おじさんバックパッカーの一人旅
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2006年10月13日~10月19日 |
第6章 ハノイとその周辺
第1節 首都・ハノイへ
10分前に列車は入線した。乗車率は90%程度。隣の席は若い男だが、余り友好的な雰囲気ではない。まぁ、ベトナム人は概して皆そうであるが。これから13時間の列車の旅である。フォーン川(香江)の鉄橋を渡る。王宮前の掲旗台がよく見える。すぐに食事が出た。実にうまい。あっという間に平らげてしまった。停まるたびに乗客が減り、乗車率は50%程度になった。隣の男は、空いた席に移ってくれたので2人分の座席が占有できた。ただし、相変わらず大声でビデオ上映をしている。うるさいだけなのだが。それでも10時には終わった。 真夜中の12時ごろヴィンに着いた。ここでちょうど半分である。ラオス・ビエンチャンへの入り口となる街である。戦争中、この街はホーチミン・ルートの入り口であったため、米軍によって徹底的に爆撃された。寝ようと思うが、やはり座席ではうまく寝られない。寝台車に乗るつもりだったのだが。いまいましい旅行社めぇ。まんじりともしないうちに夜が明けた。 朝6時半、列車は1時間遅れで、まだ薄明りのハノイ駅に到着した。ついにここまでやって来た。ひとしおの感慨を覚える。ハノイは現在の統一ベトナムの首都であり、「ベトナム千年の都」と言われる。
10月14日(土)。未知の街に降り立つとき、いつも期待と不安が胸中で交錯する。いったいどんな街なのだろう、このハノイは。「べトナム千年の都」としての優雅なイメージがある一方、ボッタクリの国の首都としての嫌なイメージもある。 ホームに降り立つと同時に、バイタクとタクシーの運ちゃんに囲まれた。駅の中まで進入してくるとは凄まじい。改札口から外に出る。何やら場末のような所だ。付きまとう運ちゃんの数は一層増す。恐怖感さえ覚え、走るように逃げ出す。駅で待ちかまえて客引きをする運ちゃんなど、どうせ雲助に決まっている。特にここはボッタクリの国の首都、案内書にも「悪質運転手が多いので注意」とある。それにしても、この荒んだ情景が首都の玄関口なのか。この街は余り期待できそうもない。 ハノイの安宿はホアンキエム湖北側一帯の旧市街にある。個人旅行ガイドのサイトである「ITIS Travelers」によるとHang Ga Streetによい宿が多いとある。地図で確認すると駅から1.5キロ程である。歩いて行ってみることにする。地図を見ながら歩き出す。早朝にもかかわらず、街は既に激しく動き出している。あちこちの大衆食堂で朝食をとる人々の姿が目立つ。しかし、街並みはどこかやぼったい。20分ほどでハンガー通りに達した。と同時に数人の男に取り囲まれた。紹介屋のようである。各々ホテルの名刺を差し出してしつこく誘う。そのしつこさが尋常ではない。断っても、逃げても、怒鳴りつけても、払いのけても、とことん付きまとい、腕を掴んで引きずろうとさえする。ついにこちらも切れて、ファイティングポーズをとってしまうありさまである。勧誘などという範囲をはるかに超えている。私も寝不足で機嫌が悪い。 Camellia Hotelの看板が目に入ったので逃げ込む。このホテルは、フエ駅の日本語の上手な駅員が推奨してくれたホテルである。しかし、部屋を見せてもらうと、どうも気に入らない。「ITIS Travelers」で「超お薦め」となっていたThanh An Hotelへ行く。部屋を見せてもらうと、何とも素晴らしい。大きな部屋でバルコニーまである。18US$を朝食付き15US$に値切ってチェックインする。ところがこのホテル、とんでもない悪徳ホテルであったのだがーーー。どこが「超お薦め」なのだ。よく調査してから言ってもらいたい。 このホテルはツアー・デスクを持っていて、シン・カフェの代理店になっている。チェックインの手続きが済むやいなやそこに連れ込まれてツアへしつこく勧誘する。そのしつこさに異常を感じて、部屋に逃げ込む。ところがテレビが映らない。フロントに言うと、「どうせ日本語放送は映らないからいいではないか。どうしてもみたいならロビーで見ろ」と、剣もホロホロ。開いた口がふさがらない。どうやらツアを断ったためらしい。
