ヒマラヤの秘境ブータン王国への旅 

ヒマラヤの山懐深く、民族の伝統と文化を守り続ける王国を訪ね

2003年10月10日〜13日


 
 激しいカルチャーショックを受けた旅であった。世界にはこんな国もあったのか。目で見る現実は想像を越えていた。世界中が「近代化」を目指し、GNPを競い、競争こそ最高の経済原理、民主主義こそ最高の政治体制と声高に叫ぶ中にあって、その流れに追従することなく、平然と我が道を行く国。いわばGlobal Standard という一元論的な硬直した考えを否定し、多元論的思考方法を実践する国。小国といえどもブータンは少々手強い。理想的社会体制とは、理想的政治体制とは、その答えが決してひとつではないことを世界に訴えている。

 そこで見たものは、実に平和な豊かな社会であった。近代化を急がず、市場競争原理も民主主義も至高の原理とは認めず、政教一致を誇り、一夫一妻制すら普遍的原理とは認めない国。そして、国土の自然と民族の伝統と民族のアイデンティティを守ることに全力を挙げる国。幸福とは何か、豊かさとは何か、民族とは何か、この国はその答えの一つを世界に示している。
 

 第1章 ヒマラヤの王国・ブータンへ

 ヒマラヤの山襞奥深く、今なお半鎖国状態で中世そのままの政治社会体制を続ける国・ブータン。地球上に残された最後の秘境。まさかこの王国に行けるとは夢想だにしなかった。バンコクの旅行代理店のチラシを眺めていたら、突然「安らぎの国 ブータン」なる文字が目に飛び込んできた。え!と思わずチラシを握りなおす。そこには明確にブータンへの旅行案内が載っていた。

 「よし、行こう」その場で即決した。その旨妻に告げると「私も行く」と言い出した。どれだけブータンのことを知った上でのことか疑問だが。娘は「心底うらやましい」と言ってきた。こちらはブータンの何たるかを知った上での感想であろう。3泊4日の入国許可申請を提出した後、いささか泥縄であるが、旅行案内書の類があるかどうか、半信半疑で本屋へ行ってみた。何と「地球の歩き方」シリーズでブータンの案内書が発行されているではないか。さすが「地球の歩き方」、地球上のあらゆるところをカバーしている。

 ブータンという「国」の存在は少年時代から知っている。当時、隣の「国」・シッキムとともに、独立国であるような、インドの保護国であるような、あいまいな存在で、完全鎖国状態を続けていた。それだけに興味津々の「国」でもあった。日本人として戦後初めて入国した中尾佐助氏の旅行記を興味深く読んだ記憶もある。その後、シッキムはインドに併合されてしまったが、ブータンは独立国への道を歩み、国連にも加盟した。

 「地球の歩き方」を読みながらうれしくなった。どうやらブータンは概ね数十年前のままで現在もあるらしい。もちろん、現在では飛行機で入国できる。ただし、国内の飛行場はパロ空港ただ一つで、乗り入れている航空会社はブータン国営航空のドゥク・エアのみである。また、観光客も制限つきながら受け入れるようになった。その一方で、チベット仏教による政教一致、国民はみな民族服のまま、自給自足経済。政治社会体制の基本は何も変わっていないようである。

 一部開放されたと言へども、入国するにはかなりの制約がある。事前に日程、訪問地等を申請してブータン政府の入国許可証を取得する必要がある。この入国許可証がないとビザの発給どころか、ドゥク・エアにも乗せてもらえない。また、入国した後も、必ず指定されたガイドと行動をともにしなければならない。しかし、うれしい情報もある。案内書には「世界でも例外的に安全な国。心配することは酔っぱらいの喧嘩に巻き込まれることぐらい」とある。桃源郷が期待できそうである。

 バンコク発6時50分のドゥク・エア小型機は50〜60人の乗客を乗せてふわりと大空に舞い上がった。もちろん、スチュワーデスはブータンの民族服・キラ姿である。さぁ、ブータンへ行くのだと心は高揚する。飛行機は寄港地であるバングラディッシュのダッカに向かう。しばらくして、窓の外を覗いてびっくりした。地上はただ一面の湖である。その中に、土盛された道路と家が浮かんでいる。バングラディッシュは雨季には国土の3分の2が水没すると聞いている。一見は百聞にしかず、眼下の景色はまさに国土の水没である。ダッカ空港への寄港の後、飛行機は目的地のブータン・パロ空港を目指して北上する。あと1時間の飛行である。雲が多く下界は見えない。

 突然、雲の切れ目から下界が見えた。いつのまにか下界はすぐ下に迫っていた。谷間に沿ってただ一面に黄色く色づいた稲田が広がっている。その中に点在する白壁の大きな家々。ブータンだ! ブータン上空にやってきたのだ。窓に顔をくっつけて下界を覗き込む。飛行機は翼が触れるのではないかと思えるほど山肌をすれすれにかすめ、大きく開けた谷間に入った。機内アナウスがパロ空港着陸を告げている。
 

 第2章 ブータンの玄関 パロ

 2003年10月10日ブータン時間の午前11時、ついにブータンの大地を踏みしめた。燦燦と降り注ぐ太陽の光は暖かいが、空気はひんやりとし心地よい。まさに高原の気候である。ここは標高2,300メートル、北アルプスの稜線ほどの高地である。目の前にはまるで御伽の国の宮殿のようなブータン建築の空港事務所が建ちそびえている。空港の周りに街並みはなく、ただ一面に稲田が広がっている。不思議なことに、目に映る景色に違和感がない。それどころか、どこかで見た景色だなぁとの思いがする。そうだ、伊那谷だ! イメージとしてよく似ている。

