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今月末をもってタイ駐在を終えることになった。タイでの最後の思い出に妻とバンコクの北700キロに位置するチェンマイに行ってみることにした。この町を知らずしてタイを去るわけには行かない。
チェンマイはタイ北部に位置する人口 20万人ほどのタイ第二の都市である。そして、19世紀まで続いたランナー王国の古都である。人口約600万人を擁する首都バンコクが、熱気と喧騒と猥雑さの中から凄まじいエネルギーを噴出する都市なら、北の薔薇と称されるチェンマイは、温暖な気候と相まって歴史と文化の香り濃い美しい都市である。タイの中心部、すなわちバンコク平原に住む人々にとって、チェンマイは特別なイメージの湧く都市であるらしい。ほのかな異国情緒、優雅さ、文化の香り。そしてまた、美人の産地としても名高い。話は飛ぶが、バンコクの飲み屋で女の子を口説くとき、「君はプーイン・スワイ(美人)だね。チャンマイ出身かい」などとお世辞を言う。ただし、多くの女性はタイでもっとも貧しいイサーン地方 (タイの東北部 )出身であるのだが。 現在のタイ王国は歴史の異なる二つの「国」が合わさって出来た国家である。一つはバンコク平原を中心に、スコータイ王朝、アユタヤ王朝、トンブリ王朝、そして現在のチャクリ王朝と続く流れである。もう一つは、タイ北部に13世紀から19世紀まで続いたランナー王国の流れである。19世紀末、チャクリ王朝ラマ5世の時代に二つの王朝が併合されて現在のタイ王国が生まれた。従って、チェンマイを中心とするタイ北部地方ではバンコク平原とは異なる文化が育まれてきた。言葉さえも少し違う。もちろん、同じタイ民族で、どちらも敬虔な上座部仏教徒であることに変わりはない。 旅行社でエアチケットとホテルのみを予約した。チェンマイはパック旅行で行くようなところではない。英語と片言のタイ語で何とかなるだろう。バンコク8時15分発のTG102便はほぼ満員の乗客を載せて一路北へ向かう。欧米人の姿が多い。わずか1時間10分の飛行でチェンマイ国際空港着。南国の日差しではあるが、肌に当たる空気は心地よく、熱気を感じるバンコクとは明らかに異なる。チェンマイの標高は約300メートル。周囲には山々が見られ、大平原のただ中であるバンコクとは雰囲気も多いに異なる。 空港ビルを出たが、タクシーもバスも見当たらない。さてホテルまでどうやって行ったらよいのか。案内書には、「チェンマイにはタクシーはなく、市内まではリムジンで行く。100バーツ」とあった。バンコク市内に溢れかえっているタクシーが、タイ第二の都市にないとは信じられず、半信半疑でやって来たが事実のようである。一瞬戸惑っていたら男が寄ってきて「市内まで100バーツでどうか」という。白タクである。リーゾナブルの料金と考え、乗り込む。20分ほどで、ホテル・チェンマイプラザに着いた。予約時に確認した通り、なかなか立派なホテルである。しかし、このホテル、実は過去に経験のないほどの最悪のホテルであったのだが。このときはまた知る由もない。時刻はまだ10時ちょっと過ぎ、チェックインが無理なら荷物だけ預けるつもりであったが、すぐに部屋に案内された。 市内見物に出発する。ホテルを出たものの、さて交通手段はどうするか。ツクツクかソンテウを利用せざるを得ないようだが、ソンテウなど乗ったこともなく、勝手もわからない。ホテル前にたむろしていたツクツクが寄ってきて「旧市街まで80バーツ」と吹っかけてきた。60バーツに値切る(これでも高い気がするが)。風を切るツクツクから眺めるチェンマイの街並みは、バンコクを二回りほど田舎にしたという印象で、それほどの変化は感じない。道路には車が溢れ、「やはりタイ」との感が強い。先ずは旧市街のワット・チェンマンに向かう。チェンマイは城壁都市であった。 元々の都市は濠と城壁に囲まれた一辺1.8キロメートルの正方形で、現在旧市街と呼ばれている。
