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今月末をもってタイ駐在を終えることになった。タイでの最後の思い出に妻とバンコクの北700キロに位置するチェンマイに行ってみることにした。この町を知らずしてタイを去るわけには行かない。
チェンマイはタイ北部に位置する人口 20万人ほどのタイ第二の都市である。そして、19世紀まで続いたランナー王国の古都である。人口約600万人を擁する首都バンコクが、熱気と喧騒と猥雑さの中から凄まじいエネルギーを噴出する都市なら、北の薔薇と称されるチェンマイは、温暖な気候と相まって歴史と文化の香り濃い美しい都市である。タイの中心部、すなわちバンコク平原に住む人々にとって、チェンマイは特別なイメージの湧く都市であるらしい。ほのかな異国情緒、優雅さ、文化の香り。そしてまた、美人の産地としても名高い。話は飛ぶが、バンコクの飲み屋で女の子を口説くとき、「君はプーイン・スワイ(美人)だね。チャンマイ出身かい」などとお世辞を言う。ただし、多くの女性はタイでもっとも貧しいイサーン地方 (タイの東北部 )出身であるのだが。 現在のタイ王国は歴史の異なる二つの「国」が合わさって出来た国家である。一つはバンコク平原を中心に、スコータイ王朝、アユタヤ王朝、トンブリ王朝、そして現在のチャクリ王朝と続く流れである。もう一つは、タイ北部に13世紀から19世紀まで続いたランナー王国の流れである。19世紀末、チャクリ王朝ラマ5世の時代に二つの王朝が併合されて現在のタイ王国が生まれた。従って、チェンマイを中心とするタイ北部地方ではバンコク平原とは異なる文化が育まれてきた。言葉さえも少し違う。もちろん、同じタイ民族で、どちらも敬虔な上座部仏教徒であることに変わりはない。 旅行社でエアチケットとホテルのみを予約した。チェンマイはパック旅行で行くようなところではない。英語と片言のタイ語で何とかなるだろう。バンコク8時15分発のTG102便はほぼ満員の乗客を載せて一路北へ向かう。欧米人の姿が多い。わずか1時間10分の飛行でチェンマイ国際空港着。南国の日差しではあるが、肌に当たる空気は心地よく、熱気を感じるバンコクとは明らかに異なる。チェンマイの標高は約300メートル。周囲には山々が見られ、大平原のただ中であるバンコクとは雰囲気も多いに異なる。 空港ビルを出たが、タクシーもバスも見当たらない。さてホテルまでどうやって行ったらよいのか。案内書には、「チェンマイにはタクシーはなく、市内まではリムジンで行く。100バーツ」とあった。バンコク市内に溢れかえっているタクシーが、タイ第二の都市にないとは信じられず、半信半疑でやって来たが事実のようである。一瞬戸惑っていたら男が寄ってきて「市内まで100バーツでどうか」という。白タクである。リーゾナブルの料金と考え、乗り込む。20分ほどで、ホテル・チェンマイプラザに着いた。予約時に確認した通り、なかなか立派なホテルである。しかし、このホテル、実は過去に経験のないほどの最悪のホテルであったのだが。このときはまた知る由もない。時刻はまだ10時ちょっと過ぎ、チェックインが無理なら荷物だけ預けるつもりであったが、すぐに部屋に案内された。 市内見物に出発する。ホテルを出たものの、さて交通手段はどうするか。ツクツクかソンテウを利用せざるを得ないようだが、ソンテウなど乗ったこともなく、勝手もわからない。ホテル前にたむろしていたツクツクが寄ってきて「旧市街まで80バーツ」と吹っかけてきた。60バーツに値切る(これでも高い気がするが)。風を切るツクツクから眺めるチェンマイの街並みは、バンコクを二回りほど田舎にしたという印象で、それほどの変化は感じない。