おじさんバックパッカーの一人旅   

東南アジア回遊陸路の旅 (2) 

  ベトナム紀行 サイゴンとその周辺

2006年9月29日

      〜10月2日

 
 第3章 サイゴンとその周辺 

  第1節 カンボジア/ベトナム国境越え

 9月29日(金)。今日はバベット(カンボジア)/モックバイ(ベトナム)間で国境を越える。サイゴン(ホーチミン)行きのバスは泊まっているG.Hの前からが出るとのことであったが、出発場所が変更になったとかで、そこまでバイクで送ってくれた。バスは10数人乗りのワゴン車。満席だが、内10人は欧米人の若い女性の団体、ガイドまで同行している。バックパッカーは5〜6人だが、中に日本人らしき男性もいる。このバスは国境までで、国境でサイゴンの旅行社が手配したバスに乗り換えよとの指示である。サイゴンまでは約200キロであるが、料金はわずか5US$。何とも安い。

 8時30分、30分遅れでバスは出発した。ひと晩中降り続いていた雨も明け方には止んだが、すっきりしない天気である。市街地を抜け、国道1号線をひた走る。この道はサイゴンまで続くカンボジア最重要の幹線道路であるが、その割にはハゲチョロ舗装のガタガタ道である。車窓の両側は広大な湖水のような水没地がどこまでも続く。おそらくこの水の下には田圃が広がっているのだろう。

 2時間ほど走ると、メコン川にぶつかった。ただし橋はない。10分ほどのトイレ休憩の後、フェリーで対岸に渡る。フェリーというより巨大な筏である。隣には馬車が乗っている。乗客はもちろん、車に乗ったままである。

 何やら道がよくなった。すれ違う大型トラックも多くなる。ベトナムからの車だろう。サイゴンまでは1本道である。車窓はどこまでも農村風景が続く。やがて前方に高速道路の料金所のような大きなゲートが見えてきた。国境だ! 。と、バスは道を外れ、ドライブインの前で止まった。ちょうど11時である。乗客はバスから降りて食事を始める。運転手もどこかへ行ってしまい、勝手がわからずしばしオロオロする。あちこち聞き回った結果、このバスはここが終点。荷物をもって歩いて国境を越え、ベトナムのイミグレを出たところでサイゴンから迎えに来るバスを待つ、と言うことらしい。バスで見かけた日本人らしい男性もオロオロしている。「地球の歩き方」を持っているので、間違いなく日本人だ。声を掛けていっしょに国境に向う。

 先ずはカンボジアのイミグレーションへ。それにしても立派なイミグレである。ゲートが5〜6ヶ所ある。シンガポールのコーズウェイのイミグレに匹敵する。コ・コーンのイミグレとは雲泥の差である。出国手続は簡単にすんだ。歩いて200メートルほど先のベトナムのイミグレに向う。途中、国境標識があった。記念撮影するのによい場所である。その脇を大型トレーラーがカンボジアへと向っていく。ベトナムのイミグレも真新しく立派である。ビザ取得ずみのこともあり入国手続も簡単にすんだ。一応、税関検査もあったが特に問題はない。ただし、1000リエル(約30円)徴収された。何の金なのかはよく分からないが。これで晴れてベトナム入国である。さて、いったいどんな国なのか、興味津々である。

 
  第2節 ベトナム最大の都市・サイゴンへ

 イミグレを出たところにバスの待合所らしき建物があった。チケットを見せると、ここで待てという。リエルからベトナムの通貨・ドンへの両替もしてくれた。待つ間に、雨が激しく降ってきた。知りあった日本人は、東京国分寺在住の33歳の板前、北米大陸やオーストラリア大陸を1人自転車で横断したこともあるという猛者であった。私と同じくバンコクをスタートして、ベトナムからラオスへ向うとのことである。腕に職があり、食いっぱぐれることはないので、気ままな生活を楽しんでいるようである。

 1時に、サイゴンのHanh Cafeの立派な大型バスが迎えに来た。白人女性の団体は別の車に乗ったので、大型バスに乗ったのは数人、雨の中一路サイゴンを目指す。道は素晴らしくよい。さすがベトナム、カンボジアとの経済格差を見せつけている。窓外には平凡な田園風景が続くが、どこかカンボジアとは雰囲気が異なる。やがて大きな街並みに入る。ついにサイゴンにやって来たのだ。バイクと車の数がプノンペンとケタが違いである。3時前、バスはファグーラオ通りのHanh Cafe事務所前に到着した。

