藁科川右岸稜 ダイラボウから大鈴山へ 

踏み跡なき藪尾根を辿れば、忘れられた峠道に出会い

1996年4月3日

              
 
玉取バス停(800)→登山口(835〜850)→弓折峠(900〜910)→ダイラボウ(925〜940)→富厚里峠(955〜1005)→大久保山(1040〜1045)→送電鉄塔(1115〜1120)→富沢峠(1140〜1145)→618メートル峰(1240〜1250)→ 大鈴山(1445〜1500)→尾沢渡集落(1615〜1631)

 
 藁科川水系と瀬戸川・朝比奈川水系とを分ける山稜(藁科川右岸山稜と呼ぼう)上に799.7 メートルの三角点峰がある。地図に山名の記載はないが、静岡市岳連発行の「静岡市の三角点 100」によると、このピークを「大鈴山」と呼ぶらしい。もちろん登山ハイキングの対象外の山で、薄い踏み跡が藁科川流域の尾沢渡集落から続いているとのことである。ダイラボウから藁科川右岸山稜を長駆縦走してこの山に登ってみようと考えた。しかし、この山稜は複雑で縦走記録は見たこともない。かなりの藪尾根と想像されるが切れ切れの踏み跡ぐらいはあるだろう。ダイラボウは昨年の2月に宇津ノ山から縦走して山頂を踏んだ。その時は富厚里峠から藁科川流域に下ったので、今回は遠回りとなるが、反対側の朝比奈川流域から登ってみることにする。
 
 3日前に見た鴻巣の桜はまだ固い蕾であったが、静岡市内の桜は既に満開に近い。焼津駅発7時15分の玉取行きのバスに乗る。今日は平日だが会社は休みである。バスは焼津、岡部の街並を過ぎ、朝比奈川に沿って奥へ奥へと進む。この朝比奈川流域は私の大好きなところである。一面茶畑となった低い山並に囲まれ、大きく開けた明るい谷間を朝比奈川がゆったりと流れている。点在する集落はどこも豊かで、歴史を感じさせる大きな家々が多い。堤の桜は五分咲きで里は春爛漫である。
 
 8時、終点の玉取集落で貸し切りバスを降りる。朝比奈川右岸沿いの道を奥へ進む。ここ2〜3日は寒の戻りで今日も2月並みの寒さである。そのかわり空は真っ青に晴れ渡り、うれしいことに空気の透明度も真冬並みとなっている。玉取橋で左岸に移り、すぐに玉取沢ぞいの舗装された小道に入る。右に庚申塚を見て玉取沢集落内のかなり急な道をさらに辿る。10数軒の家々が沢沿いの斜面にへばり付いている。集落を抜け、大きな堰提の上部に出る。この辺りに弓折峠への登山口があるはずなのだがよくわからない。不安を感じながらヘアピンカーブを一つ大きく切ると、右に小道が分かれ小さな道標がダイラボウを示している。やれやれである。鶯が盛んに鳴いている。
 
 100メートルも進むと小道は終点で、再び小さな道標が左の樹林の中の確りした踏み跡をダイラボウと示していた。わずか10分ほどの登りであっさりと弓折峠に着いた。樹林の中で展望はない。この峠はダイラボウから南西に延びる尾根の鞍部で玉取集落と西又集落を結んでいる。名前からして何か伝説でもありそうである。立派な道標があり、尾根上の踏み跡を「ダイラボウ50分」と標示している。ただし落書きがあり50分の下に30分と書かれている。小休止後、気持ちのよい尾根道を緩やかに登っていく。西又峠からの道を合わすとあっさりと見覚えのあるダイラボウ山頂に着いた。峠から30分どころかわずか15分であった。
 
 昨年の2月以来の二度目の山頂である。東面に大きく展望が開けている。眼下を藁科川がゆったりと流れ、その先には静岡の市街地が広がり、駿河湾の背後には伊豆半島も霞んでいる。真っ白な富士もくっきりと見え、まさに真冬並みの空気透明度である。平日の早朝とあって人影はない。山頂の桜も蕾が膨らみかけている。以前あった展望用の櫓はなくなっていた。1年ほど前にこの櫓が崩れハイカ−が負傷するという事故があった。二重山稜の隣のピークにある三角点を撫ぜ、いよいよ縦走に移る。「白雪姫と七人の小人」の像が建つ樹林を抜けると茶畑となる。北面に展望が開け、大無間連峰の背後には真っ白な南アルプスが見える。赤石岳だろう。足元に小さな筒形の真っ白な落花を見る。見上げると大きなアセビの木が満開の花をつけていた。
 
