おじさんバックパッカーの一人旅   

アジア最貧の国 バングラデシュ紀行 (4)

さらば黄金のベンガル、愛しき国よ!

2006年4月5日

    〜4月12日

 
   第30章 シレットからクミッラへの列車の旅

 4月5日水曜日。今日は列車でクミッラ(Comilla)に向う。クミッラはダッカの東、チッタゴンの北に位置する小都市であるが、その郊外に8〜12世紀に建造された壮大なモエナモティ仏教遺跡がある。チッタゴンに行く途中であり、素通りするわけには行かない。

 朝、ものすごい雨音に目を覚ます。風邪は悪化していないのでひと安心だが、この豪雨の中、どうやって駅まで行ったらよいやら。チェックアウトしながらフロントに相談すると、「何とかベイビーを捕まえてくる」と、従業員が雨の中を出かけていった。助かった。しばらくすると、戻ってきて、「通常は駅まで80tkだが、この雨なので120tkでないと行かない」との返事。バングラデシュでも需要と供給の関係で価格が決まるようだ。やむを得まい。9時過ぎに駅に着いた。と同時に雨がぱたりと止んだ。

 汚い身なりの幼い女の子が寄ってきて、しきりに何かを訴える。多分、「朝から何も食べてないの。お腹空いたの」とでも言っているのだろう。5tk与えると嬉しそうに去っていった。それを見た大人の物乞いがやって来る。「お前なんかにやるもんかい」。足早にホームへ入る。保持している乗車券は10時15分発のチッタゴン行きインターシティ特急PAHARIKA号のファーストクラスである。

 ホームでベンチに座り列車を待つ。同じく列車を待つ人々の中に、7〜8人の軍服姿の兵士がいた。話をしてみると、私と同じくクミッラまで行くという。しかも彼らも1等車両とのこと。兵士は特権階級なのだろう。彼らにくっついていけばよさそうである。クミッラには軍の大きな駐屯地がある。片言の英語がしゃべれるので、暇つぶしの相手にちょうどいい。話しに飽きると、ザックを彼らの荷物の中に紛らわせて駅構内をぶらつく。兵士の荷物を狙う置き引きはいないだろう。ところが発車時間になっても列車は来ない。何やら構内放送があり(もちろんベンガル語)、待っている人々がざわめいた。兵士に聞いてみると、列車は2時間遅れるという。昨夜からのあの豪雨の影響なのだろうか。待つ以外にない。

 所在なくホームをふらついていたら1人の青年に話し掛けられた。流暢な英語をしゃべる。「自分は今、韓国企業のLGに技術者として勤めている。日本の企業に転職したいのだが、力を貸してもらえないか」。と言われても、既にリタイアした身、力はありそうもない。2時間経ったが相変わらず列車はやってこない。所在なく、駅の風景をぼんやり眺め続ける。物乞い、物売り、駅を根城にする悪ガキども、彼らを竹の棍棒を振り上げて追い払う警察官、ホームの水溜まりを一生懸命排水している清掃のおばさん、暇を持て余して事務所で大あくびをしている駅員、ホーム下の線路ではヤギが草を食んでいる。

 兵士が「列車はクミッラにいつ着くか分からないから、食料を買っておいたほうがいいよ」とアドバイスしてくれたので、慌てて売店でパンと水を購入する。結果としてこの食料は大いに助かった。1時近くなってようやく列車がやって来た。いつもの通り座席がわからない。1等車にいるはずのサービス掛かりもいない。兵士に助けてもらってようやく個室に落ち着く。

 13時過ぎ、列車は3時間遅れでようやくシレット駅を発車した。個室は私1人であった。すぐに男がやってきて、「私がこの部屋の掛かりです。御用の際はどうぞ」と、いうようなことを言う。「チップを下さい」と言っているのに等しいのだが、「席に案内もせずに、何を今更」。知らん顔をする。その後、この男、私にだいぶ嫌がらせをしてきたがーーー。

 窓外には2日前に見た景色が続く。この列車は本来クミッラに16時07分に着く予定であるが、すでに3時間遅れ、到着は夜の7時過ぎになりそうである。当然ホテルも決まっていないし、暗くなってからの到着は何となく不安だ。クラウラ・ジャンクション駅より若者が1人同室となった。しきりに話し掛けてくるが、少々邪魔臭い。スリモンゴルで降りていった。時々、兵士の部屋に遊びに行く。窓外は相変わらずただ一面の田圃の広がりである。

 列車は、18時にアカウラ・ジャンクションに着いたが、そのまま動かなくなってしまった。その間に日が暮れていく。もう、どうにでもなれと、やけっぱちの心境である。遠くで雷光が絶え間なく瞬いている。雨にならなければよいが。窓の外は、物売りと、物乞いが押し寄せている。大人に交じって、幼い子供たちも、「タカ、タカ」としつこく窓に寄ってくる。中には、列車の中にまで侵入してくるものがいる。突然個室のドアが開けられ、両足のない物乞いが手を差し出す。慌ててドアを閉めようとすると、それを阻止して室内に侵入しようとする。大声を出すと、係員が飛んできて追い払ってくれたが、これは怖かった。アカウラジャンクションでの停車は実に2時間にも及んだ。ついに外は雨が降りだしている。気持ちはますます滅入ってくる。それに追い討ちをかけるがごとく、途中駅でまたもや30分停車、時計の針はどんどん進んでいく。