 立ち働く男性はみなブータンの民族服・ゴを着ている。空港事務所に入ると、一人の若者が寄ってきた。私のガイド・NAMGANG君であった。20歳代の聡明そうな若者である。もちろん、ゴを着用している。入国手続きは全てガイドがやってくれる。その間、タバコを吸おうと喫煙室を探したのだが、見当たらない。やっぱり! 案内書には、ブータンでは宗教上の理由で、喫煙は好まれず、タバコは販売さえされていないとある。このため、タイ出国の際に一カートンを買ってきた。だが、結果としてブータンでは不自由なく喫煙することができた。それどころか、ガイドのN君はヘビースモーカーであった。成文法の未整備なこの国には「喫煙を禁止する法律はない」というのがN君の理屈である。売っていないはずのタバコだが、雑貨屋でN君が小声で何か言うと、奥からそっとインドタバコが取り出された現場も目撃した。

 持参のUS$をブータンの通貨・ニュルトラムに交換して、建物の外に出る。そこには、トヨタのワゴン車が我々を待っていた。車はパロ・チュ(チュとは川の意)右岸の高台に沿った細い道をくねくねと市内へと向かう。両側斜面は棚田であり、ブータン建築の大きな農家が点在している。ガイドのN君と我々のコミュニケーションは英語である。ブータンの標準語は西部地方の言語であるゾンカ語であるが、この国では小学校から国語の時間を除いて全て英語で授業が行われている。したがってこの国では子供でさえ英語が達者である。

 N君が一つの建物をさして、何の前置きもせず、「あれが西岡さんの住んでいた家です」と説明する。妻が「西岡さんて誰」と私に聞く。「西岡京治さんの名前を知らずしてブータンに来る資格はないよ」。私は意地悪く答える。しかし、これは私の本音でもある。日本のパスポートを持ってこの国を訪れるからには、絶対に知らねばならぬ人の名である。ブータンの農業発展に尽くし、ブータンにおいて国の恩人と慕われ、1992年に急死するや、国葬を持って送られた一人の日本人である。
 

   西岡京治(にしおか けいじ)
    (1933.2.14〜1992.3.21)

 1933年、京城(今のソウル)に生まれる。農業指導を志し、大阪府立大学の農学部に入学。当時助教授だった中尾佐助に植物学と京大学派としてのフィールドワークの手法を学ぶ。当時、中尾は川喜多二郎と共に日本山岳隊のマナスル遠征に学術調査隊として参加するなど、ヒマラヤ研究の第一人者であった。府大卒業後、大学院に残ると共に、川喜多のいる大阪市大の研究生に成り、西北ネパールの8ヶ月に及ぶ調査行に参加。調査結果の一部は一般向けの啓蒙書「鳥葬の国」として刊行され、好評を博した。恩師中尾佐助を隊長とする「東北ネパール学術探検隊」に副隊長として参加。これを機に、ブータンへの農業指導者としての派遣される事を望むようになる。

  1964年、脱穀機すら普及していないヒマラヤの国ブータンに妻・里子と二人で赴任。実験農場を作る事から始めて、人材の育成、稲の並木植えの導入と新品種の導入による生産量の増大、野菜、果物栽培の普及と食生活の改善。実験農場が国家的農業機械化センターへと拡大していくにつれ、農業分野を超えた国家開発に精力的に従事。焼畑にのみ頼っていた山岳の最貧地域に水田を開き、橋を架ける際にも、いたずらに莫大な費用のかかるコンクリート製の橋を架ける事をせず、地元の吊橋架橋技術がそのまま使え、耐久性に優れたワイヤーロープ製の橋を多数かけて、流通を促進すると共に、身の丈にあった開発を、地元の人達の手で地道に推し進めた。その成果は20年以上という異例の長期指導を続ける京冶に帰国を促す目的で派遣された、国際協力事業団の調査団すら絶賛するに至っており、日本の国際協力事業の最も成功した例とも言われる。

 1980年9月4日、京冶らの活動を積極的に支援してきた王室から、「ダショー」の爵位、ブータンの民族衣装「ゴ」に掛けるエンジ色の布と銀の鞘に納まった剣を授かった。1989年、昭和天皇の大葬の礼には代表団の一員として、国王と共に帰国。90年の花と緑の博覧会では、ブータンの国の花とも言う「青いケシの花(メコノプシス)」、幻の花「ノビレ・ダイオウ」を展示、手配を行った。

 花博の翌々年、敗血症が元でブータンにて急死。葬儀はブータンのしきたりに従って、京冶が心血を注いだパロ谷を見下ろす丘で行われた。今、パロ農場の一隅には仏塔(チョルテン)が建ち、パロの農場とブータンの発展を見守っている。
 

 30分ほどで車は小さな街並みに到達した。「これがパロのメインストリート?」、半信半疑でN君に聞くと、「そうだ」と言う。わずか100メートルほどの小さな小さな街並みで、背後にはもう稲田が広がっている。ブータンには基本的に市街地と呼ばれるような街並みはないようだ。街並みを歩いてまずびっくりするのは犬の多さである。いたるところに寝そべっている。一見バンコクの裏通りに似ているが、犬の表情に大きな違いがある。バンコクの犬は絶対に人間と目を合わせない。人間を完全に無視して自分たちだけの世界を作り上げている。パロの犬は人間と目をあわす。呼びかければ尻尾も振るし、むっくり起き上がって寄って来もする。

