おじさんバックパッカーの一人旅   

東南アジア回遊陸路の旅 (1) 

  悲劇の国・カンボジア紀行

2006年9月20日

      〜9月28日

 
 第1章 旅立ち

 ようやくベトナムへ行ってみる決心がついた。東南アジアの国々の中でこの国だけが未踏破となっている。案内書は2年も前に買込んだのだが、今まで逡巡し続けてきた。理由は唯一つ、この国はインドと並んで、世界一の「心安らかならざる国」としてバックパッカーの間で悪声をはせている。何しろ、旅行者と接するありとあらゆる人間が、身ぐるみ剥がしてやれと待ちかまえており、この国を旅すると心身ともにくたくたとなるという。あの米国を叩きのめした国、一筋縄で行く国ではない。しかし、一方では何とも心誘う国である。アオザイ姿のベトナム女性は魅力的だし、ベトナム料理の美味しさは世界に知れ渡っている。世界遺産も5ヶ所を数える。乾坤一擲、その大地を踏みしめてみようか。

 さて、南北1200キロもあるベトナムをどう攻略しようかと、地図を眺めているうちに夢がどんどん広がった。先ず出発地点はいつもの通りタイのバンコクだ。ここからカンボジアを突っ切って陸路でベトナムのサイゴン(ホーチミン)に行くのが面白そうである。カンボジアはアンコールワットのあるシュリムアップだけしか行ったことがないので、首都プノンペンに立ち寄ろう。ここからサイゴンまではバスで1日の距離だ。それからバスと列車でトコトコとベトナムを北上して首都ハノイまで行く。どうせならさらに北上して中国国境まで行ってみるか。となると、国境を越えたくなるが、それはその時の残存日数と残存資金と相談して決めればよい。以上でおおまかなルートが決定。航空券はいつもの通りエアーインディア(AI)の45日オープンを購入した。これだけ日数があれば中国まで行けそうである。

 ベトナムのビザを得んと、元代々木の大使館に出かけた。高級住宅地の中の立派な大使館であった。ベトナムは15日以内の滞在ならビザは必要ないが、今回は1ヶ月近く滞在する予定である。係のオッサンがいやに愛想がいい。わずか15分でビザは発行された。ところが料金は8,000円だという。思わず、「えぇぇーーー」と声が出てしまう。「地球の歩き方」には5,000円とある。領収書にも8,000円と記載されているので、チョロマカシではなさそうである。しかし、何と高いことか、ボッタクリである。代金を払うと、何と、「ありがとうございました」と言う。まるで商売である。びっくりした。後日サイゴンで出会った北海道の男性は、パスポートを大使館に送ってビザを取得したが、料金は6,000円であったと話していた。どうも今もって納得がいかない。

 
 第2章 タイからカンボジアへ
 
  第1節 クーデター直後のタイへ

 9月20日(水)早朝、準備整い、いざ出発。ところが、パソコンを閉めようとしてびっくりした。バンコク在住のI君から緊急メールが届いている。何と! 「タイでクーデター発生、状況流動的なので出発を延期すべし」とある。と、言ったって出発5分前、今更延期なぞ出来そうもない。もし危険な状況なら、成田でのチェックインの際に何らかの規制があるだろう。ザックを担いで家を出る。成田空港ではクーデターのクの字もなく、平常通りのチェックイン。ガラガラのAI306便は、珍しく遅れることもなく、夕方5時前にはバンコク・ドンムアン空港に着陸した。窓外に目を凝らすも兵士の姿など皆無、本当にクーデターなど起ったのかいな。空港から街の中心部に向うも、兵士1名、戦車1台も見られない。狐につままれた感じである。何はともあれ、旅の出発点・バンコクに無事やって来た。気温29度と蒸し暑い。

 9月21日(木)。新聞には「King endorses CDR」の文字が踊っている。タイでは王様の意向が最大の決め手、おまけに世論調査での国民のクーデター支持率は84%とある。勝負あったである。戦車の前でにこやかに記念撮影をする人々の写真も掲載されている。緊張感なぞ微塵もない。スクンビット通りも平常とまったく変わらず、多くの外人観光客で賑わっている。

 今日は一日、旅の準備に費やする。先ずはBTSに乗ってルンピニー公園近くのカンボジア大使館にビザの申請に行く。日本のカンボジア大使館で申請すると発給は2日後だが、バンコクのカンボジア大使館では午前中申請して当日夕方発給である。国境でのアライバルビザの取得も可能だが、賄賂を要求される可能性がある。事前に取得しておくほうが安全である。料金は1,100バーツ(約3,300円)、ベトナムの半分以下であった。申請者のほとんどが旅行代理店で、1人で10冊、20冊のパスポートを抱えている。さすがに個人で申請に来るものは少ないようである。