 22時、ようやく列車はクミッラ駅に到着した。実に6時間の遅れである。何はともあれ、ホテルを見つけなければならない、兵士たちと別れ、人込みを押しのけて駅の外にでる。駅前は舗装もない泥んこ道で、薄暗い電灯の光の中に、雑然とした貧相な街並みが広がっている。しかも、雨がざぁざぁ降っている。一瞬絶望的な気持ちになる。

 傘もささず、泥んこに足を取られながら駅前の道を進んでみる。通りの商店は全て閉まっており、人通りもない。「○○Hotel」との看板のある小さなビルが目に入った。躊躇もせずに飛び込む。もう、寝るところさえあればどこでもいいという心境である。ところが、満室だという。他にホテルはないかと聞くと、「ホテル・モエナモティへ行け。すぐ近くだ」という。再び雨の中に飛びだしたが、目指すホテルが見つからない。通りかかった2人連れの若者に聞くと、1人がホテルまで案内してくれた。まさに、地獄に仏である。ホテルの看板はベンガル語だけ、見つからなかったのも当然である。

 到着したホテル・モエナモティは雑居ビルの2階。フロントの親父はいやに調子がいい。1泊250tk、何と安いことかと思ったが、部屋に案内されて納得した。部屋は3畳ほどの狭さで、壁際にシングルベッドがあるだけ。部屋は薄汚れていて、数十匹の蚊が飛び交っている。ベッドには毛布もない。現地スタイルのトイレと水シャワーはあるが、石鹸もタオルもトイレットペーパーもない。ごみ箱もない。しかも、外の通路が騒がしい。東南アジア諸国をずいぶん旅したが、これほどのホテルは初めてである。「まぁ、それでも寝る場所が見つかっただけましかぁ」。思わず吹き出してしまった。蚊取り線香をバンバン焚いて寝る。
 

   第31章 モエナモティ仏教遺跡の見学

 4月6日木曜日。まんじりともせず夜が明けた。幸い天気は回復している。ここクミッラには2泊するつもりであったが、いくら何でもこのホテルにもう1泊する気は起きない。もう少しましなホテルはないものかと、朝の散歩を兼ねて、街の中心部まで歩いてみた。しかし、駅周辺にも、街の中心部にもホテルを見つけることは出来なかった。さぁて、困った。

 先ずはモエナモティ仏教遺跡に行こう。行き方をフロントで聞くと、「先ず、トムソン・ブリッジまでリキシャで行け。10tk。そこから乗合いベイビーでコトバリへ行け。8tk。この方法がベスト」との説明である。ホテル前からベイビーに乗っても100tk程度で行けそうであるが、フロントの言う「ベストの方法」にチャレンジしてみる。8時、ホテルを出る。

 リキシャで到着したトムソン・ブリッジは街の南の端で、表現しようもないほど雑然としたところであった。四つ角周辺に、バス、ベイビー、リキシャが多数群れ、その間を、人々が雲霞のごとくうごめいている。いったいどこから手を付けてよいやら。目指す乗合いベイビーなど見つけようもない。うろうろしていると、ベイビーが100tkでどうだと盛んに誘ってくる。しかし、ここまで来たら、初志貫徹である。棍棒を振り上げながら忙しく動き回っている警察官に聞いてみた。親切な警察官で、あっちこっち聞き廻ってくれて、ようやく目指すベイビーを探し当てた。

 乗合いベイビーなるものに初めて乗った。乗客定員2人の小型三輪車に、乗客が5人も乗るのである。後部座席に3人が折り重なり、運転手の両脇に2人がしがみつく。乗客が5人集まり、ベイビーはすぐに出発した。私は幸い若い女性2人といっしょに後部座席、超密着である。しかも、道は超悪路。左右に大きく傾くたびに、おしくらまんじゅうである。ダッカ=チッタゴン国道を横切り、20分ほどでコトバリに着いた。終点手前にカレッジがあり、女性2人はそこの学生であった。

 道の右側には広大な軍の駐屯地が広がっている。昨日列車でいっしょであった兵士たちもここにいるのだろう。右側はバードと呼ばれる農業開発研究所、高い塀に囲まれ、こちらも広大である。この周辺10キロ四方に約50の仏教遺跡が点在している。ただし、大部分は軍駐屯地の中にあるため、見学することは出来ない。これらの遺跡は、既に訪問したバハルプール遺跡と同様、8世紀から12世紀に栄えた仏教王国・パーラ朝時代の遺跡である。

