前に写真で見慣れたアンコール・ワットが現れた。一瞬全身に戦慄が走る。ついにやってきた、アンコールの地に。 アンコール・ワットは午後の楽しみに取っておいて、さらに奥へ進む。
西暦1177年、アンコール王国はベトナム中部の強国・チャンパ王国の攻撃を受ける。首都アンコールは陥落し、王は殺される。当時副王であったジャヤヴァルマン7世は辛くも生き延び、アンコール王国復活の戦いを開始する。滅亡から4年、ついに王国復活に成功したジャヤヴァルマン7世は、再度のチャンパ王国の攻撃に備え、かくも頑丈な王城・アンコール・トムを建設した。そして、1199年、力を蓄えたアンコール王国は逆にチャンパ王国へ襲い掛かる。復讐戦は凄惨を極めたと中国の古書にある。チャンパ王国は滅亡する。
積み重なる巨岩の内部に入る。回廊の壁は一大絵巻となる彫刻で飾られている。チャンバ王国との戦いの様子や庶民の生活の様子など、当時の政治・社会がリアルに描かれている。しかし、どういうわけか、この辺りの記憶が曖昧である。四方八方から降り注ぐ四面仏の視線のみ記憶に残っている。 低い周壁の内部に入る。王宮跡である。ただし、王宮は何一つ残っていない。木造建築であったため、のちのタイ・アユタヤ王国との戦いにより焼失した。アンコール王国においては神の住まいは石造建築で、人の住まいは木造建築であった。ただし、周壁の中心部にまさに石の墓場と化したピラミッド状の建造物が聳えている。 再び、遺跡の中を移動する。小さな門を抜けると、テラス状の所にでた。目の前に大きな広場が広がっている。足下から一本の地道が真っ直ぐ延び、広場の先の密林へと消えている。 ちょうど昼となった。ホテルへチェックインすることにする。シェムリアップの中心部に向かう。道の両側には立派なホテルや政府機関がぽつりぽつりと建つだけで、不思議なことに街並みはない。「これが国王の別荘です」。M君が道端の建物を指差す。別に塀で囲まれているわけでもなく、警備の警官がいるでもない。「たまには国王は来るの」と聞くと、「いえ、いつも中国にいるもので」とさびしげに答える。カンボジアは現在立憲君主制をとっており、現国王はシアヌークである。ただしこの国王は稀代の権力主義者であり典型的なオポチュニストである。結果として動乱の数十年を見事に生き延びた。ただし現在の政治的実権はフン・セン首相が握っている。国王は中国でなかば亡命生活を送りながら、息子を陰で操り、懸命に実権奪取を狙っている。おそらく、シアヌークの死をもって、カンボジアは共和制に移行するであろう。 大通りと思える然るべき道に出た。片道一車線の舗装道路である。しかし、車の影はない。バイクと自転車のみが行き来している。ひょっとして、と思い、「この道は国道6号線か」とM君に問うてみる。そうだと言う。国道6号線は、タイと首都プノンペンを結ぶ、カンボジアにおける最も重要な幹線道路である。当然ぼろ車といえどもトラックがひっきりなしに行き来しているとのイメージがあった。この瞬間、カンボジアの現状の一端を理解した。結果として、2日間の滞在中に、ただ1台のトラックも見ることはなかった。道の両側には民家はなく、真新しい立派なホテルのみ建つ。 Hotel City Angkorにチェックインする。1泊100US$もする最高級ホテルである。治安に不安があると吹き込まれたので、奮発して高級ホテルを予約しておいた。受付の正面にはフン・セン首相夫婦の大きな写真が飾られ、誰が現在の実力者か一目瞭然である。それでも、隅の方に、二回りも小さな国王夫妻の写真がお義理のように飾られていた。M君は3時に迎えに来るという。え! という顔をしたら、「カンボジアは暑いのて、昼休みが長いんです」と申し訳なさそうに言う。案内された部屋は広く清潔で文句はない。ホテルの中は閑散としていた。昼飯を食べに入ったホテル内の立派なレストランも客は誰もいない。メニューは全て英語で、金額はUS$表示であった。アンコールビールを飲みながら、手持ち無沙汰のボーイと雑談をした。英語と片言のタイ語が通じる。ボーイが調子に乗って「今晩女はどうか」と持ちかけてくる。ためしに値段を聞いてみると、All Nightで200US$だという。高いのか安いのか。
