おじさんバックパッカーの一人旅   

東南アジア回遊陸路の旅 (3) 

  ベトナム紀行 チャンパ王国の足跡を訪ねて

2006年10月3日

      〜10月9日

 
 第4章 地図から消えた国・チャンパ王国の足跡を訪ねて
 
  第1節 チャンパ王国

 チャンパ王国とは2世紀から17世紀まで、現在のベトナム中南部に栄えた王朝である。私がこの王朝の存在を初めて知ったのは2003年に訪れたカンボジアのアンコール・トムにおいてであった。第1回廊の壁にチャンパ王国との戦いの様子が克明に刻まれている。12世紀当時、インドシナ半島に覇を唱えていた大帝国・アンコール王朝は、1177年にチャンパ王国の奇襲を受け、王は殺され、4年にわたり王都・アンコールを占領されるという屈辱を味わったのである。チャンパという高校の世界史の教科書にまったく載っていなかった王国の存在を初めて知って、この王国に対する興味がにわかに沸き上がった。

 東シナ海に面するインドシナ半島東海岸部は、現在では、北のホン河(紅河)デルタから南のメコンデルタまで、キン族の国・ベトナムの領土となっている。しかし、歴史を遡れば、キン族の元々の版図はホン河(紅河)デルタ地方に過ぎない。メコンデルタはカンボジアのクメール族のものであったし、中南部はチャム族の領土であった。キン族がこれらの地方に進出したのはわずか300年前に過ぎない。キン族はチャンパ王国を滅ぼしてチャム族を追いだし、メコンデルタに大量の移民を送り込んでクメール族から土地を奪った。歴史的に見れば、キン族は第一級の侵略者である。

 現在のベトナム中南部地方には古来チャム族と呼ばれるマレー系の人々が暮していた。彼らは西暦192年、中国・漢の支配を脱し「林邑(リンユウ)」という国を打ち立てた。この国がチャンパであると考えられている。チャンパは海のシルクロードの担い手として次第に力をつけ、インド文化を受け入れて、インド型王朝を築き上げる。そして、6世紀から8世紀にかけてチャンパ王国は絶頂期を迎える。この王朝は、中国の資料では、758年以降「環王(カンオウ)」と呼ばれ、875年以降は「占城(センジョウ)」と呼ばれている。

 9世紀に入ると、チャンバを取り巻く国際環境に大きな変化が生じる。チュオンソン山脈の西側、カンボジアの地においては、802年クメール族がアンコール王朝を建国する。そしてまた、北のホン河(紅河)デルタに居住するキン族が、938年、中国の支配から脱し、独自の王朝を建国する。以降、この2国と血を血で洗う闘争を繰り広げることになる。特に、「北属南進」を国是とするキン族の北からの絶え間ない侵略に国土を蚕食され、都を南に南にと移しながら耐え忍ぶことになる。982年にはキン族の国・大越(ダイヴェト)の攻撃を受け、王都は破壊され王は殺される。1069年にも、王都が陥落し、王が殺された。1104年にも大敗北をきっしている。また、西のアンコール王朝とも死闘を演じる。前述の通り、1177年には大勝利を得るが、1203年には反撃され、1220年までアンコール王国に併合されてしまう。

 そしてついに、1471年、キン族の国・後レ朝の攻撃を受け、王都ヴィジャヤ(現在のクイニョン近郊)は陥落し、致命的敗北を喫する。この時をもって、歴史教科書はチャンバ王国の滅亡とする。ただし、チャンパの小勢力は、荒涼たる半砂漠地帯であるファンラン地方に逃れ、一地方勢力としてわずかに余命を繋いだ。しかし、この小勢力も、17世紀には姿を消し、チャンパの名は地図から完全に消え去るのである。チャンパ王国の担い手であったチャム族の多くも、カンボジヤやメコンデルタへと離散する。
 

  第2節 ファンランへの列車の旅

 10月3日(火)。今日はファンランまで列車で行く予定である。ただし、ファンランの街には鉄道駅はない。最寄りの鉄道駅は街から7キロほど離れたタップチャムである。そこからファンランまで行くことになる。各カフェの運行するツーリストバスを利用すれば、直接ファンランまで行くことが出来、便利なのだが、私は列車で行きたいのである。そもそも、ファンランを目指す外国旅行者などほとんどいない。サイゴンから北上する旅行者が次に目指す都市は、普通、ベトナム最大のビーチリゾート・ニャチャンである。その南150キロに位置するファンランは、単なる通過点となる平凡な田舎町に過ぎない。

 私はチャンパ王国の残り香を求めてこの街に行く。なぜなら、この地はチャンパ王国終焉の地なのだから。街の郊外にはチャンパ王国が最後に残した寺院遺跡があるはずである。私の今回のベトナムの旅は、チャンパ王国の足跡を訪ねることを大きな楽しみとしている。ファンランはどうしても訪ねなければならない街である。