 道をそのまま300メートルほど進むと、軍の検問所がある。そこから左の丘に登る細い踏跡をたどると、ルプヴァン・ムラの遺跡があった。中規模な寺院跡である。中央にレンガの積み重なった基壇が見られるが、仏像の類いはない。周囲に人影はまったくない。この小規模な遺跡は訪れる人はほとんどいないだろう。それでも周囲の草は刈られ、一応管理されている気配である。道を隔てた反対側の丘に大きな遺跡が見える。イタコラ・ムラのはずである。そちらに行ってみよう。丘を下る。

 もとの道を100メートルほど戻り、反対側の丘に登ると、イタコラ・ムラ遺跡があった。こちらは規模が少し大きい。意外にも一組のアベックがいた。カレッジの学生だろう。遺跡の上に登ると東側に大きく展望が開ける。足下に広がる軍駐屯地の背後にクミッラの街並みが見え、その背後はもうインドのはずである。バングラデシュは3方をインドに囲まれている。ここクミッラはインドとの国境の町である。レンガで囲まれた部屋の中に、首から上のない1体の仏像があった。切り口は鋭利であり、明らかに人工的に切り取られたと思われる。無残な姿である。栄華を極めた仏教が衰え、その後この地は、ヒンズー教、さらにはイスラム教の世界となった。その歴史を示す物証なのだろう。アンコールの仏像も首を切られて地下に埋められていた。

 ベイビーを降りた場所まで戻り、バードの塀に沿って、最大の遺跡・サルボン・ヴィハラ遺跡を目指す。1人の若者が寄ってきてしきりに話し掛ける。「ベンガル語はわからない。英語にしてくれ」というと、一生懸命片言の英語をしゃべった。カレッジの学生だという。バングラデシュの印象、日本のことを聴かせてくれという。いつか日本に行くことが夢だとも言う。歩きながら話しをする。バングラデシュの若者にとって、日本はパラダイスに見えるようだ。30分も歩くと、目指すサルボン・ヴィハラ遺跡に到着した。壮大な僧院跡である。ちようどバハルプール遺跡をひと回り小さくした感じである。ただし、50tkも入場料を取られた。もちろん外国人だけである。遺跡はよく管理されている。数組の見学者の姿が見られる。真昼の直射日光の光を浴びながら、考えた。これほどまでに栄えたベンガルの仏教がなぜ衰えたのだろう。おそらく、支配者階層の宗教となり、民衆の宗教にならなかったためだろう。であるなら、支配者が替われば、宗教も替わってしまう。

 隣りに遺跡博物館があった。入ってみたが、薄暗く、たいした見どころはない。係員がバクシーシと手を出す。馬鹿じゃないか。リキシャでベイビー乗り場まで戻る。これで、モエナモティ遺跡の見学は終了である。時計を見るとまだ11時30分。ふとひらめいた。これなら今日中にチッタゴンまで行ける。チッタゴンは勝手知った街だ。少々遅くなっても、今の安ホテルに泊まるより余程よい。急いでホテルへ戻る。

 
   第32章 再びチッタゴンへ

 慌ただしく荷物をまとめて、チェックアウトする。フロントで、「チッタゴンへはどう行くのがベストか」と聞くと、「2時30分の列車に乗れ」との答え。現在12時過ぎ、時間は充分ある。鉄道駅に行く。ちっちゃな駅で、しかも、駅舎を改造中。一つしかない窓口は大混乱である。皆、並ぼうとはせず、金を握りしめた手を窓口に差し出す。私なぞ弾き飛ばされて、何も出来ない。困ったなぁと思い、ずうずうしく、駅長室に入っていった。さすが駅長、英語がしゃべれた。次のチッタゴン行きは何時かと聞くと、16時とのこと。ホテルのフロントもいい加減なことを言う。

 しかし、困った。バスに切り替えよう。といっても、どこからバスが出ているのかも分からない。駅前に屯しているリキシャ・ワラをつかまえ、「チッタゴン行きのバスターミナルへ連れていけ」と、手振り、身振り、怪しげなベンガル語で言うと何とか通じた。しかし、50tkだという。冗談ではない、場所はとこか知らないが、こんな小さな街、そんなに高いはずがない。ネゴッていると。別のワラが、ビシュ・タカ(20tk)と小声でつぶやいた。ようやく話がまとまった。

 バスターミナルは街の東部にあった。ワラは親切にもチッタゴン行きバスの車掌に身柄を引き渡してくれた。中型のボロバスである。10分後の1時に発車するという。座席に座り、ヤレヤレと安心する。これで何とかチッタゴンへ行ける。バスはダッカ=チッタゴン国道を一路南下する。ただし、完全なローカルバスで、しょっちゅう停車しては乗客を乗せ、降ろす。発車時にはガラガラであったバスもいつしか満員となった。バングラデシュのローカルバスは座席の間隔が狭く、身動きできない。長時間乗車は大変な苦痛である。おまけにトイレ休憩もない。