しばしの後、空中回廊となった参道をゆっくりと進む。この回廊も欄干はナーガである。参道は長い。540メートルあるという。しかし長さを感じさせない。参道からはいろいろな言葉が聞こえる。英語、フランス語、ドイツ語、中国語、朝鮮語、日本語、その他不明の言葉。言葉の数だけ皮膚の色も顔つきも異なる人々が溢れている。まさに世界中からこの人類が築き上げた壮大な遺産を見るために人々がやって来る。M君に、この国でクメール語の次に通じる言葉は何語かと聞いてみた。年寄りはフランス語だが若者は英語だとの答えである。M君も英語は流暢である。このことにもカンボジアの辿った歴史が読みとれる。進むに従い、刻一刻と中央祠堂が近づく。ふと思った。この建築手法は日本の神社と同じではないか。長い参道を進み、次第に高まる宗教的感情がその頂点に達したところに神殿がある。 アンコール・ワットは12世紀前半、時の国王スールヤウァルマン2世により、自らの朝廟として建てられたヒンズー教寺院である。寺領を区切る環濠は周囲5.6キロメートル、幅は190メートルもある。シェムリアップ地域に広がるアンコール遺跡群の中で、もっとも名の知れた遺跡である。インドシナ半島に覇を唱えたさしものアンコール王国も1431年、新興国家・タイのアユタヤ王国により滅ぼされる。以来、この壮大な遺跡も見捨てられ、密林の中に忘れ去られる。この遺跡が再び人々の目の前に現れるのは1860年、フランスの探検家・アンリー・ムーオによる「アンコールワット再発見」を待たねばならなかった。 回廊の両側には広々とした草原が広がっている。ちょうど中間点辺りに、左右対称に経蔵がある。左側の経蔵は修理中であった。さらに回廊を進むと、中央祠堂の手前左右に、聖なる池が配されている。M君が「ちょっと寄ってみましょう。水に映るWatの姿がきれいですよ」という。回廊から降り、水際に立つ。 ついに中央祠堂の一角、第一回廊に達した。中央祠堂は三重の回廊を巡らしており、その一番外側の回廊である。一辺が200メートル×180メートルもある。 突然雷鳴がとどろき、驟雨がやってきた。雨季のこの季節、毎日夕方になると雷雨となるという。算盤玉のような装飾を施した回廊の窓から雨に煙る神殿を眺める。第一回廊をひと回りした後、十字回廊に進む。この一角に有名な落書きがある。1632年、森本右近太夫なる人物がここを訪れ、柱に墨書きの落書きを残した。証拠として残る日本人最初のアンコール・ワット訪問者である。もはや文字は読めず、わずかに墨書きの跡のみ認められる。いったい彼はどうやって、何の目的で、はるかなる異国を訪れたのであろうか。 第二回廊を抜け、中庭に出ると、目の前に第三回廊とその中心に立つ主尖塔が高々と聳え立っていた。第三回廊までの高度差13メートル。四方より恐ろしく急な崩れかけた石段が突き上げている。斜度はおそらく70度を越えているだろう。まさに絶壁の感がある。日本なら間違いなく立ち入り禁止なのだが、この危険極まりない石段を登ることが許されている。南側の石段のみかろうじて手すりが設置されており、勇敢な人々がチャレンジしている。幸い雨も止んだ。年甲斐もなく血が騒ぐ。下で待っているというM君を残して、石段に取り付く。手足四本を動員しての登攀である。すさまじい恐怖感と緊張感。ついに第三回廊に達した。ここは神殿の中心部、王が神と交信する場所である。一歩でも天に住す神に近づくため、高々と石を積み上げた。 お決まりのコースではあるが、Phnom Bakheng(プノン・バケン)山に夕日を見に行くことにする。この山はアンコール・ワットとアンコール・トムの中間西側にある標高わずか70メートルほどの山であるが、大平原の真中にポコンと盛り上がった山のため、眺望のすばらしさで有名である。特に、ここから眺める日没は天下一品といわれている。あいにく先ほどの雷雨の名残で、空は雲に覆われ、夕日が見られるかどうかは怪しい。ただし、高みからアンコール・ワットを眺めるだけでもよい。麓に象が控えており、山頂まで20US$だという。歩いて登る。
