猪狩山から秩父御嶽山へ

分け入っても分け入っても青い山

2001年4月29日


 新緑の木の間から秩父御嶽山を望む
 
三峰口(845)→古池集落(935)→猪狩神社(940〜950)→奥の院峰(1035〜1040)→猪狩山(1055〜1110)→小森大谷分岐(1120)→三峰口分岐(1140〜1145)→秩父御嶽山(1215〜1230)→落合集落(1320)→落合バス停(1330)

 
 両神山から一本の山稜が中津川と小森川の分水稜となって長々と東に延びている。この山稜の末端近くに普寛行者開山の山・秩父御嶽山の岩峰がそびえている。御嶽山以降山稜は主稜線を失い、数本の山稜に分裂して東方に雪崩れている。地図を眺めると、そのうちの一本が、876メートル峰、834メートル峰、822メートル峰を盛り上げながら北東に大きく張り出している。このうちの822メートル峰は地図に山名の記載はないが猪狩山と呼ばれている。古池集落の背後にそびえる岩峰であり、麓には猪狩神社が鎮座している。猪狩神社から猪狩山に登りあげ、稜線を辿って秩父御嶽山まで縦走してみよう。幸い山稜上には踏み跡があるようである。

 熊谷発7時13分のいつもの秩父鉄道に乗る。連休中のためか、座りきれないほどの大勢のハイカーが乗り合わせた。しかし、熊倉山で何か催しがあったようで、ほとんどは武州日野で降りた。終点の三峰口で降りたのは数パーティであったが、皆大輪行きのバスに乗り込み、残ったのは私一人となった。20分も待てば古池集落に行くバスがあるのだが、歩くつもりでいる。空はどんより曇り、予報は夕方からの雨を告げている。周囲の山々は濁った空気の中に霞んでいるが山肌を染める新緑がまぶしい。
 
 白川橋で荒川を渡り、国道140号線を横切ると贄川の宿である。今では小さな小さな集落であるが、贄川は江戸期から明治にかけて、秩父往還の宿場町としてにぎわった。幸い国道140号線が集落を外れているため、小さな町並みは当時の雰囲気をよく残している。荒川村教育委員会の設置した説明盤によると、当時36軒の家並があり、うち6軒が旅籠があったことがわかる。集落の外れには旅人を守ったという御堂鐘地蔵などもある。バスなど乗らず、自らの足で歩くといろいろなものに出会える。
 
 両神村に通じる県道を辿る。荒川西小学校を過ぎると、左側に大規模な砕石場が現れた。山肌をはるか上部まで削り取り、地形を平気で変えていく。事業者は心の痛みというものを感じないのだろうか。またそれを許す自治体も同類である。道端には、タンポポ、スミレ、キヶマン、ムラサキケマンなどの野の花が咲き誇っている。やがて前方にすさまじく鋭角な岩峰が現れた。上部の山肌は薄緑色の新緑で覆われ、なんとも目立つ山である。これから登る猪狩神社奥の院峰のはずである。いったいどこからどうやって登るんだろう。一軒家の柿平集落を過ぎ、トンネルを抜けると古池集落である。県道から外れ、左に参道を5分も進むと目指す猪狩神社に到着した。恐ろしく急な石段を登り、社殿の前に座り込んで朝食のサンドイッチを頬張る。辺りは静寂にして人の気配もない。
 
 いよいよここから登山開始である。社殿の裏手より杉檜林の登山道に入る。道は思いのほか確りしているが、息もつかせぬ急登である。薄暗い林床には点々とマムシソウの不気味な花が咲いている。ジグザグを切ってグイグイ登る。やがて杉檜林を抜け、潅木と高木がまばらに生える岩肌のものすごい急登が始まった。道型ははっきりしているが、まさに絶壁に近い岩肌に無理矢理刻んだ厳しいルートである。いったん足を滑らせたら下まで転げ落ちてしまう。下から眺めた鋭い尖峰が脳裏に浮かぶ。あまりの急登に時々立ち止まって息を整える。わずかに朱色の山ツツジと紫色のミツバツツジが目を慰めてくれる。
 
