志太山地 ビク石と野田沢峠越え

すばらしき峠道も風前の灯火

1995年12月16日

              
 
上大沢集落(825〜830)→仙沢川コース分岐(835)→笹川峠(850〜855)→ビク石山頂(945〜955)→笹川集落(1050)→新舟集落(1105)→野田沢入口(1125)→野田沢集落(1200)→野田沢峠登り口(1230)→野田沢峠(1245〜1310)→飯間谷(1325)→飯間バス停(1400〜1429)

 
 志太山地のビク石に行ってみることにした。ポピュラーなハイキングの山でありそれほど登山意欲が湧くわけでもないが、「静岡の百山」にも選ばれており、登り残しておくわけにもいかない。ビク石は朝比奈川と瀬戸川の分水稜線上の一峰である。本来の名前は石谷山というらしいが、山頂附近に大きな石が累積しているため、いつしかビク石の名が一般的となった。ガイドブックにはビクとは「お茶摘みに使う籠のこと」とあるが、一般的には魚籠のことである。登山ルートは朝比奈川流域と瀬戸川流域から何本かある。ただし、どのルートを採ったところで半日コースであり、この山に登るだけではいかにも不満が残る。地図を眺めていてふと思いついた。野田沢峠越をしてみよう。ビク石から朝比奈川流域の新舟集落に下り、さらに野田沢集落を経て野田沢峠を越え藁科川流域に下る。距離は相当長くなるが、何とか一日で歩けるであろう。今年の2月、安倍郡と志太郡の郡界尾根を縦走したが、この時通過した野田沢峠は何とも魅力的な峠であった。再訪が楽しみである。
 
 藤枝駅発7時46分の上大沢行きのバスに乗る。このバスは平日にのみ1日1本あるだけである。バスが郊外に出ると、いつものように乗客は私一人となった。天気は快晴無風、絶好の登山日よりである。バスは葉梨川に沿って奥へ進む。西方、下大沢などの集落を過ぎ、約30分で葉梨川最奥の集落・上大沢に着いた。駿河の山村はどこも明るく開け、豊かなたたずまいを見せているのだが、珍しくこの上大沢は暗い谷間に沈んだ貧相な集落であった。朝日はまだ谷間に届いておらず寒い。
 
 今日はこの上大沢集落から剣ヶ峰コースを登る予定である。案内書によると、このコ−スはいくつかの小ピークを越えてビク石山頂に達するもので、最も登り甲斐のあるコ−スとある。仙沢川に添った道を5分も進むと、小さな道標があり仙沢川コースと剣ヶ峰コースが分かれる。沢から離れて茶畑の中の山道に入る。杉林を抜けると再び茶畑の急斜面となる。冬だというのに、ノコンギクの紫の花がたくさん咲いている。樹林の中をジグザグを切って登ると、あっさり笹川峠に達した。ビク石から南東に張り出した支尾根を乗っ越し、上大沢集落と朝比奈川流域の笹川集落を結ぶ小さな峠である。杉檜と雑木に包まれ、「文政元年寅年笹川村中」の銘のあるお地蔵さんが安置されている。朝日がようやく木漏れ日となって差し始めている。ここから山頂まで六つのピークを越えて稜線を辿ることになる。
 
 小休止の後、P1の急な登りにかかる。登り切ると右側が伐採地になっていて大展望が開けた。見渡す限り駿河の山々が広がっり、その背後に真っ白な富士山がすっきりとそそり立っている。その右手には愛鷹山も霞んでいる。急ぐことはない。切り株に腰掛、20万図を出して山岳同定である。見渡す限りの山々にはいずれも私の足跡が残っている。重い腰を上げて照葉樹の灌木に覆われた痩せ尾根を辿る。次々に現われる小ピ−クはいずれも急峻であるが、登りの距離は短い。常に右側に視界が開け、大無間山から駿河湾までの展望が得られる。突先山が意外に鋭く天を衝いている。
 
 仙川沢コースが合流し、尾根が広がり傾斜が緩やかになったと思ったら、もう山頂部の一角である。ビク石山頂部は藤枝市が市民の森として整備しており、ベンチやテーブル、立派なトイレや野鳥観察小屋が設置されている。早朝のためか、人の気配はまったくしない。ひと登りで山頂に達した。案内書にある通り巨岩が累積している。低山としては珍しい光景である。山頂は樹林に囲まれていて展望はないが、西側の絶壁の縁に出てみると視界が広がる。瀬戸川を挟んだ目の前に10月に歩いた菩提山から高根山へ至る稜線が続いている。自分の歩いた稜線を眺めるのは楽しいものだ。いつしか空一面に雲が広がり、視界も霞み出している。
 
 下山にかかる。まだ10時前である。山頂をそのまま横切り、ほんの2〜3分下ると小さな鞍部に出る。ここで瀬戸川流域の市之瀬集落に下るルートと朝比奈川流域の新舟集落に下るルートが分かれる。予定通り右の新舟ル−トに踏み込む。このルートは案内書によると八十八石といわれる巨岩奇岩が続く楽しいルートとある。樹林の中のかなりの急坂を下る。樹林が切れて萱との原に出た。目の前に朝比奈川を挟んでこれから越える郡界尾根が続いている。夫婦連れの二組の中年パーティが登ってきた。「もう下りですか」と驚いている。すぐに沢状の急斜面に出る。いよいよ八十八石の始まりである。巨岩が点々と斜面に続いており、一つ一つに名前がつけられている。「腰叩き石、展望石、つた石、鏡石、まわり石、象石、くじら石、こうもり石、見上石、菊石、なだれ石、がま石、らくだ石、座禅石、五色石、めがね石、ほこ石、なめくじ石、のぞき石、眠り石、あんどん石、三ツ石、黒石、赤石、おむすび石、恐竜石、仏石、滝見石、手洗石、表石」。意地になって数えたら30の名前のついた石があった。ただし、どれも無理矢理名前をつけた感じで、それほどの景色とも思えない。
 