 3時間も走ると、左手に山並みがみえてくる。チッタゴンは近いと思ったのだが、それからが長かった。まだかまだかと思ううちに、ようやく大きな街並みに入った。チッタゴンだろう。すると、何と、バスは満員の乗客を乗せたままガソリンスタンドへ入るではないか。給油を済ませて再び走り出す。バスはいったいチッタゴンのどこへ着くのだろう。チッタゴンといっても広い。と、思っていると見覚えのある街並みに出た。あれ、あれ、と思う間もなく、ホテル・ゴールデンインの前に差し掛った。慌てて降りる。別段ホテルは決めていなかったが、成り行き上、再びこのホテルに泊まることになった。時刻はちょうど17時、4時間のドライブであった。この地を発ったのは3月19日。以来、バングラデシュを一周して、18日ぶりに再びこの地に帰ってきた。感慨もひとしおである。

 ホテルのフロントは、私のことを覚えていてくれた。すぐに明日の行動を相談する。出来れば、チッタゴン丘陵のランガマティへ行きたいと思っている。バングラデシュ随一の景勝の地として有名である。しかし、外国人がこの地域に入るには政府の許可が必要との話を聞いていた。確認すると、やはり、現在でも許可が必要との回答に少なからずがっかりした。許可をとるのはそれほど難しくはなさそうであるが、そこまでして行く気もない。

 チッタゴン丘陵はバングラデシュが誇る景勝の地であると同時に、この国の最大の恥部でもある。インドとの国境地帯であるこの丘陵地帯には、昔から仏教徒の少数民族が多く住み、独自の文化を育んでいた。ところが、イスラム教徒のベンガル人の国・バングラデシュは、1971年に独立を達成するや、この地域に対して激しい同化政策を取るのである。多くの移民を送り込み、土地を奪い、大量虐殺を繰り返した。このため、多くの少数民族が難民となってインドへ逃亡するとともに、一部は武装ゲリラとなって抵抗を始める。厳しい国際世論の非難の中、バングラデシュ政府は1997年、ようやく少数民族側と和平協定を結ぶが、その約束は政権交代の度に反故にされ、未だ紛争の火種は絶えていない。

 
   第33章 コックスバザールへ

 4月7日金曜日。昨夜、今日の日程を考えた。チッタゴン丘陵行きを諦めたが、まだ1週間程度日程に余裕がある。コックスバザール(Cox's Bazar)へ行ってみることにした。コックスバザールはチッタゴンの南約150キロに位置する海岸の街で、バングラデシュ最大のリゾート地である。バングラデシュで最も人気のある新婚旅行の行き先とも言われている。1人でこんなところに行っても仕方がないのだが、犬も歩けば棒に当たるであろう。

 フロントで行き方を聞くと、民間バス会社の豪華エアコンバスと公営のローカルバスの2種類あるが、豪華エアコンバスは前日の予約が必要とのこと。リキシャでローカルバスのターミナルであるシネマ・プレイスへ行く。ちょうど発車間際のバスに乗り込む。料金は130tk。ところがバスは繁華街まで行くと道端に止まって30分も動かない。2人の車掌が例によって客集めに走り回る。9時、満員となって再出発。市内を抜け、コンノフリ川をShah Amanat橋で渡り、一路南下する。道はよい。田園風景が続く。小さな街を幾つも過ぎる。2時間ほど走り、ちょっと大きめの街のドライブインで20分ほど休憩。運転手にここはどこかと尋ねると、チョコリアとのこと。地図を見ると2/3は来たことになる。

 周りの景色が変わってきた。地形に緩やかな起伏が現れ、道はカーブを描きながら上り下りを繰り返す。周りには、バングラデシュでは珍しい雑木林が見られるようになる。一つの坂を登りきると、前方に海が見えた。ハッとする瞬間である。バスは緩やかな坂を海に向って下っていく。下りきると、ぽつりぽつりとリゾートホテルが現れ、海岸に続く松林の連なりがみえてくる。12時30分、海岸に近い小さな街並みの中でバスは停まった。ここが終点だという。

 リキシャでMotel・Upalに向う。ポルジャトン系のリゾートホテルである。今日は金曜日の休日なので混んでいるのではないかと心配したが、ガラガラの様子。1泊950tkが30%割引になっていた。部屋は広く、おまけに大きなベランダがついている。超満足である。

 ここ数日困ったことが生じている。ダッカでつまずいて、左足親指の爪が半分剥がれ掛けてしまった。そこが膿みだして、歩くと非常に痛い。抗生物質を飲んでいるのだが未だに回復しない。とは言っても、ホテルでじっとしているわけにも行かない。洗濯をした後、海岸に行ってみることにする。松の防風林が非常に大きいこともあり、海岸はちょっと遠い。ホテルから直線距離でも700〜800メートルはある。しかも、直接行く道はない。外へ出ると、真夏の南国の太陽が頭上より照りつけ、ものすごい暑さである。道を右に進み、バスを降りた地点から海岸に向う。右側は飛行場、左側は荒れ地で牛が放牧されている。