日没まではまだしばしの時間があった。遺跡の崩壊した石に腰掛け、M君と語り合った。常に控えめで、輝く目を持つ好青年である。「この国は貧しいです。内戦が続いたのでーーーー」。彼は遠くを見やりながら、ポツリポツリと重い口を開いた。現在28歳で、妻と1歳の子供のいること。タイ国境付近で生まれたが、内戦の戦火に追われ、このシェムリアップに逃げてきたこと。ボランティアで日本語を教えてくれるところがあったので、そこで必死に日本語を勉強したこと。「この結果、失業しないですみました」。彼は初めてにっこり笑った。「なんで馬鹿な内戦なんかしたんだ。豊かな国なのに」。私は出かかった言葉を飲み込んだ。代わりに、「後10年、いや20年後には豊かな国になるよ。きっと。この広大な耕地と君のような青年がいる限り」。私は独り言のようにつぶやいた。目の前には豊かな耕地が広がっている。M君が思い切った様子で、ポケットから手帳を取り出し「教えてください。漢字がまだ充分読めないので」という。みると、手帳には、びっしりと漢字の単語が書き込まれている。カナをふって欲しいという。M君の日本語は正直言ってまだつたない。時々、通じなくて、お互いに英語を補助に使っている。 日没が迫るに従い、山頂はにぎやかとなった。40~50人が思い思いの場所に陣取り、そのときを待つ。やがて西の空を覆う雲が真っ赤に燃える。地平線と空の間にわずかな雲の切れ目がある。「見えるといいですね」。 真っ暗な道を帰路につく。ヘッドライトに帰路を急ぐ自転車の群れが浮かび上がる。シェムリアップの中心街に出ても道は暗かった。「街灯がないので暗いです。電気が足りないもので」。M君が申し訳なさそうに言う。一人ホテルでの夕食はあじけない。カンボジアの伝統舞踊を見られるレストランに案内してもらい、固辞するM君を無理矢理誘っていっしょに食事をした。 翌朝8時、M君とともにホテルを出た。まずはBanteay Srei(バンテアイ・スレイ)遺跡を目指す。シェムリアップの東約40キロにある10世紀後半の寺院遺跡である。車はすぐに郊外に出た。どこまでもどこまでも雑木の茂る原野が続く。何とも風情のない景色である。M君に聞くと、昔は鬱蒼とした密林であったが、内戦時代に全て伐採されてしまったという。このシェムリアップ付近は内戦時代ポルポト派の牙城であった。おそらく、ゲリラ戦を封じるために、政府軍が片っ端から密林を伐採したのだろう。この景色も内戦の傷跡である。 どこまでいっても畑も家も現れない。恐ろしいほどの人口密度の希薄を感じる。その中を車の走行可能な道が続いている。ただし、走る車はない。ポツリポツリと自転車とバイクが現れる。バイクには家族と思える3人、時には4人もが抱き合うようにして乗っている。M君の説明によると、今日は日曜日なので家族そろって行楽に向かっているとのこと。おそらく、バイクに乗る人々は豊かなのだろう。ようやく訪れた平和を感じるひと齣である。 初めて村落が現れた。しかもとびっきり上等な。これこそ私が求めていたカンボジアの原風景である。背高のっぽの砂糖椰子に囲まれ、高床式の民家が点在する。どの家も屋根は椰子の葉で拭かれ、家の壁は板か椰子の葉である。床下の空間にはハンモッグが吊されている。裸足半裸の子供たちがその間を走り回っている。