 朝7時、ホテルをチェックアウトする。受付のカワイコちゃんが「いつ戻ってくるの」と、別れを惜しんでくれた。タクシーを拾ってサイゴン鉄道駅へ向う。統一鉄道の始発駅となるこの駅の名前は、未だ「サイゴン」である。危険もあると聞いていたサイゴンのタクシーだが、メーター通りの料金で、駅まで行ってくれた。

 駅は思ったより小さかった。10ほどの窓口の並んだ切符売り場と待合室がある。私は既に、8時15分発特急D2のチケットを持っている。ところが、ホームへ通じる通路がない。しばらくうろうろした揚げ句、係員に聞いてみる。何と、ホームへの入り口は、いったん駅舎を出て、駅前広場を数10メートル行った先にあるとのこと。これでは初めての者は分かるわけがない。入り口で改札を受けてホームへ入る。列車はまだ入線していなかった。昼食用に売店でフランスパンのサンドイッチと水を購入して列車を待つ。ベトナムでは、ラオスやカンボジアと同様、パンは全てフランスパンである。植民地時代のフランス文化の影響なのだろう。

 発車15分前に列車は入線した。ディーゼル機関車に引かれた10数両編成である。切符を見せると係員が座席まで案内してくれた。ホームに高さがまったくないので、列車にはデッキに設置された梯子を登る。ベトナムの列車の座席グレードはソフトシートとハードシートの2種類である。ハードシートは剥き出しの板張り座席で、ファンのみである。一方、ソフトシートはリクライニングの利く座席で、冷房車となっている。私はもちろんソフトシートである。列車は定刻の8時15分に発車したが、座席はガラガラ、1車両に乗客は3〜4人というありさまである。これから7時間の列車の旅である。

 車窓を見続ける。しばらくは、サイゴンの街中である。大都会の鉄道線路沿いは、普通、スラム街が続くものだが、その気配はまったくない。さすが社会主義国ベトナムである。郊外に出ても雑然とした景色が続く。小さな林や小集落が連続し、唯一面の田圃の広がりとはならない。大きな川を2本渡った。

 車掌や雑用係が4人ほど乗り合せている。車内販売が頻繁に通る。車掌に「タップチャムには何時に着くか」と尋ねると「Fifteen Minutes」と答える。何度聞き直しても同じである。ふと思いついて、「Fifteen O'clockではないのか」と聞き直すと、慌てて言い直した。15時着のようである。

 3時間半ほど走ると、車窓の景色が劇的に変わった。荒涼たる平原が視界の限り広がり、その中に緩やかな丘陵がポコリポコリと盛り上がっている。人家も田畑も道路も、人工物はまったく見られない。ただただ荒野が広がっている。その中を、列車はひた走る。西部劇の1場面のようである。ベトナム中部に広がる乾燥地帯なのだが、これほどの荒涼たる風景は想像していなかった。

 11時を過ぎたところで、何と!  食事が配られだした。予想外の出来事である。ご飯に鶏肉の煮物、豚肉と瓜の煮物、それに瓜のスープがついている。意外とうまい。持参したサンドイッチは無駄になってしまった。相変わらず、車窓には荒野が広がっている。時たま、小さな開拓部落が現れる。その周りだけ、小さな田圃と畑が見られる。時々列車すれ違いのため、小さな駅で停車する。ただし、他の東南アジア諸国のと異なり、物売りはやって来ない。代わりに、車内販売が頻繁に来る。

 タップチャム到着予定の3時になっても、街が現れる気配はない。係員に聞くと、あと30分だという。車窓は相変わらず変化のない荒野である。もう3時間も同じ景色が続いている。4時頃、突然海が現れた。サイゴンを発って以来、初めて見る海である。地図で確認すると、どうやらカーナービーチのようである。タップチャムまでもう少しである。列車はすぐに海岸線を離れ、石灰岩の切り立つ山間に入っていく。周りはサボテンの原野となり、乾燥度がますます強まったことが知れる。

 4時40分、1時間40分遅れで、列車はようやくタップチャムの駅に到着した。係員がわざわざ知らせてくれた。ザックを背負いホームに降り立つ。小さな駅だ。かなりの乗客が降りたが、外人旅行者の姿はない。タップチャムの「チャム」はチャム族のチャムに由来する地名とのことである。ついに、チャンパ王国の故郷にやって来たのだ。

 駅舎を出る。今日は、ここからさらに、ファンランの街まで行かなければならない。乗合いのソンテウ(トラックバス)ぐらいあるだろうと思っていたが、駅前には、タクシー1台と2〜3台のバイタクがいるだけであった。タクシーの運ちゃんが、愛想よく、「さぁ、乗れ」と荷物を奪い取ってトランクに放り込む。この国では、こんな時、そのまま乗り込んだらひどい目に遭う。そもそもメーター料金で行くはずがない。「How Much」と聞くと、案の定、180,000ドン(約1,400円)と、とんでもない値段をいう。「ふざけるな」と睨みつけると、10US$と言い直す。黙って荷物を取り返して、駅舎に戻ろうとすると、慌てて追いかけてくる。結局5US$で折り合った。これでも高いと思うが、他に交通手段がない。

