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馬生バス停(825)→新柵山登山口(825)→新柵山山頂(920〜930)→越沢稲荷(955)→667.1メートル三角点(1045)→砥石ヒノキ(1110)→ぶな峠(1125〜1130)→飯盛山(1150〜1155)→飯盛峠(1200〜1205)→城山分岐(1230)→野末張展望台(1240〜1245)→あじさい公園分岐(1255)→最初の畑(1345)→登山口(1350)→麦原入り口バス停(1430〜1503) |
二万五千図「正丸峠」を眺めると、ときがわ町の奧に「新柵山(あらざくやま)」という490.2メートルの三角点峰が記載されている。高麗川左岸稜上の「ぶな峠」から北東に張り出した尾根上の一峰である。登山・ハイキング案内では紹介されたことのない小峰であるが、前々から気になっていた。二万五千図に山名まで記載されている三角点峰をいつまでも未踏のまま残しておくわけにもいかない。ルートを調べるべくインターネットで検索すると幾つかの登山記録がヒットした。こんな小峰でも物好きにも登る人がいると見える。それによると、登山道もあり、登るのは容易なようである。好天の天気予報の下、早春の奧比企を歩いてみることにする。
7時9分、東武東上線の武蔵嵐山駅に降り立つ。ここから「ときがわ町路線バス」が運行されている。ときがわ町は以前の都幾川村の時代にはいたって交通不便であったが、2006年の町制施行後、積極的にバス路線の拡充を進め、今では近隣の鉄道駅や山間部の集落を結ぶバス路線網が充実している。登山者にとっても大助かりである。 7時27分発のマイクロバスに乗ったのは私一人であった。バスは幾つかの集落とJR八高線の明覚駅に寄って、約30分で終点「せせらぎバスセンター」に到着した。ここが、ときがわ町路線バス網のハブステーションである。8時10分発の日向根(ひなたね)行きマイクロバスに乗り換える。日向根集落はときがわ町最奧の集落である。このバスも乗客はやはり私一人、こうお客が少なくては、人ごとながら心配になる。乗客一人ということもあり、運転手と話が弾んだ。なんと、彼の母親の実家が鴻巣市の川面だという。慈光寺入り口を過ぎ、8時24分、馬生(ばしょう)のバス停に着いた。 バスを降りると、真青な空が広がっていた。今日一日素晴らしい晴天が期待できそうである。バス停前より多武峯神社、全長寺を指し示す看板に従い右に分かれる舗装道路に入る。50メートルも進むと右側に山中へ登って行く小道を見る。何の標示もないがここが新柵山の登山口である。知識なくして特定することは困難だろうが、事前にネットで調べてきた。 塹壕のごとく深く抉れた山道を登る。すぐに廃屋を見る。展望の一切ない杉檜林の中を進む。辺りは物音一つせず、人の気配はまったくない。ハイキングコースでもないのに道は思いのほか確りしており、何となく奇異である。やがてルートは主稜線に乗り、向きを西から南西へと変える。この地点で北へ下って行く踏跡を見るが道標の類いは一切ない。 何処までも樹林の中の登りが続く。登山口から40分も進むと、登山道の傾斜が増してきた。山頂は近そうである。ヒィーヒィー息を切らして登り続けると、ついに山頂に達した。樹林の中の南北に細長い平坦地で、上面を赤く塗られた三等三角点「西平」が確認できる。その側には「新棚山」と記した手製の山頂標示も見られる。樹林の中で展望は利かないが、それでも立ち木の枝越しにわずかに堂平山と笠山が見える。やれやれと座り込んで、持参のアンパンをほお張る。朝から何も食べずにここまで登ってきた。 10分ほどの休憩の後、腰を上げる。今日の計画は、このまま主稜線を南西に進み、日向根集落上部を経て、高麗川左岸稜上の「ぶな峠」に登り上げるつもりである。新柵山山頂部は南北に延びる平頂で、微かに軽い双耳峰となっている。そして、山頂とされている三角点峰よりも南のピークの方がわずかに高そうである。ただし、地図を読むと等高線の数は同じであるから高度差は10メートル以内である。 山頂部ピークからいったん急降下し、登り返す。地図上の482メートル峰を右から巻いて進むと、突然「長岩」と題する説明書きがあり。「チャートの地層が現れたもので子供たちがすべり台がわりに遊んだ」と記されている。しかし、周辺を見渡してもそれらしき岩は見当たらない。 さらに緩やかな上下を繰り返しながら進むと、分岐に達し、今日初めて道標を見る。北に向って下っている確りした踏跡の行く先を「八木成、木のむら」、来し方を「新柵山、多武峯」、向う方向を「ぶな峠、くぬぎ、大杉」と示している。