 板前さんと別れて、雨の中、デタム通りに行く。サイゴンの安宿街である。バンコクのカオサン通りほどではないが、安宿、食堂、旅行代理店、土産物屋などの並んだ賑やかな通りである。若い女性が寄ってきて、1泊8US$と誘う。G.Hの客引きである。雨の中うろつくのも嫌なので付いていってみる。デタム通りの1本東の細い路地にあるHuongというミニホテルであった。部屋を見てびっくりした。3人用の大きな部屋。エアコン、テレビ、冷蔵庫、もちろんホットシャワー。これで本当に8US$ ?、少々怖いぐらいである。テレビにはNHKが映る。

 夕食は待望のベトナム料理。ゴイ・クオン(生春巻き)とバイン・セオ(ベトナム風お好み焼き)を食べて大満足である。

 
  第3節 統一会堂(旧南ベトナム大統領官邸)

 9月30日(土)。朝、ホテルに連泊を申し入れたら、今日は満室だと断られてしまった。昨日、「何泊するか」と聞かれたとき、「不明」と答えておいたためである。せっかく素晴らしいホテルに出会ったのに残念。近くの他のホテルを紹介してくれたが、部屋を見るとどうも気に入らない。自分で探すことにする。何軒かのホテルに満室と断られたが、何とか気に行ったホテルを見つけてヤレヤレである。アオザイ姿の受付の女の子がメチャかわいい。20歳だという。

 今日は1日サイゴン探索をするつもりであるが、朝から雨が降ったり止んだりのあいにくの天気である。10時過ぎ、傘を持って出発する。先ず真っ先に向うのは統一会堂、即ち、旧南ベトナム大統領官邸である。屯しているシクロやバイタクがしきりに声を掛けてくるが、歩いて行くことにする。未知の街は歩くに限る。街に出て先ず度肝を抜かれたのは、凄まじいバイクの数である。半端な数ではない。道一杯に広がって怒濤のごとく押し寄せてくるバイクの列には恐怖感を覚える。その中に少なからぬ自動車も混じる。交差点には歩道橋など皆無である。横断歩道はあるが完全に無視されている。いったいどうやって道を渡るのだ。

 途中激しい雨に雨宿りを余儀なくされ、統一会堂に着いたのは11時2分前。11時から13時までは閉鎖される。慌てて滑り込む。4階建ての横長のがっちりした建物である。玄関前は噴水のある庭となっている。玄関上の屋上にはベトナム国旗が大きく翻っている。

 1975年4月30日、南ベトナム解放民族戦線の戦車が、正面の鉄門を押し破って、この大統領官邸に突入した。ベトナム戦争の終わりを告げる劇的なドラマであった。この時の映像は今も目に焼き付いている。おそらく、実況放送があったとは思えないので、テレビのニュース番組の映像であったのだろうが。戦車から数人の兵士が飛び降り、大統領官邸へ走り込んだ。数分後、屋上に掲げられていた南ベトナム国旗が降ろされ、解放戦線の旗が大きくたなびいた。いま、その国旗掲揚台にはベトナム国旗、即ち当時の北ベトナム国旗がはためいている。31年の時の流れを感じる。

 内部に入る。絨毯を敷き占めた豪華な部屋が並ぶ。国書呈上室、大統領執務室、大統領接客室、内閣会議室、大統領夫人接客室、娯楽室、ーーー。屋上に上がる。正門からひと筋の緑濃い広い道が延びている。レユアン通りである。31年前、この道を解放戦線の戦車が轟音を立てて大統領官邸に向け突き進んで行った。世界が息をのんで見守った瞬間である。地下階に行ってみる。大統領司令室、暗号解読室、作戦会議室、ーーー。大統領寝室もある。ベトナム戦争は私の青春時代の一大事であった。いま、その歴史的場所に立っていると思うと、感慨もひとしおである。

 
  第4節 戦争証跡博物館

 近くのホーチミン市博物館に行ってみる。庭先にはベトナム戦争中の戦車や高射砲がたくさん並んでいるが、内部の展示には目を引くものはない。どういうわけか、数組の新婚のカップルが記念撮影をしている。いずれも豪華なウエディングドレスを身にまとい、幸せそうである。そこには、民族の命運をかけて死闘を演じた戦争の面影はない。時代が大きく変わったことを実感させられる。