道路には車が溢れ、「やはりタイ」との感が強い。先ずは旧市街のワット・チェンマンに向かう。チェンマイは城壁都市であった。 元々の都市は濠と城壁に囲まれた一辺1.8キロメートルの正方形で、現在旧市街と呼ばれている。 ワット・チェンマンはランナー王国建国の祖・メンラーイ王が1296年に建てた寺で、かつては宮殿でもあったという。門をくぐって正面の本堂と思われる建物に入る。がらんとした堂内正面に金色に輝くブッダの座像が安置され、一人の白人男性が座禅を組んで瞑想にふけっていた。建物の裏手に回ると基部を象に囲まれた金色に輝く仏塔がある。15世紀のものだという。静かな境内でランナー王国の歴史に思いを馳せていたら、バスがやって来て、ガイドに案内された日本人団体客がぞろぞろと降り立った。どうして、日本人は団体旅行きりできないんだ。まったく興ざめである。 寺を出ようとして、小さな英文の看板に気がついた。境内右奥の建物を示して「見落とさないように」と注意書きされている。慌てて入ってみると、この建物が本堂であった。案内書には、この寺のセールスポイントとして二体の仏像を挙げている。先ほど本堂と思い詣でた建物にはこの仏像が見当たらず、変だとは思っていたのだが。あわや見落とすところであった。本堂最奥の鉄格子に囲まれた逗子の中に目指す仏様は鎮座していた。一体は大理石で作られた高さ30センチほどのブッダの立像である。8世紀ごろインドかスリランカで作られたらしい。もう一体はわずか10センチほどの水晶に彫られた座像である。メンラーイ王が戦利品としてランプーンの寺より持ってきたと伝えられている。 徒歩でぶらぶらと西に向かう。目指すはワット・プラシンである。狭い城内であり、方向感覚に狂いはないのだが、何せ持っている地図が案内書に載っている小さな図で頼りない。ホテルにもっとましな地図ぐらい置いてあるかと思ったのだが、見当たらなかった。旧市街は車も少なく、歩道も確りあり、かつ屋台もないので歩きやすい。 右奥にカルチャーセンターとの標示のある大きな建物があり、その前に3人の武将の並ぶ彫像が見える。像の前では何やら仏事が行われている。瞬間ピンときた。案内書には何も記されていないが「三王盟約の像」に違いない。タイの歴史の有名な一場面を現したものである。13世紀、建国まもないランナー王国はいきなり世界史の激流の中に投げ込まれる。大帝国モンゴルが南下を開始し、隣国ビルマを飲み込み、その大軍がタイに迫っていたのである。メンラーイ王の行動は素早かった。同じく建国間近いタイ中部のスコータイ王朝のラムカムヘーン大王、及び1096年建国のパヤオ王国のガムムアン王に呼びかけ三国同盟を結ぶのである。そして、三国は力を合わせ、ついにモンゴル軍のタイ侵略を防ぎきる。いまもタイの人々の心に深く刻まれた歴史的出来事である。メンラーイ王はその後、都を北方のチェンライから移し、このチェンマイの都を建設する。チェンマイとはタイ語て「新しい都」を意味する。同じタイ族の国家である三王の信頼関係はその後も堅く維持され、この新都の建設にはラムカムヘーン大王、ガムムアン王が全面協力したと伝えられている。 直射日光はさすがに暑いが、日陰に入るとひんやりする。点在するいくつかの寺を覗きながらのんびりと歩く。たどり着いたワット・プラシンは大きな寺であった。案内書によると、1345年に建設されたチェンマイでもっとも格式のある寺院とのことである。ちょうど正午、お祈りの時間と見えて、黄色い衣を付けた僧が続々と列をなして本堂に集合している。おかげで本堂には入れず入り口から覗いただけであったが、本堂に詰めた僧の数はざっと数えて600人。外にはまだ多くの僧が溢れている。なんという数だろう。さすが仏教国タイである。 