この分岐にも「光岩」と題する説明書きがあり、「淡いピンク色をしたチャートで、見事な縞模様をしている。大野から見ると時刻によって太陽光を反射して光ることが名の由来である」と記されている。ただし、ここでもそれらしき岩は見当たらない。 さらに数分進み、道標のある分岐を過ぎると、畑が現れた。日向根集落の上部に達したのだ。道の真ん中に杉の巨木が立ちふさがっている。「越沢稲荷の大杉」と説明書が掲げられている。脇に祀られている社が越沢稲荷なのだろう。 新柵山から稜線にそって続いてきた小道は、ここから集落へ向って下ってゆく。ただし、水道施設と思われる小さな建物の裏手に廻る小道を道標が「ぶな峠」と示している。そちらへ廻ると、三差路があり、道標が尾根に沿って上部に向う細い地道の林道を「ぶな峠」と示していた。林道を進む。狭く荒れた道だが小型のオフロード車なら何とか通行可能と見え、タイヤの跡が確認できる。ただし、樹林の中に続く林道には車はおろか人の気配もしない。実はこの林道を2002年2月に今日とは逆に、ぶな峠から日向根集落へと下ったことがある。 やがて辿っている林道は稜線上の667.1メートル三角点峰を左から大きく巻きに掛かる。できることならこの三角点峰に登ってみたいと思っている。三角点に至る踏跡はないものかと、右側斜面を注視しながら登る。すぐに、地図にも記載されている向尾根集落分岐に達した。確りした踏跡が左側に下っている。三角点峰を巻き終わったと思われる地点で、右斜面を登って行くわずかな踏跡を見つけた。これ幸いと踏み込む。滑りやすい急斜面を直登して尾根に登り上げた。右側の高みに移動するとそこが目指す三角点峰の頂きであった。尾根上のわずかな高まりで、杉檜の深い植林の中である。三角点があるのみで、期待していた何らかの山頂標示はなかった。わずかに人の訪れた形跡がある。 稜線上には薄いながらも踏跡があった。林道に戻るのも面倒なので、この薄い踏跡を辿りながら「ぶな峠」へと向う。日陰にわずかに雪が見られるようになる。篠竹の密生する急斜面が現れたので、すぐ左側まで接近していた元の林道に逃れる。どういうわけか、いつの間にか林道はコンクリート舗装されている。杉檜の鬱蒼とした樹林の中をひたすら登り続ける。 山の神の小さな祠があり、その前に檜の巨木がそそり立っている。「砥石ヒノキ」との説明書きが添えられている。それによると、幹周り3.72メートルあり、山の神の御神木として守られてきた由。また、同説明書きにより、辿っている林道は「ぶな峠」への旧道を拡幅したものと知る。かつては峠越えで吾野との交流が盛んであったとも記されている。 ここから、どういうわけか、舗装は終わり、元の荒れた林道となった。次第に残雪の量が増し、道を一面に覆うようになる。一応、軽アイゼンを持参しているが、装着するほどではない。道端に文化4年銘の小さな石仏があった。旧峠道の名残であろう。道の傾斜は緩み、木々の間からは高麗川左岸稜が見え隠れしている。峠まではもうひと息だ。しかしここから峠までが意外に遠かった。うねる峠道はなかなか尽きない。 11時25分、ついに、ぶな峠に達した。2002年2月以来10年ぶりの訪問である。この峠は昭和52年発行の二万五千図では「木編に義」と言う難しい漢字が書かれ、「まぶな」とルビが振られている。ただし、現在の二万五千図では「ぶな峠」と平仮名で記されている。峠は「奥武蔵グリーンライン」と呼ばれる悪名高き稜線観光道路によって、雰囲気を著しく害されている。道端に座り込み、昼食のパンを頬張る。早春の陽が燦々と射して暖かい。相変わらず辺りに人影はなく、舗装道路を走る車もない。一段高いところに峠の神と思える小さな祠が祀られているが、すでにかなり荒れ果てている。その前に江戸期のものと思える小さな石柱の道標が見られる。片面に「たか山ふどう」、反面に「ちゝぶ一ばん目」と彫られている。 稜線観光道路を南東に向う。所々に氷結した残雪を見る。突然バイクが轟音を響かせて通り過ぎていった。いったん車道から外れ、わずかな距離だがハイキングコースを歩く。従来の縦走ハイキング道はこの稜線観光道路によってズタズタにされているが、それでも所々に歩道として残っている。いったん車道に戻り、再びハイキング道を飯盛山に向って登る。登り着いたピークは地図上の816.4メートル三角点峰である。樹林の中で展望もない薄暗い頂きであった。ここに埼玉県によって建てられた「飯盛山」と記した立派な山頂標識がある。従って、この地点が公式に認められた飯盛山の頂であるのだろうがーーー。 