寺を出ようとして、小さな英文の看板に気がついた。境内右奥の建物を示して「見落とさないように」と注意書きされている。慌てて入ってみると、この建物が本堂であった。案内書には、この寺のセールスポイントとして二体の仏像を挙げている。先ほど本堂と思い詣でた建物にはこの仏像が見当たらず、変だとは思っていたのだが。あわや見落とすところであった。本堂最奥の鉄格子に囲まれた逗子の中に目指す仏様は鎮座していた。一体は大理石で作られた高さ30センチほどのブッダの立像である。8世紀ごろインドかスリランカで作られたらしい。もう一体はわずか10センチほどの水晶に彫られた座像である。メンラーイ王が戦利品としてランプーンの寺より持ってきたと伝えられている。 徒歩でぶらぶらと西に向かう。目指すはワット・プラシンである。狭い城内であり、方向感覚に狂いはないのだが、何せ持っている地図が案内書に載っている小さな図で頼りない。ホテルにもっとましな地図ぐらい置いてあるかと思ったのだが、見当たらなかった。旧市街は車も少なく、歩道も確りあり、かつ屋台もないので歩きやすい。
直射日光はさすがに暑いが、日陰に入るとひんやりする。点在するいくつかの寺を覗きながらのんびりと歩く。 門前の小さなレストランに入る。チェンマイに来て気がついたのだが、バンコクよりもよほど英語が通じる。このレストランの女店員もタイなまりのないきれいな英語をしゃべる。食後、ワット・チェディ・ルアンに向かう。 Wat Phantaoの隣が目指すワット・チェディ・ルアンであった。広大な境内に多くの建物が点在している。 この寺はまた、タイで最も貴重な仏像と言われるエメラルド仏が1468年から84年間も安置されていた寺として知られている。エメラルド仏は現チャクリ王朝の本尊仏であり、国家の守護仏である。現在はバンコクのワット・プラケオに祀られている。このエメラルド仏は歴史上各地を転々とする奇数な運命を辿ってきた。1434年、チェンライにおいて漆喰の中から発見されて以来、ランパーン →チェンマイ →ルアンプラパン(ラオス) →ビエンチャン(ラオス) →トンブリと移り、1784年にようやくワット・プラケオにたどり着く。
これで旧市街の主要な三つの寺を訪問し終わった。 さてこれから、郊外のお寺を回るつもりであるが、歩いて行ける距離ではない。いよいよチェンマイにおける最も普遍的な交通手段・ソンテウを利用せざるを得ない。ソンテウとは小型のピックアップトラックの荷台を改造したトラックバスである。赤色のこのソンテウが市内の至る所を走り回っている。利用方法は、案内書によると、「手を上げて止めて、運転手に行き先を告げ、OKなら料金交渉の上乗り込む」と言うことらしい。料金は市内及びその近郊なら10〜20バーツとある。バンコクはタクシーとバスが普及しているので、私もいまだソンテウは利用したことはない。流しのソンテウを止めるのはちょっと度胸がいるので、まずは道端に止まっているソンテウと交渉。目指すワット・スワンドークまで一人20バーツで行くという。やれやれである。このぐらいの交渉はタイ語でも何とかできる。ホロの付いた荷台の客席には2列のベンチシートが設置されている。乗り心地はそれほどよいものではない。交通量の多い通りを一路に西に向かう。途中で二人の女学生が乗り込んできた。
境内に停まっていたソンテウと交渉して、市の北西に位置するワット・ヂェット・ヨートに向かう。やはり一人20バーツだという。 今日最後の訪問地、ワット・クー・タオに向かう。市の北方に位置する寺院である。大通りに出て、やって来たソンテウを掴まえる。すでに先客が乗っていたが、運転手のOKを得て、荷台の客席に乗り込む。助手席には僧侶が乗っていた。先客のために少々遠回りとなったが、無事目的地まで運んでくれた。一人20バーツを差し出すと黙って受け取った。この金額が相場のようである。 ワット・クー・タオは1613年、ビルマの王プレーンノーンの墓として建立されたビルマ式の寺院である。従って、これまで見てきた五つの寺院が、ランナー王国栄華の跡とするなら、この寺院は北部タイ苦難の歴史の跡である。15世紀に栄華の絶頂を極めたランナー王国も、16世紀に入ると、隣国ビルマとの絶え間ない戦い、タイ中部の強国・アユタヤ王朝の圧迫等により、その勢いは急速に衰える。そしてついに、1558年、ビルマ軍の攻撃により首都チェンマイは陥落する。以降200年、チェンマイを中心とする北タイはビルマの支配を受けるのである。