門前の小さなレストランに入る。チェンマイに来て気がついたのだが、バンコクよりもよほど英語が通じる。このレストランの女店員もタイなまりのないきれいな英語をしゃべる。食後、ワット・チェディ・ルアンに向かう。途中、木造の本堂を持つなんとも風情のある寺を見つけた。Wat Phantaoとの標示がある。もちろん、案内書にも記載さけていない寺である。チェンマイには実に300を越す寺があるという。この旧市街を歩いていても次から次へと寺が現れる。 Wat Phantaoの隣が目指すワット・チェディ・ルアンであった。広大な境内に多くの建物が点在している。しかし、この寺を特徴づけているのは何と言っても、境内奥にそそり立つ巨大な仏塔である。この仏塔が寺の名前ともなっている。すなわち チェディ(仏塔) ルアン(大きい)である。その巨大さには思わず圧倒される。しかも、現在の高さは42メートルだが、1411年に建設された当時はこの倍以上の90メートルの高さがあったという。しかし、1545年の地震と1775年のタクシン王朝軍の砲撃により破壊され、現在の仏塔はユネスコと日本の協力により修復されたものである。仏塔の台座には大きな象が彫り込まれている。この仏塔が今回のチェンマイの旅で最も印象に残る建造物であった。 この寺はまた、タイで最も貴重な仏像と言われるエメラルド仏が1468年から84年間も安置されていた寺として知られている。エメラルド仏は現チャクリ王朝の本尊仏であり、国家の守護仏である。現在はバンコクのワット・プラケオに祀られている。このエメラルド仏は歴史上各地を転々とする奇数な運命を辿ってきた。1434年、チェンライにおいて漆喰の中から発見されて以来、ランパーン →チェンマイ →ルアンプラパン(ラオス) →ビエンチャン(ラオス) →トンブリと移り、1784年にようやくワット・プラケオにたどり着く。 大きな本堂内も人影は薄かった。金色に輝く仏像の前で、ここでも一人の白人の女性が微動だにせず瞑想にふけっている。同じ姿をいくつかの寺で目撃する。いずれもラフな格好の白人の若者である。この国の仏教寺院には、人を惹きつける宗教的雰囲気と威厳がいまだ色濃く残されている。観光気分でやって来るところではない。チェンマイの寺はどこも拝観料など取らず、誰でもフリーパスである。 これで旧市街の主要な三つの寺を訪問し終わった。道を南に向かうとチェンマイ門に達した。堀と城壁に囲まれた旧市街には五つの城門がある。北にチャンプアク門、東にターベー門、西にスワントーク門、そして南にチェンマイ門とスワンプルン門である。城壁のほとんどは失われてしまったが、五つの城門は現在も整備されて健在である。 さてこれから、郊外のお寺を回るつもりであるが、歩いて行ける距離ではない。いよいよチェンマイにおける最も普遍的な交通手段・ソンテウを利用せざるを得ない。ソンテウとは小型のピックアップトラックの荷台を改造したトラックバスである。赤色のこのソンテウが市内の至る所を走り回っている。利用方法は、案内書によると、「手を上げて止めて、運転手に行き先を告げ、OKなら料金交渉の上乗り込む」と言うことらしい。料金は市内及びその近郊なら10〜20バーツとある。バンコクはタクシーとバスが普及しているので、私もいまだソンテウは利用したことはない。流しのソンテウを止めるのはちょっと度胸がいるので、まずは道端に止まっているソンテウと交渉。目指すワット・スワンドークまで一人20バーツで行くという。やれやれである。このぐらいの交渉はタイ語でも何とかできる。ホロの付いた荷台の客席には2列のベンチシートが設置されている。乗り心地はそれほどよいものではない。交通量の多い通りを一路に西に向かう。