大無間連峰縦走

光岳まで縦走の夢破れたが、原始の森を満喫

1996年8月12日〜14日


三隅池付近より朝日岳(手前)、前黒法師岳(右奥)を望む
 
12日 田代集落(1030)→尾根(1120)→雷段(1225)→小無間小屋(1555)
13日 小無間小屋(615)→P3(635〜640)→P2(655〜700)→P1(735〜755)→鞍部(820)→小無間山(935〜950)→唐松ナギ(1010)→中無間山(1105)→ 大無間山(1245)
14日 大無間山(530)→鞍部(600〜605)→三隅池(615〜620)→三方嶺(655〜705)→三方窪(820)→鹿の土俵場(900)→樺沢ガレ(905〜925)→樺沢コル(1010〜1015)→大垂沢(1050〜1100)→寸又川左岸林道(1130〜1135)→展望台(1215〜1220)→寸又峡温泉入口(1500〜1505)→寸又峡温泉(1540)

 
 アトランタオリンピックの開会式で「I  HAVE  A   DOREAM」というマーチン・ルーサー・キング牧師の肉声が流れた。「私には夢がある」。いい言葉である。キング牧師の夢に比ベベくもないが、私にだって夢がある。山を思うとき、いくつもの夢の縦走路がとどめなく心に浮かんでくる。一つの夢を果たすと、もう一つの夢が。そしてまた次の夢が。夢は己の体力も技量も無視する。それどころか、歳をとるにしたがってより困難なルートを私に要求するようにさえ思える。昨年の8月、光岳から池口岳への縦走という一つの夢を実現した。その瞬間から、新たな夢の縦走路が私の心を虜にしている。大無間山から光岳への縦走路が「早く来いよ」と呼んでいる。3泊4日は要する踏み跡も定かでない南ア深南部の大縦走ルートである。天使の呼びかけなのか、はたまた悪魔の誘惑なのか。私は重いザックを背に旅立った。
  12日  新静岡バスターミナル7時45分発の八木尾又上行きバスの乗る。本来このバスは畑薙第一ダム行きなのだが、途中道路崩壊のため既に3年にわたって途中の八木尾又上までしか行かない。ただし、崩壊個所を歩いた後、二軒小屋行きの東海フォレストのリムジンバスが接続している。南アルブス登山口としての静岡市は半身不随になっているが、それでも登山シーズンのため56人の登山者が2台のバスに乗った。私以外は全員終点まで行くという。バスが富士見峠にさしかかると壁のように立ち塞がる大きな大きな大無間山塊が現われた。右に小無間山と唐松沢の頭が双耳峰となり、そこから雄大な尾根が、緩く長く大無間山に続いている。今日はあの稜線をたどるのかと思うと、思わず緊張が全身を走る。

 10時25分、田代集落奥の田代中バス停着。大無間山には一度、平成5年の8月にこの田代集落から登っている。登山口となる諏訪神社参道入り口まで行くと、「大無間山への登山道は途中林道工事のため、田代集落入り口から登るように」とある。仕方がない。神社の御神水4リッターをポリタンに満たし、バス停一つ戻る。ここから先、大無間山まで水は得られない。集落奥の竹林から指示された登山道に入るが、この付け替えられた登山道はほとんど踏まれておらず相当悪い。薄晴い杉檜林の中をジグザグを切って急登する。5日分の食料に水4リッター加わったザックはずしりと重い。23キロほどあるはずである。おまけにどうも体調もよくない。思うような歩みが取れない。歳のせいだろうか。40分ほど掛ってようやく小無間山から田代集落に伸びる尾根に登り着いた。後はこの尾根をひたすら登ることになる。踏み跡はようやく確りしたが、潅木が覆い藪っばい道である。なかなか諏訪神社からの本来の登山道に出会わない。今日は小無間山頂で幕営するつもりなのだが。