 バイタクの運ちゃんもグルだったとみえ、助手席に乗り込んできて、走行中しきりに、「明日、チャーターしてくれ」と、しつこくせがむ。値段を聞くと10US$だという、こんな雲助どもを相手には出来ない。無事にファンランのホテルまで行ってくれるのか少々心配になったが、何とか街の中心部のホテルに着いた。タップチャムとファンランはもう少し距離があると思ったが、意外に近かった。これなら3US$でもよかった。

 ホテルの部屋は広く、エアコンはもちろんバスタブまである。朝食付きで15US$、値切ろうとしたが無理であった。明日、バイタクをチャーターして郊外のチャンパ遺跡を廻るつもりでいる。受付の女性に相談すると、ホテル前に屯しているバイタクの運ちゃんの1人を呼んで、価格交渉をしてくれた。10,000ドン(約800円)で合意、先ほどの雲助よりはずっと安い。

 夕方の街を少し散歩してみたが、何の変哲もない田舎町である。街の真ん中を国道1号線が走っている。夕食にホテル付属の食堂へ行くが、英語がまったく通じない。英語の「Rice」も通じないので、「Com」と言うとようやく通じた。ベトナム語で、「米」を「コム」という。コメ(KOME)とコム(COM)、ほぼ同じである。タイ語ではカオ(KAO)と言う。これもよく似ている。キン族もタイ族も紀元前には中国・江南地方に居住していたと言われる。日本の弥生人も江南地方から来た気配が強い。今から2千数百年前、3民族の距離は、空間的にも文化的にも非常に近かったのではなかろうか。その後、3民族は稲作を携えて、あるものは南へ、あるものは北へと旅立っていった。私にはこんなふうに思えて仕方がない。

 
  第3節 チャンパ王国最後の遺跡 「ポー・クロン・ガライ」と「ポー・ロメ」

 1471年、チャンバ王国の都ヴィジャヤ(現在のクイニョン近郊)はキン族の国・後レ朝の攻撃を受け陥落する。これによって、チャンパ王国は事実上滅亡する。しかしその一部は、パーンドゥランガ(現在のファンラン近郊)に移って、地方の小勢力として余命を繋ぐ。この衰退期の建造物として、ファンラン近郊に、ポー・クロン・ガライとポー・ロメの二つの寺院遺跡が残されている。特にポー・ロメはチャンパの残した最後の遺跡と言われている。まさにこの地は、チャンパ王国終焉の地である。

 10月4日(水)。朝8時、昨日約束したバイタクが迎えに来た。運転手は人のよさそうな男であるが、英語は通じない。ベトナム語を駆使して聞くと、57歳で名前はタイ。キン族であるとのこと。先ずはポー・クロン・ガライを目指す。空はどんよりと曇り、雨が来なければよいのだが。昨日の道を戻って、タップチャムの街並みを抜けると、ハット息をのむ光景が現れた。小高い丘の上に、まるで天に向って燃え立つ炎のような姿の赤茶けた遺跡が見える。目指すポー・クロン・ガライである。思わず、「おぉ!」と声を上げてしまうほどの情景である。

 入場料を払い、サボテンや潅木で覆われた丘の斜面を登る。早朝のためか、まだ人影はない。丘の上には4つの建物が残されている。燃え立つ炎のような祠堂、船形の屋根を持つ宝物庫、それに短形房と楼門である。これらは、14世紀に建てられたヒンズー教の伽藍で、いずれも焼きレンガを積み上げて造られている。先ずは祠堂に入る。入り口前には聖牛ナンディンの像が置かれ、入り口上部には有名な「踊るシヴァ神」のレリーフが刻まれている。内部に入ると、中央にヨニ(女性器)の上に乗ったリンガ(男性器、シヴァ神の象徴)が安置されている。そのリンガには極彩色に塗られた人面が彫られている。この人物は、この伽藍を建設したポー・クロン・ガライ王と考えられている。

 丘の上からの展望が素晴らしい。東を望めば、足下からタップチャムとファンランの薄い街並が続き、南・北・西は岩石剥き出しの荒涼たる山並みが囲んでいる。しばし、チャンパ王国に思いをはせた後、丘を下る。丘の麓は公園風に整備されている。つい最近行われたとみえ、まだ真新しい。展示室や土産物屋のある立派な施設も新築されている。観光地化を図っている様子である。

 再びバイクに乗って、ポー・ロメを目指す。国道1号線をカーナービーチに向って南下し、街の手前で右に入る。田園風景の中をしばらく進むと、タイさんが前方を指さす。その方向に目を向けると、赤茶けた建物の立つ小さな丘が見える。ポー・ロメ遺跡のようだ。小さな集落を過ぎると、道が尽きた。岩のゴロゴロする原野の中を微かな轍の跡を頼りに、強引に進む。周りはサボテンと潅木、砂漠とまでは行かないが、極度の乾燥地帯であることが知れる。

