足尾山塊 備前楯山 

東洋一の銅山を担った山

2013年5月17日

 わたらせ渓谷鉄道間藤駅
備前楯山より社山(左)、男体山(中)、半月山(右)を望む
                            
間藤駅(932〜936)→南橋(955)→古河橋(1004)→本山鉱山神社(1017〜1028)→舟石峠(1119〜1127)→備前楯山山頂(1220〜1232)→舟石峠(1304)→銀山平(1335〜1347)→国道122号線(1450)→原向駅(1506〜1552)

 
 前々から気になっている山・備前楯山へ行ってみることにした。銅産出量東洋一を誇った足尾銅山を担った山である。足尾銅山の鉱脈は全てこの備前楯山の地下に存在した。故に、この山の地下には延べ1,000キロにもおよぶ坑道が開削されているという。

 足尾銅山は1973年(昭和48年)に鉱脈が尽き、操業を停止した。そして、鉱山を担っていた備前楯山もハイキングの山として生まれ変わった。今では栃木百名山にも選ばれ、北西の鞍部・舟石峠から登山道も整備され、わずか40分で山頂に達することができる。そして、この山の頂からの展望は絶佳であるという。何しろ、この山の北には半月山、社山、黒檜岳と続く中禅寺湖南岸稜が位置し、西には袈裟丸山から皇海山と続く足尾山塊主稜線、東には薬師岳、夕日岳、古峰ヶ原と続く禅頂行者道と呼ばれる山々が連なっている。

 明治10年より古河財閥によって本格的に採掘が開始された足尾銅山は、日本の資本主義勃興に大きく貢献したことは疑いない。しかしその一方、採掘に伴う鉱毒が渡良瀬川下流部を広く汚染し、農地に深刻な被害をもたらした。鉱毒に苦しめられた農民たちと、その先頭に立った政治家・田中正造の戦いは日本の反公害闘争の原点と位置づけられている。田中正造はその闘争の最中、1913年(大正2年)9月に死去した。財産は全て反鉱毒闘争に使い果たし、死亡時の全財産は信玄袋一つであったといわれる。その葬儀には数万の農民が押し寄せたという。近代日本最大の政治家の一人であった。

 足尾銅山が閉山された現在、田中正造等の反公害の戦いは、歴史の1ページとなってしまった。しかし、現在でも、足尾や中禅寺湖南岸の山々にはその破壊の凄まじい爪跡が残されている。精練所から排出された亜硫酸ガスにより付近の山々の草木は全て枯渇し、死の世界を作りだした。その世界が今なお目の前に広がっているのである。もちろん、足尾銅山の中心にあった備前楯山も、森林はすぺて破壊され、表土は流出し、岩肌剥き出しの特異な山容を呈している。

 登山ルートにつき少々考えた。ガイドブックで案内されているルートは、舟石峠まで車で行き、そこから登り40分、下り30分の山頂往復である。しかしこれでは余りにも容易である。出した結論は、わたらせ渓谷鉄道の間藤駅から舟石峠まで歩いて山頂往復。帰路は舟石峠から反対側の銀山平に下り、さらに、わたらせ渓谷鉄道の原向駅まで歩くという少々長距離な行程である。このルートなら是非一度乗ってみたかったローカル鉄道・わたらせ渓谷鉄道にも乗れ、また、足尾銅山の主要な集落であった赤倉、本山、小滝などの昔日の栄華の残り香を嗅ぐことができる。

 北鴻巣駅発6時5分の下り列車に乗り、高崎で両毛線に乗れ替える。さらに桐生で8時8分発のわたらせ渓谷鉄道に乗り換える。1両編成のワンマンカーであった。四っ目の駅・大間々までは 通学の高校生を含め、10人ほどの乗客がいたが、以降は私を含めて乗客は二人のみ。列車は渡良瀬渓谷に沿ってのんびりと奥へ進んでいく。

 水沼駅は駅舎に立派な温泉場が付属していてびっくり。時間さえあれば帰りに一風呂浴びたいものだ。神戸駅を出ると、「まもなく列車は草木トンネルに入ります。全長約5キロ、わたらせ渓谷鉄道で一番長いトンネルです」との車内アナンスがあり、長い長いトンネルに入る。通過するのに約10分も掛かった。トンネルを抜けると、渡良瀬渓谷が車窓の右手から左手に移る。「ここからが渓谷美の一番美しい場所です」との車内アナウスに、左側窓際の座席に移動し、車窓を眺め続ける。深く刻まれた渓谷の両岸には、薄紫の藤の花が途切れることなく架かり、谷底には真っ白な巨岩が累々と折り重なっている。美しい渓谷美がどこまでも続く。