 約15分で富厚里峠に降り立った。今では車道が開通して峠としての雰囲気は失われているが、それでもうれしいことに立派な地蔵堂は残されている。道端にはたんぽぽとすみれが咲き、桜も三分咲きとなっている。ハイキングコースともここでお別れ、いよいよ未知の道なき稜線の縦走開始である。峠の切り通しから稜線に這い上がるルートが無い。杉檜林の中の踏み跡一つないものすごい急斜面を強引に這い上がる。登り上げた稜線上にも期待に反して踏み跡はない。先が思いやられる。ただし樹林の中なので歩くのに支障はない。鞍部に向かって緩やかに下っていくと、左右から明確な踏み跡が登ってきて稜線上にも確りした踏み跡が現われた。やれやれと思いきや、すぐに次の約570メートル峰の登りに入るや踏み跡は左に下ってしまい、稜線上にはものすごい藪のみが残された。灌木と刺草の密生した藪で、踏み跡らしき気配もまったくない。意を決して藪に突入する。稜線上に踏み跡の気配ぐらいはあるであろうとの当初の見込みはあっさりと裏切られた。泣きたい気持ちで藪をかきわける。ただし登りの場合にはルートファインディングの必要がない。高みを目指してひたすら登ればよい。
 
 手入れのよい杉檜が鬱蒼と茂る広々とした山頂に達した。意外にも立ち木に静岡峰山岳会の小さな標示板が打ち付けられている。「大久保山」との標示である。このピークに山名があったのも意外であるが、こんな山に私以外に登った人がいたのも意外である。ルートはここで左に90度曲がるのだが、展望のない広々とした山頂では方向感覚さえも失う。勘を頼りに山頂部を進むと過たず尾根筋が現われた。と同時に微かな踏み跡も現われた。どんどん下って、次の534メートル標高点ピークとの鞍部に達すると、地図にない真新しい林道に飛び出した。藁科川筋から登ってきたと思えるこの林道はほぼ水平に奥に続いている。
 
 534メートル峰は踏み跡もなさそうなので林道を歩いて巻く。鞍部から林道を離れ、送電線鉄塔の立つ約480メートル峰を目指す。稜線上には送電線巡視路があり楽である。ピークを下ると左側から稜線を巻いてきた先ほどの林道に再び出会う。どこに通じるかわからない林道を嫌って無理矢理激しい藪の稜線を辿ってみたが、無駄な行為であった。林道は稜線直下を水平に続いている。小ピークを過ぎると車道の乗っ越す富沢峠に達した。続いてきた林道はここで車道に合わさる。入り口に「大久保山林道」との標示があった。藁科川筋の富沢集落と朝比奈川筋の小布杉集落を結ぶこの峠は地図に峠名の記載はないが、道路開通記念碑とともに地蔵堂も残されていた。ひと休み後、次の約450メートル峰を目指す。明確な踏み跡がありしめしめと思ったのも束の間、1〜2分で椎茸の榾木に突き当たり踏み跡は絶えた。気配を辿ってピークを越え、左に90度曲がって藪っぽい尾根を緩やかに下っていく。
 
 突然、目の前にすばらしい峠が出現した。樹林の中の小さな鞍部を微かな踏み跡が乗っ越し、摩耗した地蔵仏が二体並んでいる。うれしさが込み上げてきた。この藁科川右岸山稜にはきっと地図にもない忘れられた古い峠道があるはずと思っていたが、ついにその幻の峠に出会えたのだ。地蔵仏の一体は下半身が欠けかなり痛んでいるが、安永2年(西暦1773年)の銘が微かに読み取れる。今から200年以上前に祀られた仏である。もう一体には明治43年の銘、この地蔵仏だって86年もの長きにわたりこの峠に鎮座し続けているのだ。檜林の中はしんと静まり物音一つしない。この峠は何という名前なのだろう。峠の一段上には、樹齢数百年と思える杉の大木が一本悠然と立っていた。
 