 砂地の防風林を横切ると、大きな大きな砂浜が広がっている。この砂浜は世界一の長さを持つことで有名である。その先の遠浅の波静かな海はベンガル湾である。波打ち際まで行き、水にそっと手を入れてみる。水はきれいに澄んでおり、口に含むとやは塩辛い。この地点はビーチとはなっておらず、人影もまばらで、一軒の茶店があるだけである。松の木陰に座りこんでいると、ヤシの実売りがやって来た。ナタで上部を切り取ったヤシの実にストローを差し込むと、生暖かい甘味の液体が口に広がる。こうして1人、異国の海を眺めていると、何となく感傷的になる。

 ホテルの裏に高さ70〜80メートルの丘が連なっている。夕方、ベンガル湾に沈む夕日がきれいに見えそうなので登ってみる。山頂は木々で覆われ、仏塔と集会場が建っていた。木々の間から海が見える。ゆっくりと夕日は沈んでいったが、海との境目には雲があり、残念ながら海に接触する夕日は見られなかった。

 夕食をどこで食べようかと思ったが、道を挟んだ反対側の高級ホテル・Hotel Shaibalのレストランに行ってみる。驚いたことに、ビールがある。イスラム教国バングラデシュでは、法律で禁止されているわけではないが、飲酒の習慣がないために一般の食堂、レストランではアルコール類は置いてない。ただし、外国人の多い超高級ホテルではビール程度は飲めると聞いていた。試しに頼んでみると、ハイネッケンの缶ビールが出てきた。しかし、生ぬるく美味くはない。料金は200tkと非常に高かった。
 

   第34章 コックスバザールの1日

 4月8日土曜日。今日はこのリゾート地・コックスバザールで1日のんびり過ごすつもりでいる。とは言っても、貧乏性のせいか、ホテルでじっとしていられない。ビーチに行ってみようと、今度は左回りで海岸に行く。お土産物屋が軒を連ね、大勢の人々が海岸に群れていた。ここがメインビーチらしい。しかし、水着姿の人は皆無である。皆、服を着たまま水に入り、波と戯れている。サリーを着たまま腰まで水に浸かっている勇敢な女性も何人かいる。「泳ぐ」という習慣はないようである。また、マリンスポーツの施設は一切ない、貸ボートも貸し浮輪もない。施設といえるものはパラソル付きの椅子だけである。貝殻で出来た首輪や腕輪の土産物を売る子供たちが観光客の間を歩き廻る。

 1人でこの場所にいても仕方がないので、リキシャに乗って街まで行ってみる。観光地だけに性質の悪いリキシャ・ワラが多いとみえ、2度にわたり不愉快な思いをした。案内書にあるバルミス・マーケットまで20tkで合意してリキシャに乗る。このマーケットではミャンマーの製品が大く売られていると記されている。ところが途中で、仲間のリキシャに乗り換えてくれと言い出す。どうせ運賃をつり上げる魂胆である。拒否して半額の10tkを置いて足早に去る。新たなリキシャと10tkで合意する。ところが意識的に遠回りする気配。止めさせて、10tk置いて去ろうとすると、大声でわめき始める。真っ昼間で、危険はないので無視する。不条理なことには毅然としなければならない。その代わり、親切にしてもらったときは、チップをはずむことにしている。

 歩いて探し当てたバルミス・マーケットは、名前から「市場」を想像していたのだが、ビルの一階に10ほどの商店が入っているだけの何の変哲もないところであった。確かに、店員は頬をタナカで白く染め、タナカの原木も売っていたが。

 リキシャに乗ってガット(船着き場)に行ってみる。200メートルはあろうかという長大な桟橋が沖に向って延びている。2tkの入場料を払って、桟橋に入る。ここから沖合のモヘシュカリ島やショナディア島への船が出ている。一瞬、行ってみようかとも思ったが、諦めた。

 さらに、リキシャに乗って仏教寺院(ブッダ・モンディール)へ行く。ここコックスバザールはミャンマー国境に位置するため、ミャンマーから流入したラカイン族などの仏教徒の少数民族が多く暮している。この仏教寺院も彼らの建てたものである。行ってみると、重層式の塔の立つ典型的なビルマ様式の寺院であった。本堂に座り込んで、本尊を見つめる。仏教寺院に来ると何となく心が落ち着く。モハスタン遺跡やパハルプール遺跡、あるいはモエナモティ遺跡など壮大な仏教遺跡を見てきたが、生きた仏教寺院に出会うのはバングラデシュで初めてである。

 1人の若者が寄ってきて、案内するという。聞けば、彼もラカイン族だという。ラカイン族はミャンマー西部のラカイン州からバングラデシュ南東部に住む仏教徒の少数民族である。18世紀にビルマに征服されるまで独自の王国を築いていた。居住地区の西部がイスラム教国・バングラデシュに組み入れられたことにより多くのラカイン族はミャンマーに逃亡したが、踏み止まった少数のラカイン族がベンガル人の迫害に耐えながら、ここコックスバザール周辺で暮している。

