おじさんバックパッカーの一人旅
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2006年10月10日~10月13日 |
第5章 古都・フエ
第1節 ハイバン峠 10月10日(火)。今日は、ベトナム最後の王朝・阮朝の王都であったフエに向う。昨日旅行社で、フエまでのツーリストバスを予約しておいた。朝、9時15分に、バイクで迎えに来てくれる約束である。ところが8時45分に迎えがやってきた。慌てて支度をし、バイクに乗せられて旅行社に行くと、既に大型バスが停まっていた。ホイアンからフエに向うバスのようで、ダナンから乗るのは私1人であった。8割ほどの乗車率であるが、乗客は皆、待ちくたびれた顔をしている。私1人のために、小一時間待ってしまったようだ。私が悪いわけではないが。 バスはすぐに発車した。これから約3時間の旅である。しばらくは海岸沿いを進む。台風のツメ跡が実に生々しい。海岸沿いの遊歩道は砂に埋り、街路樹は軒並み倒れている。海岸近くの海に浮かんでいる船が面白い。竹で編んだ大きな笊である。底にコールタールのようなものを塗って、編み目を塞いでいる。この地方独特の船なのだろう。大きく湾曲した海岸線の向こうに、海に向って押し寄せた山並みが岬となって突き出している。かの有名なハイバン峠のはずだ。あの峠を越えれば、ベトナム縦断の旅も半分終わったことになる。 やがてハイバン峠に連なる山並みが近づいてきた。いよいよ峠への登りに入るのかと思いきや、バスは真新しい立派な道に入っていくではないか。瞬間、嫌な予感がした。案の定、バスは真新しいトンネルに突入した。ハイバン峠にトンネルが掘削中であるとは聞いていたが、既に完成していたのだ。これでは、楽しみにしていたハイバン峠には立てない。昨日バスを予約する際に、「ハイバン峠を通りますか」とわざわざ聞いて、「Yes」との回答を得ていたのだがーーー。 標高約600メートルのハイバン(海雲)峠は南北に細長いベトナムの中央に位置し、国土を真っ二つに分ける峠である。この峠を境に、南と北では、気候も変わるし、人の気質も変わるといわれている。当然交通の難所であり、また軍事上の戦略的拠点となる場所でもあった。このため、古来、この峠をめぐって多くの戦いが行われた。フエを拠点として南への進出をもくろむキン族の攻勢を、チャンパ王国はこの峠を盾にしばしの間必死にこらえた。ベトナムの植民地化をもくろんだフランスは、王都・フエへの攻撃の拠点としてこの峠に砦を築いた。ベトナム戦争の際も、南ベトナムはここに砦を築いて、北ベトナムに対する軍事拠点とした。峠からの展望も絶佳だという。是非、この峠に立ってみたかったのだがーーー。
再びバスはフエを目指して国道1号線を北上する。小さな峠を越えると、稲刈りのすんだ田圃がどこまでも広がる農村風景となる。ベトナムの農村には耕耘機は見られない。代わりに水牛がのんびりと草を食んでいる。やがて大きな街並みに入り、11時30分、旅行社の営業所前で停まった。フエ到着である。群がる紹介屋を振りきり、歩いてホテル・バンブーにチェックインする。
荷物を部屋に置くと、すぐに街に飛びだした。かわいい女の子が呼び込みをしていた大衆食堂に入る。客は誰もいない。16歳だという女の子は私の前に座り込んで、あれやこれやと話し掛けていたのだが、そのうちノートを持ちだしてきた。ノートに英語で、(スペルは間違いだらけであったが)、幾つかの言葉を書き、「日本語で何というか教えて欲しい」と言う。Good morning, Good afternoon, Good-bye, How are you? 等々の言葉が並んでいたが、最後にI love you とあったのには笑ってしまった。「ANATA GA SUKI ! 」と書いてやった。この街は日本人の観光客も多く、片言の日本語の必要性を感じていたのだろう。 先ずはフエの最大の見どころ、王宮に行ってみることにする。フエはベトナム最後の王朝・グエン(阮)朝(1802~1945)の都が置かれた街である。今に残る王宮、皇帝廟、寺院などの建物群は、1993年、「フエの建造物群」として、ベトナム最初の世界遺産に認定された。 王宮に行く前に、王宮の主、グエン(阮)王朝の歴史を振り返ってみる。
