おじさんバックパッカーの一人旅   

東南アジア回遊陸路の旅 (5) 

  ベトナム紀行 ハノイとその周辺

2006年10月13日

      〜10月19日

 
 第6章 ハノイとその周辺
 
  第1節 首都・ハノイへ

 14時40分、バイタクでフエ駅に向う。保持しているチケットは15時51分発特急SE2号である。待合室でのんびりしていたら、駅員が話し掛けてきた。私が日本人であることを確認すると、何と、日本語を話せる駅員を連れてきた。かなりうまい。日本に行ったことはなく、趣味で、日本人の先生に付いて習ったとのこと。駅員にしておくのはもったいない。

 10分前に列車は入線した。乗車率は90%程度。隣の席は若い男だが、余り友好的な雰囲気ではない。まぁ、ベトナム人は概して皆そうであるが。これから13時間の列車の旅である。フォーン川(香江)の鉄橋を渡る。王宮前の掲旗台がよく見える。すぐに食事が出た。実にうまい。あっという間に平らげてしまった。停まるたびに乗客が減り、乗車率は50%程度になった。隣の男は、空いた席に移ってくれたので2人分の座席が占有できた。ただし、相変わらず大声でビデオ上映をしている。うるさいだけなのだが。それでも10時には終わった。

 真夜中の12時ごろヴィンに着いた。ここでちょうど半分である。ラオス・ビエンチャンへの入り口となる街である。戦争中、この街はホーチミン・ルートの入り口であったため、米軍によって徹底的に爆撃された。寝ようと思うが、やはり座席ではうまく寝られない。寝台車に乗るつもりだったのだが。いまいましい旅行社めぇ。まんじりともしないうちに夜が明けた。

 朝6時半、列車は1時間遅れで、まだ薄明りのハノイ駅に到着した。ついにここまでやって来た。ひとしおの感慨を覚える。ハノイは現在の統一ベトナムの首都であり、「ベトナム千年の都」と言われる。

 
  第2節 醜悪の都・ハノイ

 10月14日(土)。未知の街に降り立つとき、いつも期待と不安が胸中で交錯する。いったいどんな街なのだろう、このハノイは。「べトナム千年の都」としての優雅なイメージがある一方、ボッタクリの国の首都としての嫌なイメージもある。

 ホームに降り立つと同時に、バイタクとタクシーの運ちゃんに囲まれた。駅の中まで進入してくるとは凄まじい。改札口から外に出る。何やら場末のような所だ。付きまとう運ちゃんの数は一層増す。恐怖感さえ覚え、走るように逃げ出す。駅で待ちかまえて客引きをする運ちゃんなど、どうせ雲助に決まっている。特にここはボッタクリの国の首都、案内書にも「悪質運転手が多いので注意」とある。それにしても、この荒んだ情景が首都の玄関口なのか。この街は余り期待できそうもない。 

 ハノイの安宿はホアンキエム湖北側一帯の旧市街にある。個人旅行ガイドのサイトである「ITIS Travelers」によるとHang Ga Streetによい宿が多いとある。地図で確認すると駅から1.5キロ程である。歩いて行ってみることにする。地図を見ながら歩き出す。早朝にもかかわらず、街は既に激しく動き出している。あちこちの大衆食堂で朝食をとる人々の姿が目立つ。しかし、街並みはどこかやぼったい。20分ほどでハンガー通りに達した。と同時に数人の男に取り囲まれた。紹介屋のようである。各々ホテルの名刺を差し出してしつこく誘う。そのしつこさが尋常ではない。断っても、逃げても、怒鳴りつけても、払いのけても、とことん付きまとい、腕を掴んで引きずろうとさえする。ついにこちらも切れて、ファイティングポーズをとってしまうありさまである。勧誘などという範囲をはるかに超えている。私も寝不足で機嫌が悪い。

 Camellia Hotelの看板が目に入ったので逃げ込む。このホテルは、フエ駅の日本語の上手な駅員が推奨してくれたホテルである。しかし、部屋を見せてもらうと、どうも気に入らない。「ITIS Travelers」で「超お薦め」となっていたThanh An Hotelへ行く。部屋を見せてもらうと、何とも素晴らしい。大きな部屋でバルコニーまである。18US$を朝食付き15US$に値切ってチェックインする。ところがこのホテル、とんでもない悪徳ホテルであったのだがーーー。どこが「超お薦め」なのだ。よく調査してから言ってもらいたい。