夕暮れが迫ってきた。ホテルへ戻ることにする。大通りまで出て、ソンテウをつかまえる。少々遠いので、ホテルまで行ってくれるか不安であったが、やって来たソンテウはしばらく考えたうえ、乗れと言ってくれた。次から次へ、乗客が乗り、そして降りていく。面白いことに、僧侶は当然のごとく、客席には乗らず助手席に乗り込む。タイにおいては僧侶は女性と席を同じくすることが許されていないためだろう。見ていたら、乗客は10バーツか15バーツを払っている。これまで払ってきた20バーツは高かったのだろうか。少々不安になったが、後で知るのだが、外国人はやはり20バーツが相場であるという。乗客の行き先に従い、あっちこっち遠回りしながらも無事ホテルまで届けてくれた。長距離を乗ったので20バーツでよいのか少々不安であったが、運転手は笑顔で受け取った。 部屋でひと休みの後、夕食がてらナイトバザールへ行くこととする。疲れも見せず妻が張り切っている。何せ、「旅行の楽しみは食事と買い物である」と公言しているのだから。チェンマイの郷土料理が食べたいと、あれこれメニューを言っているが、そのくせレストランなどまるで調べていない。「街に行けばどこかあるわよ」といい加減である。言に従い、ナイトバザールの始まっている街に出てみたのだが、適当なレストランなどまったく見つからない。結局、ホテルに戻り、ホテル内のレストランでバイキングスタイルの食事をとる羽目となってしまった。 改めて、ナイトバザール見学に街に出る。Changklan 通りの両側には露店がびっしり並び、またそれを眺める人々で通りは大にぎわいである。人込みを掻き分けつつ、ぶらりぶらりと露店を覗くが、別に関心を引くようなものもない。妻は私と一緒では品定めする暇もないとぶつぶつ文句を言っている。改めて気がついたが、ナイトバザールをぶらついている外国人の大多数、90%以上はは欧米人である。バンコクでは目立つ日本人などまったく見当たらない。 ホテルに戻る。ここから大変なことになった。先ずは、風呂の排水が詰まっていて流れない。明日文句を言って直させることにして布団に入る。しかし、夜間照明がない。風呂場の電気をつけて戸を開けておくことで妥協する。さらに最悪なことに、隣室の話し声が耳元にがんがん聞こえてくる。どうやら仕切りはベニヤ板一枚の様子である。隣は日本人で女を連れ込んでいる。別に大声で騒いでいるわけではないが、声どころか話の内容まで聞き取れる。こんなホテルはかつて経験がない。案内書に高級ホテルとして載っており、しかもそのデラックスルームである。妻は、ちり紙で耳栓を作り出した。夜中の2時になっても隣室の話し声は止まない。フロントに「隣室がうるさくて寝られない」と電話をかけてみたが、「分かった」とのあいまいな返事があっただけであった。チェンマイ プラザホテル このホテルだけは二度と泊まるまい。
昨日、市内及びその周辺の見学を済ませてしまったので、今日は遠出をすることにする。先ずは、チェンマイ最大の観光スポットと言われるワット・プラタート・ドイ・ステープである。市街地の西約16キロのステープ山山頂付近に建つ寺院である。案内書を見ると、さらにその先10数キロ奥にモン族の村があり見学できるとある。どうせならここまで行ってみたい。ちょうど半日の行程である。さて、問題は足である。案内書にはソンテウをチャーターするのがベストとある。ちょっとややこしい交渉をしなければならないかなと思いながら玄関を出ると、たむろしていた白タクの運ちゃんから声が掛かった。ワット・プラタート・ドイ・ステープまでなら600バーツ、モン族の村までなら800バーツだという。昨日空港から乗った白タクも半日チャーターで700バーツと言っていた。まぁこんなものだろう。利用することにする。 車は一路西に向かう。さすがソンテウに比べ乗用車は乗り心地がよい。大きな病院を過ぎ、チェンマイ大学を過ぎ、動物園を過ぎると、いよいよ山道となった。ヘアピンカーブを切りながらグイグイ高度を上げる。霞のかかったチェンマイの街並みがどんどん小さくなる。道は確り舗装されており、通る車も少ない。やがて大きな駐車場と土産物屋のにぎわいが現れる。ワット・プラタート・ドイ・ステープの参道入口である。