途中で二人の女学生が乗り込んできた。 やがて、ソンテウは止まり、運転手がここだよと合図する。ワット・スワンドークは広大な寺域を持つ寺であった。ただし、人影はなく、その大きさを持て余している。本堂も大きい。誰もいないと思ったが、ここでも白人の若者が一人、柱の陰で瞑想していた。この寺と先に訪問した旧市街三つの寺を合わせ、チェンマイ4寺と呼ばれている。創建は1371年で、スコータイの高僧を招いた際に持ち込まれた仏舎利を祀るために建てられた。境内にはランナー王国歴代の王の墓が並んでいる。墓域はよく整備されており、漆喰で白く固められた仏塔が南国の太陽にまぶしく輝いている。王国の栄枯盛衰が偲ばれる。 境内に停まっていたソンテウと交渉して、市の北西に位置するワット・ヂェット・ヨートに向かう。やはり一人20バーツだという。到着したワット・ヂェット・ヨートは今まで訪問した寺とは異なり、むしろ遺跡と呼ぶほうがふさわしいたたずまいであった。しかも、案内書に芝生が美しいとある境内は全面的に整備工事中であった。乾期のこの時期は工事の時期でもあるのだろう。そういえば、ワット・スワンドークの仏塔も工事中であった。この寺は1455年ティロカラート王により建立されたものだが、1477年に「第8回世界仏教会議」が開かれた寺として有名である。まさにランナー王国の黄金時代を象徴する寺である。この会議は東南アジア各国の上座部仏教の僧が集まり、仏典の統一的解釈を話し合う会議であった。しかし、チェンマイで開かれた第8回会議が最後となった。この寺のセールスポイントはその寺名、ヂェット(七) ヨート(尖塔) の通り、七つの尖塔がそそり立つ仏堂である。またその仏堂の剥がれかけた漆喰の壁に刻まれた数々のブッダの彫刻が素晴らしい。時を経て、顔や手足の欠けたものが多いが、ランナー王国華やかりし頃が偲ばれる。 今日最後の訪問地、ワット・クー・タオに向かう。市の北方に位置する寺院である。大通りに出て、やって来たソンテウを掴まえる。すでに先客が乗っていたが、運転手のOKを得て、荷台の客席に乗り込む。助手席には僧侶が乗っていた。先客のために少々遠回りとなったが、無事目的地まで運んでくれた。一人20バーツを差し出すと黙って受け取った。この金額が相場のようである。 ワット・クー・タオは1613年、ビルマの王プレーンノーンの墓として建立されたビルマ式の寺院である。従って、これまで見てきた五つの寺院が、ランナー王国栄華の跡とするなら、この寺院は北部タイ苦難の歴史の跡である。15世紀に栄華の絶頂を極めたランナー王国も、16世紀に入ると、隣国ビルマとの絶え間ない戦い、タイ中部の強国・アユタヤ王朝の圧迫等により、その勢いは急速に衰える。そしてついに、1558年、ビルマ軍の攻撃により首都チェンマイは陥落する。以降200年、チェンマイを中心とする北タイはビルマの支配を受けるのである。 ワット・クー・タオで先ず目を引くのは、ヒョウタン型の五層の塔である。なんとも変わった形である。5層というのは日本の五重の塔と何か関係があるのだろうか。大きな本堂は新築中であった。境内には鶏が放し飼いにされ、妻が怖がって逃げ回っている。背の高い闘鷄にも使われるのニワトリで、空を飛んで木に登るほど気が荒い。庭の隅に十二支の一覧表が掲示されていた。それを眺めていた妻がうれしそうな声を上げた。十一支までは日本と同じであるが、最後のイノシシが象に変わっている。さすがタイである。妻はイノシシ、いや象歳である。 夕暮れが迫ってきた。ホテルへ戻ることにする。大通りまで出て、ソンテウをつかまえる。少々遠いので、ホテルまで行ってくれるか不安であったが、やって来たソンテウはしばらく考えたうえ、乗れと言ってくれた。次から次へ、乗客が乗り、そして降りていく。