 このホテルはツアー・デスクを持っていて、シン・カフェの代理店になっている。チェックインの手続きが済むやいなやそこに連れ込まれてツアへしつこく勧誘する。そのしつこさに異常を感じて、部屋に逃げ込む。ところがテレビが映らない。フロントに言うと、「どうせ日本語放送は映らないからいいではないか。どうしてもみたいならロビーで見ろ」と、剣もホロホロ。開いた口がふさがらない。どうやらツアを断ったためらしい。

 街に飛びだす。旧市街を横切りホアンキエム湖まで行ってみる。街の印象は最悪である。ここまでの2週間余のベトナムの旅で感じた悪印象を全て恐縮したような街である。なんとも腹立たしい街である。狭い道は車とバイクとシクロで埋め尽くされ、歩道という歩道は車とバイクの駐車場と化してまったく歩けない。狭い隙間を縫うようにして歩いても、人々は他人に道を譲るなどという配慮は皆無である。肩が触れようが、手が触れようが、知らん顔。目の前に平気でバイクや車が割り込んできて、そのまま駐車する。タバコの価格でさえ平気で吹っかけてきて、正規の価格にさせるのにひどくエネルギーを要す。笑顔などはどこにもない。商店の売り子でさえ、ブッチョウズラである。おまけに、家の中からゴミをぽんぽん道路に放り投げる。どういう根性なんだ。あぁ嫌だ嫌だこんな街。

 明日、ハロン湾ツアに参加するつもりでいるので、シン・カフェに立ち寄ってパンフレットをもらう。同じツアなら、代理店となっている私の宿泊ホテルで申し込んでやろうか。1泊で逃げ出すつもりでいるが、少しでも険悪な関係をなだめておきたい。ホテルに帰り、ツアを申し込みたいというと喜んだ。ところが、値段を聞くと70US$だという。我が耳を疑った。シンカフェでもらったパンフレットには30US$とある。その旨指摘すると大慌て、「別のツアと間違った。30US$だ」と言い直す。明らかにボッタクルつもりでいた。まったく何というホテルだ。申し込むとご機嫌が良くなって、部屋のテレビを取り換えに来た。夜になると、マッサージ、マッサージとしつこく誘う。売春宿か、ここは。
 

  第3節 ハロン湾の龍

 10月15日(日)。今日明日の2日間、ハロン湾遊覧ツアに行く。ハロン湾はベトナムの持つ最大の観光資源である。約2,000もの石灰岩で出来た奇岩が、島となって海上にニョキリニョキリと突き出している。このため、海の桂林ともいわれる。ハノイの東約100キロ、ベトナム最大の貿易港ハイフォンの東の海上である。ハノイにやって来てハロン湾に行かない観光客はまずいないだろう。

 しかし、ベトナム人にとっては、ハロン湾は、単なる風光明媚な観光地ではない。民族の滅亡を救わんがために、神が与えてくれた聖なる場所である。ハロン湾に関する神話と、その神話を地で行くような歴史が重なり、この思いを人々の心に深く刻み込んでいる。「ハロン」とは「ハ」=降りる、「ロン」=龍、すなわち「龍が舞い降りる場所」の意である。神話によると、昔々、外敵の進入に悩まされていた時、龍の親子が天より舞い降り、大暴れして外敵を追い払った。その暴れた跡が、ハロン湾であるという。

 西暦938年、ゴ・クエン(呉権)はハロン湾に注ぐバクダン江の河口において、南漢の軍を破り中国から独立したキン族の国を初めて打ち立てる。ベトナムの歴史の始まりである。ゴ・クエン(呉権)は杭を打った浅瀬に南漢の大型軍船を誘い込み、干潮で杭に阻まれて動けなくなったところを小舟で襲って全滅させた。

