粟ヶ岳から岳山へ

小学生の遠足の山から稜線を北へ辿る

1998年1月17日


 
東山バス停(815〜820)→摩利支天(830)→社務所(905)→粟ヶ岳山頂(910〜930)→尾根取付点(945〜950)→高塚山(1000〜1005)→電波塔(1045)→岳山(1050〜1110)→送電鉄塔(1110〜1125)→494m峰(1140〜1145)→林道(1155〜1200)→庄司集落(1215)→町民憩いの森(1235)→五和駅(1405〜1446)

 
 この冬は暖冬である。1月半ばだというのにすでに梅が満開に近い。南岸低気圧がたびたび通るため、一昨日の成人の日は再び関東地方を中心に大雪となった。市内は大雨であったが、山は大雪になった模様である。山伏は1メートルほどの積雪があるだろう。一瞬行ってみようと思ったが、この足では無理である。雪のなさそうな低山・粟ヶ岳に行ってみることにした。
 

 東海道筋を下り、大井川にさしかかると、山腹に大きな「茶」の字を浮き上がらせ山頂に鉄塔の立つ小高い山が目につく。掛川市と金谷町の境にそびえる粟ヶ岳である。標高わずか500メートル強であるが、この山は幾多の3000メートル峰を盛り上げた赤石山脈最後の高まりである。山稜の痕跡はこの先も牧ノ原台地となってなおも低く続くが、もはやピークと言えるピークはない。粟ヶ岳は地元小学校の遠足の山であり家族連れのピクニックの山である。麓からは1時間程度で登れるし、狭い道ながらも車道が山頂まで通じている。私も一度車で行ってみたが、山頂直下の茶店のある展望台からの眺めは遠く御前崎、遠州灘まで見通せ絶佳である。この山は当然「静岡の百山」にも選ばれており、一度は歩いて登っておかねばならない。しかし、この山だけでは如何にも物足りない。昨年秋に千葉山に登った際に大井川対岸から眺めたが、粟ヶ岳の北隣になんとも格好イイ山がそびえていた。地図を見ると585.2メ−トルの三角点峰で山名の記載はない。粟ヶ岳からこの三角点峰に向かって、大井川右岸稜を縦走してみる気になった。山稜上に踏み跡は期待できないが、この季節なら歩けるだろう。ただし、下山路をどう確保するかが問題である。

 掛川発7時20分の東山行きのバスに乗る。ハイカーは私一人であった。東海道の宿場・日坂の集落を経て、8時15分終点で下車。車道を50メートルも奥へ進むと、登山口があった。見上げると、粟ヶ岳への急斜面を大きくヘアピンカーブを繰り返しながら山頂に続く細い車道がくねくねと登っている。道標に従い集落内の急な道を登る。天気予報は「曇り時々晴れ、夜から雨」と下り坂である。人家が尽きると摩利支天の小さな祠があり、そこからは茶畑の中の急斜面となる。展望が大きく開け、遠州灘が雲間から漏れる朝日に無気味なほど赤く染まっている。車道を何回か横切りながら、アキレス腱の痛くなるほど急な茶畑の畔道を登る。大井川が大きな河川平野となってゆったりと流れ、周囲に見覚えのある山々が広がる。山頂に大きな鉄塔の立つのは焼津の名峰・高草山。志太山地の主峰・高根山や千葉山も見える。足元には多くの浸食谷を発達させた牧ノ原台地が広がり、台地上はいちめんに茶畑、谷底には集落が点在している。

 茶畑が尽きると、ようやく山道となった。周囲は照葉樹の森であるが、登山道に沿って桜が植えられている。粟ヶ岳は桜の名所でもある。荒れた建物が現われ、目の前に恐ろしく急な石段が立ち塞がった。登山道は迂回しているが、構わず石段を登る。登り切るとそこは阿波々神社の社務所となっていた。階段の降り口はロープが張られ通行禁止となっていた。ひと登りで見覚えのある粟ヶ岳山頂に達した。山頂は樹林の中で展望はないが、山名のもととなった阿波々神社の本殿と遠州七不思議の一つ「無間の井戸」がある。 
 

「昔々、空道上人という偉いお坊さんが衝けばなんでも叶えてくれるという鐘をこの山頂に据えたところ、欲にかられた人々が押し寄せ大混乱となった。このため、鐘をこの無間の井戸に埋めてしまった」
 との伝説が残る。

 電波塔の脇を通り、ほんの2〜3分下ると茶店のある展望台に出る。茶聖といわれる栄西禅士の銅像が立っている。太平洋に向け大展望が広がっているのだが、曇り空のもと視界はそれほどよくない。富士山も見えず残念である。茶店が開業準備をしていた。