明日、ハロン湾ツアに参加するつもりでいるので、シン・カフェに立ち寄ってパンフレットをもらう。同じツアなら、代理店となっている私の宿泊ホテルで申し込んでやろうか。1泊で逃げ出すつもりでいるが、少しでも険悪な関係をなだめておきたい。ホテルに帰り、ツアを申し込みたいというと喜んだ。ところが、値段を聞くと70US$だという。我が耳を疑った。シンカフェでもらったパンフレットには30US$とある。その旨指摘すると大慌て、「別のツアと間違った。30US$だ」と言い直す。明らかにボッタクルつもりでいた。まったく何というホテルだ。申し込むとご機嫌が良くなって、部屋のテレビを取り換えに来た。夜になると、マッサージ、マッサージとしつこく誘う。売春宿か、ここは。
第3節 ハロン湾の龍 10月15日(日)。今日明日の2日間、ハロン湾遊覧ツアに行く。ハロン湾はベトナムの持つ最大の観光資源である。約2,000もの石灰岩で出来た奇岩が、島となって海上にニョキリニョキリと突き出している。このため、海の桂林ともいわれる。ハノイの東約100キロ、ベトナム最大の貿易港ハイフォンの東の海上である。ハノイにやって来てハロン湾に行かない観光客はまずいないだろう。 しかし、ベトナム人にとっては、ハロン湾は、単なる風光明媚な観光地ではない。民族の滅亡を救わんがために、神が与えてくれた聖なる場所である。ハロン湾に関する神話と、その神話を地で行くような歴史が重なり、この思いを人々の心に深く刻み込んでいる。「ハロン」とは「ハ」=降りる、「ロン」=龍、すなわち「龍が舞い降りる場所」の意である。神話によると、昔々、外敵の進入に悩まされていた時、龍の親子が天より舞い降り、大暴れして外敵を追い払った。その暴れた跡が、ハロン湾であるという。 西暦938年、ゴ・クエン(呉権)はハロン湾に注ぐバクダン江の河口において、南漢の軍を破り中国から独立したキン族の国を初めて打ち立てる。ベトナムの歴史の始まりである。ゴ・クエン(呉権)は杭を打った浅瀬に南漢の大型軍船を誘い込み、干潮で杭に阻まれて動けなくなったところを小舟で襲って全滅させた。 そして、その250年後の西暦1287年、蒙古・元の30万の大軍勢が陸海からベトナムに侵攻した。1258年、1284年に続く3度目の襲来である。過去2度は国土を焦土と化しながらも、かろうじて撃退した。今度は元の皇帝フビライにとっても面子を掛けた侵攻である。瞬く間に首都タンロンは陥落し、ベトナムの命運は風前の灯となる。総司令官チャン・クォック・トアン(陳国峻)は最後の決戦の場をバクダン江に求めた。そして、ゴ・クエン(呉権)の故事にならい、杭を打った浅瀬に敵艦を誘い込み、奇跡の勝利を得る。チャン・クォック・トアン(陳国峻)はベトナム最大の救国の英雄である。多くの通りに彼の名前が付けられ、銅像が建てられている。ユーラーシア大陸を席巻した蒙古であるが、その意のままにならなかった国が二つだけある。日本とベトナムである。日本は2度の襲来を撃退した。ベトナムは3度の襲来を撃退した。この五つの戦いには、いずれも人力を超えた奇跡が働いた。日本人は神風が救ってくれたと信じた。ベトナムの人々はハロン湾の龍が救ってくれたと信じている。
6時10分から朝食OKと聞いていたが、準備が出来たのは7時であった。フランスパンとコーヒー、それにバナナ2本の超簡素な朝食である。7時30分、迎えのマイクロバスがやって来た。荷物を預け、ナップザックだけもってチェックアウトするが、1泊18ドルだと言い出す。もちろん拒否したが、どうしようもないホテルである。「今の部屋を空けて帰りを待っているから」と、愛想はいいが、もはやこんなホテルに泊まるつもりはない。車は市内何箇所かを廻り、定員一杯の16人を乗せて、ハロン湾へと出発した。ガイドが1人同行している。もちろん、案内は全て英語である。 後で分かったことだが、16人の内訳は、中国系マレーシア人の団体9人、ドイツ人のカップル、ベトナム人のカップル、ドイツ人の女性、ポルトガル人の若者、私である。ハノイとハイフォンを結ぶ道路はベトナムの生命線となる道だけに非常によい。またあちこちに大きな工業団地が新設され、ドイモイ政策のもと経済成長著しいベトナムの今を現している。住友電工の建設中の大きな工場もあった。1時間半ほど走って、ドライブインでトイレ休憩。ハイフォンの街を抜けると、奇怪な姿の岩山がぽつりぽつりと現れる。ハロン湾の前衛となる景色だろう。