 神社から45分もがんばると、さしもの急登も終わり、山頂に達した。猪狩神社の奥の院となるピークである。小さな祠が4〜5個無造作におかれている。雑木が茂りあまり情緒はない。一休みしていると意外にも反対方向から中年の単独行者がやってきた。いったいどこからやってきたのだろう。これを潮に、猪狩山に向け出発する。ものすごく痩せたガリガリの岩稜をたどる。アセビなどの潅木の隙間から三峰口方面がわずかに見通せる。小峰を越えると尾根は広がり杉檜の植林となった。左に回り込むように少し急登し、大岩を巻くと猪狩山山頂に達した。おばちゃんの二人連れが休んでいたが、私が到着すると迷惑そうに出発していった。岩の露出した狭い山頂は潅木に囲まれ、展望はない。小さな私製山頂標示が一つだけ木の枝に架かっている。腰を下ろしてサンドイッチを頬張る。

 今までと打って変わって緩やかな広々とした尾根道を進む。左側が植林、右側が自然林である。小峰を越えると道標があり、右に小森大谷へ下る踏み跡が分かれる。地図にない道である。ちょっとした岩場の急登を経ると、834メートル峰への登りとなった。雑木林の中の気持ちのよい道である。新緑が実に美しい。木の間越しに目指す秩父御嶽山が見えてきた。まだ200メートルの高度差がある。左から三峰口からのルートが合流する。ちょうど20年前の1981年正月、雪に覆われたこの道を登ってきた。ここから先のルートは二度目となる。一休みする。
 
 いよいよ御嶽山への急登が始まった。20年前の記憶では木の枝岩角をつかんでの急登である。しかし、急登には違いないがそれほどのこともない。大きくジグザグを切りながら頭上にそびえる山頂を目指す。左側がまだ幼い檜の植林で、登るに従いどんどん展望が開ける。辿ってきた稜線が猪狩山から足下へと続いている。ここから眺める猪狩山は穏やかな山容である。曇天の中に霞む山肌が薄緑色に煙り、その中に山桜のピンクがわずかに混じる。何とも美しい春の景色である。山頂が近づくとにわかに人が多くなった。肩で強石からのルートを合わせ、12時15分、ついに山頂に達した。普寛神社奥の院の祠と三角点のある山頂は非常に狭く、そこに多くの登山者が押し掛けているので立錐の余地もないほどの混雑である。視界は大きく開けているのだが、山々は霞み、目の前にそびえているはずの両神山も見えない。わずかな隙間に腰を下ろし握り飯を頬張る。
 
 下山に掛かる。前回は強石集落に下ったが、今日は落合集落に下るつもりである。ロープの張り巡らされた岩場の急坂を肩に下ると、なんと! カタクリの群生である。大柄の紫の花が折から強まった風に揺れている。まさか今日カタクリに出会えるとは思わなかった。大感激である。登山道はここで稜線を離れ、深い檜林の急斜面をジグザグを切りながら一気に下る。足に任せ小走りに下り、先行者をどんどん追い越す。まだ登ってくるパーティもいる。この樹林の中の急登は大変だろう。いい加減下ると沢沿いの道となる。所々崩壊していて悪い。夫婦連れが、崩壊箇所を通過できず立ち往生している。ニリン草が群生している。小1時間足に任せノンストップで下ると、落合の集落に達した。無事の下山である。ただし、今日はもう一つ目的がある。普寛神社への参拝である。
 
 この落合の集落に鎮座する普寛神社は普寛行者を祀っている。普寛行者は18世紀に活躍した修験者で、この落合集落の出身である。上州武尊山や越後の八海山など各地の険しい山々を開山したが、中でも木曽御嶽山の王滝道を開いた木曾御嶽教の開祖として名高い。王滝道とは自分の生まれ故郷・大滝村にちなんだ命名である。今日登った秩父御嶽山は生家の裏山である。いわば秩父御嶽山と木曽御嶽山は兄弟である。旧秩父往還と国道140号線のぶつかる角に普寛神社はあった。神社とも寺ともつかないたたずまいで、境内は雑然としている。「普寛霊神ご生誕二百七十年記念」と記された真新しい木柱が立てられていた。

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