 12時25分、ようやく雷段と呼ばれる1085メートル地点で諏訪神社からの道が合流した。しかし、相変わらず歩みは遅い。このままでは小無間山まで行き着けそうもない。自分自身、苛立つやら情けないやら。とは言っても身体が言うことを聞かない。続けて二つ、見覚えのある倒壊小屋を左に見る。人影はまったくない。花はないが、色とりどりの茸がわずかに目を慰める。私は登りながら「ムケン」のことを思い出している。3年前に、「ムケン」と名付けた田代集落のまだ幼い迷い犬と一緒に大無間山に登った。「ムケン」と出会ったのはこの辺りであったろうか。もう立派な成犬となっているだろう。

 林床はイワカガミがびっしりと覆っている。安倍奥にもイワカガミは多いが、ここのイワカガミは名前の通り、まるで鏡のようにつやつやしている。歩みは相変わらず遅い。とても目的の小無間山までは行き着けそうもない。電波塔ピークにある小無間小屋泊まりを決意する。明日がんばればよい。周りは植林から自然林に変わり、と同時に急登となった。ますます歩みは遅くなる。3年前はどうということなく小無間山頂まで行けたのに。私も既に53歳、気持ちは若いつもりだが、歳相応に体力は落ちたか。いつのまにかガスが沸き上がってきた。

 なんと田代集落から5時間15分も掛って電波塔ピークに登り着いた。標準時間は3時間であるので、我ながら歩みの遅さに呆れる。いつのまにか電波塔は撤去されていた。山頂は草原となっていて、わずかに咲く花がガスに揺れている。すぐ側の小無間小屋に行く。小屋は期待通り無人であった。一晩、一人静かに過ごせそうである。この小屋も以前は中部電力の管理小屋であったはずなのだが、看板が掛け変えられていて「静岡市営小無間小屋」となっていた。夕食を済ませ、外に出てみるといつのまにか山頂に2張りのテントが張られていた。

 うとうとしていたら、けたたましい人声で起こされた。二人連れが小屋に飛び込んできたのだ。時計を見ると6時半、なんとも遅い到着である。これでせっかくの静かな夜は吹き飛んだ。ひとしきりガチャガチャペチャクチャタ食をして、ようやく寝たと思ったら猛烈ないびきと歯ぎしり、寝られたものではない。おまけに夜中に鼠が出ると言って大騒ぎ。こんなことならばテントを張ればよかった。朝は何と、2時に起きて2時半に小屋を飛び出していった。物には限度と言うものがある。やっと静かになって眠りについたが、おかげで寝過ごした。5時出発の予定が、起きたら5時半、今日は昨日の遅れを取り戻すつもりでいたのだが。すでに朝日が原生林を照らしだしている。


13日
 6時15分出発。今日は最悪でも大根沢山までは行かなければならない。いきなり鋸刃の難所に掛る。三つほどの岩峰が立ち並ぷガリガリに痩せた岩尾根である。潅木を手がかりに身体を引き揚げる。今日も意に反して身体が重い。前回はそれほど苦しんだ記憶もないこの岩峰越えがひどく身体に応える。あいにく曇り空で、木々の間にわずかに見え隠れする山々もガスに覆われている。一峰ごとに休んで、ようやく右側が崩壊地となっている小無間山との鞍部に達する。ここからが今日最大の試練である。前回の記憶も生々しい、山頂までの大急登である。覚悟を決めて急登に挑む。潅木や岩角を足掛かり手掛かりとして一歩一歩身体を引き上げる。息は絶え絶えだが、耐える以外にない。傾斜がいくぶん緩やかとなってきた。山頂は近い。足元に真っ白な銀竜草を見つける。

 ようやく見覚えのある小無間山頂に達した。小屋からなんと3時間20分も掛った。標準時間は2時間であるので、今日も何と歩みの遅いことか。山頂は展望はないが、コメツガやシラビソの大木にびっしり覆われた大原生林である。人影はなかった。この山頂で3年前、「ムケン」と一緒に一晩過ごした。小休止の後、大無間山を目指す。なんとか遅れを取り返したい。大原生林の中を緩やかに下り、少し登ると唐松ナギに達した。ここでルートは少し右に曲がるのだが、前回はこの付近が藪となっていて、ルートがはっきりしなかった。今回は踏み跡も確りしており迷う心配はない。このナギの頭からは堂々とした大無間山のすばらしい展望が得られるはずなのだが、今日はガスが渦巻きただ乳白色の膜が辺りを覆っている。