 9時36分、1両編成の小さな列車は終点の無人駅・間藤に到着した。1時間24分間のなんとも気持ちのよいローカル列車の旅であった。支度を整え、駅前を通る街道を北へ歩きだす。廃線となった足尾本山駅に通じる線路を渡ると、すぐに「間藤水力発電所跡」との標示があり、直径1メートルの鉄管の一部が展示されている。説明板によると、鉱山の動力源として明治23年(1890)に建設された日本で最初の水力発電所跡とのことである。日本最初の水力発電所がこの地にあったことを初めて知った。

 更に国道を北上し、上間藤の街並みに入る。設置された説明板によると、足尾銅山の最盛期、すなわち、明治時代後期から大正時代に掛けて、ここ上間藤は足尾随一の賑わいの街であったという。ちなみに、銅山最盛期であった大正5年、足尾町の人口は38,428人で、栃木県においては宇都宮市に次ぐ規模を誇っていた。上間藤集落を貫く現在の道筋は往時のままである。真っ直ぐ続く街道を見通すと歯抜けのような家並みが続いている。「栄枯盛衰世の習い」の観が強い。そしてその街並みの背後には、草木も生えぬ茶色の山肌の山々が連なっている。

 立派な道標が、左側を沿うている渡良瀬川を渡る橋を「銀山平へ」と示している。私の向うべき方向だ。「南橋」と標示された橋を渡った対岸が南橋地区である。設置されている説明板によると、往時、「福長屋」と呼ばれる大規模な足尾銅山社宅があったとのことである。橋を渡り終えたところで、これまた立派な道標が上流に向う道を「銀山平へ」と標示している。道標の指示に従い進むと、道にロープが張られ「通行止め」の標示。一体どうなっているのだろう。

 付近に人影もなく、聞くにも聞けない。私と同じく道標につられて迷い込んできたと思われるおばさんが「どうしたらいいんでしょう」と途方に暮れている。持参の案内書を確認すると、銀山平へのルートは「南橋」ではなく、一つ上流の「古河橋」で渡良瀬川を渡ることになっている。南橋を渡り返し、もとの街道に戻る。

 街道を北上すると、すぐに赤倉地区に入った。説明板があり、明治40年には140軒の店が軒を連ね一般住宅も80軒あった由。足尾一の賑わいの街並みであったと記されている。集落の中心は数筋の道が集まった広場となっていて、そこから渡良瀬川に架かる「古河橋」への道が分かれている。古河橋を渡る。説明板があり、この橋は明治23年に架橋された道路用鉄橋で、足尾銅山の誇れる産業遺産であると記されている。老朽化の為か、当該橋は通行止めの処置がとられており、平行して架けられている新古河橋を渡るようになっている。

 橋を渡ったところが本山地区、往時の足尾銅山の中核となった地域である。出川左岸に沿った登り坂となった立派な舗装道路を辿る。ただし、通る車は皆無である。道の両側には、半ば廃虚となった往時の鉱山施設が点々と続く。精錬所跡、発電所跡、ーーーー。石垣のみ残るは坑夫長屋の跡なのだろうか。

 しばし、感慨にふけりながら坂道をたどると、本山鉱山神社参道入り口に達した。明治22年に建立された足尾地区最古の山神社である。廃虚のごとくそそり立つ石の鳥居を潜り、参道と思われる草深い小道を進む。完全に潰れた建物があり、その先で踏跡は絶えた。どこかに神殿があるはずと辺りを見渡すが、何も見当たらない。もはや神社はないのだろうか。左手に小さな岩場があったので登ってみると、正面にこれから登る備前楯山が大きな岩峰となって聳えたっていた。

 この本山鉱山神社参道入り口付近は今では人家は一軒もないが、手持ちの昭和46年12月発行の二万五千図「足尾」を眺めると、多くの人家記号で満ちている。この地こそ足尾銅山の中心部で北部地域最大の集落が形成されていた。ちなみに、昭和38年には290世帯、1167人が住んでいた。しかし、昭和48年8月には無人となったとのことである。そして、出川を挟んだその向い側には採鉱地記号が記されている。この記号こそ足尾銅山のメイン坑道・本山坑の入り口を現している。

 出川沿いの舗装道路を舟石峠を目指してひたすら歩く。古河橋を渡って以来、1台の車も1人の人影も見ていない。道脇には半ば廃虚となった工場と石垣のみ残された住居跡が見られる。天気は上々、降り注ぐ日差しはもはや初夏である。傾斜はそれほどきつくはないが、どこまでも続く登り坂は精神的苦痛を伴う。おまけに朝から何も食べていない。いい加減くたびれてきた。前方から猿が二匹道路を歩いてくる。互いに相手を意識し、道路幅一杯に左右に離れてすれ違う。道路の傾斜が次第に増し、ヘアピンカーブを繰り返すようになる。もはや道路脇には住居跡の石垣も見られない。道はどこまでも上方に向って続いている。