 そして、その250年後の西暦1287年、蒙古・元の30万の大軍勢が陸海からベトナムに侵攻した。1258年、1284年に続く3度目の襲来である。過去2度は国土を焦土と化しながらも、かろうじて撃退した。今度は元の皇帝フビライにとっても面子を掛けた侵攻である。瞬く間に首都タンロンは陥落し、ベトナムの命運は風前の灯となる。総司令官チャン・クォック・トアン(陳国峻)は最後の決戦の場をバクダン江に求めた。そして、ゴ・クエン(呉権)の故事にならい、杭を打った浅瀬に敵艦を誘い込み、奇跡の勝利を得る。チャン・クォック・トアン(陳国峻)はベトナム最大の救国の英雄である。多くの通りに彼の名前が付けられ、銅像が建てられている。ユーラーシア大陸を席巻した蒙古であるが、その意のままにならなかった国が二つだけある。日本とベトナムである。日本は2度の襲来を撃退した。ベトナムは3度の襲来を撃退した。この五つの戦いには、いずれも人力を超えた奇跡が働いた。日本人は神風が救ってくれたと信じた。ベトナムの人々はハロン湾の龍が救ってくれたと信じている。

 
  第4節 ハロン湾遊覧

 6時10分から朝食OKと聞いていたが、準備が出来たのは7時であった。フランスパンとコーヒー、それにバナナ2本の超簡素な朝食である。7時30分、迎えのマイクロバスがやって来た。荷物を預け、ナップザックだけもってチェックアウトするが、1泊18ドルだと言い出す。もちろん拒否したが、どうしようもないホテルである。「今の部屋を空けて帰りを待っているから」と、愛想はいいが、もはやこんなホテルに泊まるつもりはない。車は市内何箇所かを廻り、定員一杯の16人を乗せて、ハロン湾へと出発した。ガイドが1人同行している。もちろん、案内は全て英語である。

 後で分かったことだが、16人の内訳は、中国系マレーシア人の団体9人、ドイツ人のカップル、ベトナム人のカップル、ドイツ人の女性、ポルトガル人の若者、私である。ハノイとハイフォンを結ぶ道路はベトナムの生命線となる道だけに非常によい。またあちこちに大きな工業団地が新設され、ドイモイ政策のもと経済成長著しいベトナムの今を現している。住友電工の建設中の大きな工場もあった。1時間半ほど走って、ドライブインでトイレ休憩。ハイフォンの街を抜けると、奇怪な姿の岩山がぽつりぽつりと現れる。ハロン湾の前衛となる景色だろう。

 11時30分、ハロン湾観光の基地となるバイチャイの港に着いた。多くの観光船が係留され、次々と到着する観光バスで賑わっている。1隻の観光船に乗船する。食事の用意のされた幾つかのテーブルが並んでおり、席に着くようにとのこと。こんな時、私は独りぼっち、私の座ったテーブルには誰も寄りつかない。白人の4人は既に仲良しになっているし、ベトナム人のアベックは2人でいちゃついている。と、別の団体が合流してきた。何と、私の隣に2人の日本人の若者が座ったではないか。日航主催の3泊4日6万円のツアの参加者で、ハロン湾観光は日帰りとのこと。ハノイの最高級ホテル・ニッコウハノイに泊まっているようだが、若者なら若者らしい旅をしろと言いたくなる。とはいえ、1人寂しく食事をしないですんだ。

 船はすぐに出港した。鏡のように静かな水面をを進んでいく。周りには、奇怪な姿の大小の岩が、島となって海上からニョキリニョキリとそそり立っている。絶壁となった岩肌は白く輝き、頂部は緑の衣で覆われている。甲板に上がり、天下の絶景に見とれる。やがて船はひとつの島に接岸した。ダウゴー島である。この島にティエンクン洞という鍾乳洞があり、観光コースとなっている。洞内はよく整備されており、七色の照明が幻想的である。ここで、後から合流した日帰りグループと別れ、船内はもとの16人だけとなった。

 船は岩島の間を縫って進んでいく。逆光となるとそそり立つ岩が黒く浮き上がり、墨絵のような景色である。奇岩の島は次から次と現れ、尽きるところを知らない。船が岩陰で止まり、一艘の小舟が横付された。希望者のみ別料金で洞窟探検とのことである。マレーシア人の団体とベトナム人のアベックが小舟に乗った。私は甲板のデッキチェアに寝そべって昼寝である。再び船は、島々を縫って進んでいく。チャン・クォック・トアン(陳国峻)はこの迷路のような海域に蒙古の大艦隊をおびき寄せ、小舟をもって縦横無尽に打ち破ったのだ。