 いよいよここからが大無間山塊の核心部である。緩やかな尾根はコメツガ、シラビソの大原生林となり、林床は苔とイワカガミがびっしりと覆っている。至るところ朽ち果てた倒木が横たわり、その美しさはとうてい口では言い表せない。おそらく日本、いや世界で一番美しい山岳美といってもいいであろう。この美しさを知らずして何の山登りぞ! 日本の山の美しさはここに極まる。しかも今、この大原生林を私は独り占めにしている。なんとも気持がいい。わずかに小鳥のさえずりが静寂を破る。世は百名山プームに沸いているが、さすがの深田久弥氏もこの大原生林を知らなかった。南ア深南部の山は一つとして彼の百名山には選ぱれていない。

 3年前は、ルートファインディングに気を使った大原生林の中の踏み跡も、今は見違えるほど確りしている。赤布も至るところにある。登山者も多くなったのだろう。安心しきって小ピークを越えて進むと、いつのまにか踏み跡がなくなっている。荷物をおいて周囲を探るが、どうもルートを踏み外したようだ。検討の結果、中無間山から北へ伸びる尾根に入り込んだと思える。ピークから90度左に曲がるのが大無間山へのルートである。やはり気を抜くと危険な山域である。さらに進む。前回わかりにくかった二重山稜付近も踏み跡は確りしている。尾根がいくぷん狭まり、傾斜も増してくる。山頂は近いはずだ。中年の二人連れが下ってきた。軽装であり、小無間小屋ピークにテントを張っていたパーティであろう。大原生林の中、気分は至ってよいのだが、歩みは相変わらず遅い。果たして大根沢山まで行けるのか心配である。尾根が痩せ、一瞬、右手に展望が開ける。谷を隔てた目の前に、これから向かう大根沢山のどっしりとした平頂がそびえ立っている。ずいぷん遠い。絶望的な気分となる。これからの予定は大無間山頂に着いてから考えよう。

 見覚えのある遭難碑を遇ぎると、ついに大無間山頂に達した。12時45分である。小無間山から標準時間2時間半のところを3時問弱掛っている。まあまあである。この山頂も無人であった。名物の櫓は取り払われていた。この山頂は草原と赤土の広場となっていて、周囲は原生林に囲まれ展望はない。以前は櫓に登ると展望が得られたのだが。まず水汲みに行くことにする。「水場20分」の標示に従い前無間山との鞍部から草つきのものすごい急斜面を本谷に下る。微かに踏み跡はあるが、躊躇するほどの相当危険な斜面である。ようやく下り着いた水場は、何たることか! 枯れていた。ポトリポトリ程度の水滴が出ているだけである。暗澹たる気持ちでいると、小動物が現われた。オコジョである。逃げるでもなく、私の顔をちらちら見ながら周囲をうろうろする。なんともかわいい。諦めて山頂に引き返す。

 山頂にはテントが張られ三人の若者が露営準備をしていた。水汲みに行こうとする彼らに、枯れている旨を伝えると、「どうしよう」と騒いでいる。これで持参の水は1.5リッ夕ーとなった。この水で今晩、明日を過ごさなければならない。私もこの山頂にテントを張ることにする。予定を大幅に遅れるが、疲れ果てたし、水も得られず元気がない。タ方から雨となった。ラジオは台風12号が九州に接近し、明日から天気が崩れることを伝えている。すでに予備日を半日使ってしまった。この大無間山から光岳の間は逃げ道もなく、降り込められると大変なことになる。どうやら今回の山行きはここまでのようである。夜になって雨は止んだ。物音一つしない原生林の夜は更けていく。


