上信国境 浅間山

 禁を犯し活火山に登る

2001年7月29日


噴火口
 
峰の茶屋(715〜720)→小浅間山分岐(745〜755)→標高約2000メートル(905)→植生限界(915〜930 )→山頂(1025〜1105)→小浅間山分岐(1200〜1205)→峰の茶屋(1225) 

 
 富士山と浅間山はともに本州中部にあって有史以前から噴火を繰り返してきた代表的な火山である。そして、富士山の麓を東海道が、浅間山の麓を東山道(後の中山道)が通る。ともに、西国と東国を結ぶ古代よりの主要街道である。このため、この二つの火を噴く山は大昔から全国にその存在が知られていたに違いない。人々は、この火を噴く二つの山をともに「アサマ」と呼ぶようになった。富士山も当時はアサマと呼ばれていたと考えられている(現在でも浅間神社のご神体である)。アサマとはおそらく火の神を意味する言葉であったろう。この二つの山はその後も火を噴き続け、そして18世紀に至りともに歴史的な大噴火を起こす。富士山は宝永4年(1707)に有史以来最大といわれる大噴火を起こす。一方浅間山もまた、天明3年(1783)に日本火山災害史上最悪といわれる大噴火を起こした。火砕流と泥流は麓の集落を埋め尽くし、死者は1600名を越えたと云われる。しかも、吹き上げた噴煙は地球の寒冷化をもたらし、天明の大飢饉が生じた。このときのすさまじい噴火の痕跡は、今でも鬼押し出しの溶岩流で知ることができる。その後、富士山は噴火を止め、現在に至るまで穏やかな日々を重ねている(最近低周波地震が活発化してはいるが)。一方、浅間山はその後も絶えることなく噴火を繰り返し現在に至っている。最近は山頂から吐き出される煙も薄くなったが、ひと昔前までは周囲の山から眺めると常にもくもくと煙を吐き出していた。また、私の子供の頃は浅間山の爆発により火山灰がしょっちゅう降っていた記憶がある。
  
 先に、アサマとは火の神を意味する言葉であったと思われると述べた。以下アサマの語源に関する私見である。
  アカイ(赤い)、アカルイ(明るい)、アツイ(熱い、暑い)という言葉からイメージされるものは「火」である。そして、これらの言葉の語幹はいずれも「ア」である。また、日本の古い火山には不思議に「ア」のつく山名が多い。アサマ(浅間)、アソ(阿蘇)、アイラ(姶良―桜島を中央火口丘とし、鹿児島湾を出現させた巨大火山)、アカギ(赤城)、アシタカ(愛鷹―足高に由来するとの説もある)、アマギ(天城―自生する甘茶に由来するとの説もある)。火山ではないが、火伏せの神としてその名を全国的に知られた秋葉大権現の宿る山も遠州気多川奥の「アキハ」山である。さらにアイヌ語で「火」のことを「アぺ」という。以上のことから導かれる結論は「ア」とは大昔において「火」を意味する言葉であったろうとの想像である。大昔とはいつごろであろうか。火を「ヒ(昔はフィ)」というのが後の日本の支配階層となる天ツ神族(天孫族)系の言葉であるとするなら、「ア」は国ツ神族系の言葉、すなわち縄文系の人々に連なる言葉であろう。縄文人の直系といわれるアイヌ人の言葉にその痕跡が残ることもその証拠である。

 富士山も浅間山も深田百名山に列する名峰である。ただし、富士山がひと夏に数十万人の登山者を迎えるのに対し、いまだ噴火活動を続ける浅間山は登山禁止の処置が続いている。当然この山は登れない。しかし、考えてみると、世の中に百名山完登者と証する人が大勢いる。不思議なことである。調べてみると、みなさん禁を犯して内緒で登っている様子である。さらに調べてみると、東京新聞出版局の登山案内書「浅間山・上信越高原ノ山」には堂々と登山案内が載っている(いくら何でもやりすぎだろう)。またインターネットのホームページには登山記録が多数見られる。百名山には特別なこだわりはないが、浅間山には登れるものなら一度登ってみたい。冬晴れの日、関東平野から北西を眺めると、独特の縞模様に綾取られたこの山がよく見える。
 