 ようやく丘の麓に達した。意外なことに小さな掘っ立て小屋がポツリとあり、男がその前に座り込んでいる。オートバイを捨て、丘に向ってサボテンと岩のゴロゴロする急斜面を強引に登る。タイさんも付いてくる。山頂近くでようやく石段となった。狭い頂には、廃虚と化した祠堂がひとつ寂しく建っている。昔は宝物庫もあったらしいが、今は完全に姿を消してしまっている。この伽藍が建立されたのは16世紀前半である。そして、それ以降のチャンパの遺跡は残されていない。まさにチャンパ王国最後の痕跡である。あのアンコール帝国を打ち破るほどの栄華を極めた王国も、その最後は、サボテンきり生えないこのような荒れ地に追いつめられ、そしてむなしく消えていったのだ。栄枯盛衰の哀れを感じる。

 丘を下ると、バラック小屋の主が「お茶でも飲んでいきなさいよ」と声を掛けてくれた。めったに人が来ることもないので寂しかったようだ。聞けば、男はチャム族で、先祖の残したこの遺跡を、毎日ここに詰めて守っているとのこと。その話を聞いて何やら嬉しくなった。チェンパ王国は滅びても、まだその墓標を守り通している人がいる。チャンパ王国の滅亡とともに、多くのチャム族はメコンデルタやカンボジアに逃亡した。しかし、一部のチャム族はこの地に踏み止まった。周辺には幾つかのチャム族の集落が現存する。

 
 第4節 ベトナム随一のビーチリゾート・ニャチャンへ

 10時半、ホテルへ戻る。今日はここから約150キロ北のニャチャンまで行くつもりでいる。ニャチャンはベトナム随一のビーチリゾートである。しかし、私はビーチには興味はない。この街にポー・ナガル塔とよばれるチャンパの寺院遺跡があるはずである。チェックアウトして再びタイさんのバイクに乗ってバスターミナルへ行く。ニャチャン行きのワゴン車がすぐに出るというので乗り込む。値段を聞くと50,000(約400円)ドンだという。明らかにボッテいる。30,000ドンにせよと交渉するも、頑として応じない。よほど降りてしまおうかと思ったが、荷物は既に奥の方に積み込まれている。仕方がないか。

 11時、ワゴン車は出発した。ニャチャンまで3時間ほどだろう。私は助手席に乗せられている。展望がよく大歓迎だが、他の乗客とやり取りしている運賃を知られないように隔離されたのだろう。市街地を抜け、さぁ国道1号線を一路ニャチャンへと思った瞬間、車掌の携帯電話が鳴って、車は市街地にUターン。まったくもう、何やってんだ。乗客を拾って、再び国道1号線を。と、客席のスライドドアが外れて落ちそうになる。道端で延々と修理。その間にサイゴン発の長距離バスが次々と追い越していく。何たるボロ車、「乗るバスを間違えたかぁ」と思っても後の祭りである。ようやく走り出したと思ったら、また携帯電話でUターン。さらにもう一度。ついに怒りが爆発して、車掌と運転手を怒鳴りつける。しかし、「No Problem, No Problem」と平然としている。不思議なことに、他の乗客は文句ひとついわない。しかも既に定員オーバーで、狭い車内に折り重なるように乗っている。

 ようやく車は快調に走り出した。乗り降りはどこでも自由で、合図さえあればどこでも止まる。車掌がしつこく「Money,Money」と運賃を請求するが、「後で」のひと言で、頑として払わない。まだ、怒りは収まっていないし、このボロ車、無事にニャチャンに着く保証はない。案の定、またドアが壊れて修理である。走っている道は、ベトナムの幹線中の幹線、国道1号線である。もう少し立派な道を予想したのだが、片側1車線の平凡な道。行き交う車もそれほど多くはない。車の走りは概しておとなしい。事前に読んだ物の本には、この道はチキンレースのレース場と化しているとあったが、その気配はない。

 海岸に出た。塩田が広がっている。幾つかの街を過ぎる。やがて、街並の濃い海岸沿いを走るようになる。ニャチャンは近そうである。2時過ぎ、バスターミナルへ着いた。車掌が、「ここがニャチャンだ、金を払って降りろ」という。いまひとつ信用できず、寄ってきたバイタクに確認するとやはりニャチャンだという。

 この街はリゾート地だけに安ホテル、ミニホテルが沢山ある。バイタクにホテルの多いビエットゥ通りを指示する。料金は1US$とのこと、意外に良心的だ。賑やかな街を横切り、バイクはビエットゥ通りで海岸に最も近いホテル・ブルースターの前で止まった。幾つか部屋を見せてもらうが、10US$の部屋が素晴らしい。3人用の大きな部屋で、もちろんエアコン、ホットシャワー、テレビ、冷蔵庫完備、おまけに、窓から海が見える。しかも、朝食付きである。値段といい設備といい非の打ち所がない。

 昼食後、カフェで明後日のダナンまでの列車チケットを手配して、海岸を散歩する。さすが、ベトナム随一のビーチリゾート、素晴らしい海岸である。砂浜は広く、椰子の並木の洒落たプロムナードが続いている。沖合には幾つもの島が浮かび、押し寄せる波は静かである。ただ、オフシーズンのためか海岸で遊ぶ人は多くはない。海岸に並んだパラソルの下のデッキチェアには、半裸のファラン(白人)どもがまどろんでいる。海で泳いでいるものは見当たらない。