 通りを行き来する人々は全て民族服である。女性は和服に似たキラ。一枚の布を巧みに全身に巻きつけたものである。男性は日本のドテラに似たゴ。ブータンでは、朝6時から夕刻6時まで、すべての国民に民族服の着用が義務付けられている。服装には異国情緒を感じるのだが、非常に驚いたことに、行き来する人々の顔つきは100%日本人である。似ているのでなくまったく同じである。さらに驚いたのは、母親たちが皆、赤ん坊を背中におぶっていることである。まさに数十年前の日本の風景である。『日本から遠く離れたヒマラヤの山懐に、日本人と同じ人々が稲作を営みながら暮らしていた』。50年も前なら大発見だろう。

 翌々日の晩、N君とビールを飲みながら「何でブータン人と日本人はこんなに似ているのだろう」と独り言のような質問をしたら、「同じモンゴリアンですから」とさらりとした答えが返ってきた。「モンゴリアン」という学術的な言葉がブータンの青年の口からポロリと漏れたことにも驚いたが、やはりそれだけでは納得できない。ブータン人の3分の2はチベット系の人々と言われ、国語であるゾンカもチベット語系言語である。確かに日本人と同じモンゴリアンではあるのだが。

 メインストリートには思いのほか車が多い。町はずれにはガソリンスタンドもあった。ブータンの道路網はようやく主要都市間を結んでいる程度であるが、急速にモータリゼーションが進んでいるようである。ただし、信号機はブータンの国中で未だ1機もない。道路事情を反映してか、見かける車は軽自動車と四輪駆動車が多い。N君の言を借りると「インド車は安いがbad、日本車は高いがgood」と言うことらしい。「あれがブータンのタクシーです」。N君の指差す先は軽4輪ワゴン車である。料金はメーター制ではなく交渉制だと言う。ただし、価格ネゴと言う慣習のない国ゆえ、料金は行く先によりほぼ決まっているらしい。パロ〜テンプー間は450ニュートラルとのことである。この軽4輪タクシーの数は割合多そうで、旅行中街道筋でもしばしば見かけた。

 メインストリートから気持ちのよい柳並木の道を数百メートル進むと、パロ・チュの辺に出る。ここに、ブータンの伝統的な橋が掛かっており、対岸の高台に建つパロ・ゾルへの入り口となっている。木造の屋根の付いた橋で、両側から徐々に迫出させる工法は、山梨県大月市郊外の猿橋と同じである。ヒマラヤから流れ出すパロ・チュは20メートルほどの清流となって早瀬を作っている。N君によると鱒がいるとのことだが、生類哀れみをもって国是とする仏教国ブータンにおいては捕る人もいないらしい。翌日以降、パロ・チュ、テンプー・チュに沿った旅を続けたが、釣り人の姿を見ることはなかった。ブータンでは蝿や蚊でさえ、公には殺さぬとのことである。川岸には、コスモスが咲き、草むらに分け入れば、センダン草がたくさん生えている。まさに日本と同じ植生である。

 橋の麓に小学校がある。ちょうど昼時で、子供たちが学校から溢れでている。昼食は家に帰って食べるとのことである。子供といえども、皆、ゴとキラの民族服姿である。何ともかわいい。しかも、まったく人見知りしない。Halloと呼びかければ、Halloと元気のよい答えと笑顔が返ってくる。この国の子供たちも皆、澄んだ目を持っている。ブータン政府は教育に熱心であり、また国民の教育程度は高い。N君の話だと、高校進学率は70%あるという。しかも、教育費は小学校から大学まで基本的に無料で、意欲と学力があれば誰でも大学まで行けるという。アジアの中では珍しい教育先進国である。

 街並みに戻って昼食とする。案内されたレストランは、日本でいえば大衆食堂といった趣。狭い室内に5〜6個のテーブルが並んでいるだけであった。以降、夕食も含めいくつかのレストランに入ったが、皆同じようなものであった。そもそも、ブータンでは外食などと言う習慣も需要もないのだろう。バンコクでは道にあふれている屋台など、この国では一つもない。あくまでも自給自足経済が原則なのである。ただし、出てきた料理は大満足であった。たっぷり皿に盛られた数々の料理がテーブル一杯に並んだ。しかもどれもおいしい。ブータン料理は世界一辛いと聞いていた。何しろ唐辛子も調味料でなく野菜として扱われるとのこと。だいぶビビってやってきたのだが、外国人向けにアレンジしてくれたのだろう。

 まずは、パロ・チュ左岸中腹に建つ国立博物館に向かう。かなり急な斜面に点々と家屋が建つ。どの家も二階または三階建ての方形で、実に大きい。屋根の中央には経文の書かれた白い旗がはためいている。もちろん、どの家もブータン様式である。ブータンでは個人の家も公共の建物もブータン様式以外の建築は認められていない。まさに世界でも例を見ない冒険的な規制である。1.5車線ほどの車道だが、いたるところ牛、馬の群れが占領しその度に車はのろのろ運転を強いられる。博物館は古いゾンを利用したもので、考古学的な遺物、宗教的なもの、民俗的なもの、果てはブータン名物の切手まで展示されている。かなりの高所に建つだけに、パロ谷の展望がすばらしい。

 斜面を下り、パロ・ゾンに向かう。ゾンとは17世紀にブータンを初めて統一したンガワン・ナムゲルが建造した軍事的 (城)、行政的 (役所)、宗教的(寺)拠点となる巨大建造物である。ブータンにチベット仏教が広まったのは8世紀頃と云われている。以降、ブータンは宗教的には完全にチベット仏教圏に組み込まれるのだが、政治的軍事的には、各谷々に群雄が割拠していた。17世紀初め、チベット仏教ドゥク派の指導者ンガワン・ナムゲルはその卓越したカリスマ性と政治力でブータンを統一していく。その過程で、国内諸勢力、およびヒマラヤを越えて何度も侵略してきたチベット勢力との戦いの拠点として、このようなゾンを全国の戦略的・政治的拠点に建設したのである。