 島に囲まれた内海の真ん中で船は停った。思わぬことに、水泳の時間だという。白人の4人が、素早く水着になって船側から飛び込む。こうなれば私もだ。こんなこともあろうかと、ナップザックの奥に水着を忍ばせてきた。2メートルはあろうかという船側から飛び込む。スペインの若者は5メートルもある甲板からダイビングした。マレーシア人とベトナム人は見ているだけ。まさか、ハロン湾の真ん中で泳げるとは思わなかった。楽しい思い出になった。

 島影には所々に水上集落がある。筏の上に家を建て、生簀で魚やカニを養殖している。船が近づくと、小舟に飲み物や果物を積んで売りに来る。夕方が近づくころ、船はハロン湾最大の島カットバ島の小さな波止場に着いた。今晩はこの島で宿泊でする。マイクロバスで島を横切り、島唯一の街・カットバ村へ行く。小さなビーチリゾートとなっていて、何軒かのホテルがある。部屋割りをしていくのだが、私には相部屋だという。断固NOである。予約時に1人部屋であることを確認しておいた。しぶしぶ1人部屋が割り当てられた。すぐに、三つのテーブルに分かれての夕食となったのだが、さて、どこに座ったものか。独りぼっちはこんな時ちょっとつらい。結局、白人組のテーブルに座らされた。ここで。フィンランドの若者が1人合流した。白人5人とテーブルを囲む。ちょっとしんどい。5人は気を使ってくれたがーーー。食事が終わるとやることもない。ガイドが、カラオケかマッサージに行こうと、1人暇そうにしている私を盛んに誘う。当然目的は女だろう。この島は取り締まりはないとのこと。

 10月16日(月)。ハロン湾遊覧2日目である。8時過ぎ、マイクロバスで波止場に向う。白人4人組は3日コースとかで、ここで分かれる。ガイドも彼らに付き添ったため、我々はガイドなし。昨日の船に乗るが、ここで裸同然の格好の白人の娘2人連れが合流する。このツアは離合集散を繰り返すので、はぐれないように、いたって気を使う。船は途中、養殖筏を見学して、出発点のバイチャイの港に戻った。ここで別のガイドが合流して昼食。マイクロバスに乗る。マレーシア人の団体は、ここで分かれたので、最初からいっしょなのはベトナム人のアベックだけになった。途中ホテルに寄って、陽気なロシア人と米国人の夫婦を拾い、一路ハノイへ。

 かの悪徳ホテルに着くが、預けた荷物がなく一騒動。ようやく見つかって、去ろうとすると、当然泊まって行くと思っていた相手は大慌て。10US$でいいから泊まれという。外も暗くなっており、これからホテルを探すのも煩わしい。どうせ寝るだけ、気が変わって、この悪徳ホテルにもう1泊することにする。また、テレビが映らないが、もう文句言う気力もない。

 
  第5節 ベトナム千年の都・ハノイ

 10月17日(火)。朝、チェックアウトしようとしたら、宿泊代は15US$だと強固に請求する。ふざけるなとしばし怒鳴り合い。10US$をたたきつけて、ホテルを出る。後ろで「No. No」と騒いでいたが、追いかけてはこなかった。諸国をずいぶん旅をしたが、これほどの悪徳ホテルは初めてである。これが「超お薦め」ホテルとは開いた口がふさがらない。ホアンキエム湖北側の安宿街に行く。何軒かのホテルを廻って、ようやく気にいったホテルを見つけた。CLASSIC 2 Hotelである。部屋数10のミニホテルだが、大きな部屋でバスタブまである。フロントの感じもよい。16US$の言い値を朝食付き15US$に値切ってチェックインする。ツアデスクもあり、係の男は何と日本語が話せる。早速、明日のホアルー/タムコックのツアを申し込む。

 さて、いよいよハノイの探索である。第一印象の強烈に悪いハノイだが、もう少しその本性を見定めてみよう。ハノイは現在のベトナムの首都であり、「ベトナム千年の都」と呼ばれている。西暦1010年、李朝(大越・ダイベト)が成立し、都をタンロンと定めて以来、幾多の王朝の興亡はあったが、タンロンはベトナムの都はであり続けた。しかし、1802年、グエン・フック・アイン(阮福映)がグエン(阮)朝(越南・ベトナム)を開くと、王都はフエに移る。さらに、彼はタンロンに拠った宿敵チン(陳)氏への憎しみから、タンロン(昇龍)をハノイ(河内)と改名し、タンロン城を破壊した。こうして、800年間王都であり続けたタンロンはその雄々しい名称と王都の象徴である城郭を失ってしまった。