 ここから稜線を北に辿る計画だが、山頂付近はルートもはっきりしないので、しばらく、倉真温泉通じる車道を下り、道が稜線を横切るところから縦走を開始することにする。15分も下ると目指す地点に達した。尾根に這い上がると、踏み跡はないが、微かに人の歩いた気配がある。杉檜の欝蒼とした植林の中を登る。約10分の登りで、露石の目立つ広々とした平頂に達した。地図上の474メートル標高点峰で、山頂標示はないがこのピークを高塚山というらしい。緩く下って、恐ろしく急な直登に入る。積もった落ち葉にステップを刻み、立ち木に掴まり、一歩一歩身体を引き上げる。欝蒼とした檜林の中だが、尾根筋だけ植林の間隔が広くルートは分かり易い。傾斜が緩むと、どこが頂ともつかない藪っぽいところにでる。下りに入ると、尾根筋は消え、踏み跡の痕跡もなくルートはわかりにくい。灌木の枝を押し分けながら進むと、右側に鉄条網で囲まれた真新しい施設が現われた。こんな山中に何なんだろう。突然どこからともなく確りした踏み跡が現われ、すぐに大きな電波塔に出た。この塔は地図には記載がないが下界からはよく見える。送電線鉄塔の巡視路となっている踏み跡を辿りひと登りして尾根筋に出る。尾根はこの地点で90度左に曲がる。ほんの5分で目指す585.2メートル三角点峰に達した。

 山頂は樹林の中で展望はない。この山は下界からもよく目立つなかなかの山容の山である。なんらかの山名がありそうだと思っていたが、「岳山」と書かれたカワサキ機工山の会の山頂標示があった。私以外にもこんな藪山に登る物好きがいるのだ。握り飯を頬張る。休むとやはり寒い。山頂からほんの1〜2分下ったところに送電線鉄塔があり、粟ヶ岳以来初めての展望が開ける。目の前に一昨年の11月に登った経塚山がそびえている。その左奥に見える主峰・八高山から入り組んだ稜線が足元に続いている。足さえ丈夫なら一気に八高山まで縦走してやるのだが。八高山の奥には半ば雲に隠れた雪山が見える。同定はできないが、大無間山あたりだろう。

 これからの予定を考え込んだ。この先さらに縦走を続けると、ますます帰路のルートが大変となる。ここで縦走を打ち切り、先ほどの大きな電波塔まで戻って大井川鉄道の五和駅に出るのが最も近いのだが、まだ時刻は11時過ぎ。もう少し縦走を続けたい。ただし、この地点で尾根筋も不明瞭となり、しかも続いてきた巡視路も絶え、鉄塔の回りは藪に囲まれて先に進む踏み跡は見当たらない。ザックをデポして偵察に行く。藪を抜けた先は檜の樹林となっていて、歩けそうである。ザックまで戻って樹林の中を下ると、右から地図に記載されている細い林道が稜線まで登ってきていた。ルートの正しさが確認できほっとする。山仕事を終えた人がちょうど軽四輪で下るところで、頼めば乗せてくれそうな雰囲気であったが我慢する。わずかに現われた尾根筋を追って次の494メートル標高点の小峰に達すると、稜線の左側は茶畑となった。植林と茶畑の間の急斜面を鞍部に下る。この鞍部を金谷から掛川に抜ける細い車道が乗越している。ここで縦走を打ち切ることにする。時刻はまだ12時だが、足がそろそろ限界だし、ここから下るにしても五和駅まで10キロ以上の車道歩きとなる。

 通る車とてない車道を下ると、大代川最奥の集落・庄司に出た。斜面に沿ってぽつりぽつりと人家が見られるが人影はない。いくらか立派になった車道を渓谷となって流れる大代川に沿って足早に進む。金谷町の町民憩いの森を過ぎると谷は開け栗島の集落に達した。大きく開けた谷間の道をただひたすら歩く。歩く以外に方法がない。次々と集落が現われる。時折、自転車に乗った学校帰りの中高校生と擦れ違う。毎日10キロもの道を通学するとは大変である。男子生徒は目を背けるが、女生徒は挨拶する。何と雨が降ってきた。大外れの天気予報である。足が限界を越えている。杖代わりのストックにすがってヤケッパチで歩く。大代谷は実に気持ちのよいところである。しかし、どうやら第二東名がこの谷を通るらしく測量が始まっている。14時過ぎ、2時間余の歩行末、大井川鉄道五和駅の粗末な駅舎に到着した。ベンチにいったん座ると、もはや足は立つことができなくなっていた。列車は40分待ちでやって来た。

 
トップページに戻る

山域別リストに戻る