船はすぐに出港した。鏡のように静かな水面をを進んでいく。周りには、奇怪な姿の大小の岩が、島となって海上からニョキリニョキリとそそり立っている。絶壁となった岩肌は白く輝き、頂部は緑の衣で覆われている。甲板に上がり、天下の絶景に見とれる。やがて船はひとつの島に接岸した。
島に囲まれた内海の真ん中で船は停った。思わぬことに、水泳の時間だという。白人の4人が、素早く水着になって船側から飛び込む。こうなれば私もだ。こんなこともあろうかと、ナップザックの奥に水着を忍ばせてきた。2メートルはあろうかという船側から飛び込む。スペインの若者は5メートルもある甲板からダイビングした。マレーシア人とベトナム人は見ているだけ。まさか、ハロン湾の真ん中で泳げるとは思わなかった。楽しい思い出になった。
かの悪徳ホテルに着くが、預けた荷物がなく一騒動。ようやく見つかって、去ろうとすると、当然泊まって行くと思っていた相手は大慌て。10US$でいいから泊まれという。外も暗くなっており、これからホテルを探すのも煩わしい。どうせ寝るだけ、気が変わって、この悪徳ホテルにもう1泊することにする。また、テレビが映らないが、もう文句言う気力もない。
10月17日(火)。朝、チェックアウトしようとしたら、宿泊代は15US$だと強固に請求する。ふざけるなとしばし怒鳴り合い。10US$をたたきつけて、ホテルを出る。後ろで「No. No」と騒いでいたが、追いかけてはこなかった。諸国をずいぶん旅をしたが、これほどの悪徳ホテルは初めてである。これが「超お薦め」ホテルとは開いた口がふさがらない。ホアンキエム湖北側の安宿街に行く。何軒かのホテルを廻って、ようやく気にいったホテルを見つけた。CLASSIC 2 Hotelである。部屋数10のミニホテルだが、大きな部屋でバスタブまである。フロントの感じもよい。16US$の言い値を朝食付き15US$に値切ってチェックインする。ツアデスクもあり、係の男は何と日本語が話せる。早速、明日のホアルー/タムコックのツアを申し込む。 さて、いよいよハノイの探索である。第一印象の強烈に悪いハノイだが、もう少しその本性を見定めてみよう。ハノイは現在のベトナムの首都であり、「ベトナム千年の都」と呼ばれている。西暦1010年、李朝(大越・ダイベト)が成立し、都をタンロンと定めて以来、幾多の王朝の興亡はあったが、タンロンはベトナムの都はであり続けた。しかし、1802年、グエン・フック・アイン(阮福映)がグエン(阮)朝(越南・ベトナム)を開くと、王都はフエに移る。さらに、彼はタンロンに拠った宿敵チン(陳)氏への憎しみから、タンロン(昇龍)をハノイ(河内)と改名し、タンロン城を破壊した。こうして、800年間王都であり続けたタンロンはその雄々しい名称と王都の象徴である城郭を失ってしまった。 1945年、ホーチミン率いるベトミンが政権を樹立し、首都をハノイと定めた。タンロンは再び首都の地位を回復したのである。1976年には南北ベトナムが統一され、ハノイは晴れて統一ベトナムの首都となった。しかし、タンロンという伝統ある名称が復活されることはなかった。