 
  第2節 いざ、カンボジアに向けて

 9月22日(金)。いよいよ旅立ちである。先ずはカンボジアの首都・プノンペンを目指す。タイ/カンボジア国境越えとしては、アランヤプラテート(タイ)/ポイペット(カンボジア)間が普通であるが、私は海岸沿いの国境、ハット・レック(タイ)/コ・コーン(カンボジア)間で越える計画である。極めて少数派だろう。差し当たり今日は、バスでカンボジアとの国境近くの街・トラートに向う。その気になれば今日中に国境を越えられるが、夕方遅くの国境越えは嫌である。9時、スクンビット通り、エカマイの東バスターミナルへ行く。バンコクにはバスターミナルが三つあるが、南部へのバスは東ターミナルから発着する。ここで初めて警備する兵士の姿を見た。ただし緊迫感はゼロである。

 9時40分、トラート行きの豪華バス(といっても、普通の観光バス程度だが)は定刻10分遅れで発車した。座席は空席が目立つ。これから約5時間の旅である。発車してすぐにミネラルウォーターと小さな菓子が配られた。バスはパタヤに続く高速道路を快調に走り続ける。この道はバンコク駐在時代に何度も通った道、窓外に広がる景色に懐かしさを覚える。バスは1時間半走って、チョンブリのガソリンスタンドで10分間の給油兼トイレ休憩。ここから高速道路を離れてチャンタベリー方面への一般道路に入る。車内ではビデオ上映をしているのだが、大音響。騒音以外の何物でもない。

 さらに2時間30分走って、チャンタブリーのバスターミナルへ滑り込んだ。この街は宝石の集積地として名が知れている。乗客の半数近くが降りる。バスはすぐに最終目的地タラートに向け出発した。何と激しく雨が降ってきた。9月は雨期の最盛期である。ほぼ毎日雨が降る。今バスが走っている道はスクンビット通り。バンコクのメインストリートの一つであるこの通りは、何と、トラートまで続いているのである。

 そろそろトラートと思うころ、バスは街を大きく迂回する形で、郊外の真新しいバスターミナルへ滑り込んだ。ここが終点だと言う。案内書ではトラートのバスターミナルは街の中心にあることになっており、一瞬困惑する。バスを降りた乗客は次々と待機していた1台のソンテウ(小型トラックの荷台に座席を設けた車)に乗り込む。勝手がわからず、ポカンとしていたら、運チャンが「街まで行くならこれに乗れ」という。どうやら街までの連絡交通機関のようである。小雨の降る中、ガイドブックにあるS.A Hotelへ入る。1泊500バーツ、やはり地方は安い。街の中心部はそれなりの街並みと賑やかさはあるが、30分も歩けばひと回りできるほどの小さな街である。食堂が見つからず困ったなぁと思ったが、夕方から街の中心部の広場に屋台村が出現した。

 
  第3節 カンボジア入国

 9月23日(土)。いよいよ今日は国境を越える。国境の集落ハット・レックまでミニバスがあるはずである。ホテルで聞くとバスターミナルから出るとのこと。小雨の中、バイタク(オートバイタクシー)でバスターミナルまで行く。乗客が集まるまで30分ほど待たされたが、8時30分、12人乗りのワゴン車は国境に向け出発した。乗客の中にバックパッカーと思える中年の欧米人が1人いる。ここから先、タイの領土は海岸に沿って細長くカンボジア領土に食い込んでいる。右側に続くはずの海は見えないが、左側には国境となる山が迫っている。周りは鬱蒼とした原生林が続き、時々小さな集落が現れる。約1時間でタイ最後の集落らしい集落クロン・ヤイに到着、旅行者2人を残して乗客は皆降りてしまった。ふと気がつくと、腕時計が止まっている。この時計は2年前にミャンマーへ行ったときにも止まってしまい、捨てようかと思っているうち、また動き出したので使っていた。そろそろ限界のようだ。時計なしでは旅は出来ないので、どこかで購入せざるを得まい。

 約30分で、タイ側の国境ハット・レックに着いた。国境といっても、遮断機が道路を塞いでいるのでそれと分かるが、道端に掘っ立て小屋のイミグレーションがあるだけである。それでも何軒かのバラック建ての店が並び、密輸品なのだろうか、酒やタバコ、時計や宝石を売っている。早速、スイス製の時計を1,200バーツ(3,600円)で購入する。もちろん偽物だろうが。

 ミニバスを降りた瞬間から数人の男につきまとわれている。いずれもカンボジア人のバイタクや白タクの運ちゃんである。国境からカンボジア側の集落コ・コーンまで公共交通機関はないので彼らを利用せざるを得ないのだが、何とも胡散臭い。国境は自動車以外は何の規制もしておらず、人々は自由に行き来している。出国手続は簡単にすんだ。カンボジアのイミグレーションは100メートルほど先である。はげちょろの舗装道路がそのまま続いているが、国境を越える車は見当たらない。つきまとう男どもを引き連れてのんびり歩いて行く。右側は荒れ地が海まで続き、両国国旗がぽつんと立っている。ここが両国の境なのだろう。カンボジアのイミグレーションも粗末な掘っ立て小屋であった。今までに陸路で幾つも国境を越えたが、これほどお粗末な国境は初めてである。ビザを取得ずみのこともあり、入国手続も簡単にすんだ。税関検査はない。これで晴れてカンボジア入国である。ここから先は、タイのように穏やかな国ではない。心して行かなければならない。