 この街は観光地だけに、旅行者に必要なものは何でもそろっている。ただし、旅行者はファランのアベックばかり、私にとっては余り居心地の良い街でもない。夕食後街を散歩すると、シクロやバイタクの運ちゃんが「女、女」としつこく誘う。1時間5US$とか6US$とか言っている。夜、激しく雨が降りだした。
 

  第5節 ニャチャン探索

 10月5日(木)。今日は1日、自転車でニャチャンの街を探索するつもりである。ひと晩中降り続けていた雨も明け方に上がり、久しぶりに青空が広がっている。ホテルで貸自転車の相場を聞くと、中国製が8,000ドン/日、日本製が12,000ドン/日とのこと。教えられた貸自転車屋に行くと50,000ドン/日だと頑として言い張る。長々と値段交渉。このボッタクリの国は何をするにも値段交渉、まったく疲れる。いい加減嫌気が差して、40,000ドンで借りてしまった。明らかな敗北である。こんな国は2度と来るもんか。

 自転車を駆って先ずはポー・ナガルを目指す。8世紀に建立されたチャンパ王国の寺院遺跡である。この遺跡を見るためにこの街にやって来た。大都会だけに、交通量が多く、自転車を走らすにはややしんどい。おまけに頭上から太陽が強烈な熱線を降り注ぐ。少々迷いながらも、ニャチャン川河口に架かる橋に差し掛ると、対岸の丘の上に目指すポー・ナガル遺跡が見えた。なかなかの景色である。広々とした河口は漁船の係留所となっていて、多くの漁船がひしめいている。ベトナムの漁船は皆、舳先に目玉が描かれている。

 入場料を払い(もちろん外国人だけ)、遺跡に入る。この寺院は8世紀に建立された後、774年と784年の2度にわたりジャワの軍勢に襲われ破壊された。おそらくボロブドール遺跡を残したシャイレーンドラ王朝の仕業であろう。また、10世紀の半ばにもアンコール王朝の攻撃を受け破壊された。当時の戦争の多くは、領土拡大を目指したものではなく、財宝と奴隷の獲得を目指した略奪である。現在残る伽藍は、その後13世紀までに順次再建されたと考えられている。現在、残されている建造物は5個である。即ち、祠堂、南祠堂、南東の寺院、北西の寺院、及び丘の麓の14本の列柱殿である。

 列柱殿の脇につけられた石段を丘の上へとのぼる。先ず目を引くのは、目の前の遺跡ではなく、素晴らしい展望である。眼下をニャチャン川が流れ、その向こう側に海に面したニャチャンの街並が広がっている。境内は外人観光客と参拝のベトナム人で賑わっていた。日本語ガイドを連れた日本人もいる。この寺院は、元々、ヒンズー教寺院であるが、どういうわけか現世利益があるとのことで仏教徒のベトナム人の信仰を集めている。したがって、遺跡であると同時に現役の寺院でもある。主祠堂内部に入る。線香の煙りが立ちこめている。この寺の主神であるポー・ナガル女神の美しく着飾った像が、ヨニの上に祀られている。この祠堂は高さ28メートルあり、その美しさはチャンパ芸術の傑作と言われている。しばらく境内を探索した後、丘を下る。

 街の西にある隆山寺を目指す。この街は三叉路や斜めの道が多く、道はいたって分かりにくい。地図と見比べるのが面倒くさくなり、方向感覚だけでペタルを漕ぐ。何と、バスターミナルに行き着いてしまった。方向は正しいが、行き過ぎである。戻って隆山寺に達した。広々とした境内を持つ立派な寺である。1889年建立、背後の山の上には大仏が鎮座している。丘の上に建つニャチャン大聖堂に寄って街の中心部へ戻る。

 街中には、真っ白なアオザイの制服を着た女子高校生が目立つ。アオザイはベトナムの民族服と言われているが、その歴史は意外に新しく、1930年代以降だという。中南部では女子高校生の制服になっている。アオザイは男性の目にはいたって魅惑的な衣服である。身体の線がくっきりと浮かび上がるだけでなく、下着が完璧に透けて見える。したがって、アオザイを着るときは下着は上下とも白に限られるとのこと。ホテルのおねえちゃんに聞いた。

 泊まっているホテルは家族経営で、いたって家庭的で気持ちがよい。中国式の祭壇があり、また玄関先には吉兆文字を記した提灯がぶら下がっている。おばあちゃんに「あなた達は中国系か」と聞いたところ、「純粋なキン族です」とムキになって答えた。夕方激しい雷雨が来た。
 

 第6節 夜行列車とバスを乗り継ぎホイアンへ

 10月6日(金)。次の目的地は、ベトナム中部の都市・ホイアンである。この街の郊外にチャンパ王国最大の遺跡・ミーソンがある。ニャチャンからだとバスで行くのが普通なのだろうが、私は列車で行く。ただし、ホイアンは鉄道が通っていない。30キロほど北のダナンまで列車で行って、そこからバスでホイアンへ向うもりである。今晩のダナン行き夜行列車のチケットは既に取得ずみである。夜までの時間をどうやって過ごそうか。市内見物も昨日大方してしまったので、今日1日暇である。