ただし、我々はそのまま通過して、さらに山を登り続ける。ここから道は細まり、悪化する。やがて、稜線を乗越し、少し下ると、モン族の村・メオ・トライバル・ビレッジに着いた。 タイの北部山岳地帯には20余の少数民族が暮らしている。中国雲南省、ラオス、ミャンマー、タイが国境を接するこの山岳地帯は、20世紀も後半に至るまで実質上国境はなく、ゴールデントライアングルとも称された国家権力の及ばない地域であった。古代より、中国江南の地に住んでいたいくつもの民族が、漢民族の圧力に堪えかね、この山岳地帯へと逃れてきた。現在、タイ、ラオスという二つの国家を持つに至ったタイ族もそんな民族の一つである。しかしタイ族は、幸運にも、この山岳地帯を越え、バンコク平原という豊饒の里にたどり着くことができた。しかしながら、さらに遅れてこの山岳地帯までやって来た民族は、南のタイ族に行く手を阻まれ、この山岳地帯を抜け出すことができなかった。 タイに住むモン族は現在10万人程度と言われているが、この民族の主要居住地域は今なお中国西南部の雲貴高原である。中国ではミャオ(苗)族と呼ばれ、その数は700万余と言われている。ミャオ族は独立自尊の気風が強いことで知られ、古代より、漢民族の度重なる圧迫とそれに対する抵抗を繰り返してきた。近世においても清朝に対し数次にわたる大規模な反乱を起こした。これらの反乱はいずれも失敗に帰し、多数のミャオ族が弾圧を恐れてインドシナ半島北部の山岳地帯まで南下することになった。 タイのモン族もこの流れの中でやってきた人々で、タイにはラオス経由で19世紀半ば以降に移住してきた。本来焼き畑農業で生計を立ているのだが、ゴールデントライアングルにケシの栽培を持ち込んだのはこの民族である。タイでは一般にメオ族と呼ばれるが、この呼称は差別用語であり、彼らが自称する「モン」呼ぶべきだとされている。
山道を戻り、ワット・プラタート・ドイ・ステープに向かう。標高1676メートルのドイ・ステープ(ドイとは山の意)の1080メートル付近に建つこの寺は北部タイ最大の聖地と崇められている。1383年クーナ王により建立された寺で、仏舎利を納めた高さ24メートルの黄金の仏塔は晴れた日にはチェンマイ市内からも眺められるという。わたしも昨夜、ホテルの窓からライトアップされ中空に輝くこの寺の姿を眺めた。チェンマイ最大の名所である。 参道登り口に立つ。306段の石段が、聖蛇ナーガの手摺りを伴っての上方に続く。ケーブルカーもあるとのことだが、この参道を歩かねば意味がない。しつこい土産物売りを振りきり、石段を登る。引きも切らず参拝者の列が続いている。登り上げたところで、履物を脱ぎ、外国人は30バーツの拝観料を払って聖地に入る。 帰りがけの駄賃に、案内書に小さく載っていたワット・ウモーンに寄る。車はチェンマイ大学の構内を抜ける。タイでも有数の有名校である。広大な敷地の中に校舎が点在している。人里離れた雑木林の入り口に車は止まり、ここがワット・ウモーンだという。林の中の小道を進むといくつかの古びたあばら家が現れ、その先の山肌に掘られたトンネルに突き当たった。 正午過ぎ、市内に帰る。車を返し、案内書に載っていたタイ料理の店を探したのだが、見つからなかった。うろうろしていたら、小さな食堂の前で、感じの良い女性が、招き入れてくれた。チェンマイ料理であるケーン・ハンレー・ムー(チェンマイ風カレー)を食べる。辛くもなく、なかなかの味である。さて、午後は妻のための時間である。買い物を心置きなくしたいと張り切っている。どこへ連れていったものかと考える。案内書によるとチェンマイ市郊外20キロほど東のサン・カンペーン通りに大型の専門店が点在しているとある。行ってみたいがかなり遠い。ソンテウで行く以外ないが、果たしてそんな遠くまで行ってくれるだろうか。案の定、1台目のソンテウには断られた。2台目の運転手はしばらく考え、100バーツなら行くという。もっと安くならないかというと、かなり長い時間考え込み、二人で60バーツと破格の値段を提示してきた。有無もなく乗り込む。 ピン川を渡り、市街地を抜け、車はひたすら東に向かう。郊外にでると素晴らしい雰囲気の道となった。広葉樹の巨木の並木道がどこまでも続く。