ホン河(紅河)は中国・雲南省を源とする全長1,200キロの大河である。そして、この川こそキン族の母なる川である。キン族は元々中国江南地方に住んでいた民族といわれる。紀元前2~3世紀に漢族に追われ、ホン河(紅河)を下って、そのデルタ地帯に稲作を営みながら居を定めた。以来2,000年余、このホン河(紅河)とともに歴史を刻んできた。鉄橋付近はトウモロコシ畑の広がる大きな中洲があって、水流が二分されている。水際は雑草の繁る湿地帯で近づくことは出来ない。折しも列車が、歩くような速度で鉄橋を渡りだした。 ハノイ最大の市場であるドンスアン市場を覗いて、いったんホテルに戻る。今日はどうも体調がよくない。昼前、再び北へ向って歩き出す。目指すは、街の北に広がるハノイ最大の湖・タイ(西)湖である。地図を見ると分かるが、ハノイとその郊外には沢山の湖水がある。詳細な地図もなく、道はさっぱりわからないが、大きな湖であり、方向さえ間違わなければ行き当たるはずである。ハノイの街は歩けば歩くほど不愉快になる。この街の住人は、ベトナム人全体にいえることだが、他人への迷惑なぞまったく気にかけない。相手への配慮はゼロである。「恥」という概念は持ち合わせていない。炎天下を45分歩いて、タイ(西)湖に到着した。
広い道を越えると、周りの雰囲気はがらりと変わる。通る車もない広々とした道が真っすぐ続き、警備の警察官の姿がにわかに目に付きだす。何やら空気もピンと張りつめる。首都ハノイの聖域に入ったのだ。右手にバックタオ公園の森を見て進むと、中央にベトナム国旗がへんぽんと翻る広大な広場に出る。バーディン広場である。そして、広場の西側に石造りの巨大な建物が見える。 1969年9月2日、ベトナム戦争の結末を見ることなくホーチミンは死んだ。80歳であった。奇しくも、9月2日はベトナムの独立記念日であった。1945年同月同日、ホーチミンはこのバーディン広場に集まった万を越す人々の前で、高らかにベトナム民主共和国の独立を宣言した。しかし、ベトナム独立への本当の戦いはこの時から始まったと言える。再侵略してきたフランスと戦い、1954年5月7日、ディエンビエンフーの戦いで勝利したものの、続いて侵略してきた米国との血みどろの戦いが続く。この独立の戦いを一貫して指導したのがホーチミンである。ベトナムにとって、まさに独立の父であり、救国の英雄であった。そしてまた、これほど国民に敬愛された指導者は希有である。
さて、次はどこへ行こうか。地図を睨んで考える。文廟へ行ってみることにする。少し遠いが歩いていける距離だ。15分ほどで文廟の北側に到着したのだが、入り口が反対の南側にある。敷地が実に広大で、入り口までさらに10分ほど歩かされた。文廟は1070年に建立された孔子廟である。ただし、1076年に、境内にベトナム最初の大学・国子監が開校されたことにより、1779年に到るまで、ベトナムのエリート養成所の役割を担った。
夕方の道を歩いてホテルに戻る。3キロほどの道程である。バイタクがしきりに声を掛けてくる。サイゴンと異なり、この街にはタクシーがほとんど見られない。首都とは言え、雰囲気はやぼったい田舎町である。「華」と言うものがまったくない。相変わらず歩道はバイクと車の駐車場と化している。
10月18日(水)。今日は古都・ホアルーと名勝地・タムコックを巡るツアに参加する。ホアルーはキン族最初の統一王朝であるディン(丁)朝の都があった場所である。ハノイの南約114キロのニンビンの街郊外にある。 西暦938年、ゴ・クエン(呉権)がバクダン江で南漢の軍を破り、キン族はようやく長い中国の支配を脱した。これを契機に、12人の豪族が決起し、北部ベトナム(キン族の勢力圏)の覇権を掛けた内戦が始まる(十二使君時代)。この内戦を勝ち抜いたのはホアルーを拠点とするディン・ボ・リン(丁部領)であった。彼は西暦968年に国内統一を果たし帝位につき、国号をダイコベト(大瞿越)、王都をホアルーと定めた。しかし、979年、ディン・ボ・リン(丁部領)は後継争いが原因で部下によって暗殺される。西暦980年、将軍レ・ホアン(黎桓)が帝位につきレ(黎)朝を興す。このレ(黎)朝もわずか3代29年で滅び、1010年、近衛隊長であったリ・コン・ウアン(李公蘊)が李朝を興す。国号をダイベト(大越)と定め、王都をタンロンに建設した。以降、1802年にフエに移るまで約700年の間、タンロンはキン族歴代王朝の都であり続ける。