 街の北にあるダム市場まで歩いて行ってみることにする。ホテルからだと3キロほどの距離である。街の中心を横切り、テクテクと歩く。今日は朝からカンカン照りである。市場は賑やかであるが、別段面白いこともない。さらに北へ歩いてニャチャン川まで行く。向こう岸の丘の上にポー・ナガルが見える。なかなかの景色である。再び歩いて宿に戻る。後は海岸をぶらついて暇をつぶす。

 夕方6時半、バイタクで駅に向う。外は既に真っ暗である。駅は街外れの閑散とした場所にあった。駅前で夕食を取るつもりでいたのだが、周囲には食堂も売店もない。仕方がないので、駅売店でパンと水を買って、待合室で列車を待つ。乗るべき列車は20時11分発特急SE6号である。

 待合室にいた若い男が、突然日本語で話し掛けてきた。流暢な日本語である。一瞬、警戒したが、話を聞くと、日本へ出稼ぎに行っていた由。給料が20万円/月で、15万円の仕送りが出来たと懐かしがっていた。待つほどに乗客が集まってくる。中に、2人の外人旅行者がいた、話してみると、1人は50年配のドイツ人、ヴィンまで行って、ラオスに向うのだと元気がよい。もう1人は、同年配のスウェーデン人の女性で、ハノイへ向うとのこと。いずれも大きなザックを背負ったバックパッカーである。

 やがてホームへの入場が始まった。ホームといっても、線路面からの高さはない。列車は少し遅れる様子である。ホームをぶらつきながら、駅長室をのぞき込んだら、駅長がニコニコしながら中へ入れと手招きする。部屋に入ると、自らお茶を入れてくれた。いろいろ話しをしたいが、何せ言葉が通じない。見ず知らずの旅人に対し、このような親愛の情を示すことは、ベトナムでは極めて珍しい。この国では、向こうから触れ合いを求めてくるようなことはない。旅人はただボッタクリの対象としか見なされていないように思える。

 20分遅れで、列車はやってきた。座席は満席である。網棚にザックを載せるスペースがなく困っていても、皆知らん顔である。詰めれば十分スペースが空くのだが。まったく親しみの湧かない国民である。列車は真っ暗な中を走り出した。車内ではビデオ上映をしている。しかも大きな声で。まったくもって迷惑である。10時半にようやく静かになった。座席での夜行列車はやはりしんどい。次からは寝台車にしよう。

 10月7日(土)。早朝5時40分、ダナン駅に到着した。大勢の人が降りる。ここは中部最大の都市、ベトナム第3の大都会である。あいにく雨が降っている。駅舎をでると、タクシーの運ちゃんが、ホイアンまで100,000ドン(約800円)と、しつこく誘う。私はバスで行くつもりでいる。しばらく経つと雨も小降りになったので、バイタクをつかまえバスターミナルへ行くよう指示する。値段を聞くと30,000ドンと吹っかけてくる。どうにか20,000ドンに値切る。ほんの少し走ると、ホイアン行きのミニバスに行きあった。バスは停まり、車掌が早く乗れという。こんな時、慌てて乗り込んだらひどい目に遭うことは、充分学習してきた。「How Much」と聞くと、案の定、50,000ドンと吹っかけてきた。危ない危ない。何とか30,000ドンに値切ってようやく乗り込む。おそらく正規運賃は20,000ドン以下だろう。7時30分、バスはホイアンのバスターミナルへ着いた。

 
 第7節 世界遺産の街・ホイアン

 安ホテルにチェックインすると、シャワーを浴びた後すぐに街に飛びだした。昨夜はほとんど寝ていないが、まだ体力に余力がある。世界遺産ホイアンの街とはどんなところなりや。ホイアンは1999年に街そのものが「ホイアンの古代都市」として世界遺産に認定された。地図を頼りに15分も歩くとトゥボン川に出る。この川の左岸一帯に広がる旧市街が世界遺産の街並である。

 ベトナムという国は、まさに戦乱に明け暮れた歴史を持つ。したがって古い街並というものは存在しない。全て戦火に焼かれた。その中にあって、このホイアンの17〜18世紀の街並のみが残った。ホイアンはチャンパ王国の時代、あるいはそれ以前から、インドシナ半島東海岸最大の国際貿易港、すなわち、海のシルクロードの中継基地として多いに賑わった。世界中から物、人が集まった。16世紀末には日本の御朱印船も度々やって来て、日本人町も造られた。山田長政や三浦安針がこの街に立ち寄った記録もある。17世紀に入ると、鎖国政策により日本人は姿を消し、代わりに、華南から大量の華人がやって来てチャイナタウンを形成した。このチャイナタウンが現在残る街並である。近世になると、国際貿易港といての地位は、より大きな船の入港が可能な隣のダナンに移り、ホイアンは寂れた。小さな田舎町となったホイアンは、もはや戦火に焼かれることはなかった。