 イミグレーションの数十メートル先がバイタクや白タクの溜まり場。さらに数人の男どもに囲まれる。さて、ここからは、車で行かざるを得ない。案内書には「コ・コーンまで相場は50バーツだが、相当吹っかけてくるので注意」とある。バイタクに料金を聞くと50バーツとの答え。お客がいないため、吹っかけてはこないようだ。ところが、タイのイミグレーションから付きまとってきた白タクの運ちゃんが、自分も50バーツでいいと言い出した。しかも、コ・コーンへ行くには途中有料の橋を渡らなければならないが、その料金40バーツも込みだという。少々怪しげな雰囲気だが、大きなザックを背負っており、オートバイより乗用車の方がいいに決まっている。案内書に載っている幾つかのホテルの名を告げて車に乗り込む。

 案の定、車の中では、「今晩女はどうか。15、16歳、200バーツと安いよ」「ハッパ(マリファナ)はどうだ。ここでは取り締まりはないよ」「いいレートで両替をするよ」と絶え間なく誘ってくる。怒らしても危険なので、「その話しはホテルに着いてからだ」とはぐらかし続ける。コ・コーンへは、以前は入り江を船で渡らざるを得なかったが、4年前にタイの援助で立派な橋が架かった。橋を渡り、小さな集落に入る。一軒のホテルに着き、「このホテルがベストだ」という。私が指示したホテルとは違うが、部屋を見せてもらうと満足できる範囲。15USDの言い値を13USDに値切ってここに決める。どうせ運ちゃんはホテルから紹介料がもらえるのだろう。部屋まで荷物を運んできて、「女、ハッパ、ーーー」といい続ける運ちゃんを今度は強気に追い払う。やれやれ、何とか無事にカンボジアに到着した。時刻はちょうど正午である。

 すぐに、集落の中心部まで行ってみる。外はカンカン照りで、さすがに暑い。街までは意外に遠かった。1.5キロほどある。どうやら、中心部から一番遠いホテルに連れ込まれたらしい。まぁ、1泊だけ、我慢しよう。適当な食堂を見つけて昼食、メニュの価格はタイ・バーツ建てであった。このタイ国境の集落では、通貨はUS$、タイ・バーツ、カンボジア・リエルが混在している。言葉もタイ語が完璧に通じるし、英語もタイよりはよほど通じる。集落の中心部といっても、埃っぽい広い道の両側に薄い家並みがあるだけの小さな村である。それでも割合大きな市場がある。その周辺には何軒かの両替屋が並んでいる。リエルをまったく持たないのも不便なので20US$両替する。1US$=4000リエルである。

 ホテルに戻ったが、やることもない。ホテル前で暇そうにしているバイタクの運ちゃんに周辺一周を持ちかけると1US$でOKという。周辺には特別見るべきものはない。薄い街並みの外は湿地帯と荒れ地が広がっているだけである。それでも渓谷があった。大勢の家族連れが水と戯れている。カンボジアも平和になったものだとつくづく思った。明日は船でシアヌークビルに向うつもりなので、ホテルに相談すると、チケットをわざわざ買ってきてくれた。場所は不便だが、おかしなホテルではない。ただし、日暮れとともに、隣のレストランで歌謡ショウが行われて、大音響のマイクが真夜中の1時半までがなり立て、寝られなかった。

 
  第4節 シアヌークビル

 9月24日(日)。コ・コーンから首都プノンペンに行くには、シアヌークビル(コンポンソム)を経由することになる。シアヌークビルまでは船便が一般的である。バスもあるようだが、途中の何本かの川には橋がなく、時間が相当掛かるらしい。船の出帆は8時、7時半に迎えに来るよう昨日のバイタクの運ちゃんに言ってある。数分で港に到着した。100人乗りほどの高速船が既に停泊していた。

 30分遅れの8時半、船はシアヌークビルに向って出帆した。約5時間の船旅である。乗客は1/3程度、ガラガラである。何人かの欧米人のバックパッカーも乗り合せている。外海に出ると、船は大きく揺れだす。デッキに出て景色を楽しむなどという余裕はない。3人分の座席に寝そべり耐える。窓から覗いても陸地は見えない。3時間ほど走ると港に接岸した。どこだかは分からない。大勢の乗客が乗ってきて満員となった。ただし、ここからは、内海に入ったとみえ、揺れは収まる。

 12時30分、船はようやくシアヌークビルに到着した。桟橋に下り立つ。見渡すと、港付近には街並みはなく、海岸から大きな丘陵がうねりながら内陸に続いている。桟橋出口ではパスポートチェックが行われていた。係員がパスポートを見ながら帳簿に何やら書き込んでいる。船を降りた瞬間から1人のデブに付きまとわれている。バイタクの運ちゃんらしいが、その馴れ馴れしい態度にへきへきして、相手にしていない。