 寺の境内は意外に広かった。多くのお堂が立ち並び、そこにはビルマ形式の仏像が安置されている。いずれも200年ほど前にビルマから持ち込まれたものとのことである。学校も併設されていた。ここで、ラカイン族としての伝統が受け継がれていくのだろう。

 いったんホテルに帰る。明日、チッタゴンに戻るつもりなので、バスのチケットを予約しておく必要がある。帰りは冷房完備の豪華バスで帰るつもりである。フロントで相談すると、その場で電話予約をしてくれ、従業員がバス会社までチケットを購入しに行ってくれた。このホテルも親切である。

 
   第35章 チッタゴンへの帰還

 4月9日日曜日。いよいよバングラデシュの旅も終わりである。今日は帰国に備え、チッタゴンに戻る。いわば最後の移動である。8時過ぎチェックアウトしてリキシャでグリーンバスの営業所に向う。ボルボ製の大型バスは9時に出発した。ローカルバスに比べて、走りはずいぶんおとなしい。1時間ほど走って、ドライブインで休憩。男子トイレは溝に沿って仕切りをしただけのものだが、私以外は全て座りションベン、男の座りションベンはどうも絵にならない。

 行きと異なり、より上流のKalurghat橋でコンノフリ川を渡ってチッタゴン市内に入った。1時半、実に4時間半も掛かって、終点のグリーンバス営業所に到着した。行きのローカルバスよりも1時間も遅い。ローカルバスが如何に神風運転であったかが分かる。終点ということでバスを降りたものの、ここはいったい、チッタゴンのどの辺なのか分からない。係員に聞くと、ホテル・コールデンインまでリキシャで20tkと丁寧に教えてくれた。

 3日ぶりにホテル・ゴールデンインに戻った。フロントとも、もう顔なじみである。今日はもうひと仕事残っている。タイ国際航空(TG)の営業所に行って、バンコクまでの帰国便の予約をとらなければならない。運行日は水・金・日・の週3便、今日は9日の日曜日なので次の12日水曜日の便を取りたい。TGの営業所の住所は市内アグラバッド地区フィンレイ・ハウスとなっているが、地図にも載っておらずどこか分からない。フロントに相談すると、場所を知っているというベイビーをつかまえてくれた。ところが、アグラバッド地区に来ると運転手は辺りをきょろきょろ、ついに道端に停まって動かなくなってしまった。要するに場所を知らないのである。乗せたいがために場所を知っているふりをする。このような経験を今までも何回もしている。仕方がないのでベイビーを降りる。

 3回ほど聞いて、ようやく場所がわかった。道を聞くと、バングラデシュの人々は実に親切である。自分が知らなくても、分かるまで、自ら周りの人に聞きまくってくれる。TGの営業所はちょっと分かりにくい裏通りのビルの1室にあった。男女2名の小さな営業所であったが、実に感じがよい。希望通りの予約が取れてひと安心である。これで無事、バングラデシュを去ることが出来る。お祝いに、ホテル・アグラバッドへ行き、高価なコーヒーを飲んで帰る。

 
   第36章 カレダ・ジア首相とシェイク・ハシナ前首相

 4月10日月曜日。今日と明日の2日間、何の予定もない。街の中をぶらつく以外になさそうである。朝、部屋に差し入れられた英字新聞を眺めていて驚いた。スポーツ欄に3段抜きで、「Urawa Red edge Fukuoka」の文字が踊っているではないか。何で、バングラデシュの新聞に日本のJリーグの結果が大きく報じられるのか不思議である。英字新聞ゆえに、読者に在バングラデシュの日本人が多いのかも知れない。バングラデシュで最も人気のあるスポーツはクリケットであり、サッカーは世界ランキング140位に過ぎない。

 バングラデシュでちょっと意外に感じたのは、新聞が非常に広く行き渡っていることである。どこへ行っても、ちょっとした店に10種類ほどの新聞が並んでいる。しかも、多くの人がよく新聞を読んでいる。成人識字率わずか49.6%の国とは思えない普及状況である。

 特に行きたいところもないが、ジア記念博物館に行ってみることにした。地図を見て、歩ける距離と判断して出発したのだが、意外に遠かった。しかも、手持ちの地図がいい加減で、道の選択に苦労した。それでも、雑踏の街中を歩くこと小1時間、陸上競技場の北側にある博物館に到着することが出来た。この博物館は、第4代大統領であり、かつ、現在の首相・カレダ・ジアの夫であるジアウル・ラーマンの元の住居である。彼は1981年の軍事クーデター未遂事件で、この場所において暗殺された。2tkの入場料を払い中に入る。広い庭を持つ立派な洋館である。独立戦争当時の写真や説明、彼の日常生活品などがそのまま展示されている。ただし、説明書きは全てベンガル語、係員に冗談半分に文句を言うと、付き添って説明してくれた。銃弾痕がコンクリの床に生々しく残っている。
 