 5時15分、車で家を出る。長野までの高速道路ができ便利となった。7時15分、登山口となる峰の茶屋の駐車スペースに車を止める。空は青く晴れ渡り、一日天気は良さそうである。東大火山観測所の脇より小浅間山への登山道にはいる。入り口には浅間山への登山は禁止されている旨の標示がなされている。ただし、小浅間山までは入山が許可されている。自然林の中の気持ちのよい小道を緩やかに登っていく。道端にはシモツケソウ、ホタルブクロが咲き、樹林の中は白い飾り花をつけた樹木がたくさん見られる。ガクウツギに似た花だが、樹高は7〜8メートルもある。何という花だろう。早朝のためか小道に人影はない。25分も辿ると樹林が切れ、小浅間山分岐に達した。「馬返し」と呼ばれる地点である。道標が右に急登する登山道を小浅間山と示しているが、浅間山への道標はない。代わりに浅間山へ続くと思われる踏み跡には「立ち入り禁止」の立て札が立てられている。
 
 一休みして朝食のサンドイッチを頬張っていたら、中年の女性が登ってきた。「浅間山へはこっちでいいんですか」と女。「そうだと思いますが、ここから先は一応登山禁止ですよ」と私。「あら知らないんですか。今月23日に、火口から500メートルまで登山が解除されたんですよ。新聞にもでていたし、NHKでも放送してましたよ」と女。どうも信じがたい話である。現在、軽井沢側は火口から4キロ、小諸側は火口から2キロが立入禁止である。ただし、近々、小諸側に限り火口から500メートルの前掛山まで登山解除になりそうだとの話は聞いている。おそらくこのことだろう(帰ってから調べてみたらやはりその通りであった)。誤報だとしても、禁を破る後ろめたさが若干緩和されるのは確かである。
 
 女を置き去りにして、樹林の中を5分ほど急登すると、森林限界となり大きく視界が広がった。広大な草原の斜面が上空に向かって突き上げ、その先に、灰褐色のピークが不気味にそそり立っている。山頂までのルートは一望である。草原の中を幅広い砂礫の道が一直線に続いている。おそらく、観測所のブルが登るのであろう。見通す限り先行者はいない。
 
 ひたすら草原の道を登る。傾斜は意外にきつい。しかも、小さな火山礫の薄く積もった道であり実に登りにくい。草原はお花畑となっていて、荒れ地に育つオンタデ、コメススキに混じり黄色のキンレイカがたくさん咲いている。「植生保護のため草原への立入禁止」の看板が立てられている。このことからも浅間山への登山禁止が有名無実であることがわかる。ひと登りすると傾斜がいくらか緩む。振り返ると、眼下に寄生火山である小浅間山が盛り上がり、その先に浅間隠山を中心とする山並みが連なっている。左に視界を振ると、軽井沢の高原が広がり、その背後に横手山や岩菅山などの上信国境の山並みがうっすらと続いている。
  
 さらに砂礫の道をひたすら登る。見上げる灰褐色の山頂部は流れるガスに見え隠れしている。足下から続く広大な斜面の下に、先程の女性が豆粒のように見える。1800メートルを過ぎると、草原は終わり、荒れた砂礫の斜面はオンタデとコメススキの群生のみとなる。見事なまでにこの二種類の植物のみである。やがて道は辿ってきた広大な尾根を外れ緩やかなピークを右から巻きに掛かる。標高は約2000メートル、この辺りが地図にある「行者返し」だろう。岩に腰掛け一休みする。真夏の陽が燦々と降り注ぐが、空気はひんやりしていて涼しい。
 