 桟橋出口は出迎えの人や車でごった返していた。しかし、期待に反し、誰も寄ってこない。1日1本の定期船が着いたのだから、バイタクの運ちゃんやらホテルの客引きが待ちかまえていると思ったのだが。港から安宿街まで数キロある。バイタクのデブと交渉せざるを得ない。値段を聞くと300バーツとぬかす。ふざけるんじゃない、吹っかけるにも程がある。1US$でようやく合意し、ミリチェンダ・ゲストハウスを指示する。しばらく走って地道の路地奥のゲストハウス(G.H)に着いた。ちょっと違和感を感じ、「ここはミリチェンダG.Hか」と確認するも、デブはそうだという。12UD$という部屋を見せてもらうと、いい感じである。受付のねぇちゃんとにぃちゃんも愛想がいい。旅装を解く。

 しかし、どうもおかしい。受付で英語が充分に通じないし、食堂もない。ミリチェンダG.Hはバックパッカーの巣であり、英語が通じないということはあり得ない。確認してみると、やはり違う。デブに1杯食わされたようである。おそらく、このG.Hからたんまり紹介料をせしめたのだろう。とは言っても今更遅い。充分確認しなかった私が悪い。ねぇちゃんに昼飯を作ってもらってひと息つくも、部屋のクーラーが効かない。部屋を変えさせるが、水シャワーの部屋。10US$に負けさせはしたがーーー。2泊する予定でいたが、明日はG.Hを変えよう。決しておかしなG.Hではないが、何せ1軒だけ孤立しており、他に宿泊者もいない。

 すぐに海岸に行ってみる。G.Hからほんの数分の距離である。シアヌークビルはカンボジア唯一のビーチリゾートである。案内書には「数日間ゆっくり滞在したいような素晴らしいところ」と記されているので期待してやってきた。しかし、砂浜も狭く、マリンスポーツの類いは何もない。地元の家族連れや子供たちが、波と戯れているだけである。しかも皆、服を着たまま海に入っており、ビキニのねぇちゃんなど1人もいない。それでも海岸沿いには、幾つものリゾートホテルが新設され、カジノまである。面白いこともなさそうなので、歩いて15分ほどの安宿街に行ってみた。20軒近いG.Hが並び立ち、付近には食堂や旅行代理店も多くある。この地区に泊まれば便利だったのだが。

 9月25日(月)。朝、チェックアウトしてバイタクで街の中心部へ行く。シアヌークビルの町はリゾートホテルなどの建ち並ぶ海岸地区と、そこから数キロ内陸の元々の街並みの二つに分かれている。今日はこの本来の街を探索してみるつもりである。うねる丘陵を2〜3越え、10分ほど走ると街並みに入った。先ずはG.S.Tバスターミナルへ行く。明日、バスでプノンペンに向うつもりなので、そのチケットを確保しておく必要がある。

 バスターミナルの隣にきれいなホテルがあったのでチェックインする。料金も10US$と安く、設備も完璧に調っている。中国系のホテルである。早速、街に繰り出す。道も広く、東南アジアらしからぬ垢抜けした街ではあるが、意外に小さい。30分も歩くと1周できてしまう。見るべきものは市場以外何もない。お寺も見当たらない。ただし、市場奥の街外れに置屋街を見つけた。けばけばしい「マッサージ」の看板が立ち並び、午前中だというのに、女が入り口で手招きをしている。値段を聞くと5US$、コ・コーンで聞いた200バーツと符合する。今日は朝から雨が降ったり止んだりしている。ただし、しとしと雨ではない。ものすごい雨が間欠的に5分〜10分降り、ぴたりと止む。いかにも南国的な雨である。季節はまだ雨期である。

 この街の名前は、「地球の歩き方」では、「コンポンソム(シアヌークビル)」となっているが、現在、現地での表示は全て「シアヌークビル」である。「コンポンソム」の名はポルポト時代の名称である。この街は、カンボジアがまだ平和だった1950年代、カンボジア唯一の国際貿易港として、国の期待を一身に背負って作られた新しい街である。首都プノンペンと結ぶ国道4号線も、街と同時に建設された。しかし、ポルポト時代、街は破壊されてしまった。平和がようやく戻った今、街は再び、リゾートというもう一つの顔を付け加えて、大いなる発展が期待されている。街の隅から隅まで歩き回ってホテルに戻る。この街でもタイ語はよく通じるし、タイ・バーツも流通している。テレビにはNHKが映る。

 
  第5節 首都プノンペンへ

 9月26日(火)。いよいよ今日はバスで首都プノンペンを目指す。本当は列車に乗りたかったのだが、シアヌークビル←→プノンペン間の鉄道は現在運休中である。8時15分、バスは定刻通り出発した。バスの車体には「Child Sex Tourists Don't Turn Away. Turn Them In」と大書きされている。この標語は街のあちこちで見かけた。カンボジアに秩序が戻ってきた証拠だろう。座席は全て埋っている。私の隣は中年のオーストラリア人、やはり1人旅とのこと。その他バックパッカーの姿も2〜3組見られる。バスは緩やかな上下を繰り返しながら丘陵地帯を走り続ける。道は非常によい。この国道4号線はカンボジアで最も整備された道である。オートバイが多いが、トラックや乗用車もそれなりの数、行き来している。しかも、それほどのボロ車も見られない。3年前に訪れたカンボジアは車などめったに見られなかったがーーー。この事にも着実な復興の足跡が感じられる。

