おじさんバックパッカーの一人旅
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2006年9月29日~10月2日 |
第3章 サイゴンとその周辺
第1節 カンボジア/ベトナム国境越え 9月29日(金)。今日はバベット(カンボジア)/モックバイ(ベトナム)間で国境を越える。サイゴン(ホーチミン)行きのバスは泊まっているG.Hの前からが出るとのことであったが、出発場所が変更になったとかで、そこまでバイクで送ってくれた。バスは10数人乗りのワゴン車。満席だが、内10人は欧米人の若い女性の団体、ガイドまで同行している。バックパッカーは5~6人だが、中に日本人らしき男性もいる。このバスは国境までで、国境でサイゴンの旅行社が手配したバスに乗り換えよとの指示である。サイゴンまでは約200キロであるが、料金はわずか5US$。何とも安い。 8時30分、30分遅れでバスは出発した。ひと晩中降り続いていた雨も明け方には止んだが、すっきりしない天気である。市街地を抜け、国道1号線をひた走る。この道はサイゴンまで続くカンボジア最重要の幹線道路であるが、その割にはハゲチョロ舗装のガタガタ道である。車窓の両側は広大な湖水のような水没地がどこまでも続く。おそらくこの水の下には田圃が広がっているのだろう。 2時間ほど走ると、メコン川にぶつかった。ただし橋はない。10分ほどのトイレ休憩の後、フェリーで対岸に渡る。フェリーというより巨大な筏である。隣には馬車が乗っている。乗客はもちろん、車に乗ったままである。 何やら道がよくなった。すれ違う大型トラックも多くなる。ベトナムからの車だろう。サイゴンまでは1本道である。車窓はどこまでも農村風景が続く。やがて前方に高速道路の料金所のような大きなゲートが見えてきた。国境だ! 。と、バスは道を外れ、ドライブインの前で止まった。ちょうど11時である。乗客はバスから降りて食事を始める。運転手もどこかへ行ってしまい、勝手がわからずしばしオロオロする。あちこち聞き回った結果、このバスはここが終点。荷物をもって歩いて国境を越え、ベトナムのイミグレを出たところでサイゴンから迎えに来るバスを待つ、と言うことらしい。バスで見かけた日本人らしい男性もオロオロしている。「地球の歩き方」を持っているので、間違いなく日本人だ。声を掛けていっしょに国境に向う。
イミグレを出たところにバスの待合所らしき建物があった。チケットを見せると、ここで待てという。リエルからベトナムの通貨・ドンへの両替もしてくれた。待つ間に、雨が激しく降ってきた。知りあった日本人は、東京国分寺在住の33歳の板前、北米大陸やオーストラリア大陸を1人自転車で横断したこともあるという猛者であった。私と同じくバンコクをスタートして、ベトナムからラオスへ向うとのことである。腕に職があり、食いっぱぐれることはないので、気ままな生活を楽しんでいるようである。 1時に、サイゴンのHanh Cafeの立派な大型バスが迎えに来た。白人女性の団体は別の車に乗ったので、大型バスに乗ったのは数人、雨の中一路サイゴンを目指す。道は素晴らしくよい。さすがベトナム、カンボジアとの経済格差を見せつけている。窓外には平凡な田園風景が続くが、どこかカンボジアとは雰囲気が異なる。やがて大きな街並みに入る。ついにサイゴンにやって来たのだ。バイクと車の数がプノンペンとケタが違いである。3時前、バスはファグーラオ通りのHanh Cafe事務所前に到着した。 板前さんと別れて、雨の中、デタム通りに行く。サイゴンの安宿街である。バンコクのカオサン通りほどではないが、安宿、食堂、旅行代理店、土産物屋などの並んだ賑やかな通りである。若い女性が寄ってきて、1泊8US$と誘う。G.Hの客引きである。雨の中うろつくのも嫌なので付いていってみる。デタム通りの1本東の細い路地にあるHuongというミニホテルであった。部屋を見てびっくりした。3人用の大きな部屋。エアコン、テレビ、冷蔵庫、もちろんホットシャワー。これで本当に8US$ ?、少々怖いぐらいである。テレビにはNHKが映る。 夕食は待望のベトナム料理。ゴイ・クオン(生春巻き)とバイン・セオ(ベトナム風お好み焼き)を食べて大満足である。