 いよいよ眼前にそそり立つ灰褐色のピークへの登りである。溶岩と火山礫の急斜面を右に斜行する。もはや一切の植物はない。積もった砂礫の道をひたすら登る。ずるずると滑り至って歩きにくい。登り切ったところは、砂礫と大小の火山岩の積み重なる荒涼たる火口原であった。目に入る一切の色彩は大地の灰褐色と空の青だけである。目の前には中央火口丘である釜山が最後の関門として立ちはだかっている。砂礫と岩石の積み重なる火口原は踏み跡が薄く、ガスに巻かれるとルートを失いそうである。赤ペンキが点々とルートを示している。ジグザグを切りながら最後の急登に挑む。殺伐たる風景の中、動くものは私のみである。小高く盛り上がった外輪山の一峰・東前掛山の頂が次第に目線に近づく。
 
 10時25分、ついに山頂に飛び出した。瞬間、すさまじい噴火口が目に飛び込む。足下に百数十メートルにも及ぶ垂直の絶壁に囲まれた大きな噴火口がぽっかりと口をあけ、その底から幾筋もの噴煙が噴きだしている。まさに巨大な地獄の穴である。この巨大な穴こそ天明の大噴火を生み、その後数々の噴火を繰り返してきた噴火口なのである。火口壁や火口底には黄色の硫黄が至るところへばりついている。腰を下ろすことも忘れ、ただ呆然と噴火口をのぞき込む。もしこの火口に滑り落ちたら助かりようがないであろう。禁を犯し、その挙げ句に見てはいけないものを見てしまったような複雑な気持ちである。時折去来するガスが噴火口を隠し、噴き上がる噴煙と混じる。
 
 山頂は火口壁の一角である。しかし、山頂を示す何の標示もない。わずかに転がる岩に「浅間山山頂」と落書きされている。人影もない砂礫の山頂に腰を下ろす。ふと気づくと秋茜がたくさん飛んでいる。ということは、火山ガスの心配はなさそうである。周囲は360度視界が開けているのだが、遠景は残念ながら夏霞の中である。しかし、眼前には荒涼たる火山特有の風景が広がっている。火口原の向こうに盛り上がった外輪山に、たくさんの人影が見える。23日から登山解禁となった前掛山である。やはり多くの登山者は禁を犯すことなく、前掛山までで足をとどめたようである。しばらくすると、中年の単独行者が登ってきた。「登山解禁と聞いてやってきたのだがーーー。やはりこの地点は登山禁止ですかねぇ」と彼。「と思いますがーーー」と私。互いに後ろめたさは感じている。
 
 40分もの長居の末下山に掛かる。すぐに今朝ほどの女性とすれ違う、ずいぶん差がついたものである。火口原まで下ると、また単独行の男性とすれ違う。沸き上がるガスが次第に量を増し視界を閉ざす。火口原を過ぎ、本格的な下りにはいる。厚く積もった砂礫の道は富士山の砂走りを下るように快調に下れる。4人連れが登ってきた。オンタデとコメススキの中の道にはいると、今度は砂礫が薄く滑りやすくて苦労する。行者返しの下まで下ると、夫婦連れが登ってきた。ずいぶん遅い登山である。「頂上まであとどのくらいですか。行けますかねぇ。登山は素人なもので」。何とも心許ない。休むこともなく一気に小浅間山分岐まで下りきった。1000メートルをわずか55分で下ったことになる。一休みする。ついでに小浅間山に登ってみようかとも思ったが、夏霞がますます深まり、登ってもつまらなそうである。ここからは気持ちのよい樹林の中の道。次々と現れる花に目を休めながら、のんびりと下る。ハイカーが何組も登ってくる。小浅間山までであろう。12時25分、峰の茶屋の愛車に戻り着いた。すばらしい登山ではあったが、何か心に後ろめたさを感じる登山であったことも事実である。

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