寸又峡温泉から朝日岳へ

 新雪を踏んで深南部へ初参

1992年12月26日


前黒法師岳
 
寸又峡温泉駐車場(730)→寸又川左岸林道→登山口→合地ボツ→朝日岳(1130〜1215)→合地ボツ→登山口→寸又峡温泉駐車場(1500)

 
 私の羅針盤は今、南アルプス深南部に向いている。「南アルプス深南部」。この言葉を聞いただけで心が踊る。登山対象としての南アルプス南限は光岳である。これより先は南アルプス深南部と呼ばれ、人を寄せ付けない深い原生林に覆われた日本屈指の未開の山域である。

 今から18年前、私はこの山域の一角をかすめたことがある。昭和50年の8月、Y君と寸又川左岸林道から信濃俣を越えて、光岳に登った。まったく展望のない欝蒼とした原生林の中の苦しい登りであった。この時の山行きはたんに光岳へのルートとして信濃俣を経由したものであったが、信濃俣の頂から大根沢山方面へ続いていた微かな踏み跡を、「何時の日か」との思いを込めて見送ったことを覚えている。それ以来、この地域に足を踏み入れたことはない。それどころか、とても私の手におえるような山域ではないと思い続けてきた。

 今年2月、静岡に転勤になり、この山域がぐっと身近になった。忘れていた深南部への憧れが甦った。まず小手調べに朝日岳に登ってみることにした。この山なら、深南部と言っても、寸又峡温泉から日帰りが可能である。山々の姿を確認し、この山域の土地勘をつけるのにちょうどいい。3日間に渡るクリスマス寒波が去り、移動性高気圧に日本列島が覆われた。最高の登山日和が期待できる。

 5時半、真暗な中を車で寸又峡温泉に向かう。7時ちょっと過ぎ、ようやく夜が明けた寸又峡温泉に着く。温泉街入り口の駐車場に車を放り込み7時半出発。シーズンオフと見え、温泉街はひっそりしている。寸又川を吊橋で渡る。川には水が全くない。上流の千頭ダムの影響であろうが、興醒めなことである。吊橋を渡るとロープが張られて立入禁止の立て札。観光客が立ち入らない処置であるう。かまわず進んで、雑木林の中を10分も登ると寸又川左岸林道に出た。林道を上流に20メートルも進むと、朝日岳登山口を示す道標があった。

 期待通りの快晴無風である。雑木林と植林の入り混じった尾根をぐいぐい登る。踏み跡は思った以上に確りしている。しかも、赤布とブリキの道標が到る所にあり、ルートの心配は全くなさそうである。展望の得られない尾根をただひたすら登る。ガレ場をトラバースするところには、何と、補助ロープまで張られている。こうまで丁寧にされるとかえって興醒めである。山には人の気配はなく、啄木鳥の木を叩くかん高い音のみが静寂を破る。この山は今日一日、私一人のものある。やがて昔、山火事があったと思われる場所を過ぎる。1200メートル付近に達すると日陰に雪が現われだす。急登が尽き、萱との藪が少々うるさいトラバース道となる。10分も進むと「合地ボツ」との標示がある。地図を確認すると中間地点は過ぎたようである。案内書によると、寸又峡温泉から朝日岳までコースタイムは4時間10分である。今は1年で1番日の短い12月の暮れ、安全を考えた場合どうしても12時までには山頂に着きたい。ただひたすら先を急ぐ。

 ここから雪道となった。雪の上は動物の足跡のみで、ここ数日誰もこの道を歩いていないことがわかる。後ろを振り返ると、私の足跡だけが雪の上に続いている。嬉しさが込み上げてきた。気持ちのよい緩やかな尾根道を進む。左側の植林の木がまだ幼く、木々の間ながらも視界が開ける。寸又川を挟んだ向かい側に真っ黒なかっこいい山が見える。地図で確認すると前黒法師岳である。その奥に聳えているはずの黒法師岳は見えないが、いつの日か前黒法師岳から黒法師岳へと縦走してみたい。眼で山並みを奥へ奥へと追っていくと、双耳峰が見える。この方向に見える双耳峰と言ったら池口岳のはずである。展望用の地図を持ってこなかったので、一つ一つの山は特定できないが、初めて南アルプス深南部の山々仰ぎ、感激もひとしおである。

 行く手左前方に朝日岳の山頂部が見えてきた。まだまだ距離がありそうである。疲れを覚え始めた頃、目の前に天を衝くような急登が現われた。一息入れ、覚悟を決めて10センチ程の積雪の急登に挑む。さしもの急登も1時間弱で終わり、山頂部の一角に達っした。途端に樹相が変わる。欝蒼とした大原生林の出現である。樅やシラビソなどの針葉樹の大木が天を覆っている。まさにイメージした南アルプス深南部である。樹林の中を緩く登っていく。積雪は20〜30センチもあろうか。

 11時30分、ついに山頂に達した。飛ばしたつもりだが、寸又峡温泉から4時間掛かっている。山頂は原生林の中の平坦地で、雪に埋もれた三角点と、登山記念の山頂標示が僅かにあるだけ である。足跡一つ無く、また物音一つしない静かな静かな山頂である。展望はないが、僅かに大無間山方面が木々の合間に見え隠れする。気温も低い、おそらく零下であろう。ラーメンを作り昼食とする。

 12時15分、下山に掛かる。雪のためルートのはっきりしない山頂部を注意深く自分のトレースを辿りながら戻る。山頂部の端から、熊平沢ノ頭経由のルートが分かれているはずである。探ってみると、微かな踏み跡が見つかった。急坂をぐいぐい下り、緩やかな尾根道をのんびりと進む。登りには気がつかなかったが、沢口山が見える。朝日岳、前黒法師岳とともに、寸又三山の一つである。ハイキング程度の山と思っていたが、なかなか立派な山容である。

 足が疲れた頃寸又川左岸林道に降り立った。もう先の心配はない。寸又峡温泉着3時であった。見上げる朝日岳は、夕日を浴びて黒々とそびえ立っていた。

 
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