 パロ・ゾンはこのパロ谷で最大の建物である。建物自体は1907年に火事で喪失して再建されたものである。現在は、もちろん、軍事的機能は除かれているが、行政的、宗教的機能においては300年前と同様の役割を果たしている。いわば、パロ地方の県庁であり、かつ国分寺である。政教一致の国・ブータンならでわの機能である。ゾンの入り口まで来ると、N君は持参の布を片襷に掛ける。カムニである。いわばネクタイのような役割のもので、ブータンの衣装における正装の印である。役所に入るときにはこのカムニの着用が求められている。カムニはその身分によって色が異なる。一般人は白、政府高官や貴族は赤、大臣は黄色である。西岡さんが国王からエンジ色(赤)の布を下賜されたと言うのは、このカムニのことで、貴族の身分を下賜されたということである。

 受付を済ませ建物の内部に入る。5階建てのロの字型の建物で、中庭がある。礼拝堂となる部屋に入る。大きな部屋で前面に祭壇がある。朝夕多くの人がここに集まり祈りをささげるとのことである。このような生きた信仰の場に入るとどうしても落ち着かない。観光気分でじろじろと見るところではない。早々に部屋を出る。周辺には朱色の衣をつけた少年僧の姿が多いが、皆、我々を気にする様子もない。出口で妻がいっしょに写真をとりたいと云ったら快く応じてくれた。

 ブータンの民家に連れて行ってくれるという。パロ・チュ沿いの道を15分ほど遡る。いたるところ牛や馬が道路を占領してのんびりと草を食んでいる。大きく開けた谷間は一面の稲田で両岸の斜面に、大きな民家が点在している。ちょっとした集落で車を降りる。吊橋を渡って、畦道を少し歩くと目指す民家についた。ブータンの民家はどこも大きく立派であるが、パロの民家は特にその傾向が強いと言われる。この民家も立派である。1階は倉庫になっていて、居住空間は2階にある。立派な居間に通される。絨毯が敷き占められ、ソファとテーブルが置かれている。壁にはいろいろな写真が飾られている。お米を炒ったような三種類のスナックとポットに入ったバター茶を出された。バター茶はチベット文化圏に普及しているお茶であるが、塩味が利いてなかなかの味である。米粒のスナックは固くて、私には噛み砕くのが容易ではない。居間の隣は二間続きの立派な仏間になっていた。ブータンでは仏間が一番重要な部屋である。興味があったので、トイレを借りた。様式はタイと同じであったが、その大きさには驚く。三畳は充分にある。ここで水浴びもするのであろう。

 集落に戻ると、たくさんの子供たちが群れ遊んでいた。数十年前の日本にもこんな光景があった。子供たちも皆、ゴとキラの民族服姿である。外国人である我々にもまったく臆せない。何しろ英語は子供たちのほうがうまいのだから。写真をとるぞというと、みんな喜んで集まってきた。

 さらにパロ・チュを遡り、ドゥゲ・ゾンに向かう。谷の中腹をトラバースする道である。学校帰りの子供たちが三々五々と歩いている。集落からの距離を考えると1時間かそれ以上の距離を毎日歩いて通っているのだろう。ブータンはいまだ徒歩の世界である。また、幾組もの隊列を組んで歩いている若者とすれ違う。N君がIndian Armyと説明する。近くにインド軍の駐屯地があるようである。ブータンは軍事的にはインドに頼り、北からの圧力に抗している。

 小1時間走ると小さな集落に出た。車道もここで終わりである。高台に廃墟となったゾンがある。ドゥゲ・ゾンである。妻が苦しくて歩けないと言い出した。ここは既に高度2800メートルほどある。登りついたゾンは荒廃していた。1951年に火事で焼けてしまったとのことである。眼下に大きく開けた谷間が見える。チベットへ通じるルートである。チベットとのメイン商易ルートであり、また歴史上何度もチベット軍はこのルートからブータンへ侵略した。従って、ドゥゲ・ゾンは戦略上きわめて重要な地位にあった。しかし、20世紀半ばに生じた中国によるチベット併合、それに続く中国・インド紛争により、現在国境は閉ざされたままである。集落に戻る。民家の壁にリアルに男根が描かれている。魔よけの意味があるとのことだが、見るほうがなんとなく気恥ずかしい。

 夕暮れの道をパロに戻る。道端で草を食んでいた牛たちも、家路に向かっている。ブータンに来てから不思議に思ったのだが、牛追いの姿をまったく見ないことである。牛は繋がれることもなく昼間は道端で草を食んでいる。そして夕方になると、勝手に三々五々と家路に向かって行く。対岸の絶壁はるか上空に有名なタクツァン僧院が見える。外国人は見学の許されない聖地である。

 今宵の宿のオランタン・ホテルはパロ谷を見下ろす丘の上にあった。パロで一番立派なホテルである。広大な林の中に点在するバンガローの一つに案内された。一見施設は立派である。しかし、しばらくたつとあちこちメッキが剥がれてくる。最初はいきよいよく出たバスのお湯もしばらくたつと水に変わってしまった。また水も茶色く濁っている。部屋のあちこちも汚れが目立つ。その後も同じ印象を強めたが、ブータンではサービスと言う概念がいまだない。立派なホテルを建てては見たが、運営ノウハウはないようである。ホテルに日本人の姿はない。さすがここまで来ると、外国人は欧米人のみである。
 