面白いことに、僧侶は当然のごとく、客席には乗らず助手席に乗り込む。タイにおいては僧侶は女性と席を同じくすることが許されていないためだろう。見ていたら、乗客は10バーツか15バーツを払っている。これまで払ってきた20バーツは高かったのだろうか。少々不安になったが、後で知るのだが、外国人はやはり20バーツが相場であるという。乗客の行き先に従い、あっちこっち遠回りしながらも無事ホテルまで届けてくれた。長距離を乗ったので20バーツでよいのか少々不安であったが、運転手は笑顔で受け取った。 部屋でひと休みの後、夕食がてらナイトバザールへ行くこととする。疲れも見せず妻が張り切っている。何せ、「旅行の楽しみは食事と買い物である」と公言しているのだから。チェンマイの郷土料理が食べたいと、あれこれメニューを言っているが、そのくせレストランなどまるで調べていない。「街に行けばどこかあるわよ」といい加減である。言に従い、ナイトバザールの始まっている街に出てみたのだが、適当なレストランなどまったく見つからない。結局、ホテルに戻り、ホテル内のレストランでバイキングスタイルの食事をとる羽目となってしまった。 改めて、ナイトバザール見学に街に出る。Changklan 通りの両側には露店がびっしり並び、またそれを眺める人々で通りは大にぎわいである。人込みを掻き分けつつ、ぶらりぶらりと露店を覗くが、別に関心を引くようなものもない。妻は私と一緒では品定めする暇もないとぶつぶつ文句を言っている。改めて気がついたが、ナイトバザールをぶらついている外国人の大多数、90%以上はは欧米人である。バンコクでは目立つ日本人などまったく見当たらない。 ホテルに戻る。ここから大変なことになった。先ずは、風呂の排水が詰まっていて流れない。明日文句を言って直させることにして布団に入る。しかし、夜間照明がない。風呂場の電気をつけて戸を開けておくことで妥協する。さらに最悪なことに、隣室の話し声が耳元にがんがん聞こえてくる。どうやら仕切りはベニヤ板一枚の様子である。隣は日本人で女を連れ込んでいる。別に大声で騒いでいるわけではないが、声どころか話の内容まで聞き取れる。こんなホテルはかつて経験がない。案内書に高級ホテルとして載っており、しかもそのデラックスルームである。妻は、ちり紙で耳栓を作り出した。夜中の2時になっても隣室の話し声は止まない。フロントに「隣室がうるさくて寝られない」と電話をかけてみたが、「分かった」とのあいまいな返事があっただけであった。チェンマイ プラザホテル このホテルだけは二度と泊まるまい。
昨日、市内及びその周辺の見学を済ませてしまったので、今日は遠出をすることにする。先ずは、チェンマイ最大の観光スポットと言われるワット・プラタート・ドイ・ステープである。市街地の西約16キロのステープ山山頂付近に建つ寺院である。案内書を見ると、さらにその先10数キロ奥にモン族の村があり見学できるとある。どうせならここまで行ってみたい。ちょうど半日の行程である。さて、問題は足である。案内書にはソンテウをチャーターするのがベストとある。ちょっとややこしい交渉をしなければならないかなと思いながら玄関を出ると、たむろしていた白タクの運ちゃんから声が掛かった。ワット・プラタート・ドイ・ステープまでなら600バーツ、モン族の村までなら800バーツだという。昨日空港から乗った白タクも半日チャーターで700バーツと言っていた。まぁこんなものだろう。利用することにする。 車は一路西に向かう。さすがソンテウに比べ乗用車は乗り心地がよい。大きな病院を過ぎ、チェンマイ大学を過ぎ、動物園を過ぎると、いよいよ山道となった。ヘアピンカーブを切りながらグイグイ高度を上げる。