 みかん畑、茶畑が現われ細い林道となった。すぐに笹川集落に出る。見慣れた豊かな山村風景である。集落内で人に出会うと丁寧な挨拶が交わされる。駿河の山村は何とも気持ちがよい。集落の下部には登山者用の駐車場が設けられており、数人の老人パーティが登山準備をしていた。広くなった車道を新舟集落目指してどんどん下る。途中不動男女の滝への道を分け、11時5分、新舟集落に達した。朝比奈川沿いの広々と開けた平地に広がる大きな集落である。この辺りは今川氏の有力な家臣であった朝比奈氏の本拠地である。土塀で囲まれた由緒ありげな大きな屋敷も見られる。新舟と書いてニュウフネと読む。元々は「入舟」が語源であり、千年も前に大津波があり、舟が海からこの地まで流れてきたとの言伝えがある。同じような言伝えが、瀬戸川流域の上滝沢集落にもある。いずれの集落も海から10数キロも奥地であり、すさまじい東海大地震の跡が伺い知れる。
 
 ここからバスに乗って帰ってもいいのだが、まだ11時少し過ぎ、予定通り野田沢峠越を敢行することにする。車の往来の激しい県道を南に進む。六社神社、玉露の里を過ぎ、殿集落に入る。この辺りで野田沢集落への道が分かれるはずなのだが、道路標示もなくよくわからない。山中では見ることもなかった二万五千図を出して懸命に読む。見当をつけて、東に向かう舗装道路を進むと、あやまたず野田沢沿いの道となった。もう12時近くで腹も減ったが、舗装道路の道端で昼食にするわけにもいかない。途中西又峠への道を分け、次第に山中に入っていく。車道を30分も歩くと野田沢集落に達した。かなり大きな集落で、野田沢に添った斜面に集落が細長く続いている。ちょうど正午のサイレンが鳴り響いた。集落を過ぎても細まった舗装道路はさらに奥へと続く。どこかで左に野田沢峠道が分かれるはずである。道標は当てにできないので、うまく見つけられるかどうか心配である。
 
 左側に工事中の大きな林道が分かれる。峠道とは違う。さらに野田沢沿いの道を進む。頻繁に二万五千図を見るがどうもわからない。やはりさきほどの林道が峠に続くルートのようだ。5分ほど戻って林道に踏み込む。かなり大掛かりな林道で、削られた山肌が痛々しい。野田沢峠はいったいどうなってしまっているのだろう。心配である。10分ほど林道を登ると工事の先端に出た。削り採った土砂が数十メートルの小山となって行く手を塞いでいる。仕方がないで強引に小山を乗っ越し稜線に這い上がる。見覚えのある野田沢峠に達した。やはりルートは正しかったのだ。立派な地蔵堂の中に鎮座する「文久元酉九月」の銘のある七体のお地蔵様が私を待っていてくれた。1年ぶりの再会である。地蔵堂の前に座って、遅い昼食を食べながら私の心は暗かった。峠からは見えないが、すぐ直下まで林道工事が進んでいるのだ。来年早々にはこの静かな静かな峠も林道で破壊されてしまうのだ。ぶつけようのない怒りが心から込み上げてくる。目の前には何事もないように、朝比奈川を挟んで今朝ほど登ったビク石の山並みが続いている。よく見ると、峠にもすでに測量用の杭が打たれている。
 
 この峠もこれが最後だと思うと名残惜しい。二度と訪れることはないだろうが、私の心の峠として大事にしまっておこう。それにしても、虫が知らせたのだろうか。否、きっとお地蔵様の力添えだったのだろう。破壊される前によくぞこの峠にやってこられた。せめてもの慰めである。後ろ髪引かれる思いで峠から続く小道を藁科川側へと下り始める。すぐに簡易舗装された狭い林道に出る。同じような林道が途中二本合わさる。道標もなく、藁科川側から峠を目指しても、登り着くことは無理のようである。やがて前方が開け、広々とした飯間谷に沿いの立派な車道に出た。後はひたすらこの車道を歩いて、藁科川畔のバス停に至るだけである。いつしか空も再び晴れ渡り、暖かな日差しが谷一杯に満ちている。藁科川の一支流・飯間谷川に沿ったこの谷はすばらしい。大きく開けた平地に田や茶畑が広がり、その中に農家が点在している。どの家も立派で、豊かな駿河の農村を象徴している。途中で嫌なものを見つけてしまった。第二東名道路建設のための仮杭である。この桃源郷のような谷を第二東名道路が通るらしい。10年も経てば、この風景も一変してしまうのだろう。何と残念なことか。
 
 ちょうど2時、ついに藁科川畔の飯間のバス停に着いた。静岡行のバスは2時29分であった。