  第3章 首都・テンプーへ

 ブータンの夜が明けた。空は真っ青に晴れ渡っている。木々の間から、北方はるかかなたに雪をいただく山が見える。ヒマラヤの一峰だろう。今日はブータンの首都テンプーに向かう予定である。パロとテンプーは直線距離なら20数キロだが、谷筋がひとつ違っており、間を4,000メートル級の尾根がさえぎっている。したがって、車で行く場合はテンプー谷との合流点までパロ谷を下り、そこからテンプー谷を遡ることになる。約2時間のドライブである。パロ谷に沿った道をくねくねと下る。この道は空港所在地パロと首都テンプーを結ぶ、ブータンにとってのメインロードである。しかし、道幅はやっと1.5車線、通る車も少ない。ブータンはいまだ自動車社会以前である。谷の斜面に点在する農家の屋根には真っ赤な唐辛子が乾され、独特の雰囲気をかもし出している。対岸にタチョガン・ラカンを見ると谷は次第に狭まる。

 約1時間でテンプー谷との合流点・チュゾムに着いた。この地点はブータン最大の交通の要所である。合流した谷をそのまま下ればインドに至る。このためチェックポイントがある。半鎖国状態を今も続けるブータンでは、禁を犯して入国する外国人を取り締まるため要所要所にチェックポイントが設けられている。規則に従い、車を降りて立派な橋をわたる。インドの援助で作られたインド・ブータン友好橋である。付近には、果物や飲み物を売る露店が並んでいる。また対岸には、チベット、ネパール、ブータン各形式の三つの仏塔が並んでいる。

 しばしの休憩の後、今度はテンプー谷を遡る。インドからのルートとが合流したこともあり、トラックも含め通る車は若干増えるが、それでも道幅は相変わらず1.5車線である。谷の左岸中腹につけられた道をくねくねと進む。谷は次第に開け、これぞブータンだと言う景色となる。開けた谷間は一面黄色く色づいた棚田、そしてその中にブータン様式の民家が点在する。屋根には真っ赤な唐辛子。妻はこっくりこっくり居眠りをしているが、この景色を見ずしてブータンへやってきた価値はない。やがて左手奥に街並みが見えてきた。首都テンプーである。にわかに道は人、車が増える。そんな中でも、相変わらず牛が道端で草を食み、車の通行を阻む。
 

  第4章 首都テンプー

 ついに首都テンプーに入った。ここが秘境ブータンの首都なのだ。盆地とも言える大きく開けた谷間に小さな町が開けている。ただし、世界中に200近い国があるが、こんな首都を持っているのはブータンだけだろう。街並みはあるが、それとて日本でいえば極小さな町程度である。何しろ、信号機は一つもないし、ビルディングも一つもない。建物は全て5階建て以下のブータン様式である。エレベーターは病院に一箇所だけあると聞く。ブータンの面目躍如である。町の中心部の交叉点では、警官が身振り手振りで交通整理をしていた。パロに比べれば車は多いが、それでも手信号で裁ける範囲である。ホテルにチェックインした後、市内見学に出かける。

 まず向かったのは、前国王(第3代国王)・ジグメ・ドルジ・ワンチュクの霊廟メモリアル・チョルテンである。ジグメ・ドルジ・ワンチュクはブータンの今を確立した名君である。中国、インドという南北の大国からの圧力を巧みにかわし、独立国ブータンの地位を確立すると同時に、その独特の国づくりの基礎を築いた。彼は1980年ナイロビで客死している。霊廟は参拝者で賑わっていた。霊廟の周りを最低3度は回らないといけないという。ブータンの流儀に従う。

 N君がすばらしいVi ew Spotがあるので行ってみようという。向かったのは、モチィタンと呼ばれる町の北西にそびえる山である。ジグザグを切ってぐいぐい高度をあげる。辺りは見事な松林である。山頂直下にラジオ用の鉄塔があり、そこまで補修用として道路が開通している。別に展望台になっているわけではないが、谷底に広がるテンプーの小さな町並が一望できる。すぐ上の山頂にダルシン(経文旗)の群れがはためいている。この経文旗を見るとチベット仏教の地に来たのだとの思いが強まる。一人で駆け上ってみたがやはり少し息が切れる。ここは3,000メートル近くあるはずである。

 山腹にあるターキンの放牧場に行く。ターキンはパンダ並の希少動物で、ブータンでしか見られない。樹林地帯の広大な一角を金網で囲い、ターキンが放し飼いにされている。金網に沿ってしばらく進むと、悠然と草を食む数頭のターキンが見つかった。牛ほどの大きさで、牛と羊を合わせたような姿をしている。ただし距離が遠い。N君が足元のある種の草を抜き取り、金網から差し込みながらターキンに大声で呼びかける。しばらくして、ようやく1頭が反応してこちらにやってきた。金網越しではあるが、手渡しでターキンに草を食べさせ、頭も撫でることもできた。大満足である。

 山を下る。眼下に広大なタシチョ・ゾンが見える。国王のオフィスであり、宗教界の最高権威・ジェ・ケンポを頂点とするブータン仏教の総本山でもある。釘を1本も使わないと言う典型的なブータン様式の建物で、実に大きい。その前方に、意外にもゴルフ場が広がっている。聞けば、9ホールあり、ブータン唯一のゴルフ場とのこと。標高2,500メートルのゴルフ場、さぞかしボールが飛ぶことであろう。タシチョ・ゾンは普段見学可能なのだが、今は土曜日の午後、残念ながらクローズされている。妻は郵便局に行きたがっていたが、これもクローズ。ブータンの切手は世界的に有名である。