しかし、グエン(阮)一族の中で唯ひとり生き延び、タイに亡命したグエン・アイン(阮福映)が、タイとフランスの支援を受けて巻き返す。グエン・アイン(阮福映)は1801年、フエを奪還し、1802年にはタンロン(昇竜)に入城してベトナムを統一し、グエン(阮)朝を開いた。グエン・アインはザーロン(嘉隆)帝として即位し、都をフエに定める。同時に、タンロン(昇竜)をハノイ(河内)と改名し、タンロン城を破壊した。宿敵チン(鄭)氏の拠点を嫌ったのである。この結果、北のホン河(紅河)デルタから南のメコンデルタまで、すなわち、現在のベトナムの領土を版図とした最初の王朝が出現した。しかし、フランスの軍事援助を受けたことが後々大いなる災いを生む結果となった。 ザーロン(嘉隆)帝は中国・清に新王朝を開いたことを報告して封冊を請い、国名をナムベト(南越)としたい旨を申し出る。しかし、清はこの国名を許可せず、代わりに、ベトナム(越南)の国名を与えた。この時初めて、現在に続く「ベトナム」という名称が生じた。この時代に至ってもなお、キン族は中国に対し属国であることを演じ、その圧力を避けようとしたのである。そうしておいて、南に対し心置きなく領土を広げていった。まさに国是「北属南進」を実行していたのである。 グエン(阮)朝建国に多大な力を貸したフランスは、次第にその本性をあらわにし、国土を蚕食していく。そしてついに、1885年にはベトナム全土がフランスの支配下に入る。フランスはグエン(阮)王朝を形式的に存続させたため、グエン(阮)王朝が名実ともに消滅するのは1945年である。日本軍の敗退を受け、ホーチミン率いるベトミンが政権を樹立し、皇帝パオダイはフランスへと亡命した。そしてまた、この時から、新たな、ベトナムの長く、苦しい戦いが始まるのである。
グエン朝の王城はフォーン川左岸に建設された。ほぼ正方形で、1辺2.5キロに及ぶ広大な王城である。一方、現在のフエの街は川の右岸に発達した。フォーン川(香江)に架かるチャンティエン橋を渡り王宮に向う。大きな川だ。橋のたもとは観光船の発着場になっている。両岸はともに公園風に整備された緑地帯となっている。
太和殿を抜けると、目の前には何もない広大な荒れ地が広がっている。この荒れ地こそが、フエのもうひとつの歴史を示している。フエはベトナム戦争の最激戦地であった。開戦まもなく、フエは解放戦線の支配下に入る。これに対して、米軍は無差別爆撃を加え、奪還する。この爆撃で、フエの旧市街も、新市街も、そして王宮もほぼ壊滅した。そして、1968年の旧正月、ベトナム戦争史上有名な「テト攻勢」が始まる。解放戦線部隊は次々とフエ市内に突入し、米軍と激しい市街戦を展開する。有名な「フエの戦い」である。この戦いにより、王宮も含めてフエは完全に壊滅した。今も城壁に点々と残る銃痕に、その戦いの激しさを知ることが出来る。1975年、ベトナム戦争が終わったとき、フエの街に残されたのは、城壁のみであったと言われる。それでも、王宮に崩壊した幾つかの建物が残され、戦後それらが再建された。この太和殿もその一つである。 「ホイアンで会いましたねぇ」と、突然白人のアベックが話し掛けてきた。私は見覚えがない。