 以下、この博物館の主・ジアウル・ラーマンとその妻・カレダ・ジア、及びバングラデシュ独立の父・ムジブル・ラーマンとその娘・シェイク・ハシナの不思議な因縁に付いて書く。
 
 バングラデシュの首相は1991年から現在に至るまで女性である。1991年〜1996までカレダ・ジア、1996年〜2001年までシェイク・ハシナ、2001年〜2006年の現在まで再びカレダ・ジアである。このことは、一般的に女性の社会的地位の低いイスラム教国においては不思議なことと言わざるを得ない。

 1971年の独立運動を指導したのは間違いなく、政党としてのアワミ連盟であり、その指導者ムジブル・ラーマンであった。しかし、独立の直接の引き金を引いたのは、当時、陸軍少佐としてチッタゴンに駐留していたジアウル・ラーマンであった。彼は、逮捕されたムジブル・ラーマンに代わり、ラジオを通じて、高らかにバングラデシュの独立を宣言したのである。これによって事態は一気に独立戦争へとなだれ込んでいくのである。

 独立後、ムジブル・ラーマンは初代大統領に就任する。しかし、1975年、軍事クーデターにより、彼はその一族とともに暗殺される。その時、唯一生き残ったのが海外留学中であった娘・シェイク・ハシナである。なお、この暗殺の黒幕はジアウル・ラーマンであったという説もある。

 一方、ジアウル・ラーマンは順調に出世し、自らバングラデシュ民族主義党(BNP)を組織し、1978年には大統領に就任する。しかし彼も、1981年のクーデター未遂事件により暗殺され、以降、バングラデシュは軍事政権が続く。この軍事政権に激しく抵抗したのが、夫の意志を引き継いだカレダ・ジアである。BNPをまとめ、8回の逮捕にもめげず、反政府運動を指揮する。そしてついに、1991年の総選挙で勝利し、自ら内閣を組織し首相に就任する。

 他方、ムジブル・ラーマンを失い四分五裂したアワミ連盟を再度まとめたのが父の意志を継いだその娘・シェイク・ハシナである。そして1996年の総選挙でカレダ・ジア率いるBNPに勝利し、自ら首相に就任する。しかしながら、2001年の総選挙においては、今度は野党4党をまとめ上げたカレダ・ジア率いるBNPが圧勝し、彼女は首相に返り咲いたのである。次の総選挙は2007年、いかなる結果となるだろうか。
  

 ホテルに帰った後、ホッカル・マーケットに行ってみる。ニューマーケットの裏に広がる世界一安いと言われる洋服屋街である。ここは一見の価値があった。狭い路地の両側に数百の商店が並び、しかも全ての商店が洋服屋である。ちょうどバンコクのプラトゥーナーム市場と同様の市場だが、おそらく、その物価水準を考えれば、こちらの方がずっと安価であろう。

 
   第37章 バングラデシュ最後の1日

 4月11日火曜日。いよいよバングラデシュ最後の1日である。何かお土産でも買おうかと街に出てみる。この国は観光産業がない。したがって、有名な名所旧跡に行っても、お土産物屋はない。絵葉書1枚売っていない。しつこい土産売りにつきまとわれるのもいやだが、こうも観光地化されていないと、何となく寂しい気もする。この国を旅した記念品が何か欲しい。とはいっても、特別な名産品もなさそうである。ジュート製品ぐらいだろうか。そんなことを考えながら街をぶらついたのだが、店のシャッターが皆閉まっている。ニューマーケットに至ってはビルの入り口が閉ざされている。ホテルに帰って聞いてみると、今日はナショナルデーで休日だという。何の祝日かはよく分からなかった。

 仕方がないので、フォイズ湖へ行ってみることにする。フォイズ湖は市域の北西にある小さな湖で、案内書には「自然を残した美しい公園になっている」と記載されている。ベイビーの運転手が「ここだ」というので降りるが、肝心の湖がどこにもない。目の前には"Foy's Lake"の看板を掲げた遊園地のような大きな施設と小さな動物園があるだけである。しばらく付近をうろうろしてみたが、湖に通じるルートがある気配もない。「湖はどこか」と聞いてみると、皆、遊園地を指さす。

 半信半疑で、65tkもの高額の入場料を払って遊園地には行ってみる。門を入り、遊具のある広場を突っ切り、階段を登ってその奥の高みに上がってみると、眼下に、ボートの浮かぶちっちゃな湖があった。これがフォイズ湖らしい。何ということはない、遊園地の施設内の湖であったのだ。湖を囲む尾根には柵が設けられ、遊園地外からは入れないようになっていた。馬鹿らしくなって早々に出る。なんでこんなものが、仰々しくガイドブックに載っているのだ。しかも、遊園地については何も記されていない。