 ドゥプトプ尼僧院寺に行く。ブータンでは現在外国人観光客の寺院見学は原則的に許されていない。宗教的理由である。ただし、この寺は規制が緩いようである。市街を見下ろす山腹にあり、貧相ともいえる小さな寺であった。数十人の少女たちがこの寺に住み込み修行している。庭先ではかわいらしい尼僧たちが熱心に写経していた。本堂に入ると、本尊の前で一人の少女の尼僧が、チベット仏教独特の五体投地の作法を持って熱心に祈りを繰り返していた。なんとも感動的な姿である。五体投地とは文字通り身体全てを地面に投げ出す礼拝作法である。我々は日本式作法を持って本尊に参拝し、早々に本堂を出る。やはり観光気分で訪れるところではない。

 次に訪れたのはチャンガンカ・ラカンと言う寺院である。やはり市街地の南山腹に位置する大きな寺院で、市街地から眺めてもよく目立つ。案内書には外国人の立入禁止となっていたが、N君はOK、OKといっている。テンプーの守護となる寺院で、特に、子授かりの霊験があらたかだと言う。「君はもう必要ないね」とN君を冷やかしたが、子供の生まれる前はお参りに来たとの話である。マニ車のある外壁を抜けると中庭で、本堂と巨大なマニ車がある。本堂では住職が本尊の前で熱心にお経あげている。入ることを一瞬ためらうが、N君がOKと言うので、本尊の前に座りそっと手を合わす。N君はまず住職に向かって五体投地の礼を三度取り、続いて本尊にも同じ礼をとった。

 何軒かの土産物屋に行く。パロの土産物屋も含め、ブータンの土産物屋は最初大いに戸惑った。何しろ、店に入っていっても、店員は知らん顔、完全に無視される。物を買ってもらうなどという意識はゼロである。私も世界の多くの国を訪問したが、土産物屋はどこも、うるさいほど店員が付きまとう。しばらくしてようやく理解した。ブータンには商売などと言う概念が未だないのだ。つい最近まで、貨幣経済さえなく、物々交換が基本であったと言う。したがって、今でもブータン人の意識では、「店」は「商店」はなく、単にお金とモノを交換する場所。我々は「客」ではなく、交換の相方との認識なのである。値引きと言う概念もまたゼロである。欲しければ、定価どおりの金を払うのがあたりまえである。ただし、逆にまた「ボル」という概念もないらしい。

 最後に、テンプー最大の市場・サブジ・バザールへ行く。川沿いの一角に簡易小屋掛けされた店がごちゃごちゃ集まり、人々が群れている。なんでもかんでも売っている。日用品、食料品、仏具、着物、雑貨――――。魚のすねたような強烈な匂いが鼻を刺激する。ここにも大声で客を呼び込む声はない。ぶらぶらと市場の中を歩く。土産物屋にはないブータン庶民の生活用品が珍しい。ヤクの毛のロープ、独特のチーズ。バター茶の塊を一つ購入する。ただし、うまく茶を入れられるかどうか。

 夕暮れのテンプー・メインストリートをぶらつく。緩やかな坂道に沿って小さな店が軒を並べる。人通りは多い。思いのほかインド人が目に付く。また、店に並ぶ商品もインド製のものが多い。ブータンの通貨はニュルトラムであるが、為替レートはインド・ルビーと1対1に固定されている。このため、ニュルトラムとルビーが入り混じって流通している。いろいろな意味で、ブータンはインドとの関係を深めているようである。妻がキラを買いたいと言う。ブータンの最大の特産物は織物である。このため1枚の布であるキラはブータン土産として最高である。しかし、定価を見るとなかなか踏ん切りがつかず、一晩考えることにしたようである。テンプー唯一の(従ってブータン唯一の)映画館の前は開場を待つ人でごった返していた。ブータン製の映画も上映されると言う。意外なことに、小さな規模だが、スパーマーケットがあった。もちろん、ブータン唯一である。

 ホテルに戻る。N君はどうするのかと聞くと、彼はテンプー生まれでここに実家があると言う。今晩は久しぶりに両親に会えるというわけである。このホテルも案内書によるとテンプー最高級となっている。なるほど施設は立派である。しかし、電気ヒーターのソケットは接続が悪い。前夜のパロのホテルと同様、入れ物は作ったが、魂は入っていない。少々驚いたが、部屋のテレビにNHKの衛星放送が入る。まさかブータンで日本語のテレビが見られるとは思わなかった。この事実は、うれしくもあり、また少々がっかりするものでもあった。
 

  第5章 ヒマラヤの展望台 ドチュ・ラ

 ブータン3日目の朝が明けた。今日も晴天である。ブータンに来たからにはヒマラヤを見ずしては帰れないとの思いが強い。8,000メートル峰の連なるネパール・ヒマラヤと違い、ブータン・ヒマラヤは7,000メートル峰の連なりだが、いまだ秘境中の秘境である。当初のスケジュールには入っていなかったが、昨日N君にビュースポットへ連れて行けと頼んでおいた。団体パック旅行でないので融通が利く。

 代表的なヒマラヤ・ビュースポットであるドチュ・ラに向かう。テンプーとプナカを結ぶルートが越える標高3,150メートルの峠である。「ラ」とはチベット語で峠を意味する。1950年にテンプーが恒久的な首都となるまで、ブータンの首都は、夏はテンプー、冬はプナカであった。従って、テンプーとプナカを結ぶこの道は、ブータン第一級の主要ルートであり、国道1号線である。とは言うものの、山腹をうねる山岳道路。しかも道幅は相変わらず1.5車線。当然ガードレールなどない。前方をプナカに向かうバスがウンウンいいながら走っている。屋根の上は荷物が山のように積まれ、乗客のほとんどはインド人のようである。舗装は一応されているが路面はかなり悪い。所々補修工事をしている。作業者はほとんどインド人である。周りは鬱蒼とした針葉樹林である。時たま耕地が現れるが、もはや稲田はなく、りんご畑が目に付く。高度はぐいぐい上がっていく。