 今日も朝から雨が降ったり止んだりである。2時間ほど走ってドライブインで15分休憩。さらにバスはプノンペンを目指す。車窓の景色は平凡である。油椰子の林や、水田も時々見られるが、荒れ地が多い。どこまでも広がる青々とした田圃と言う風景は見られない。やがてプノンペンの街並みに入った。大きな街だ。12時30分、バスはセントラルマーケット近くのG.S.T社営業所前に着いた。

 バスを降りると、ワッとバイタクの運ちゃんが押し寄せる。待合室に逃げ込んで、ひとしきりの喧騒が終わるのを待つ。人のよさそうな運ちゃんにナリンG.Hを指示する。老舗のG.Hである。ここならば、次の目的地・サイゴンまでの自前の交通手段を持っているはずである。連日の雨でぐじゃぐじゃにぬかるんだ地道に面したG.Hに到着した。「この部屋がベスト」と、5US$の部屋に有無を言わず放り込まれてしまった。エアコンもなく水シャワーだが仕方がない。欧米人の若者がたくさん泊まっている。

 
  第6節 累々たる頭蓋骨の山 Killing Field

 遅い昼食を済ませ、さて、どうしようと思っていたら、G.H出入りのバイタクの若者が、Killing Fieldへ行かないかと誘う。往復5US$でいいという。Killing Fieldとは「屠殺場」とでも訳すのがふさわしいのだろうか、ポルポト時代、数万の人々がまさに家畜を屠るがごとく殺された処刑場跡である。明日訪れるトゥール・スレン博物館とともにカンボジアの負の遺産であり、また、アウシュビッツとともに20世紀の人類の負の世界遺産でもある。プノンペンの南西約12キロにある。

 街中を抜け郊外に出る。左側には雨期で増水した湿地帯が広がっている。やがて街道筋を離れ、地道のどろんこ道を進む。周りは農村風景である。バイタクの運ちゃんはしきりに射撃場に寄っていこうと誘う。本物の銃で射撃できるらしい。断ると、約束の5US$は片道運賃、往復で10US$だとぬかし始める。「馬鹿野郎」と日本語で一喝したら黙ってしまったが。

 40〜50分掛かってようやくKilling Fieldに到着した。目の前に高さ10メートルほどの建物が建っている。慰霊塔である。中には累々たる頭蓋骨が山となって納められている。まさに、吐き気を催す光景である。その数約9,000個、いずれもこの地に埋められていた遺体を掘り返して納めたものである。まだ周辺には万を越える遺体が埋められたままになっているという。慰霊塔背後の林の中を歩く。あちこちに遺体を掘りだした穴が見られる。今歩いているこの地面の下にも、まだ多くの遺体が眠っているのだろう。後ろ手に縛り上げて穴の前に座らせ、後頭部を棍棒で殴って撲殺し、穴に放り込んだらしい。雨が再び激しく降ってきた。暗然たる気持ちで、Killing Fieidを去る。
 

  第7節 王宮とシルバーパゴダ

 9月27日(水)。ひと晩中降り続いていた雨も朝方に止んだ。ただし相変わらずの曇り空、いつ降りだすか分からない天気である。今日は1日プノンペン市内を探索するつもりである。昨日のバイタクの運ちゃんと交渉して10US$で1日チャーターすることにした。いまひとつ信用できない若者だが、悪者ではなさそうである。プノンペンは美しい街である。並木の続く道は広く、道を占領する屋台もなく、また高層ビルがないので何とも開放的である。通る車も多からず少なからず、同じ東南アジアの首都でもバンコクとは雰囲気が大いに異なる。

 すぐに王宮に到着した。5US$の入場料を払って、敷地内に入る。黄色い屋根と59メートルの尖塔を持つ即位殿を中心に、豪華絢爛たる大理石の建物が建ち並んでいる。この王宮は1866年、王都がウドンからプノンペンに遷都されたときに建設され、1919年に現在の形に再建されたという。王宮にはシハモニ現国王(2004年10月即位)が居住しているとのことで、即位殿より奥は立ち入り禁止となっている。敷地内の一角に、他の建物とまったく調和しない灰色の洋館が建っている。ナポレオン3世の妻・ユージーヌ妃からノロドム王に贈られた建物だという。フランス植民地時代の事である。フランスはカンボジアを植民地化してからも、カンボジアの王室を存続させた。

 王宮と塀を隔てた隣がシルバーパゴダ、即ち王室寺院である。こちらも贅の限りを尽くしている。何しろ、床には重さ1,125グラムの銀板5,329枚が敷き占められ、仏像には2,086個のダイヤモンドがちりばめられているというのであるから。この寺はノロドム王時代(1859年〜1904年)に創設され、1962年にシアヌーク王によ現在の形に再建された。