9月30日(土)。朝、ホテルに連泊を申し入れたら、今日は満室だと断られてしまった。昨日、「何泊するか」と聞かれたとき、「不明」と答えておいたためである。せっかく素晴らしいホテルに出会ったのに残念。近くの他のホテルを紹介してくれたが、部屋を見るとどうも気に入らない。自分で探すことにする。何軒かのホテルに満室と断られたが、何とか気に行ったホテルを見つけてヤレヤレである。アオザイ姿の受付の女の子がメチャかわいい。20歳だという。 今日は1日サイゴン探索をするつもりであるが、朝から雨が降ったり止んだりのあいにくの天気である。10時過ぎ、傘を持って出発する。先ず真っ先に向うのは統一会堂、即ち、旧南ベトナム大統領官邸である。屯しているシクロやバイタクがしきりに声を掛けてくるが、歩いて行くことにする。未知の街は歩くに限る。街に出て先ず度肝を抜かれたのは、凄まじいバイクの数である。半端な数ではない。道一杯に広がって怒濤のごとく押し寄せてくるバイクの列には恐怖感を覚える。その中に少なからぬ自動車も混じる。交差点には歩道橋など皆無である。横断歩道はあるが完全に無視されている。いったいどうやって道を渡るのだ。
1975年4月30日、南ベトナム解放民族戦線の戦車が、正面の鉄門を押し破って、この大統領官邸に突入した。ベトナム戦争の終わりを告げる劇的なドラマであった。この時の映像は今も目に焼き付いている。おそらく、実況放送があったとは思えないので、テレビのニュース番組の映像であったのだろうが。戦車から数人の兵士が飛び降り、大統領官邸へ走り込んだ。数分後、屋上に掲げられていた南ベトナム国旗が降ろされ、解放戦線の旗が大きくたなびいた。いま、その国旗掲揚台にはベトナム国旗、即ち当時の北ベトナム国旗がはためいている。31年の時の流れを感じる。
近くのホーチミン市博物館に行ってみる。庭先にはベトナム戦争中の戦車や高射砲がたくさん並んでいるが、内部の展示には目を引くものはない。どういうわけか、数組の新婚のカップルが記念撮影をしている。いずれも豪華なウエディングドレスを身にまとい、幸せそうである。そこには、民族の命運をかけて死闘を演じた戦争の面影はない。時代が大きく変わったことを実感させられる。
入り口右側の展示場に入る。大小の写真が壁一杯に掲げられている。いずれも、世界中の戦争カメラマンが命がけで撮った写真である。無数の死体が転がるソンミ大虐殺の写真、ボロ切れのようになった解放戦線兵士の死体を持ち運ぶ米兵、いずれね衝撃的な写真である。中に、沢田教一氏のビュリッツアー賞を受賞した「安全への逃避」も掲げられている。戦争中134人のジャーナリストが死んだという。沢田氏もその1人である。しかし、彼らの残した多くの写真は、強烈な迫力をもって、見るものの心を捕らえる。 入り口左側の展示場は、世界各地の解放戦線支援活動の様子を展示している。当時日本でも、ベ平連を初めとして、解放戦線支援の動きは活発であった。解放戦線は、西側ジャーナリストを敵視することはしなかった。むしろ、彼らの活動を喜んで受け入れた。このため、彼らを通じて戦争の実態が世界中に知らされ、世界世論を大きく動かした。解放戦線勝利の大きな一因といわれている。この点で、現在のアフガンやイラクでの戦争と大きく異なる。解放戦線側には「正義は我にあり」との確信があったのだろう。左側奥には、南ベトナム側が行った残忍行為が実物と写真をもって示されている。「トラの檻」と呼ばれた刑務所の様子、ギロチン、拷問具、等々。 最後に正面の本館に入る。ここの展示は一段と凄まじい。多くの悲惨な写真展示もあるが、米軍による枯葉剤の大量散布によってもたらされた奇形胎児のホルマリン漬けが余りにも生々しい。よくぞここまで展示したものだと驚きを感じる。奇形として生まれた子供たちの写真もある。ベトちゃん、ドクちゃんは日本でもよく知られているが、同様の子供たちがたくさんいるのだ。米国は、何と罪深いことをしたんだ。まさに人類に対する冒涜である。 それにしても、米国はこれだけの悪行を重ねながら、未だ落とし前をつけていない。米国政府は、1片の謝罪も反省の声明も発していない。それどころか、未だ世界の指導者のごとき顔をして、凝りもせずに、イラクで再び戦争を始めている。それに追従する日本も同罪ではあるが。 暗然たる気持ちで博物館を去る。