ホアルーが王都であったのはわずか42年間に過ぎない。 8時にワゴン車が迎えに来た。私が最初の乗客で、何箇所かのホテルを廻って、10人の参加者が集まった。私以外は全員白人で、子供連れが2組いる。車は国道1号線を一路南下する。約1時間走ってドライブインでトイレ休憩。隣にJA川崎支部と表示された大型観光バスが停まった。日本人ガイドを伴った数10人の日本人の団体。同年配の日本人でも旅の形態が私とは180度違う。 やがて周囲に奇怪な形をした岩山がぽつりぽつりと立ち並ぶ不思議な景色が現れた。岩山は進むに従い密度を増す。ちょうどハロン湾を地上に移した景色である。ニンビンの街を抜け、11時過ぎ、最初の目的地ホアルーに着いた。
帰路は道が混雑した。片側一車線を自転車並みの速度のボロトラックが何台も走っているため、すぐに前が詰まる。ホテルに帰り着いたのは6時過ぎ、既に外は真っ暗であった。
10月19日(木)。今日は夜行列車で中越国境の街・ラオカイへ向う。夜まで、ハノイの街をぶらついてみよう。先ずはバイタクで宿から3キロほど南のデン・ハイ・バ・チュン(二徴夫人祠)へ行ってみることにする。民族の英雄・チュン(徴)姉妹を祀る祠である。 チュン・チャック(徴側)とチュン・ニ(徴弐)の姉妹はベトナムの伝説的英雄である。紀元40年、中国・漢の支配下にあったキン族は、その圧政に抗して反乱を起こす。その指導者がチュン(徴)姉妹である。当時のキン族は母系社会であり、一族の代表は女性であった。反乱は瞬く間に広がり、いったんは全土に支配権を確立した。ここに史上最初のキン族の独立国家が出現したかに見えた。しかし、漢の光武帝は即座に討伐の軍を送り、紀元43年、反乱は鎮圧される。姉妹の首は塩漬けにされて洛陽に送られたという。そして、キン族が中国の頚木を脱するのは、それから実に900年の後であった。
ホアンキエム湖まで戻り、湖畔のベンチでひと休みする。数人の若い女性が、付近の観光客に何やら声を掛けている。その中の1人が私のところにやって来た。聞けば、ハノイの大学生で、外人観光客にアンケート調査をしているので協力して欲しいとのこと。感じのよい娘で、ハノイには珍しく美人である。承諾して、用紙を受け取る。国籍、年齢、滞在日数、費用、等々の項目を記入し、最後に「ハノイの印象」の欄があった。しばし考えた後、彼女に言った。「今から正直にハノイの印象を口頭で言うから、貴方が書き込んでくれ」。私はゆっくりと語り始めた。
これほど印象の悪いベトナムであり、ハノイなのだが、ひとつだけほとほと感心したことがある。女性の働きぶりである。街中いたるところに、ノン(菅笠)をかぶり、野菜や果物の入った天秤棒を担いだ行商の女たちが見られる。商店や食堂も皆女が切り回している。農村へ行っても田圃の中に見られるのはノンをかぶった女たちである。「いったい男はどこで何をしているのだ」と、言いたくなる。どうやら、これは次のことが理由らしい。ひとつは、キン族はもともと女系社会であったこと。もうひとつは、キン族の歴史は戦乱の歴史であり、男は常に戦場にあり、家は女が守らざるを得なかったこと。キン族の女性は間違いなく世界一の働き者である。それにしても、「ノン」や「天秤棒」という他のアジア諸国でも見られなくなったものが、今だこれほどに普及している国も珍しい。
ホアンゼウ通りをのんびりと南下する。左側は軍の施設になっている。並木の美しい通りである。と、左側に何かある。「Ancient Castle of Hanoi」との表示がある。入り口には守衛所がある。覗き込んでいたら、守衛が中に入れのジェスチャー。入ってみると庭園があり、その奥に3層の小さな城郭がある。コンクリ造りの新しいものだが、旧タンロン城の一部を復元したのだろう。さらに進むと、また同じような施設があった。今度は古い城壁と城門とも城郭ともつかない2層の建物。付近は遺跡を掘削している。どうやらこの辺りがタンロン城の中心部なのだろう。
夕方遅くホテルに戻る。
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