 この素晴らしい王宮と王宮寺院を目の当りにして、私は大いなる違和感を抱いた。そして、心の底から怒りを覚えた。1975年4月、毛沢東の中国の全面支援を受けたポルポト派(クメールルージュ)はプノンペン入城を果たし、政権を樹立する。と同時に、都市住民を全員農村への強制労働に駆り立て、知識人を徹底的に殺害した。プノンペンはまさに無人の廃虚と化したのである。そのような、悲惨な歴史の中で、この豪華絢爛たる王宮や王室寺院がなぜ、無傷のまま残っているのか。このことこそ、前国王シアヌークが、国家と民族を裏切り、国民を悪魔のポルポト派に売り渡した証拠ではないのか。

 シアヌークは1970年の右派ロン・ノル将軍のクーデターにより王位を追われ北京に亡命する。そして、こともあろうに、自らの王位復活のために、ポルポト派と組んで巻き返しを図るのである。ポルポト派としては、最大の援助国・中国の懐に飛び込んだシアヌークを粗末にするわけには行かない。こうして、王宮と王室寺院は無傷のまま残った。ただし、その陰で数百万人の国民が虐殺された。

 
  第8節 国立博物館とワット・プノン

 次の訪れたのは王宮の隣の国立博物館である。1920年開設の、まるで寺院のような優雅な建物である。館内にはクメールの至宝が所狭しと展示されている。ジャヤヴァルマン7世像、8本の腕を持つヴィシュヌ神、黒い貴婦人像、横たわるヴィシュヌ神の胸像。まさに垂涎の作品である。栄華を誇ったアンコール王国に思いをはせる。特に、ジャヤヴァルマン7世像は世界に知られた名作である。彼は、アンコール王朝中興の英雄であり、チャンパ王国と死闘を演じた。私はこの後、そのチャンパ王国を訪ねる予定である。

 プノンペン発祥の地ワット・プノンへ行く。プノンとはクメール語で丘を意味する。名前の通り小さな丘の上に建つ寺院である。1372年、ペンという名の1人の女性がこの丘の上に寺を建てた。これがプノンペンの名前の由来である。今でもプノンペン市民の厚い信仰を得ている。東側の正面登り口は修理中であったので北側の階段を登り本堂に入る。中は線香の煙が充満し、折しも、1人の女性が熱心な祈りを捧げていた。寺の裏側にはペン婦人を祀った小さな祠もある。こちらでも何人かが祈りを捧げていた。

 
  第9節 トゥール・スレン博物館

 ロシア・マーケットをぶらつき、大衆食堂で昼食をとった後、覚悟を決めてトゥール・スレン博物館に行く。ここは、観光気分で行けるところではない。まさに地獄の城、20世紀における人類最大の恥部ともいえる場所である。1975年4月、ポルポトを首魁とするクメールルージュは中国の全面支援の下、内戦を勝ち抜きプノンペン入城を果たす。と同時に凄まじい殺戮を始める。その犠牲者の数は200万人とも300万人とも言われている。カンボジアの全人口が1,000万人程度であるから、国民の20〜30%を虐殺したのである。その本拠地がこれから訪れるトゥール・スレン刑務所、現在はトゥール・スレン博物館としてその残虐性を後世に伝えている。

 入場料を払い敷地内に入る。学校の校舎のような3階建ての建物が4棟建っている。ここは元々高等学校であったのだ。庭には鉄棒などのその痕跡が残されている。最初の一棟に入る。廊下に沿って教室が並ぶ。ただし、室内には机も椅子もない。あるのは鉄製のベッドだ。このベッドに縛りつけて拷問の数々が行われた。次の棟に入る。教室は無数の小さな独房に改造されている。食事も排泄も全てこの中で行われたという。まさに家畜以下の待遇である。3棟目に入る。パネルに貼られた無数の顔写真、いずれもここで拷問を受け、Killing Fieldに送られて殺害された人々である。どういうつもりか、殺害する前に全て顔写真を撮っている。女性の写真も多い。ほとんどが若者である。4棟目は、拷問器具や残酷な写真が展示されている。三階では、殺された僧侶と、同じく殺されたその恋人の物語が、映画で上映されていた。人間はここまで残酷になれるのか。まさに我々に突きつけられた世界第一級の負の遺産である。

 ポルポト派が繰り広げた凄まじい虐殺は、人類の恥、非難しても非難しきれない行為である。ところが、不思議なことに、その「落とし前」が未だについていないのである。国際社会は同派幹部に対する裁判実施を求めた。カンボジア政府もまた国内に特別法廷を設置する旨表明し、2001年8月カンボジア国内法である特別法廷設置法が国王の署名を経て正式に成立した。しかし、その後、その実施はうやむやとなり、未だ何にも行われていないのが実情である。ポルポト派の幹部はタイとの国境の街パイリンでのうのうと暮しているらしい。国際社会も現カンボジア政府もこの問題に深入りしたくない理由がある。国際社会には、ポルポト派が殺戮を繰り返している間、なんら有効な手を打てなかったという後ろめたさがある。最終的にこの殺戮集団を排除したのはベトナムであった。