 2本の尖塔が美しいサイゴン大教会、フランス植民地時代の香りを残す中央郵便局を見学した後、戦争証跡博物館に行く。凄まじい博物館である。戦争の悲惨さを、これでもか、これでもかと突きつける。そしてまた、米国の行った狂気の蛮行を余すところなくさらけ出す。この博物館の発するメッセージは、勝者の英雄物語でも国威の発揚でもない。ただ黙々と戦争の悲惨さと残虐性を展示している。これほど強烈なメッセイジを発する博物館を他に知らない。世界の全指導者は真っ先にこの博物館を訪れるべきだ。

 さして広くない庭を囲むように幾つかの展示場が設けられている。庭には、米軍の使用した戦車や迫撃砲、戦闘機などが所狭しと置かれている。中に、半径100メートルの全てを破壊するという地震爆弾BLU-82、半径500メートル以内の酸素を破壊するCBU-55B爆弾も展示されている。米軍は核兵器以外、当時の最新鋭兵器を全て使用した。戦争中米軍が使用した爆弾と砲弾は1,400万トン、化学薬品は7,900万リットルを超えるという。

 入り口右側の展示場に入る。大小の写真が壁一杯に掲げられている。いずれも、世界中の戦争カメラマンが命がけで撮った写真である。無数の死体が転がるソンミ大虐殺の写真、ボロ切れのようになった解放戦線兵士の死体を持ち運ぶ米兵、いずれね衝撃的な写真である。中に、沢田教一氏のビュリッツアー賞を受賞した「安全への逃避」も掲げられている。戦争中134人のジャーナリストが死んだという。沢田氏もその1人である。しかし、彼らの残した多くの写真は、強烈な迫力をもって、見るものの心を捕らえる。

 入り口左側の展示場は、世界各地の解放戦線支援活動の様子を展示している。当時日本でも、ベ平連を初めとして、解放戦線支援の動きは活発であった。解放戦線は、西側ジャーナリストを敵視することはしなかった。むしろ、彼らの活動を喜んで受け入れた。このため、彼らを通じて戦争の実態が世界中に知らされ、世界世論を大きく動かした。解放戦線勝利の大きな一因といわれている。この点で、現在のアフガンやイラクでの戦争と大きく異なる。解放戦線側には「正義は我にあり」との確信があったのだろう。左側奥には、南ベトナム側が行った残忍行為が実物と写真をもって示されている。「トラの檻」と呼ばれた刑務所の様子、ギロチン、拷問具、等々。

 最後に正面の本館に入る。ここの展示は一段と凄まじい。多くの悲惨な写真展示もあるが、米軍による枯葉剤の大量散布によってもたらされた奇形胎児のホルマリン漬けが余りにも生々しい。よくぞここまで展示したものだと驚きを感じる。奇形として生まれた子供たちの写真もある。ベトちゃん、ドクちゃんは日本でもよく知られているが、同様の子供たちがたくさんいるのだ。米国は、何と罪深いことをしたんだ。まさに人類に対する冒涜である。

 それにしても、米国はこれだけの悪行を重ねながら、未だ落とし前をつけていない。米国政府は、1片の謝罪も反省の声明も発していない。それどころか、未だ世界の指導者のごとき顔をして、凝りもせずに、イラクで再び戦争を始めている。それに追従する日本も同罪ではあるが。

 暗然たる気持ちで博物館を去る。
 

  第5節 危険な街・サイゴン

 いったんホテルに戻り、Kim Cafeへ行く。カフェーとは、ベトナムにおいては旅行代理店を意味する。おそらく、喫茶店が旅行代理店を始めるようになったとの歴史的な経緯によるのであろう。ベトナムは、おそらく、世界で最も旅行代理店制度が発達している国と思える。カフェの数は多く、またその活動は非常に広範囲である。列車や航空機のチケット手配はもちろん、何種類ものツアーを企画し、サイゴンとハノイの間に自前の定期バスを走らせ、ラオスやカンボジアへの国際バスまで走らせる。したがって、このカフェーを最大限利用すれば、ベトナムでの個人旅行はいたって容易である。ただし、彼らの手の中で行動しているかぎり、生のベトナムと触れ合う機会は限られることになり、面白味には欠けるが。明日の「カオダイ教とクチトンネル見学ツアー」を申し込み、明後日のタップチャムまでの列車チケットの手配を依頼する。

 続いて両替所に行き、ベトナム・ドン(VND)を入手する。約1US$=15,000VNDである。べトナムではUS$も問題なく流通しているが、やはりドンを持たないと不便である。ただし、ドンの単位はめちゃくちゃに大きい、何しろUS$より4桁も大きいのであるから。当初ずいぶん混乱したし、紙幣もゼロの数を数えないことには何ドン札か分からなかった。