古街道なのだろう。ソンテウは完全に貸切り状態である。やがて大きな店の前で停まった。サン・カンペーン通りの一角で、ここはブロンズの店だという。金を払おうとすると、待っているから店を覗いてこいという。かなり大きな店で、ブロンズ製の仏像やら食器やらありとあらゆるものが並んでいる。ざっと眺めただけで車に戻る。 運転手が次はどこへ行くのかというので、銀製品の店に行ってくれと頼む。数キロ走って、店に着いた。運転手は当然のごとく待機している。ここでようやく気がついた。私はサン・カンペーン通りまでの片道のつもりで運転手と交渉していたが、運転手は最初から当然チャーターのつもりで応じていたようだ。私はサン・カンペーン通りに点在する店は歩いて回れると考えていたが、実は数キロの距離で散らばっており、とても車でなければ回れないのだ。しかも、ここまで来ると流しているソンテウもなく、帰りの足も確保できない。タイシルクの店、セラドン焼きの店と回る。どの店も大きく豪華である。単なる土産物屋の域を超えている。駐車場には高級車が目立つ。結局このソンテウは最後まで私たちだけを乗せてホテルの玄関まで乗り入れてくれた。いくら渡していいのか分からないので、これでいいかと100パーツ渡すと、喜んで受け取った。おそらく、店から客を連れてきたお礼がでたのだろう。妻も大満足の様子であった。 昨日の轍は踏むまいと、ホテルのフロントにチェンマイ料理レストランの紹介を頼むと、日本語のミニコミ誌をくれた。灯台下暗し、ホテルのすぐ隣に「カオサン」という日本人経営のよいタイ料理レストランがあった。お目当ての料理を腹いっぱい食べ妻はご機嫌である。部屋に戻ると、頼んであったバスの排水は修理されていたが、相変わらず隣室の話し声は筒抜けである。それでも今日は隣室も早く寝たので助かった。
チェンマイの三日目である。今日はビン川のクルーズングを楽しむことにした。チェンマイはビン川河畔に開かれた都市である。市街地の東側を川幅100メートルほどのビン川がゆったりと流れている。乗り場はホテルから歩いてすぐのところであった。約7キロ上流までの往復で、2時間ほどの船旅であるという。1隻チャーターで一人300バーツであった。 今日、チャンマイ発16時15分のTG106 便でバンコクへ戻る。まだしばしの時間がある。旧市街を当てもなく歩いてみることにする。ツクツクをターぺー門で降りる。 メコン川河畔のチェンセーンを都とする小国の王・メンラーイは、1262に王都をチェンセーンの南60キロのチェンライに移す。その後、1281年にはラムプーンのモン族の国・ハリプンチャイ王国を倒し国土を拡大する。そして1296年、盟友関係にあったスコータイ王国のラームカムヘン王、パヤオ王国のガムムアン王の協力を得て、ドイ・ステープとピン川の間の肥沃なこの土地に新都を建設した。新しい都はノッパブリー・スィーナコンピン・チェンマイ(「ピン川の辺の九つ目の偉大な新しい都」の意味)と名づけられた。この国はその後大いに栄え、いつしか百万の稲田を意味するランナー王国と呼ばれるようになった。 しかし、やがて王国は北のビルマ、南のアユタヤ王国との戦いに疲弊し、1558年、ついにビルマの侵攻を受け滅亡する。そしてチェンマイはその後216年間にわたりビルマの支配を受けることになる。1774年、トンブリ王朝のタクシン王がビルマの勢力を駆逐し、北部タイをタイ族の手に取り戻す。その後、チャクリ王朝の手でランナー王国は再建され、属国とし116年続いた。しかし、1892年、タイの地方行政組織に組み込まれ、チャクリ王朝に併合される。統一タイ国の成立であり、ランナー王国の終焉でもあった。 道はやがてワット・プラシンに突き当たる。門前の小さな食堂で昼食をとり、さらに西に進む。 これで、東西南北四つの城門を訪れた。古都チェンマイを目と足で確かめた。これからバンコクへ帰る。そして数日後には日本へ帰る。しばしの間、さらば微笑みの国・タイ
、 さらば天使の都・グルンテープ、 さらば北の薔薇・チェンマイ。 いつか必ず、この国へ、この都へ、戻ってこよう。我が第二の祖国へ。
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