第5節 危険な街・サイゴン いったんホテルに戻り、Kim Cafeへ行く。カフェーとは、ベトナムにおいては旅行代理店を意味する。おそらく、喫茶店が旅行代理店を始めるようになったとの歴史的な経緯によるのであろう。ベトナムは、おそらく、世界で最も旅行代理店制度が発達している国と思える。カフェの数は多く、またその活動は非常に広範囲である。列車や航空機のチケット手配はもちろん、何種類ものツアーを企画し、サイゴンとハノイの間に自前の定期バスを走らせ、ラオスやカンボジアへの国際バスまで走らせる。したがって、このカフェーを最大限利用すれば、ベトナムでの個人旅行はいたって容易である。ただし、彼らの手の中で行動しているかぎり、生のベトナムと触れ合う機会は限られることになり、面白味には欠けるが。明日の「カオダイ教とクチトンネル見学ツアー」を申し込み、明後日のタップチャムまでの列車チケットの手配を依頼する。 続いて両替所に行き、ベトナム・ドン(VND)を入手する。約1US$=15,000VNDである。べトナムではUS$も問題なく流通しているが、やはりドンを持たないと不便である。ただし、ドンの単位はめちゃくちゃに大きい、何しろUS$より4桁も大きいのであるから。当初ずいぶん混乱したし、紙幣もゼロの数を数えないことには何ドン札か分からなかった。 サイゴン・トライアングルを歩いてみることにする。サイゴンの中心部はドンコイ通り、レロイ通り、ハムギ通りを三辺とする三角形に囲まれている。したがって、この三角形を歩けば、おおよそのサイゴンの雰囲気を知ることが出来る。安宿街のデタム通りを出て、ファングーラオ通りを東に歩く。この通りは北側が公園風の大きな緑地帯となっていて、朝夕は散歩やジョギングする人、夜は愛をささやくカップルで賑わう。200メートルほど東に歩くと、ベンタイ市場横の大きなロータリーに達する。ここが、サイゴン・トライアングルの一角、ハムギ通りとレロイ通りの交差点である。このロータリーはものすごい交通量で、渡るのは命がけとなる。 ハムギ通りを東に進む。並木のある広い道だが、特別見どころはない。1キロほど進むとサイゴン川にぶつかる。古来サイゴンの水運を担ってきた川である。余りきれいな川ではないが、遊覧船や貨物船が停泊している。川沿いの遊歩道を300メートルほど北上して、 出発点のベンタイン市場が近づいたころ、ふと前を見ると、昨日プノンペンからのバスでいっしょであった板前さんが歩いているではないか。声を掛け、二人で市場の中をぶらつく。スリ、カッパライの多い場所であり、細心の注意を払う。砂糖キビを搾ったジュースを飲もうとしたが、あいにく小銭がなく、100,000ドン札を出す。いわば50円のジュースに1万円札を出したようなものである。お釣りをもらうが、何となくおかしい。よくよく調べてみると、9,950円あるべきお釣りが995円きりない。その旨指摘すると「No Problem. No Problem」の一点張り。2人して大声で騒ぐ。ようやく正規のお釣りを取り返してヤレヤレである。明らかに、故意に釣り銭をごまかそうとした。桁が大きいので、こちらも混乱して確認しにくい。やっぱりベトナムは怖い、心しないと危ない。 2人してロータリーを命がけで渡りだす。バイクの流れが途切れることはないので、1歩進んでは立ち止まり、また1歩進んでは立ち止まりの連続である。その時、背後を通過した二人乗りのオートバイから手が伸び、貴重品全てが入った背中のナップザックが引きずられた。ザックの紐を片肩にしか掛けていなかったので危うかったが、何とか手首で掴み止めてた。サイゴン名物の引ったくりである。案内書にもくどいほど注意するようにと書かれている。 夕飯を一緒に食べようということになり、デタム通りの大衆食堂に入る。そのうち、「日本の方ですか。私も仲間に入れて下さい」と、次々に2人の男が現れ、日本人4人の飲み会になってしまった。1人は27歳の北海道の家具職人。これからカンボジア、ラオス、タイを回ると張り切っている。もう1人は埼玉県在住の20歳の学生。海外1人旅は初めてだと、不安を募らせている。酔うほどに、サイゴンの夜は更けていった。
第6節 カオダイ教本部とクチ・トンネル 10月1日(日)。今日はカフェーのツアーに参加して、カオダイ教本部とクチ・トンネルを見学する。昨夜一緒に飲んだ家具職人のNさんも参加することになった。8時、集合場所に赴きNさんと合流する。8時50分、30分遅れでようやくバスは出発した。20人乗りほどの小型バスである。私たち以外は全て欧米人、ガイドが1人同行している。もちろん説明は全て英語である。日本語のツアーもあるが、料金が英語ツアーの10倍もする。ちなみにこのツアーの料金は5US$である。 途中、細かく砕いた卵の殻で絵画を作成する工房を見学した後、カオダイ教本部のあるタイニンを目指す。今日は珍しく雨の気配がない。タイニンはサイゴンの北西約100キロ、カンボジアとの国境近くにある小都市である。サイゴン市内を抜け、プノンペンに通じる国道22号線を進む。やがて国道を離れ、田舎道を進むと前方に形よい独立峰が見えてきた。バーデン山である。タイニンの小さな街並みを抜け、12時前にカオダイ教本部に着いた。