14日
 5時30分、山頂を発つ。幸い薄雲が広がっている程度である。今日の予定を昨晩考えた。もと来た道を引き返すのはいくらなんでもいやである。大無間山塊を完全に縦走して、寸又川左岸林道から寸又峡温泉に下ることにした。約4〜5時間の林道歩きはうっとうしいが、せめてもの意地である。広々とした原生林の中を緩やかに下る。踏み跡は確りしていてルートに心配はない。急となった斜面を下ると鞍部に達した。左に展望が開け、目の前にすばらしい鋭峰が朝日を受けて緑に輝いている。朝日岳だ! 何度も見慣れている山ではあるが、これほどすばらしい姿に見えるのははじめてである。その奥の山々にはガスが掛っている。小峰を越えると三隅池に達した。池というよりも陰欝な湿地帯で水はほとんどない。池畔の大無間小屋はすっかり朽ち果てていた。左側に再び展望が開け、朝日岳の右奥には、前黒法師岳が浮かび上がっている。

 二人の登山者が反対方向からやってきた。どこから来たのだろうか。この深南部では、時たま出会う登山者はみな無口である。黙礼する程度で言葉は交わさない。登りに掛る。ついに深南部名物の笹が出で来た。足首程度の低いもので、歩くのには支障はないが、踏み跡は乱れ始め、縦横に獣道も走ってルートファインディングに気を使い出す。二重山稜の登りとなると、いっそうルートは分かり難くなる。そこを抜けると背丈ほどのスズタケの密生した斜面に出た。赤布も絶え、笹原の中を人の踏み跡とも獣道ともつかぬわずかな踏み跡が縦横に走る。もはや自らの方向感覚と山勘だけでの前進となる。ただし、ここはただ高みを目指せばいいので、それほど心配することはない。周囲にはガスが立ち込めてきた。

 ついに三方嶺に達した。寸又川側に大きなガレを持った小ピークで、大根沢山から光岳へ続く縦走路の分岐点である。もちろん何の標示もない。ガレの縁を微かな踏み跡らしき気配が流れるガスの奥に続いている。本来たどる予定であった縦走路である。山頂には私を慰めるがごとく、たった一本のトリカブトの花がガスに濡れていた。何時かまた来ることもあろう。未練を断ち切る。

 いよいよ寸又川への下りに入る。今日中に静岡に帰るとなるとのんびりもしていられない。しかし、この三方嶺からの下りは何たるルートだ。背丈ほどの一面の笹原でさっぱりルートがわからない。おそらく藪山に慣れぬ登山者はこのルート不明の笹原を目の前にして絶望的な気持ちになるだろう。コンパスで方向を確かめ、縦横に走る獣道を捨い拾い進む。ルート標示はもはや何もない。ガスが立ち込め視界も得られない。寸又川側の登山道は相当荒れていると案内書にあったが、まさにその通りである。考えてみれば、南ア深南部には登山道など似つかわしくない。この山域では人の踏み跡も一つの獣道であっほしい。自らの判断で、ルートを切り開けるものだけが登りえる山域が一つぐらい残されてもいいではないか。

 小鞍部に達すると笹も薄れ、再び踏み跡もはっきりし、赤布も現われる。小ビークを右から巻き、いくぷん右に折れ気味にはっきりした尾根を下る。二人連れが登ってきた。おそらく大垂沢出会い辺りを今朝出発したのであろう。尾根から離れて樹林の中を急降下する。再び単独行者と擦れ違った。いずれも言葉は交わさない。下り切ったところは何たるところだ! 三方窪と呼ばれる鞍部なのだが、背を没する猛烈なスズタケの密生と倒木の窪地で、ルートは判然としない。笹原を抜け、巻道に入るとようやくルートは安定した。笹は消え、コメツガ、シラビソの大原生林の中をひたすら進む。林床は絨毯のような苔とテカテカ光るイワカガミである。案内書にはこの辺りが大無間山塊で一番すばらしいところとある。