 サイゴン・トライアングルを歩いてみることにする。サイゴンの中心部はドンコイ通り、レロイ通り、ハムギ通りを三辺とする三角形に囲まれている。したがって、この三角形を歩けば、おおよそのサイゴンの雰囲気を知ることが出来る。安宿街のデタム通りを出て、ファングーラオ通りを東に歩く。この通りは北側が公園風の大きな緑地帯となっていて、朝夕は散歩やジョギングする人、夜は愛をささやくカップルで賑わう。200メートルほど東に歩くと、ベンタイ市場横の大きなロータリーに達する。ここが、サイゴン・トライアングルの一角、ハムギ通りとレロイ通りの交差点である。このロータリーはものすごい交通量で、渡るのは命がけとなる。

 ハムギ通りを東に進む。並木のある広い道だが、特別見どころはない。1キロほど進むとサイゴン川にぶつかる。古来サイゴンの水運を担ってきた川である。余りきれいな川ではないが、遊覧船や貨物船が停泊している。川沿いの遊歩道を300メートルほど北上して、ドンコイ通りに入る。サイゴンで最も有名な通りである。交通量も少なく、並木の美しい静かな通りである。両側には高級ブランド店、ブティック、高級レストラン、高級ホテルなどが並び、ショッピングを楽しむ旅行者の姿が多い。同じ旅行者の街でも、私の滞在するデタム通りとは雰囲気が大いに異なる。右手に市民劇場を見ると、レロイ通りにぶつかる。左折してレロイ通りを南西に向う。交通量も多く活気のある通りである。右手奥に人民委員会のビルがある。アーチ型の窓を持つ古風なヨーロッパ風の建物である。その前の広場にホーチミン元大統領の座像があり、記念撮影のよき場所となっている。道の向かい側には国営百貨店がある。エスカレータまである立派なデパートである。

 出発点のベンタイン市場が近づいたころ、ふと前を見ると、昨日プノンペンからのバスでいっしょであった板前さんが歩いているではないか。声を掛け、二人で市場の中をぶらつく。スリ、カッパライの多い場所であり、細心の注意を払う。砂糖キビを搾ったジュースを飲もうとしたが、あいにく小銭がなく、100,000ドン札を出す。いわば50円のジュースに1万円札を出したようなものである。お釣りをもらうが、何となくおかしい。よくよく調べてみると、9,950円あるべきお釣りが995円きりない。その旨指摘すると「No Problem.  No Problem」の一点張り。2人して大声で騒ぐ。ようやく正規のお釣りを取り返してヤレヤレである。明らかに、故意に釣り銭をごまかそうとした。桁が大きいので、こちらも混乱して確認しにくい。やっぱりベトナムは怖い、心しないと危ない。

 2人してロータリーを命がけで渡りだす。バイクの流れが途切れることはないので、1歩進んでは立ち止まり、また1歩進んでは立ち止まりの連続である。その時、背後を通過した二人乗りのオートバイから手が伸び、貴重品全てが入った背中のナップザックが引きずられた。ザックの紐を片肩にしか掛けていなかったので危うかったが、何とか手首で掴み止めてた。サイゴン名物の引ったくりである。案内書にもくどいほど注意するようにと書かれている。

 夕飯を一緒に食べようということになり、デタム通りの大衆食堂に入る。そのうち、「日本の方ですか。私も仲間に入れて下さい」と、次々に2人の男が現れ、日本人4人の飲み会になってしまった。1人は27歳の北海道の家具職人。これからカンボジア、ラオス、タイを回ると張り切っている。もう1人は埼玉県在住の20歳の学生。海外1人旅は初めてだと、不安を募らせている。酔うほどに、サイゴンの夜は更けていった。
 

 第6節 カオダイ教本部とクチ・トンネル

 10月1日(日)。今日はカフェーのツアーに参加して、カオダイ教本部とクチ・トンネルを見学する。昨夜一緒に飲んだ家具職人のNさんも参加することになった。8時、集合場所に赴きNさんと合流する。8時50分、30分遅れでようやくバスは出発した。20人乗りほどの小型バスである。私たち以外は全て欧米人、ガイドが1人同行している。もちろん説明は全て英語である。日本語のツアーもあるが、料金が英語ツアーの10倍もする。ちなみにこのツアーの料金は5US$である。