霞のかかったチェンマイの街並みがどんどん小さくなる。道は確り舗装されており、通る車も少ない。やがて大きな駐車場と土産物屋のにぎわいが現れる。ワット・プラタート・ドイ・ステープの参道入口である。ただし、我々はそのまま通過して、さらに山を登り続ける。ここから道は細まり、悪化する。やがて、稜線を乗越し、少し下ると、モン族の村・メオ・トライバル・ビレッジに着いた。 タイの北部山岳地帯には20余の少数民族が暮らしている。中国雲南省、ラオス、ミャンマー、タイが国境を接するこの山岳地帯は、20世紀も後半に至るまで実質上国境はなく、ゴールデントライアングルとも称された国家権力の及ばない地域であった。古代より、中国江南の地に住んでいたいくつもの民族が、漢民族の圧力に堪えかね、この山岳地帯へと逃れてきた。現在、タイ、ラオスという二つの国家を持つに至ったタイ族もそんな民族の一つである。しかしタイ族は、幸運にも、この山岳地帯を越え、バンコク平原という豊饒の里にたどり着くことができた。しかしながら、さらに遅れてこの山岳地帯までやって来た民族は、南のタイ族に行く手を阻まれ、この山岳地帯を抜け出すことができなかった。 タイに住むモン族は現在10万人程度と言われているが、この民族の主要居住地域は今なお中国西南部の雲貴高原である。中国ではミャオ(苗)族と呼ばれ、その数は700万余と言われている。ミャオ族は独立自尊の気風が強いことで知られ、古代より、漢民族の度重なる圧迫とそれに対する抵抗を繰り返してきた。近世においても清朝に対し数次にわたる大規模な反乱を起こした。これらの反乱はいずれも失敗に帰し、多数のミャオ族が弾圧を恐れてインドシナ半島北部の山岳地帯まで南下することになった。 タイのモン族もこの流れの中でやってきた人々で、タイにはラオス経由で19世紀半ば以降に移住してきた。本来焼き畑農業で生計を立ているのだが、ゴールデントライアングルにケシの栽培を持ち込んだのはこの民族である。タイでは一般にメオ族と呼ばれるが、この呼称は差別用語であり、彼らが自称する「モン」呼ぶべきだとされている。 車から降り、集落の中を歩く。このモン族集落はチェンマイに最も近い少数民族の村であり、予想通り、すっかり観光地化している。急な山の斜面に掘っ立て小屋に近い粗末な家屋が並ぶが、表通りはお土産物屋のオンパレードである。独特の文様の民族服や、彼らが最も得意とする色鮮やかな刺繍物などが並んでいる。この集落に100世帯、約800人が暮らしているという。店先では若い女性達が刺繍に余念がない。暮らしは楽ではないだろう。昨夜のナイトバザールでは民族服を身にまとい、お土産を売り歩く多くのモン族女性を見掛けている。 山道を戻り、ワット・プラタート・ドイ・ステープに向かう。標高1676メートルのドイ・ステープ(ドイとは山の意)の1080メートル付近に建つこの寺は北部タイ最大の聖地と崇められている。1383年クーナ王により建立された寺で、仏舎利を納めた高さ24メートルの黄金の仏塔は晴れた日にはチェンマイ市内からも眺められるという。わたしも昨夜、ホテルの窓からライトアップされ中空に輝くこの寺の姿を眺めた。チェンマイ最大の名所である。 参道登り口に立つ。306段の石段が、聖蛇ナーガの手摺りを伴っての上方に続く。ケーブルカーもあるとのことだが、この参道を歩かねば意味がない。しつこい土産物売りを振りきり、石段を登る。引きも切らず参拝者の列が続いている。登り上げたところで、履物を脱ぎ、外国人は30バーツの拝観料を払って聖地に入る。輝く仏塔を中心に仏堂が四方を囲み、床はすべて大理石である。何もかも金ぴか。いかにもタイらしい。西端の広場に出て見ると、遥か眼下にチェンマイの街が霞んでいた。 