 「鹿の土俵場」との標示のある窪地を過ぎ、ちょっとした登りを経るとガレの縁に出た。樺沢のガレである。無気味なガレがガスの底に消えている。ところがここで踏み跡が途絶えた。辺りは一面低い笹が林床を埋め尺くした緩やかな傾斜地で、その中にコメツガの大木がまばらに生えている。笹原の中は縦横に獣道が走り、人の踏み跡との区別はつかない。ガスで視界の利かない笹原の中をいい加滅にたどるが、方向感覚も怪しくなり、どうもルートが発見できない。少々慌てる。ザックをデポし、ルート探索に向かう。地図とコンパスで見当をつけ100メートルほど進んでみるとルート発見した。さすがいい勘をしている。どうやらガレの縁をたどる本来の踏み跡はガレの発達で消えてしまったと思われる。急な下りに入ると、辺りはシロヤシオの木が多くなる。再び巻道に入る。しかしこの巻道はひどかった。かろうじて踏み跡は認識できるのだが、至るところで崩壊し、倒木がいくつも行く手を塞ぐ。ヘキヘキしながら踏み跡をたどる。

 巻道が終わり尾根に出たと思ったら、踏み跡が二つに分かれた。標示があり尾根の左に下る踏み跡を「大垂沢」、右を「樺沢」と示している。樺沢のコルである。ルートを左にとる。周囲の状況は一変した。原生林は終わり、モミの植林と潅木の道となる。しかも逆さ落としの急降下である。とても人の歩く道とも思えない急斜面を潅木に掴まり滑り落ちる。やがて下の方から沢音が間こえてきて小沢の辺に降り立った。やれやれである。山中3日目にしてようやく水場にありつけた。すでに持参の水は200CC程度しか残っていない。腹一杯沢の水を飲みパンを頬張る。下り着いだ沢は100メートルほど下流で大垂沢本流に合流する。沢と本流との間は放置された山葵田になっている。 本流をつるつる滑る飛び石伝いに渡り、下流に進む。もう林道は近い。ところがここからが大変であった。本流を再び渡り返すのだが、掛かっていた橋は朽ち果て渡れない。飛び石を利用してなんとか対岸に渡るが、そこから絶壁を這い上がらなければならない。ヌルヌルの岩角と潅本を利用しての相当危険な岩登りである。なんとか無事這い上がれた。と思ったらまた一難。絶壁の中腹に危なっかしく取り付けられた桟道が続くのであるが、いずれも朽ち果て、いつ崩れてもおかしくない状況である。おまけに崩れた土砂で埋められている。落ちたらまさに命はない。恐々そっと這うように進む。バランスを取るのも難しい。

 ついに寸又川左岸林道に降り立った。時に11時30分である。志とは異なったが、それでも大無間山塊縦走の成功である。大無間山頂からあの悪ルートをよくぞここまで下山したものである。この寸又川から大無間山へのルートはもはや手入れもされておらず、確実に廃道に向かっている。さて、もはや危険はないが、ここから寸又峡温泉まで長い長い林道歩きが待っている。さらに試練は続く。案内書では標準時間4〜5時間となっている。覚悟を決めて歩き出す。ついに雨が隆りだした。もう濡れたっていい。雨のほうが逆に涼しい。40分ほど歩くと展望台と標示された場所に出た。ペンチが設けられ、示されている展望図によると南ア深南部の山々が一望できるはずである。しかし今日は全ての山々は雲の中である。寸又峡温泉まで16.5キロと標示してある。ということはすでに三キロは歩いているので20キロ歩かねばならないのか。ひたすら歩く。通る車とてない。足が痛くなるが、もうやけくそである。雨が本降りとなり、全身ずぶ濡れ。悲惨なものである。ほとんど休まず、約3時間半歩き続けると、見覚えのある朝日岳登山口が現われ、すぐに寸又峡温泉への分岐に達した。意外に早く着いた。吊橋を渡り、疲れはてたづぷ濡れの身体をのろのろと温泉地へと運んだ。

 大無間山から光岳へという夢は実現できなかったが、重荷を背負って大無間山塊縦走という最低限の意地は通した。夢を実現できる日は果たして来るであろうか。それとも、夢は夢として終わってしまうのであろうか。

 
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