何とものんびりした平和な風景である。そこには、もはや貧しさという概念すら感じられない。こんな村で暮らせたらさぞかし幸せだろう、と思うのは現実を知らない旅人の独りよがりであったかも知れない。M君の説明によると、日陰を提供し、風通しも良い床下の空間が、昼間の生活の場で、屋内は夜寝るだけの場であるという。 村はずれに来ると、長屋風のちょっと大きめの建物があった。M君が、小学校だという。ただし、カンボジアではいまだ義務教育はなく、小学校といえども就学率は30%だと付け加える。この国を復興するには、まず教育から始めなければならないのかも知れない。景色は再び原野に戻った。
堀を渡り、本殿に至る。ここも同様に精密な彫刻で満ちている。その中にかの有名なデバダーの彫像がある。東洋のモナリザと呼ばれる彫像である。本殿は修理中で、近くで見られないのは残念だが、数メートルの距離から眺めることができた。1923年、フランスの作家アンドレ・マルローは、この像のあまりの美しさに魅せられ、盗み出そうとして逮捕された。いわくつきのデバダー像である。
帰路は、別の道を通ってシェムリアップに向かった。道は舗装されていないが、意外によい。めったに車も通らないので、荒れることもないのかもしれない。来るときと同じく、雑木の茂る荒地が延々と続く。時折思い出したように、小さな集落と耕地が現れる。人口密度の希薄さを強く感じる。それでも、道には時々牛の群れが現れる。のんびりと歩く群れを追うのは必ず小学生ぐらいの子供である。なにやらほっとする風景である。
壁に刻まれた彫像がいくつも削り取られている。単なるいたずらではなさそうである。この寺院は後にヒンズー教寺院に改宗された。その際、仏像は削り取られたとのことである。宗教的狭小心は何もアフガニスタンにおけるタリバンだけのものではなかったようである。 神殿の隅に、7、8歳の子が、いくつかの竹細工の土産品を握り締め、隠れるようにたたずんでいる。どうやら、少しでも多く売ろうと、商売が禁止されている境内にもぐりこんだようである。僕! と声をかけたら、うれしそうに飛んできて、「1ドル」と言って竹細工を差し出す。その真剣な眼差しに射すくめられると、もう拒否はできない。東塔門から外に出ると、あっという間に手に手に土産品を抱えた子供たちに囲まれてしまった。絵葉書、竹細工、絹織物、―――。「お兄さん、買って。安いよ」。どこで覚えたか日本語である。その澄んだ瞳にじっと見つめられると、もう適当にあしらうことができない。 「午後はどうしますか」とのM君の問に、しばし考え、「まず市場に連れて行って1時間ほど自由にして欲しい。次に、もう一度アンコール・ワットに連れて行って3時間ほど一人にして欲しい」と答える。アンコール遺跡群はまだまだ見切れないほどある。しかし、遺跡を巡るよりも、もう少し現在のカンボジアの地肌に触れてみたかった。そしてまた、ようやくやってきたアンコール・ワットをもう一度、一人で、心ゆくまで眺めてみたかった。 昼食後、Old Market(旧市場)で車を降りた。真昼の太陽がぎらぎらと輝いている。シェムリアップ川沿いの一角にある市場は思ったより小さかった。ひと昔前のアメ横という感じで、狭い路地が入り組む内部は、小さな店がぎっしり詰まっている。ただし、カンボジアの昼休みとなるこの時間、市場は人影もなく閑散としている。それでも、食料品店の並ぶ一角は、名も知らぬ魚や野菜が並び、プラホックという発酵調味料の鼻を突く強烈な匂いが漂っていた。市場の一角には土産物店が連なっている。この一角に入り込んだら、もはやただでは出てこられない。カンボジア特産の絹織物、Tシャツ、仏像、絵葉書、―――。次から次へと目の前に持ち出され、その商売熱心さにほとほと感心する。ただし、この市場においてでさえ、全ての通貨US$、またはタイバーツである。