帰りがけの駄賃に、案内書に小さく載っていたワット・ウモーンに寄る。車はチェンマイ大学の構内を抜ける。タイでも有数の有名校である。広大な敷地の中に校舎が点在している。人里離れた雑木林の入り口に車は止まり、ここがワット・ウモーンだという。林の中の小道を進むといくつかの古びたあばら家が現れ、その先の山肌に掘られたトンネルに突き当たった。トンネルは縦横に掘られていて、各々の奥まったところに仏像が安置されている。このトンネルがこの寺院の礼拝堂である。トンネルの奥で一人瞑想にふけるために、メンラーイ王が14世紀に建てた寺院である。 正午過ぎ、市内に帰る。車を返し、案内書に載っていたタイ料理の店を探したのだが、見つからなかった。うろうろしていたら、小さな食堂の前で、感じの良い女性が、招き入れてくれた。チェンマイ料理であるケーン・ハンレー・ムー(チェンマイ風カレー)を食べる。辛くもなく、なかなかの味である。さて、午後は妻のための時間である。買い物を心置きなくしたいと張り切っている。どこへ連れていったものかと考える。案内書によるとチェンマイ市郊外20キロほど東のサン・カンペーン通りに大型の専門店が点在しているとある。行ってみたいがかなり遠い。ソンテウで行く以外ないが、果たしてそんな遠くまで行ってくれるだろうか。案の定、1台目のソンテウには断られた。2台目の運転手はしばらく考え、100バーツなら行くという。もっと安くならないかというと、かなり長い時間考え込み、二人で60バーツと破格の値段を提示してきた。有無もなく乗り込む。 ピン川を渡り、市街地を抜け、車はひたすら東に向かう。郊外にでると素晴らしい雰囲気の道となった。広葉樹の巨木の並木道がどこまでも続く。古街道なのだろう。ソンテウは完全に貸切り状態である。やがて大きな店の前で停まった。サン・カンペーン通りの一角で、ここはブロンズの店だという。金を払おうとすると、待っているから店を覗いてこいという。かなり大きな店で、ブロンズ製の仏像やら食器やらありとあらゆるものが並んでいる。ざっと眺めただけで車に戻る。 運転手が次はどこへ行くのかというので、銀製品の店に行ってくれと頼む。数キロ走って、店に着いた。運転手は当然のごとく待機している。ここでようやく気がついた。私はサン・カンペーン通りまでの片道のつもりで運転手と交渉していたが、運転手は最初から当然チャーターのつもりで応じていたようだ。私はサン・カンペーン通りに点在する店は歩いて回れると考えていたが、実は数キロの距離で散らばっており、とても車でなければ回れないのだ。しかも、ここまで来ると流しているソンテウもなく、帰りの足も確保できない。タイシルクの店、セラドン焼きの店と回る。どの店も大きく豪華である。単なる土産物屋の域を超えている。駐車場には高級車が目立つ。結局このソンテウは最後まで私たちだけを乗せてホテルの玄関まで乗り入れてくれた。いくら渡していいのか分からないので、これでいいかと100パーツ渡すと、喜んで受け取った。おそらく、店から客を連れてきたお礼がでたのだろう。妻も大満足の様子であった。 昨日の轍は踏むまいと、ホテルのフロントにチェンマイ料理レストランの紹介を頼むと、日本語のミニコミ誌をくれた。灯台下暗し、ホテルのすぐ隣に「カオサン」という日本人経営のよいタイ料理レストランがあった。お目当ての料理を腹いっぱい食べ妻はご機嫌である。部屋に戻ると、頼んであったバスの排水は修理されていたが、相変わらず隣室の話し声は筒抜けである。それでも今日は隣室も早く寝たので助かった。