 急斜面に家々が点在する集落が現れた。どうやって日常生活をするのだろうと思えるほどの急斜面である。それでも家々は大きくかつブータン様式である。すぐにホンツォのチェックポイントに達した。ドチュ・ラはブータン西部と中部を結ぶ交通の要衝。したがって、峠手前のこの地点にチェックポイントが設けられている。全ての車はとまり、然るべき手続き(外国人は入国許可書の提示)をしなければならない。小さな売店と、いくつかの露店が並ぶ。手続きの間、売店の中を覗いていたら、欧米人を乗せたマイクロバスが到着した。店先のひもで吊された乾燥チーズ(チュゴ)を珍しそうに眺め、店番の老婆に英語で一生懸命聞いている。残念ながら、老婆の世代はまだ英語が理解できない。代わりに説明してやると、きょとんとした顔で、あなたは何人だと聞いてきた。いくら顔つきが同じでも、ブータン人ではない。

 再び山道を登ると、上部に尾根筋が見えてくる。峠は近い。山角を曲がると、目の前に峠があった。大きなゆったりとした鞍部で、周囲にはダルシン(経文旗)が乱立し、乗越す道の真中に立派なチョルテン(仏塔)が建てられている。いかにもブータンの峠・「ラ」という雰囲気である。しかし、峠に達した瞬間、心は絶望に打ち砕かれた。峠を境に見事なまでに天気が違っている。登ってきた南側は晴天であったにもかかわらず、北側はガスが渦巻き何も見えない。ヒマラヤの眺望は絶望である。せっかくここまでやって来たのに。ヒマラヤを見ずして帰ることになるとは。

 峠から一段上がった高台に展望台と茶店がある。日本の京大マサ・コン(7194メートル)遠征隊が寄付した望遠鏡もある。天気さえよければ、眼前にブータン・ヒマラヤの大展望が広がっているはずなのだが。茶店でお茶を飲みながら、無念の思いを新たにする。茶店はお土産物屋も兼ねている。せめてもの思い出と、何枚かのヒマラヤ展望の絵葉書を購入する。天気さえ良ければ、ブータン・ヒマラヤの最高峰7541メートルのガンカ・プンスムも見えるはずである。展望をあきらめ、付近を散歩する。ダルシンの乱立する峠はいかにもチベット仏教の地。はるけきも来たなぁとの思いが強い。周りは小さなお花畑になっている。踏み込んでみて驚いた。咲き誇る花々は野菊など、みな日本でおなじみのものではないか。周りは樅やツガの林。自然を見る限り日本と区別ができない。

 小1時間の休憩の後、峠を後にする。ほんの数百メートル下ったところで、妻が案内書を茶店に忘れてきたと言う。Uターンして峠に戻る。このとき奇跡が起こった。何と! 北方のガスが晴れ、真っ白なヒマラヤ連峰がくっきりと見えているではないか。ほんの5分前まで、欠片さえも見えなかった山並が。展望台に駆け上る。茶店の中からも欧米の観光客が慌てて飛び出してくる。ただただヒマラヤ連峰に見いる。初めて仰ぐ世界の屋根。知識がないので山々の同定はできない。写真を取り捲り、家に帰ってからゆっくりと山々を同定しよう。いずれも7,000メートルを越えた高嶺であることは確かである。それにしても何たる奇跡。我が一念天に通じたとの思いである。案内書を忘れたために、もはや二度と見ることのできないヒマラヤを見ることができた。ブータンの神に感謝する。
 

  第6章 四千メートルの峠 チェレ・ラ

 一路パロを目指す。テンプーをショートカットし、昨日登って来たテンプー・チュに沿った道をひたすら下る。眼前にはこれぞブータンだと言う風景がどこまでも広がっている。広く開けた谷間。黄色く色づいた稲田。点在する大きな民家とその板屋根に乾された真っ赤な唐辛子。チェックポイントであるチュゾムで一休み。今度はパロ・チュを遡る。午後1時過ぎ、2日ぶりでパロの町に戻った。小さな小さな街並みでは相変わらず犬どもが寝そべっている。遅い昼食の後、N君がうれしい提案を持ってきた。スケジュールを大幅に変更して、これからチェレ・ラに行こうというのである。願ってもない提案である。チェレ・ラはパロと一つ東側の町・パを隔てる峠で、標高3,988メートルもある。ブータン・ヒマラヤの雄峰・チョモラリ(7,314メートル)が見えるはずである。この峠は今回の旅行でぜひ訪れてみたかったのだが、当初のスケジュールにはなかった。

 車はパロ谷東面の山腹を、ジグザグを切りながらぐいぐい高度を上げて行く。上方から見下ろすパロ谷の景色は実に見事である。広々と開けた谷間はなにやら郷愁さえ誘う。登るに従い、樹相は松林から鬱蒼とした樅やツガの原生林にと変わった。何と! 枝からはサルオガセが垂れ下がっているではないか。まさに日本の山とまったく同じ景色である。所々、道路工事をしている。労働者は皆インド人である。山のわずかな平地にスラム街と思しき掘っ立て小屋の群れが現れる。薄汚れた子供たちが飛び回っている。明らかにブータンの景色ではない。N君に聞けば先ほどのインド人労働者の飯場だと言う。家族連れでブータンへ長期の出稼ぎに来るのだろう。