 途中、細かく砕いた卵の殻で絵画を作成する工房を見学した後、カオダイ教本部のあるタイニンを目指す。今日は珍しく雨の気配がない。タイニンはサイゴンの北西約100キロ、カンボジアとの国境近くにある小都市である。サイゴン市内を抜け、プノンペンに通じる国道22号線を進む。やがて国道を離れ、田舎道を進むと前方に形よい独立峰が見えてきた。バーデン山である。タイニンの小さな街並みを抜け、12時前にカオダイ教本部に着いた。

 広大な敷地の中に、色鮮やかな不思議な形をした巨大な寺院が建っている。仏教寺院、キリスト教会、イスラム寺院、そして道教寺院の特色を会わせたような建物である。そして、赤、青、白、黄色の鮮やかな原色のアオザイを付けた信者が続々と寺院の中に吸い込まれていく。これから正午の礼拝が始まるのである。その様子を見学しようと、多くの観光客が押し寄せている。履物を脱ぎ巨大な寺院の中に入る。龍の巻き付いたピンクの柱が何本も立ち並び、正面の祭壇には巨大な目玉「天眼」が据えられている。やがて礼拝が始まった。2階の観覧席からその様子を見下ろす。数百人の信者が、衣装の色ごとに分かれて床に座り、背後で奏でる音楽に合わせて礼拝を続ける。荘厳な儀式である。

 カオダイ教(高台教)は、1919年、ゴ・ミン・チェンによって創設されたベトナム独自の新興宗教である。仏教、キリスト教、イスラム教、道教を重ね合わせ、「天眼」を宇宙至上神の象徴とする。信者の数は約200万人といわれる。この教団の凄いところは独自の軍事組織を持っていたことである。キリスト教至上主義を採った旧南ベトナムのゴ・ディン・デェム政権に対して、激しい武力闘争を展開した。南ベトナム政権、解放戦線、そしてカオダイ教の3者のスパイが入り乱れて激しく争うサイゴンの様子は、結城昌治の小説「ゴメスの名はゴメス」の背景として描かれている。

 見学を終え、途中昼食をとった後、クチ・トンネルに向う。クチはサイゴンの北東約150キロにある小さな街である。その郊外30キロの地点に、ベトナム戦争中、解放戦線の拠点があった。蜘蛛の巣のごとく地下トンネルが張りめぐされ、難攻不落の軍事拠点として米軍を悩ませ続けた。このトンネルの一部が現在公開され、ベトナムの有力な観光資源となっている。

 着いたところは、一面に雑木林の広がる田園地帯。ガイドに先導されて林の中に入る。あちらこちらに小さなトンネル入り口がぽっかりと開いている。もちろん、当時入り口は隠されていたのだろうが。穴の中に潜ることを試みてみる。入り口は何しろ狭い。両手を万歳しないと肩が入らない。トンレネ内部も狭い。中腰でないと歩けない。10メートルほど歩くのがやっとであった。このトンネルは総延長270キロもあり、サイゴンまで続いているとの説明である。林の中には半地下式の武器製造工場や集会場、作戦本部もある。病院もある。敵の弾頭や爆弾を熔かして、武器や用具を作る様子やタイヤのゴムを利用して有名なホーチミン・サンダルを作る様子なども実演されている。林のあちこちに設置された落とし穴や絡繰りの様子も展示されている。

 有力な拠点であっただけに、米軍による攻撃も激しかった。あちこちに爆弾で生じた巨大な穴も見られる。朽ちた米軍の戦車も放置されている。この穴の中に潜り、粗末な武器をもって、最新鋭の兵器を携えた米軍と戦った。まさに「ベトコンゲリラ」の本領発揮である。ただし、大量に散布された枯葉剤により、現在もその後遺症が心配されている。

 夕方6時過ぎサイゴンに戻る。
 

  第7節 チョロン

 10月2日(月)。今日は1日、サイゴン市内を気ままに探索してみるつもりである。8時半、宿を出る。先ずは、サイゴンの東の端にある歴史博物館とホーチミン作戦博物館に行ってみよう。地図を見るとデタム通りから3キロほどあるが、歩いて行くことにする。バイタクやシクロが盛んに声を掛けてくるが、無視する。案内書には、サイゴンのシクロは絶対に乗ってはいけないとある。ほとんどが悪徳運転手のようである。バイタクもよほど注意しないと危ないようである。