 わずか10tkの入場料なので、隣の動物園に入ってみる。こちらは楽しかった。インドライオン、熊、猿、鰐などとともにベンガルタイガーがいた。バングラデシュを象徴する動物である。ぜひ、1度は見たいと思っていたので満足した。ベイビーを拾って帰ったのだが、途中、イスラム政党による大規模なデモに遭遇した。ムスリムの服装をした数千の大群衆が、徒歩やバスやトラックでシュピレヒコールを繰り返しながら大通りを練り歩いている。このため、交通は完全に麻痺し、大渋滞である。ただし、統制は取れている。水や菓子、果物の配給掛かりもいて、参加者のみならず、動きの取れないリキシャやベイビーにも配って歩く。デモや集会はバングラデシュの日常風景でもある。

 以上で4週間にわたるバングラデシュの旅の全日程が終了した。明日はバンコクである。

 
   第38章 さらばバングラデシュ ! 思い出をありがとう

 8時半過ぎ、ザックを背負いホテルを出る。今日もいい天気である。結局、雨に降られたのはシレットの前後3日だけであった。従業員がベイビーをつかまえてくれた。空港まで150tkだという。これには少なからずショックを受けた。入国した際には、市内まで250tkであった。しかも、1,000tkの言い値をここまで値切ったもので、これが相場と考えていたのだがーーー。結局、入国早々ぼられていたのだ。

 ベイビーは見覚えのある景色の中を風を切って疾走する。このちっぽけな、排ガス製造機のような乗り物にもずいぶんお世話になった。これが乗り納めである。来たときは、どこへ連れていかれるかと、戦々恐々として乗っていたものだが、今は安心して乗っている。約30分で空港に着いた。10tkのチップを渡すと運ちゃんは実に嬉しそうな笑顔を見せた。この国は笑顔の多い国であった。物乞いですら、わずかな金を与えると嬉しそうに笑顔を見せる。

 空港施設は真新しく、かつ立派である。しかし、閑散としている。何事もなく出国手続を済ます。ところが銀行がないのである。使い残しのタカが日本円にして5千円ほどあるのだがーーー。タカなぞ国外では紙くず同然である。何とか使おうと、免税店を探してみると、ちっちゃな店が1軒あった。しかし、酒は売っているがタバコはない。その他にはコーヒースタンドがあるだけである。とても使いきれない。免税店でジュートのハンドバッグを売っていた。この国で初めて見るお土産品である。これで何とかお土産が確保できる。

 閑散とした待合室で、搭乗案内を待つ。4週間にわたる旅の情景が走馬灯のごとく浮かんでくる。4週間前、「この国は本当に旅ができるのだろうか」と一抹の、否、大いなる不安を抱いてこの空港に降り立った。不安は杞憂であった。それどころか、今では、「これほど旅がしやすい国はない」との思いが強い。確かに、旅行環境は絶悪である。宿泊施設も交通手段も、あるいは衛生状態も言葉の問題も快適とは言いがたい。ホテルの部屋は蚊が充満し、バスは動くのが不思議なほどのボロである。タクシーもない。衛生観念も皆無に近い。英語もほとんど通じない。お陰で、ベンガル語を覚えたが。

 しかし、しかし、人々の親切がそれらを補って余りある。バスターミナルで立ち尽くせば、手を取って乗るべきバスまで連れていってくれる。道を聞けば、自らは知らなくても、分かる人を探してくれる。そして、その場所へ案内までもしてくれる。困り果てたことはなかった。危険を感じたこともなかった。少々不愉快な目にはあったが、それはみな、貧しさゆえのことである。そして何よりも、人々の笑顔と澄んだ目が印象的であった。極貧の人々でさえ、その目は澄み、輝いていた。カラスと競いながら、ごみ溜めを漁る子供たちにも、力強い目の輝きが宿っていた。そして、ディナジプール郊外の村で出会った、あの村長の力強い一声が忘れられない。「私はこの村が好きだ。私はこの国が好きだ。我が黄金のベンガルよ」。

 11時35分発バンコク行きTG310便は定刻にチッタゴン空港を離陸した。機内はガラガラであった。私は窓に顔を押し付け、遠ざかるベンガルの大地をいつまでも眺め続けていた。
 
                   (完)
 
 
バンコク到着後、お世話になったHassanさんに次のようにE-Mailを英文で打った。
 
「親愛なるHassanさんへ
  先日はわざわざ自宅にまでお招きいただき、その上奥様の
  手料理までご馳走になり、感謝感激いたしております。
  バングラデシュでの最高の思い出になりました。ありがと
  うございました。
  お別れして以降、順調に旅を続け、本日無事にバンコクに
  到着いたしました。
  バングラデシュはアジア最貧国との認識のもと、不安を抱
  きながら訪問いたしましたが、旅を終わった現在、その認
  識は大幅に変わりました。
  バングラデシュの国土は豊かであり、また人々の心も豊か
  です。貧しいのは、人々の生活と国の政治であると知りま
  した。この問題を解決するのは、若きエリートである貴方
  たちの仕事と認識いたします。
  ますますのご活躍を期待いたします」 
      

 

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