10月11日(水)。フエのもうひとつの見どころは郊外に点在する皇帝廟である。初代ザーロン(嘉隆)帝廟、第2代ミンマン(明命)帝廟、第3代ティエウティ(紹治)帝廟、第4代トゥドゥック(嗣徳)帝廟、第9代ドンカイン(同慶)帝廟、第12代カイディン(啓定)帝廟の6個の皇帝廟がある。これらの帝廟巡りは、旅行社の主催するボートツアに参加するのが一般的である。フォーン川(香江)を船で遡りながら各帝廟を巡るツアである。しかし、私は自転車で巡るつもりでいる。案内書には「体力に自信のある者のみ許される」とある。 今日は朝からカンカン照り、だいぶ体力を消耗しそうである。近くのカフェで自転車を借りる。2US$だか、多段変速式のマウンテンバイク。これならこの値段で満足である。9時出発。市街地を抜け、線路を横切り、ディエンビィエンフー通りを南下する。心配がひとつある。まともな地図がないのである。案内書に載っているごくごく簡単なポンチ絵だけが頼りである。道を聞き聞き行く以外ない。郊外は丘陵地帯で坂が多く、多段変速のマウンテンバイクは大正解である。40分ほどで最初の目的地・トゥドゥック帝廟に着いた。ここまでは、1度道を確認しただけで迷うことはなかった。
ここからひどいことになった。坂を下りだすと、石のゴロゴロした細い悪路となる。貧相な家が数軒ある集落に突入した。と、小さな川に突き当たる。竹で編んだ怪しげな橋が架かっている。自転車を押して渡ろうとすると、強欲そうなおばさんが飛び出してきて、「渡り賃1US$だ」と大声でわめく。まさにボッタクリの恐喝である。不愉快きわまりない。10,000ドンに負させて進むと3叉路となる。どっちへ行ったらよいのかさっぱり分からない。道はもはや自転車がやっと通れるほどの細さである。仕方がないので近くの農家に聞きに行く。と、猛犬2匹が唸り声を上げて襲いかかってきた。何とか逃げて進むも、道はついに田圃の中の畦道となってしまった。人家もなく、道を尋ねようもない。田圃の向こうに車の通る道が見える。あそこまで行けば何とかなるか。もはや頼りは、自慢の方向感覚だけである。 数人の女子中学生に道を聞き、進むがどうも方向感覚がおかしい。売店で訪ねると、反対方向だという。まったくもぉ。道を戻る。フォーン川(香江)沿いの道となった。この道は正しそうだ。自転車に乗った中学生と何人もすれ違う。意外にも、皆にっこり笑って挨拶をする。ベトナム人にもこんな一面があったのか。今までの不快感も大分薄れた。しばらくペタルを漕ぐと、行く手に、フォーン川(香江)に架かる真新しい立派な橋が現れた。ミンマン帝廟は川向こうにあり、案内書によると渡し舟で渡ることになっている。どうやら最近、橋が新設されたようだ。橋を渡り、集落を抜け、坂となった直線道路を下りだす。すると、道端の大衆食堂からおばさんが飛び出してきて、前に立ちはだかった。「どこへ行く」と聞くので、「ミンマン帝廟」と答えると、「このまま行くとラオスに行ってしまう。ここで自転車を降りろ」という。危ないところであった。どうやら、橋と同時に新設された新道を進んでしまったようで、本来は、橋を渡ったところで、旧道に入らなければならなかったようである。自転車を預け、教えられた草深い細道を数分歩くと、目指すミンマン帝廟に到着した。ちょうど正午である。
自転車を預けた大衆食堂に戻り昼食とする。1枚の英語のメニューを持ってきたのだが、ふと裏を返すと、こちらはベトナム語のメニューになっている。内容はまったく同じなのだが、何と何と、値段が違うのである。英語表記の値段はベトナム語の倍、「ボッタクリの現場見つけたり」である。ベトナム語はわからないだろうと高を括っていたのだろうが、私もベトナムに入国して既に2週間、簡単なメニューぐらいベトナム語を解する。その旨指摘して、ベトナム語の方で注文するとおばさんは大慌て。面白かった。