 先ずは日本橋(来遠橋)へ行く。トゥボン川に流れ込む小川にかかる木造の橋である。屋根付きのアーチ型の橋で、橋の真ん中に祠が祀られている。橋には「ホイアン」とカタカナで書かれた提灯がぶら下がっていた。日本人が造ったと言い伝えられているが、橋そのものは完全に中国スタイルである。正確な位置は不明だが、この近くに日本人町があったらしい。

 チャンフー通り、続いてバクダン通りを歩く。間口の狭い木造家屋が隙間なく並ぶ。古びた屋根瓦の波が美しい。所々に色彩豊かな中国寺院が混じる。まさに、中国華南の街並みそのものである。ほとんどの家が、土産物屋や食堂になっている。通りには欧米人を中心とした多くの外人観光客が溢れている。何やら、テーマパークのようである。狭い道は自動車の通行は禁止されているようだが、オートバイの通行が多く、のんびりとも歩いていられない。「まぁ、こんなもんか」という感じで、それほどの感動も覚えない。前日がフル・ムーン・フェスティバルで多いに賑わったらしい。来るのが1日遅かった。

 いったんホテルに帰り、自転車で郊外にあるという日本人墓地を探してみたが、見つけることが出来なかった。数日前に、この付近に大型台風が上陸したとかで、大木が何本も倒れている。夜半、激しい雨音に目が覚めた。

 
  第8節 ミーソン遺跡

 10月8日(日)。今日はミーソン遺跡を見学に行く。この遺跡に行くためにホイアンにやって来た。ミーソン遺跡とはホイアンの南西約45キロの山あいの盆地にあるチャンバ王国最大の寺院遺跡である。ホイアン周辺はチャンパ王国発祥の地であり、チャンパの故郷である。王国の都は、西暦1000年にヴィジャヤ(クイニョン付近)に移るまで、ホイアン近郊のチャキエウに置かれていた。この王都はシンハプラ(シンハ=ライオン、プラ=都)と呼ばれ、9世紀後半以降はインドラプラと呼ばれた。そして、その奥座敷となるミーソンはチャンパの聖地と見なされ、歴代の王は、こぞってこの地にヒンズー教の寺院を建立した。その建立は都がヴィジャヤに移った後も続けられた。初期の寺院は木造であったため残っていないが、現在、8世紀〜13世紀建立の70棟以上の寺院が残されている。しかしながら、これらの寺院群もベトナム戦争中に米軍の激しい爆撃により多くが破壊されてしまった。1999年、この遺跡は「ミー・ソン聖域」として世界遺産に認定された。

 ミーソンへは公的交通機関がないため、見学は旅行社の主催するツアーを利用することになる。前日申し込んでおいた。8時に迎えのバスがホテルまでやって来た。各ホテルからピックアップされた参加者はひとまず旅行社の事務所に集合、改めてミーソンに向う。参加者の中に2人の日本人がいた。1人は若い女性、照明デザイナーのAさん。何と私と同じホテルに泊まっているとのこと。もう1人は26歳のカメラマンの卵Sさん。これから写真を撮りながらラオス、中国と旅する由。2人とも1人旅である。その他の参加者は全て欧米人。ガイドが1人付き添っているが、もちろん説明は全て英語である。

 1時間強のドライブでバスの終点に着いた。ここにはチャンパ遺跡に関する学習センターのような真新しい施設が出来ていた。見学は帰路にするとして、すぐに、ピストン運行しているジープに乗り換えて遺跡入り口に向う。山道を数分走り、休憩所のある広場で車を降りる。ここが遺跡見学のスタート地点となる。

 川を渡り、森の中の細道を500メートルほど歩くと、目の前に待望の遺跡が現れた。ミーソン遺跡グループB〜D群である。ミーソン遺跡はその存在場所によってA〜Nの各グループに分類されている。このB〜D群が最も保存状態がよく、遺跡見学の中心となる。遺跡は次々と訪れる見学者で賑わっている。ガイドが一生懸命説明しているが、説明を聞くより実物を見るほうが先である。遺跡の間をあっちこっちと飛び回る。知識がないので、細かいことは分からないが、それでも船形屋根を持つ宝物庫や壁に神像の彫刻がある祠堂などは分かる。祠堂の中には8本の腕を持つシヴァ神が彫られた石版があった。この伽藍を建立した王を表現しているのだろうか。

 川を渡ってAグループへ行く。こちらは幾つかのレンガの山があるだけ、かつて何らかの建物があったことは分かるが、今は元の姿を想像することすら難しい。グループGもかなり荒れ果てている。かろうじて大きな崩れかけたひとつの建物が、祠堂であることを想像出来得る程度に残っている。あとはレンガの山に近い。

 遺跡はもう少し整備されているのかと思ったが、潅木の薮の中にただ放置されている。完全に崩壊した遺跡が多く、少々期待外れであったが、消え去ったチャンパ王国を偲ぶには、この荒れ果てた姿もふさわしいのかも知れない。帰路は途中から船でトゥポン川を下り、ホイアンを目指した。川岸では水牛が草を食み、実にのんびりした田園風景が見られた。心地よい川風に吹かれながら、遠い昔のチャンパ王国に思いをはせた。