 統一会堂の前に出て、レユアン通りを北東に進む。しばらく行くと右側に、33階建て、サイゴンで1番高いサイゴン貿易センタービルが現れる。案内書に、「その最上階にあるレストランからの展望は素晴らしい」とある。行ってみることにする。エレベーターのドアが開いて、目の前に現れたのは超高級レストラン。サンダル履きにTシャツ姿の私を見て、係員が慇懃無礼に対応する。少々びびったが、コーヒー1杯なら知れた料金だろう。悠然と席に着く。3方が総ガラス張りになっていて、素晴らしい展望だ。東を見ると、サイゴン川が大きな蛇行を繰り返しながら視界の彼方へと続いている。南を望むと、幾つもの高層ビルが建ち並び、サイゴンの近代的な街並みが広がっている。西を望むと、目の前の緑の森の中に、統一会堂が見える。客が誰もいないことをいいことに、あっちこっち移動して展望を楽しむ。ただし、コーヒー1杯で5US$と料金は高かった。

 レユアン通りをさらに進むと左側にホーチミン作戦博物館があった。庭先にはミサイル、高射砲、戦闘機などが展示されている。ところが、入り口は堅く閉ざされている。ふと思いついて手帳のカレンダーを確認してみると今日は月曜日、休館日である。旅行していると曜日の観念がまったく無くなってしまう。続いて訪れた歴史博物館もやはり休館であった。がっかりである。

 チョロン地区に行ってみることにする。チョロン地区とはサイゴンの中華街で、市中心部から西へ約5キロの地点にある。18世紀後半以降、華南から多くの人々がこの地に移り住み、ベトナム最大のチャイナタウンが作られた。タクシーで行けばわけないのだが、時間はたっぷりある。バスで行くことにする。30分ほど歩いて、サイゴン川河畔のメリン広場へ行く。ここから、チョロン行きのバスが出ている。料金は2,000ドン(約20円)均一、冷房の効いた実に近代的なバスであった。パリの香りがするといわれる優雅なサイゴンの街並みが、次第にごちゃごちゃした東南アジア的な街並みに変わり、約20分ほどで、チョロンのバスターミナルへ着いた。と同時に、ものすごい驟雨が来た。慌てて屋根下に逃げ込む。

 15分ほどで雨は止んだ。先ずは有名なビンタイ市場へ行く。チョロンとはベトナム語で「大きな(ロン)市場(チョ)」を意味する。即ちこの市場のことである。1930年頃開設されたという。中庭のある2階建の建物で、中に小さな店がぎっしり詰まっている。なかなか壮観である。市場の周辺は、バイクや自転車、荷車で足の踏み場もないほどの雑踏となっている。漢字の看板の乱立する雑踏渦巻く街中を歩いて天后宮を目指す。時々雨が落ちてきて雨宿りを余儀なくされる。布地問屋街、漢方薬屋街、仏具祭祀用具屋街を抜け、天后宮に達した。1760年建立のベトナム最古の中国寺院である。入り口は小さいが奥行きのある寺院で、天井から幾つもの巨大な渦巻き型の線香が吊り下げられている。熱心に祈り続ける参拝者の姿も多い。

 再びバスに乗って宿に帰る。さすがに路線バスに乗っている外国人はいない。行きも帰りも私1人であった。今日でサイゴン見物は終わり、明日の朝この街を去る。振り返ってみると、不思議な街であった。少々危険な匂いのする、それでいて、妙に色気を感じる街であった。もう少し退廃的な雰囲気のある街と思っていたが、意外に健全な街でもあった。怪しげなネオン街は見当たらなかったし、「ホンダガール」とも出会わなかった。治安も思ったよりもよかった。辻辻には公安の姿が目立った。何より感心したのは、物乞いが1人もいないことである。
 
 最後に一つ断りを入れておく必要がある。私はこの街を「サイゴン」と書き記してきた。ただし、この街の正式名称は「ホーチミン」である。南北ベトナムが統一されたときに街の名前が変わった。しかし、現地での呼称は完全に「サイゴン」である。駅の名前も、バスの行き先表示も「サイゴン」である。土産品のTシャツにも「サイゴン」と書き記されている。「ホーチミン」と表示されるのは住所表示とお役所の文書ぐらいである。市民は、ハノイ政府の一方的な決定に徹底的に抵抗しているように見受けられる。そこには、「南ベトナム解放民族戦線」の勝利を歓迎しながらも、ハノイの支配は必ずしも歓迎しない複雑な心理が垣間見られる。私もこの街を「サイゴン」と呼ぶことにした。この名前の方が、この街の雰囲気をよく現している。

 明日からいよいよベトナム縦断の旅が始まる。
 
  

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