 11時19分、ようやく舟石峠に到着した。道脇に大きな広場があり、舟石峠駐車場と標示されている。5台の車が停まっており、うち1台はタクシーである。タクシーでここまで乗りつけ、待たせておいて山頂往復という大名登山をしているものがいるようだ。待たされている運転手が所在なげにうろうろしている。ひょっとしたら今日は山中誰とも会わないのではと思っていたが、平日にもかかわらず、足尾の奥の山までやってくる物好きが数パーティいるということである。広場の片隅には簡易トイレもある。

 設置されたベンチに座り込んで昼食のパンを頬張る。峠までは何とか頑張ろうと、途中休まず歩き続けたが、いささか疲れた。広場の片隅に、峠名の由来となった舟の形をした石があり、説明板が添えられている。それによると、この地は大正7年には47戸の人家があったが、昭和29年には無人になったと記されている。

 いよいよここから登山である。道標に従い、広場の奧より登山道に取りつく。すぐに下ってきた老夫婦とすれ違う。登山道は実に確りしており不安はない。たいした急登でもないのだが、登りが苦しく時々立ち止まる。今日は舟石峠までに足を使い果たしてしまったらしい。周りは潅木の林で、一昔前に比べれば、自然がずいぶん回復しているのが見て取れる。レンガ色のヤマツツジや紫色のミツバツツジがあちこちに見られ、目を楽しませてくれる。中年の単独行者、続いて50年配の夫婦とすれ違う。幾分傾斜も増し、所々露石もある尾根道を登っていく。また上方で人声がして男女4人パーティが下ってきた。駐車場の車の数からして、もう一組が上にいるはずである。

 12時20分、ついに山頂に飛びだした。と同時に、今まで閉ざされていた視界が一気に開けた。見よ! 日光、足尾の山々が折り重なって眼前に連なっているではないか。しばしの間立ちつくす。先ず目に飛び込んできたのは男体山である。我が家の近くからもよく見えるこの山は一目で同定できる。その前面に連なるのは黒檜岳、社山、半月山などの中禅寺湖南岸の山々だ。あの三角形の山が社山だろう。大きく目を左に振ればギザギザの小ピークを連ねる袈裟丸山が確認できる。日本百名山・皇海山も見えているはずだが一目では同定できない。今度は目を大きく右に振れば茶ノ木平、夕日岳、古峰ヶ原と続く禅頂行者道の山々が連なっている。さぁ、地図に照らして山々の同定を試みようか。いや、これほどの山々をとても同定しきれない。写真を撮って、家に帰ってからゆっくり同定しよう。幸い、山頂には展望図が設置されていた。

 山頂は潅木に囲まれた狭い岩場で、前面は絶壁となって落ち込んでいる。予想通り、男女3人の感じのよい中年パーティがのんびりと休んでいた。私が間藤駅から歩いて来て、さらに原向駅まで歩くつもりだと言うと多いに驚き、自分たちの車に乗って行けと親切に勧めてくれた。親切を丁寧に断り、彼らを残して下山に掛かる。下りは、くたびれた身体とはいえ、早い。あっという間に舟石峠に下り着いた。

 峠で休むこともなく、そのまま銀山平に向け舗装道路を下る。何やら今頃になって調子が出てきたようで、足取りは快調である。相変わらず通る車は皆無で、人影もない。舟石峠からわずか30分で銀山平に到着した。ここは、庚申山や皇海山の登山基地になる場所である。私も今から34年前の1979年、皇海山に登るためこの地まで車でやってきたことがある。国民宿舎かじか荘があり、600円で温泉に入れるのだが、その時間的余裕はなさそうである。

 最後の行程に出発する。わたらせ鉄道の原向駅まで6キロ強、庚申川に沿った車道歩きである。しばらく下ると小滝地区に入る。足尾銅山のもう一つの中核となった地域である。主要坑道である小滝抗の抗口があった場所であり、精練所や坑夫長屋が建ち並び、小学校も開校されていた。大正年間には人口1万人を越えていたといわれる。この山中の鉱都も昭和29年の小滝抗の廃止により消滅した。

 雑木林の中にその痕跡をわずかに留める住宅跡や施設の跡を眺めながら歩き続ける。立派な舗装道路だが通る車もない。またもや猿が二匹道路に現れた。私の姿を見て、ゆっくりと道路脇の薮の中に消えていった。足尾発電所庚申川ダムを過ぎ、なお休むことなく歩き続けると、ついに、国道122号線に到達した。原向駅まではもう一足長である。

 到達した原向駅は自販機一つない小さな無人駅。それでも待合室も含めきれいに掃除されていて実に気持ちがよい。長い待ち時間となったが、乗り込んだのは私一人であった。

登りついた頂  
   備前楯山  1272.8 メートル  
    

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