 もう一つは、中国の責任である。ポルポト派を最後まで支持し、物心ともに援助し続けたのは中国である。ベトナムがカンボジアに侵攻してポルポト政権を倒すや、怒ってベトナムに侵攻するという愚挙までしたのであるから。ポルポト派を裁けば否応なしに中国の責任問題が浮上する。国際社会がおよび腰の理由のひとつである。それにしても、中国からこの問題に対する反省の声は未だに聞こえない。他国に対しては戦争責任を声高に叫んでいるが。

 夕方からまた雨が強く降りだした。明後日、ベトナムのサイゴンへ向うつもりでいる。G.Hで行き方を相談すると、このG.Hからサイゴン行きのバスが出るとの答え。さすが、バックパッカーご愛用のG.Hである。しかし、依頼したランドリーサービスで、Tシャツを1枚なくされてしまった。「見つかったら連絡します」で、チョンである。結局、見つからなかった。

 
  第10節 古都ウドン

 9月28日(木)。今日はカンボジアの古都ウドンを訪ねる。プノンペンの北約40キロに位置する小集落である。ウドンは1618年〜1866年までの250年間カンボジア王国の都であった。9世紀以降インドシナ半島に覇を唱え続けたきたアンコール王朝も1431年、タイに興った新興勢力・アユタヤ王朝の攻撃を受けて王城アンコールは占領され、王ダンマソカラージャディラージャ2世は殺される。実質上のアンコール王朝の滅亡である。しかし、その子ポニエ・ヤートが王位を継ぎ、都城をメコン河畔のスレイ・サントー、続いてプノンペン、ロンヴァエク、ウドンと移しながら、細々と王朝の残り火を灯し続ける。ただし、15世紀以降は西のシャム勢力(アユタヤ朝、チャクリ王朝)、17世紀に入ると東のベトナム勢力(阮朝)により国土は蚕食され、王朝の余命は尽きなんとしていた。この危機的状況の中、1863年、時の王ノロドムはフランスに保護を求め、自らフランスの植民地となって王朝の存続を図った。結果として、この決断によって、カンボジアという国が現在も存在しえたのだがーーー。

 ひと晩中降り続いていた雨も明け方に止んだ。8時、いつものバイタクで出発する。国道5号線を一路北上する。片道約1時間のドライブである。空はどんよりして、いつ降りだしてもおかしくない天気である。道は確り舗装されている。通る車は多くはないが、それでも、トラックや乗用車の姿が頻繁に見られる。道端では牛が草を食み、時々車の行く手を遮る。右側はトンレサップ川が流れ、道路はその堤防の役割も兼ねているようである。圧巻は左側である。満々と水を湛えた巨大な湖水がどこまでも続く。水面には、まるで浮き島のように、緑の島がたくさん浮いている。しかし、よく見ると、いずれも樹木の頂の部分である。雨期の洪水により林が沈んでいるのである。おそらく、トンレサップ川の氾濫原なのだろう。大陸における雨期というものを実感する。

 時々通過する小さな集落では、頭にターバンのように布を巻いた人々を見る。チャム族だろう。アンコール王国と死闘を演じたベトナム中部の強国・チャンパ王国は17世紀にベトナムによって滅ぼされる。そして、チャンパ王国の担い手であったチャム族は祖国を追われ東南アジア一帯に離散した。このトンレサップ川一帯にも彼らの集落がたくさんある。ポルポト時代、チャム族は徹底的に殺された。その数は人口の2/3にのぼるといわれる。現在、カンボジアに住むチャム族の人口は約20万人である。

 小1時間走り、尻が痛くなるころ、左手遠くに低い山並みが見えてきた。目を凝らすと、山頂に幾つかの仏塔が見える。ウドンである。国道から外れ山に向って小道を進む。山裾の小さな集落に着いた。ここがウドンである。かつての王都も今はその栄華の跡を示すものは何も残っていない。ただ、背後の小山の上に立つ幾つかの仏塔だけが、かつての栄光を示しているのだ。目の前から、山に向って一直線の石段が長々と続いている。周辺には土産物や菓子、果物を売る露店が幾つか並び、小規模ながらも観光地の態をなしている。

 石段を登る。所々に物乞いが座っている。しかし、しつこくはない。今日でカンボジアに入国して6日目であるが、意外に思ったことがひとつある。物乞いの姿が見られないことである。コ・コーンでも、シアヌークビルでも、プノンペンでも、その姿を見ることがなかった。タイのバンコクなど物乞いだらけである。スリランカやバングラデシュディッシュなどは国中物乞いで溢れている。カンボジアも3年前にシュムリアップを訪れたときは多くの物乞いがいた。アジア最貧国のひとつであるこの国には多くの物乞いがいると思っていたのだが。やっと物乞いに出会って妙にほっとした。