カオダイ教(高台教)は、1919年、ゴ・ミン・チェンによって創設されたベトナム独自の新興宗教である。仏教、キリスト教、イスラム教、道教を重ね合わせ、「天眼」を宇宙至上神の象徴とする。信者の数は約200万人といわれる。この教団の凄いところは独自の軍事組織を持っていたことである。キリスト教至上主義を採った旧南ベトナムのゴ・ディン・デェム政権に対して、激しい武力闘争を展開した。南ベトナム政権、解放戦線、そしてカオダイ教の3者のスパイが入り乱れて激しく争うサイゴンの様子は、結城昌治の小説「ゴメスの名はゴメス」の背景として描かれている。 見学を終え、途中昼食をとった後、クチ・トンネルに向う。クチはサイゴンの北東約150キロにある小さな街である。その郊外30キロの地点に、ベトナム戦争中、解放戦線の拠点があった。蜘蛛の巣のごとく地下トンネルが張りめぐされ、難攻不落の軍事拠点として米軍を悩ませ続けた。このトンネルの一部が現在公開され、ベトナムの有力な観光資源となっている。
有力な拠点であっただけに、米軍による攻撃も激しかった。あちこちに爆弾で生じた巨大な穴も見られる。朽ちた米軍の戦車も放置されている。この穴の中に潜り、粗末な武器をもって、最新鋭の兵器を携えた米軍と戦った。まさに「ベトコンゲリラ」の本領発揮である。ただし、大量に散布された枯葉剤により、現在もその後遺症が心配されている。 夕方6時過ぎサイゴンに戻る。
第7節 チョロン 10月2日(月)。今日は1日、サイゴン市内を気ままに探索してみるつもりである。8時半、宿を出る。先ずは、サイゴンの東の端にある歴史博物館とホーチミン作戦博物館に行ってみよう。地図を見るとデタム通りから3キロほどあるが、歩いて行くことにする。バイタクやシクロが盛んに声を掛けてくるが、無視する。案内書には、サイゴンのシクロは絶対に乗ってはいけないとある。ほとんどが悪徳運転手のようである。バイタクもよほど注意しないと危ないようである。
レユアン通りをさらに進むと左側にホーチミン作戦博物館があった。庭先にはミサイル、高射砲、戦闘機などが展示されている。ところが、入り口は堅く閉ざされている。ふと思いついて手帳のカレンダーを確認してみると今日は月曜日、休館日である。旅行していると曜日の観念がまったく無くなってしまう。続いて訪れた歴史博物館もやはり休館であった。がっかりである。 チョロン地区に行ってみることにする。チョロン地区とはサイゴンの中華街で、市中心部から西へ約5キロの地点にある。18世紀後半以降、華南から多くの人々がこの地に移り住み、ベトナム最大のチャイナタウンが作られた。タクシーで行けばわけないのだが、時間はたっぷりある。バスで行くことにする。30分ほど歩いて、サイゴン川河畔のメリン広場へ行く。ここから、チョロン行きのバスが出ている。料金は2,000ドン(約20円)均一、冷房の効いた実に近代的なバスであった。パリの香りがするといわれる優雅なサイゴンの街並みが、次第にごちゃごちゃした東南アジア的な街並みに変わり、約20分ほどで、チョロンのバスターミナルへ着いた。と同時に、ものすごい驟雨が来た。慌てて屋根下に逃げ込む。
再びバスに乗って宿に帰る。さすがに路線バスに乗っている外国人はいない。行きも帰りも私1人であった。今日でサイゴン見物は終わり、明日の朝この街を去る。振り返ってみると、不思議な街であった。少々危険な匂いのする、それでいて、妙に色気を感じる街であった。もう少し退廃的な雰囲気のある街と思っていたが、意外に健全な街でもあった。怪しげなネオン街は見当たらなかったし、「ホンダガール」とも出会わなかった。治安も思ったよりもよかった。辻辻には公安の姿が目立った。何より感心したのは、物乞いが1人もいないことである。
明日からいよいよベトナム縦断の旅が始まる。
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