 夕食は知りあったAさん、Sさんと三人で会食した。久しぶりに日本語を心置きなくしゃべれて、溜まっていたストレスが発散できた。Sさんはこれからラオス、中国と廻り、帰国したら写真集を出版するのが夢だと語っている。成功を祈ろう。Aさんは明日、旅行社のツーリントバスでダナンへ行くという。私も明日はダナンへ行く。ただし、ローカルバスで行くつもりだ。ひょっとしたらまたダナンで会えるかも知れない。

 
  第9節 再びダナンへ

 10月9日(月)。ホイアンから北上する旅行者の次に目指す都市はほぼ100%古都・フエである。特に見どころのないダナンで途中下車する者などいない。しかし、私はダナンを目指す。この街にある「チャム彫刻博物館」にどうしても行ってみたいのだ。8時半、ホテルをチェックアウトしてバイタクでバスターミナルへ向う。バイタクの運ちゃんは「このままダナンまで直行しようよ。4US$でいいよ」と盛んに誘う。しかし、私はバスで行きたいのだ、しかもローカルバスで。ベトナム国内をバスで移動する旅行者の多くは、旅行社の運行するツーリストバスを利用する。ツーリストバスなら、運賃は少々高めだが、ボラレル心配もないし、英語も通じる。バスも豪華バスだ。ローカルバスは強烈にボッテくるし、英語も通じず、ボロバスである。しかし、私はローカルバスを好む。ローカルバスの方がベトナムの地肌に触れることが出来るし、何が起こるか分からないスリルもある。

 小型のローカルバスはすぐに発車した。かなりのボロバスである。乗客のうち外国人は当然私1人。すぐに車掌が運賃を集めに来た。私は黙って、当然の顔をして、20,000ドン渡した。来るときは、50,000ドンといわれ30,000ドンに値切ったが、正規運賃は20,000ドン以下と睨んでいる。車掌は何も言わなかった。見込んだ通りである。

 しばらく走ると、何と、ガソリンスタンドへ入って給油を始めた。日本では定期路線バスが途中で給油するなど考えられない。やがて右手に、岩山の連なりが見えてきた。「五行山」である。ダナンの数少ない観光スポットのひとつで、山腹に仏像を祀った洞窟があり、また山頂からの展望も絶佳とのことである。

 大きな川を渡って市街地に入った。ハン川だろう。地図を取りだして、バスの経路をなぞる。街並みは次第に濃くなる。広々とした道路が碁盤の目のように走り、実に広大な街である。この街の人口は100万人を超えるという。街の中心に近いハン市場付近でバスを降りる。何人かのバイタクの運ちゃんが声を掛けてきたが、地図を頼りに歩いて街の中心部に向う。今日は朝からカンカン照りである。さすがに暑い。ようやく適当なホテルを見つけてチェックインする。

 すぐにチャム彫刻博物館に向う。2キロほどなので歩いて行くことにする。未知の街は歩くに限る。ハン川の岸辺に出る。満々と水を湛えた実に大きな川である。しかし、水は真っ茶色に濁っている。川沿いには、所々にベンチなど設置された洒落たプロムナードが続いている。ただし、台風のツメ跡が凄まじい。何本もの街路灯や椰子の街路樹が根こそぎ倒され、水際に張られた安全柵もめくれ上がっている。

 30分ほどで街の北部にある。チャム彫刻博物館に着いた。中に入って目を見張った。「おぉ、これは凄い」。思わず感嘆の声を上げてしまう。大きな窓からの光溢れる展示場に、神像や動物の彫像や彫刻が所狭しと並んでいる。いずれの作品もケースなどには入れられておらず、その気になれば手で触れるほど間近に見ることが出来る。しかも、写真撮影も自由だ。いずれの作品も国宝級、その素晴らしさは言語では現せない。ミーソン遺跡ではその激しい崩壊に少なからずがっかりしたが、チャンパの真髄はこの博物館で護られていた。展示されている作品の数は300点にのぼるという。わざわざダナンに立寄ってよかったと、つくづく思った。2度3度と展示場を巡り、満足感にひたって博物館を出る。

 ぶらりぶらりと歩いてホテルに向っていたら、何と、向こうからAさんが歩いてくるではないか。100万都市の中でばったりとは、やはり奇遇である。これからチャム彫刻博物館に行くという。夕食をともにすることを約して別れた。旅行社に行って、明日のフエまでのバス予約を済ますと、もうやることもない。ハン川河畔のベンチにぼんやり座り、緩やかに流れる川面を眺め続ける。このダナンは比較的新しい街である。18世紀以降、隣のホイアンに代わってベトナム最大の国際貿易港としての地位を獲得した。ベトナム戦争中は解放戦線と米軍が街を激しく奪いあった。ベトナム最大の米軍基地があったことでも知られる。しかし、今その面影はない。現在はベトナム有数の工業都市として大いなる発展を続けている。

 今日でチャンパ王国の足跡をたどる旅は終わる。明日からいよいよ、キン族の歴史をたどる旅が始まる。
 
  

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