チェンマイの三日目である。今日はビン川のクルーズングを楽しむことにした。チェンマイはビン川河畔に開かれた都市である。市街地の東側を川幅100メートルほどのビン川がゆったりと流れている。乗り場はホテルから歩いてすぐのところであった。約7キロ上流までの往復で、2時間ほどの船旅であるという。1隻チャーターで一人300バーツであった。エンジンむき出しの小型船は、ほとんど流れを感じない川面をゆっくりと遡っていく。いくつかの橋をくぐると、市街地は後方に消える。川岸にはススキが群れをなし、南国の秋を示している。釣り糸を垂れる人、裸で四つ手を振り回している子供たち。のどかな光景が続く。所々に林に囲まれた大きな別荘や保養施設も見られる。やがて舟は小さな船着き場につく。小さな植物園となっていて、ここで飲み物と果物が供された。小休止の後、舟は下流に向かう。舟影は少ない。時たますれ違う観光船の乗客が手を振る。軽いエンジン音のみが静寂を破る。 今日、チャンマイ発16時15分のTG106 便でバンコクへ戻る。まだしばしの時間がある。旧市街を当てもなく歩いてみることにする。ツクツクをターぺー門で降りる。五つの城門のうち、この門が一番昔の姿を留めている。門前には間近に迫ったタイ国最大の祝賀である国王誕生日(12月5日)に備え、大きな国王の写真の飾り付けがなされていた。門をくぐり城内に入る。大通りをひたすら西に歩く。城内は城外の新市街に比べぐっと静かである。大きなホテルも、高層ビルもない。景観保護のため91メートル以上の建物の建築は禁じられている。日本の京都よりもずっと進んでいる。代わりに寺が多い。のんびりと歩きながら、チェンマイの歴史に思いを馳せた。 メコン川河畔のチェンセーンを都とする小国の王・メンラーイは、1262に王都をチェンセーンの南60キロのチェンライに移す。その後、1281年にはラムプーンのモン族の国・ハリプンチャイ王国を倒し国土を拡大する。そして1296年、盟友関係にあったスコータイ王国のラームカムヘン王、パヤオ王国のガムムアン王の協力を得て、ドイ・ステープとピン川の間の肥沃なこの土地に新都を建設した。新しい都はノッパブリー・スィーナコンピン・チェンマイ(「ピン川の辺の九つ目の偉大な新しい都」の意味)と名づけられた。この国はその後大いに栄え、いつしか百万の稲田を意味するランナー王国と呼ばれるようになった。 しかし、やがて王国は北のビルマ、南のアユタヤ王国との戦いに疲弊し、1558年、ついにビルマの侵攻を受け滅亡する。そしてチェンマイはその後216年間にわたりビルマの支配を受けることになる。1774年、トンブリ王朝のタクシン王がビルマの勢力を駆逐し、北部タイをタイ族の手に取り戻す。その後、チャクリ王朝の手でランナー王国は再建され、属国とし116年続いた。しかし、1892年、タイの地方行政組織に組み込まれ、チャクリ王朝に併合される。統一タイ国の成立であり、ランナー王国の終焉でもあった。 道はやがてワット・プラシンに突き当たる。門前の小さな食堂で昼食をとり、さらに西に進む。街並みは何やらうらぶれた感じとなり、すぐにスワントーク門に達した。旧市街を取り囲む濠が、公園のように整備されている。すぐに、北のチャンプワック門を目指す。土曜日のせいか、街中はがらんとし人影が薄い。この城内は、にぎやかな城外とは別世界である。かなりの距離を歩き、目指す城門に達した。城門は激しい交通量の道路に囲まれ、まるでロータリーのようである。 これで、東西南北四つの城門を訪れた。古都チェンマイを目と足で確かめた。これからバンコクへ帰る。そして数日後には日本へ帰る。しばしの間、さらば微笑みの国・タイ
、 さらば天使の都・グルンテープ、 さらば北の薔薇・チェンマイ。 いつか必ず、この国へ、この都へ、戻ってこよう。我が第二の祖国へ。
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