この「飯盛山」に関しては少々説明がいる。実は、飯盛峠を挟んでこの816.4メートル峰と対峙している約790メートル峰も飯盛山と呼ばれていた。否、むしろこの約790メートルの方こそが本来「飯盛山」であったようだ。手持ちの、2001年発行の昭分社の登山地図「奥武蔵・秩父」ではこの約790メートル峰を「飯盛山」と記している。思うに、隣りあう二つのピークを比べた場合、より標高が高く、しかも三角点のあるピークの方が存在感が勝ったのだろう。このため「飯盛山」の名称がより存在感のあるピークに移動したようである。ただし、二万五千図には、どちらのピークにも「飯盛山」の記載はない。 山頂には50年配の女性の単独行者が休んでいた。今日初めて出会う登山者である。彼女もどうやら人恋しかったようで、親しく話しかけてくる。黒山三滝から登って、ここまで縦走してきたとのこと、私と反対方向から来たことになる。そして、飯盛峠から大平尾根を下るという。私の予定下山コースと同じである。どうやら彼女はこの先私と同行するつもりらしい。連れだって飯盛峠に下る。山頂からほんの5分ほどの行程である。ここで再び車道と出会う。時刻はちょうど12時、彼女が昼食にすると座り込んだのを見て、「それではお先に」と逃げ出した。私は一人の方が気楽でいい。 約790メートル峰、すなわち旧飯盛山へ登り上げる。弱い踏跡はあるものの道標はない。登り着いた頂きは樹林の中の展望もない小平地で、何の標示もない。以前はこの頂きに「飯盛山」の山頂標示があったが、816.4メートル三角点峰に「飯盛山」の山頂標示が建てられると同時に、こちらの山頂標示は撤去されたのことである。何となく侘びしい話しです。 帰路のルートとなる大平尾根に乗るには、この頂きから東面を一気に下ることになる。しかし、道標はおろか、踏跡さえない。おそらく、この約790メートル峰が「飯盛山」ではなくなった時点でこの山頂を経由する登山道も廃止されてしまったのだろう。樹林の中の急斜面をずり落ちる。踏跡はないものの誰かがずり落ちたらしき痕跡はある。50メートルほどずり落ちると、右、飯盛峠方面からやって来た登山道に下り立った。やれやれである。後は大平尾根上にあるこの登山道をひたすら東に辿ればよい。 登山道は確りしているが、にわかに積雪が増し、完全な雪道となった。その残雪の上に幾つかの足跡とともに自転車の轍の跡がある。この山中の雪道を自転車で通った猛者がいると見える。尾根上を進む登山道と平行して、一段下を舗装された林道が走っている。ルートはいったんこの林道に合わさるが、すぐにまた尾根上に這い上がる。「城山」を示す消えかけた小さな道標が現れ、北へ向う微かな踏跡が別れる。城山とは別名「大築山」、2002年2月に登った小峰である。 再び車道に合わさり、そのまま進むと「野末張(のすばり)見晴台」と称する展望台があった。今日初めて大きく展望が得られた。目の前に今朝方登った新柵山が富士山にも似た形よい姿を現している。そこから長々と続く尾根は今日歩いた「ぶな峠」へのルートである。その背後には比企の名峰・堂平山と笠山が見える。設置されたベンチに腰掛け、ひと休みする。 やがて、時々合わさりながら登山道と平行して続いてきた林道は、右へ大きく下っていってしまった。尾根上に続く登山道を進むと三差路にでた。あじさい公園分岐である。立派な道標がありルートの正しさが確認できる。左に別れるあじさい公園への道を見送り、戸神集落に続く右の道を進む。この分岐のすぐ先に羽賀山566.5メートルがあり、立寄っていくつもりであったが、うかつにも通り過ぎてしまった。後方で物音がするので振り返って盛ると、何と、何と、この登山道を自転車が下ってくるではないか。マウンテンバイクはこんな所も走るのだ。少々びっくりした。 やがて畑が現れ、人家が現れ、13時50分、戸神集落の大平尾根登山口の到着した。やれやれであるが、ここからバス停の「麦原入り口」までまだまだ遠い。里道はいたって分かりにくい。地図を見い見い歩き通し、14時30分、ようやく「麦原入り口」バス停に到着した。越生駅行きバスは15時3分であった。 のんびりとバスを待っていたら、乗用車が止まり、中から飯盛山で出会った女性が現れたではないか。びっくりした。里道で迷い、通りかかった車に道を聞いたところここまで送ってくれたとのことである。再会を喜び、山の話をしながら二人してバスを待った。 登りついた頂
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