 麓から小学生と思える二人の少年が同行している。頼んだ覚えはないのだが、案内役をかってでている。どうせお小遣いが欲しいのだろうが。1人は教科書のような分かりやすい英語をしゃべる。相手をするのにちょうどよい。一般的にカンボジアではタイよりよほど英語が通じるのだが、その発音は非常に聞き取りづらく、少々閉口していた。13歳だという。どこで英語を習ったのかと聞くと学校との答え。ただし、学校の授業は週3日きりになく、また、英語の授業を受けるには別料金が必要とのことであった。

 休み休み長い石段を登る。所々にヤスデを数倍大きくしたような多足類がいて気持ちが悪い。20分ほどで稜線に達した。ここに真新しい仏塔が建っている。その境内からの展望が素晴らしい。東を望むと、足下には森の中に点在する家々が見える。ウドンの集落である。ひときわ大きな建物は学校だという。その背後には広大な湖水が広がっている。雨期で水没した森林だろう。北へ目を向けると、低い山並の連なりが見える。アンコール王国の故郷シュムリアップ辺りだろうか。西側はただただ一面に水田が広がっている。

 稜線を北へたどる。すぐに白いタイル張りのきれいな仏塔に出会う。基部には象の彫刻がなされている。チャイ・チェター王(在位1618年〜1626年)が建てた仏塔といわれている。茶店が開店の準備をしていた。次のピークには花柄模様のタイルで飾られた仏塔が建っている。アンドゥオン王(1847〜1859)の遺骨が納められているという仏塔である。下って、次のピークに登り返すと黄色い漆喰で彩られた仏塔に達する。モニボン王(1927〜1941)の仏塔である。頂部にバイヨ寺院の四面仏に似た人面が掘られていてひときわ目立つ。観世音菩薩なのだろう。ここにも茶店があった。

 大きく下って、少し登ると広場に達する。ここに小さな仏塔と仏堂、及び聖牛・ナンディンを祀った祠が建っている。設置されたベンチでひと休みしていたら、3人連れのおばあさんが登ってきた。その服装からしてチャム族だろう。しばし雑談する。彼女たちは英語をまったく解しないのだが、どういうわけか会話が成立する。広場の一段上に、工事中の寺院があり、黄金色に輝く大仏が鎮座している。「18腕尺の仏陀のビハーラ」と呼ばれる寺院である。1911年、シソワット王(1904〜1927)によって建立された寺院であるが、1977年にポルポト派の砲撃により破壊された。現在再建中のようである。山を下る。

 
  第11節 プノンペンの情景

 正午にはG.Hに帰り着いた。午後からは、プノンペンの街を気ままに歩き回ってみるつもりである。シアヌーク通りを東に向う。この東西に走る通りと、南北に走るモニボン通りがプノンペンの背骨となる道路である。道は広く、並木が美しい。洒落たブティックなどもあり、何とも美しい街並みなのだが、大きな欠点が一つある。歩道がまともには歩けないのである。歩道という歩道は車の駐車場と化している。人々は何の抵抗もなく、車を全て歩道上に駐車させる。

 30分も歩くと、大きな交差点のロータリーの真ん中に建つ独立記念塔に達した。燃え立つ炎のようなデザインは縄文の火炎土器を思い起こさせる。この塔はフランスからの独立を祝して1958年に建造された。カンボジアが希望に満ちていた時代である。ここから道路は100メートルほどに広がり、中央には公園風の緑地帯が設けられている。さらに進むと、左側に広々とした芝生の広場が現れ、その中央にカンボジア/ベトナム友好の塔が建っている。何となく、政治的な匂いのするモニュメントである。現在のフン・セン政権はベトナムの強い後押しによって成立している。ただし、私に言わせると、「本来カンボジアの領土であった広大なメコンデルタを奪っておいて、何が友好だ」となる。ただし、あの悪魔のポルポト政権を倒してくれたのもまたベトナムであるが。

 友好の塔の背後には王宮とシルバーパゴダが美しい姿を見せている。王宮前を少し東に進むと大きな川の岸辺にでる。メコン川とトンレサップ川の合流点である。川というよりは巨大な湖と思える広大な水の広がりである。岸辺のベンチに座り雄大な景色を眺め続ける。また、メコン川に出会えたのだ。昨年の2月、はるか上流の雲南・ジンホンの街で別れて以来1年半降りの再会である。東南アジアの国々を旅していると、いつもこの川に出会う。そしてなぜかほっとする。上流に日本の援助で出来たカンボジア/日本友好橋が見える。カンボジア領内でメコン川に架かる唯一の橋である。

 ワット・ウナロムに寄り、カンダルマーケットを覗いてセントラルマーケットまで歩く。プノンペン最大の市場である。この一角は東南アジア本来の雑踏が渦巻いている。この街では、US$とリエルが混在して流通しているが、さすがにタイバーツは見かけない。タイ語も通じない。モニボン通りを南に向う。実にきれいな通りである。しかし、この通りも歩道は駐車した車で歩けない。約10キロほど歩いてようやくG.Hに帰り着いた。明日はいよいよサイゴンを目指す。
  

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