 次の618メートル標高点ピークに向かう。このピークは南北に尾根筋を持つのだが、ル−トはこのピ−クを東から登って西に下らなければならない。踏み跡もなく尾根筋もない樹林の中の急斜面をひぃひぃいいながら登る。かなり顕著なピークなので、あるいは山頂になんらかの標示があるかとも思ったが、登り着いた細長い平頂は深い樹林の中で、人の登った気配は何もなかった。ここでルートに完全に行き詰まった。西面は伐採跡のものすごい藪で、各種の刺草が大密生していて一歩も踏み込めない。尾根筋もなくどうルートを求めていいのか皆目わからない。しばらく山頂部をうろうろしたがルート発見の手がかりはない。こういうときには、とっておきのルートファインディングの方法がある。教科書どおりに進むべき方向をコンパスで正確に定めて下っては駄目である。見通しも利かず何の目印もないところを人間は正確にまっすぐ進めるわけはない。必ず左右どちらかにずれるものである。しかもどっちへ外れたか自覚できないので、結果的に現在地不明となりルートを失う可能性がある。私のルートファインディングの方法は、最初から左右どちらかにルートを外して下るのである。尾根筋が現われると思われるところまで下ったの後、正しい方向に水平移動する。こうすれば必ず目指す尾根筋に乗れる。
 
 樹林と藪の入り混じったものすごい急斜面をずり落ちるように下る。いい加減下ったところで右に水平移動した。見事に目指す尾根に乗った。さすが自称「藪山の神様」である。次の約620メートル峰との鞍部には二万五千図の破線通り痕跡程度の踏み跡が乗っ越していた。緩やかな登りに入るが踏み跡は全くなく、所々灌木のハードな藪を漕ぐ。人が通ったことがあるとは思えない尾根を忠実に辿る。登り着いた約620メートル峰は樹林の中の広々とした平頂である。この下りもルートファインディングが難しい。北西から西へ進路を変更するのだが、広々とした山頂のため目指す尾根筋はしばらく下らなければ現われない。こんなときは目指す方向をコンパスで定め、ジグザグ気味に進むのがよい。これも藪山でのルートファインディングの知恵である。尾根に乗ると微かな踏み跡が現われる。ようやく大鈴山との鞍部に達した。天気は相変わらず快晴であるが、風がうなりを上げ出している。
 
 いよいよ最後の登りである。一段登ると、伐採用のケーブル基地跡に出た。見上げると大鈴山の北から西にかけての斜面は大規模に伐採され、一面幼苗が植えられている。このためダイラボウ以来初めて展望が大きく開けた。頭上に大鈴山が初めてその姿を現し、北方には大無間山と七ツ峰がよく見える。ここから山頂までの急登がものすごかった。尾根の右側は背よりもわずかに高い檜の幼苗がびっしりと枝を張り、左側は伐採跡のものすごい藪である。歩く隙間がない。絡み付く枝をかきわけ、ズボンの上から突き刺さる刺草を踏みしめ、泣きたい気持ちでひたすら急登に耐える。とても人の登れるようなルートではない。14時45分、ついに目標の大鈴山山頂に達した。ダイラボウからの縦走がついになったのだ。大鈴山山頂も伐採用のケーブル基地跡となっていて大きな櫓が伐採当時のまま残されている。山頂付近の幼苗はまだほんの数十センチのため、展望が実によい。何と!左奥には深南部の主峰・黒法師岳がその端正な三角錐の姿を現している。私の恋人・池口岳のかわいらしい双耳峰も見える。山並の一番背後に白く輝くは光岳であろうか。大無間連峰が壁のごとく連なり、その右には安倍奥の山々がどこまでも重なり合っている。まさかここで深南部の山々が仰げるとは思わなかった。感激の一瞬である。藪を漕ぎ、ルートを探し、長駆ここまでやってきた苦労がようやく報われた。
 
 ダイラボウからここまでは赤布一つなかったが、この山頂は登る人もあると見えて幾つかの山頂標示がある。この標示によって大鈴山は別名「ドンダイラ」と呼ばれることを知る。おそらく「鈍平」であろう。この山頂部は細長い平頂となっているのでこのように呼ばれていると思われる。いよいよ下りである。ルートとする長大な北尾根がよく見渡せる。この尾根が大鈴山への唯一の登山ルートとなっているようで、尾根上の踏み跡は明確でしかも点々と赤布がある。もう心配はいらない。どんどん下ると茶畑が現われ、16時15分、ついに藁科川畔の尾沢渡集落に下り着いた。玉取集落以来初めての人影を見る。静岡行きのバスは15分待ちであった。
 
 稜線上にはもう少しまともな踏み跡があると思ったが、ただただ藪を漕ぐ縦走であった。しかし、地図にも文献にもまったく登場しない名もない忘れられた峠に出会え、しかも、大鈴山山頂からはすばらしい展望を得ることができた。満足な一日であった。