以上で皇帝廟の見学は終わりである。さらに奥にザーロン帝廟があるが、この廟には行けないらしい。今日は、もう一つ行かねばならないところがある。フエの象徴とも言えるティエンムー寺である。この寺はフォーン川(香江)の対岸にあるため、いったん橋のある市内まで戻らなければならない。道を聞き聞き、幾つかの丘を越えてフエ市内に向う。さすがにもうくたくたである。新市街を抜け、フースアン橋を渡り、王宮の前を通り、フォーン川(香江)沿いの道を上流へと向う。市内から5キロ程なのだがこの道程は長かった。ようやく川岸の高台に立つティエンムー寺に達した。もはや息も絶え絶えである。寺は市内から観光船でやってくる人々で賑わっていた。
もはや咽もからからである。門前の茶店に飛び込み、缶ジュースを一気に飲み干した。そして、幾らかと聞くと、おばさんは平然と2US$と答える。開いた口がふさがらない。凄まじいボッタクリである。値段も聞かずに飲んでしまった私が悪いのだがーーー。もうこんな国は嫌だ。早く出国したいとつくづく思った。しかし、不愉快な思いはまだまだ続く。 いったんホテルに戻り、明後日ハノイまで夜行列車で行く予定なので、キム・トラベル(サイゴンに本店のある老舗の旅行代理店)へ行き、列車のチケットを予約する。今度は寝台車に乗ることにして料金32US$を前払いする。掛かりの中年の女性は何となく感じが悪い。夜8時にチケットを取りに行くと、「はい、これです」とチケットを渡された。受け取ったチケットを眺めるが、どうもおかしい。寝台車を表す文字はなく、「SOFT SEAT」の文字。女性に確認すると、バレタかという顔で、「寝台車が満席だったのでソフトシートを取った」と遅まきながらいいわけ。ソフトシートなら料金は20US$だ。明らかにごまかそうとした。差額を取り返す。この国では、ボッタクリだけでなく、チョロマカシも平気で行う。何とも嫌な国だ。夜半激しい雨音に目を覚ました。
10月12日(木)。今日は1日、フエの街を探索するつもりである。朝のんびり起きて、昨日自転車を借りたカフェに朝飯を食べに行く。愛嬌のあるかわいい女の子がいる。すると、夜のツアを勧められた。内容は良くわからないが、フォーン川(香江)の夜船に乗るようだ。どうせ夜は暇だ。騙されてみるか。夜8時にバイクでホテルまで迎えに来てくれるとのこと。
10月13日(金)。今日は15時51分発の夜行列車で首都・ハノイへ向う。ただし、それまでやることもない。昨日閉館であったトゥアティエン・フエ省博物館に行ってみる。前庭には戦時中の米軍の戦車や大砲が沢山展示されている。正面の本館に入る。見学者は誰もいない。大きな銅鼓が幾つも展示されている。この地方からの出土品であろうが、銅鼓といえば、B.C4世紀からA.D1世紀頃にホン河(紅河)流域に栄えたドンソン文化が有名である。本館右側の建物に移る。今日この博物館を訪れたのは、この建物の展示を見たかったからである。ここには「フエの戦い」の様子が多くの写真とともに展示されている。ここの展示写真は、サイゴンの戦争証跡博物館の写真と異なり、解放戦線側が撮った写真である。そのためほとんどがぼけている。しかし、その迫力は同じである。降り注ぐ銃弾の中、解放戦線旗を掲げて王宮前を走り抜けていく兵士の写真がひときわ目に焼き付いた。当時の両軍の位置関係を表したパネルもある。そして、壁に掲げられた、今は見ることのなくなった大きな解放戦線旗に、遠い昔を思い出した。
今日でフエを去る。いろいろあったが、やはりこの街は、どことなく、古都の優雅さを漂わせている。これが歴史というものだろうか。
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