 道はなおもジグザグを切ってぐいぐい高度を上げる。薄まってきた樹林の合間かなた、前山の背後に、真っ白な山が見える。剣岳を大きくしたような兜形の実に格好いい山である。ブータンヒマラヤでいちばん有名なチョモラリである。目は、山に釘付けとなり、心は、峠につくまで山が雲に隠れないかとあせる。次第に森林限界が近づくと、潅木に石楠花が目立つようになる。初夏の開花時はさぞかしすばらしいだろう。チョモラリはますます前山から大きく競りあがってくる。我慢できず、車をとめさせ、その雄姿に見入る。まさにこれぞヒマラヤの高嶺。両端は鋭く切れ落ち、山頂に至るルートがあるとは思えない。

 森林限界を超えた。おそらく標高は3,700〜3,800メートルだろう。もう富士山頂の標高である。上方に草原となった稜線が見える。ついに稜線に達した。チェレ・ラである。標示された標高は3,988メートル。山国ブータンでも国道の越える最も標高の高い峠である。ゆったりとした稜線上の小さな鞍部で、眼前には大きな大きなチョモラリがそそり立っている。ただし、残念なことに、この峠を送電線も越えており、その電線がチョモラリの視界に掛かってしまう。写真を撮る上ではいたって目障りである。峠の手前で、充分に眺めておいてよかった。マイクロバスが1台止まっていたが、入れ違いに下っていった。峠から北に続く稜線上の高みに、ダルシン(経文旗)の群れがはためいている。「荒涼とした稜線にはためくダルシン」。なんともいえない風情を感じる。行ってみることにする。足早に斜面を登るが、別に苦しさは感じない。ここはもう4,000メートルの世界である。妻が、N君に付き添われてゆっくりと私の跡を追ってきたが、途中であきらめて戻っていった。後で聞くと、苦しくて斜面を登れなかったとのこと。

 ダルシンはためく草原に一人座し、ヒマラヤの高嶺を見つづける。これほどの贅沢があるだろうか。生きていてよかったと感じるひと時である。吹き抜ける緩やかな風はさすが冷たいが、4,000メートルの高度を考えれば実に穏やかな天気である。ふと、足元の草原に目を移すと、小さな高山植物があちこちに花を開いている。写真を撮り、名前は帰ってからゆっくり調べよう。日暮れがゆっくりと迫ってくる。明日の早朝ブータンを発つ。このチェレ・ラが今回のブータン旅行の終着地。なんと素晴らしいところへ連れて来てくれたのだろう。N君に感謝しなければならない。
 

  第7章 さらばブータン

 旅行日程は全て終了したのだが、やり残したことが一つあった。妻のキラ購入である。迷いに迷った挙句、やはり買うと言い出している。今朝、その旨N君に相談したところ、任せておけとばかりに、知り合いのところからサンプルを持ってきたのだが、いずれも1枚数十万円のもの。とても手が出ない。何とかもっと安いものをと、夜に閉店間際の店を何軒か回ることになってしまった。安いものはインド産だという。これではブータン記念にならない。何とか妥協できるものを見つけ、やっと最後の仕事が終わった。

 ブータン最後の夜、パロの小さな食堂でN君への感謝を込めて小さな宴を開いた。N君差し入れのブータン名産のマツタケを肴に、インドビールを飲みながらともに語り合った。N君は、現在27歳、一児の父であるという。昨日1歳になる息子の写真を見せてくれた。純朴と言うよりも才気あふれる青年である。大学を卒業して旅行社に就職し、昨年は見込まれて観光事業開発のため、タイにまで出張したというエリートである。ブンカ語、英語、ヒンズー語、ネパール語は完璧であると豪語している。毎朝、ブータンで発行される唯一の新聞を車にまで持ち込んで、熱心に目を通していた。ちなみにこの新聞は、私も見せてもらったが、かなりのページ数のある英字新聞で、写真入で「日本の小泉首相はかく語れり」との記事が載っていた。従って、彼は、外の世界も十分に知る知識人である。ではあるがまた、毎朝夕のお寺でのお祈りを欠かさないという、熱心なチベット仏教徒でもある。であるからこそ、いまだ中世の政治社会体制をとるブータンをどのように見、どのように感じているのか興味があった。

 結婚の話になった。ブータンは何人でも妻を持てる。現に、国王は4人の妃を持っており、ホテルのフロントには国王を真中にした5人の写真が飾られている。逆、すなわち多夫一妻もOKらしい。ただし、ハーレムを作るというのではなく、あっちの谷に1人、こっちの山に1人ということらしい。そもそも結婚と言う意識がない。従って結婚式もない。要するに、相手の家に夜な夜な通ううちに、家族にも認知され、そのうち子供ができてしまうというスタイルである。西部地方は女系、中部地方は男系とのことである。「君は女房1人だけか」とN君を冷やかしたが、この慣習に特別の疑問や恥ずかしさを感じている様子はない。

 いろいろな話をしたが、基本的には現在のブータンの政治社会制度に満足しているらしい。ただ心配しているのは、南の大国・インドからの経済的・政治的圧力。いまの政治社会体制をいつまで維持していけるか。この一点にあるようである。

 最後に妻が、「この国に民主主義はーーーー」と言いかけたとき、N君は途中でさえぎり、「この国に民主主義はありません」と見事なまでに胸を張って言い切った。『どうだ、文句があるか』とばかりに。ブータン人の心意気である。
 

 
 「アジア放浪の旅」目次に戻る     トップページに戻る