自国の通貨・リエルとやらは、今回の旅で影も形も見ることができなかった。市場を出て、周辺をあてもなくぶらつく。片足のない人がいやに目につく。地雷の恐ろしさは、過去の話ではなく、カンボジアでは現実の恐怖なのである。 再びアンコール・ワット西参道入り口に立った。濠の向こうに、900年の時を経たクメールの栄光が、南国の強い光を浴びて黒々と横たわっている。見つめるほどに時が止まった。静寂が辺りを支配する。黒い建造物から立ち上る妖気が私に迫り、私を揺さぶる。あれは寺などという高尚にして神聖なものではない。怪力乱神のクメールの執念が宿る場所。遺跡などではない。魑魅魍魎が跋扈し、今なお妖気を吐き続ける化け物屋敷。妄想が心を支配する。 長い参道を神殿に向かう。昨日あれほど賑わっていた参道も、カンボジアの昼休み時間のためか、人影もない。 怖気つく己を振り切り、神門をくぐる。途端に、ナーガもシンハも姿を消す。 破壊の神・シバ神のすむという神殿中央部に進むには更なる覚悟がいる。その覚悟を固めんがために、左右に展開する第一回廊を巡る。人影もなく暗く閉ざされた回廊は、妖怪変化の棲家。窓から差し込むかすかな光に、壁に刻まれた神々が蠢き、デバダーが怪しく微笑む。
神殿を出ると妖気が消えた。どうやら無事人間界に戻れたようである。目の前に広大な草原が広がっている。その中を一本の参道が走る。その左右には二つの聖なる池が配されている。雨も止んだようである。のどの渇きを覚える。右の池の北側にいくつかの露店が見える。おそらく、広大な境内の中で、そこだけ出店が許されているのだろう。ただし、そんな隅の方まで出向く観光客などめったにいない。池のふちを通り、露店に近づく。前方から子供たちが駆けてくる。懸命に。一歩でも先んじようと。あっという間に10人ほどの子供たちに囲まれた。手に手に土産品を抱えている。 露店の椅子に腰掛、取り囲む子供たちと向き合う。皆小学校低学年の年頃だ。「お兄さん買って。安いよ」。言葉とともにいろいろな土産品が目の前に差し出される。絵葉書を一枚一枚めくって説明を始める子。竹笛で曲を奏でてみせる子。Tシャツを私の肩に合わせて、ちょうどいいと勧める子。ふと気がつくと、人垣の後ろでもじもじしている幼稚園生ぐらいの男の子がいる。「僕は何を売ってくれるのかな」と声を掛けると。前に進み出て、「これ」と絵葉書を差し出す。 子供たちの瞳がなんと澄んでいるのだろう。はるかはるか遠い昔に、こんな瞳に出会ったことがあったような気がする。これが本来の子供たちの瞳なのだろう。輝く瞳にじっと見つめられると、いつしかその中に引き込まれそうである。「全部は買えないよ。あとはこの次ぎに来た時ね」、いくつかの土産品を取り上げながら私。「次はいつ来る?明日? 」と子供たち。重い腰をあげる。「さようなら」と手を振る子。まだまだと土産物を抱えて追いかけてくる子。おそらく、この子達は学校へも行っていないのだろう。それにしても、私は子供たちと何語で話していたのだろう。いまもって思い出せない。不思議なことに、言葉は100%通じあっていた。 西参道入り口に戻ると、M君が待っていた。殊勝にも、ずっとここで待っていたようである。夕闇が迫りつつある。カンボジアを去るときが近づいた。空港に向かう。別れのときが来た。M君と固く手を握り合う。もう言葉は要らない。彼もまた澄んだ瞳を持つ好青年であった。彼らが、そして子供たちが、明日のカンボジアを背負って立つだろう。原野の中の小さな飛行場の待合室に一人座し、目をつぶると、走馬灯のごとく情景が浮かび上がってくる。わずか二日の旅ではあったが、カンボジアの過去に触れ、現在に触れた。いつしか、この国に対する限りない親しみと愛着が湧あがってきた。 さらばカンボジア! 美し国よ!
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