 1945年、ホーチミン率いるベトミンが政権を樹立し、首都をハノイと定めた。タンロンは再び首都の地位を回復したのである。1976年には南北ベトナムが統一され、ハノイは晴れて統一ベトナムの首都となった。しかし、タンロンという伝統ある名称が復活されることはなかった。

 先ずはホテル近くのドンハー・モン(東河門)を目指す。別段ハノイの「見どころ」とはなっていないが、昔のタンロンの匂いを微かに残す城門である。ごちゃごちゃした街並みを北東に10分も行くと、細い通りを跨ぐように古びた小さな門があった。特別保護されているわけでもなく、オートバイの列が、絶え間なく下をくぐり抜けている。

 さらに北へ10分ほど歩くと、ホン河(紅河)に架かる鉄橋に差し掛る。全長1,700メートルのロンビエン橋である。橋は真ん中を単線の鉄道が通り、その両脇に二輪車専用の車道がある。狭いながらも歩道もある。この鉄橋は1902年、フランスの手で造られた。ベトナム戦争中は米軍機の格好の爆撃目標となった。何度も修復されて現在に至っている。鉄橋を進む。真下にホン河(紅河)の流れが見えてきた。凄まじい流れである。何が?  その水の色である。茶色などという生易しい色ではない。まさに名前の通り「紅河」である。

 ホン河(紅河)は中国・雲南省を源とする全長1,200キロの大河である。そして、この川こそキン族の母なる川である。キン族は元々中国江南地方に住んでいた民族といわれる。紀元前2〜3世紀に漢族に追われ、ホン河(紅河)を下って、そのデルタ地帯に稲作を営みながら居を定めた。以来2,000年余、このホン河(紅河)とともに歴史を刻んできた。鉄橋付近はトウモロコシ畑の広がる大きな中洲があって、水流が二分されている。水際は雑草の繁る湿地帯で近づくことは出来ない。折しも列車が、歩くような速度で鉄橋を渡りだした。

 ハノイ最大の市場であるドンスアン市場を覗いて、いったんホテルに戻る。今日はどうも体調がよくない。昼前、再び北へ向って歩き出す。目指すは、街の北に広がるハノイ最大の湖・タイ(西)湖である。地図を見ると分かるが、ハノイとその郊外には沢山の湖水がある。詳細な地図もなく、道はさっぱりわからないが、大きな湖であり、方向さえ間違わなければ行き当たるはずである。ハノイの街は歩けば歩くほど不愉快になる。この街の住人は、ベトナム人全体にいえることだが、他人への迷惑なぞまったく気にかけない。相手への配慮はゼロである。「恥」という概念は持ち合わせていない。炎天下を45分歩いて、タイ(西)湖に到着した。

 タイ(西)湖の南東の端を小さく切り取るように陸橋が延びており、その上にチャンクォック(護国)寺がある。6世紀中頃の創設と伝えられるベトナム最古の古刹である。この寺はなんとも素晴らしかった。椰子の並木の参道、湖に映える10層の仏塔、がっちりした木造の仏堂。ベトナムで初めて出会った仏教寺院らしい仏教寺院であった。日陰を求めながらぶらりぶらりと陸橋を南に歩く。右側は大きな大きなタイ(西)湖、左側は小さなチュックバック湖である。

 湖の岸辺まで来るとデン・クアン・チャン・バー(鎮武観)があった。11世紀にタンロンの北の守りとして創設された道教寺院である。北狄を討って国を守ったといわれる玄天鎮武が祀られている。境内は人影もなく、ひっそりと静まり返っていた。

 広い道を越えると、周りの雰囲気はがらりと変わる。通る車もない広々とした道が真っすぐ続き、警備の警察官の姿がにわかに目に付きだす。何やら空気もピンと張りつめる。首都ハノイの聖域に入ったのだ。右手にバックタオ公園の森を見て進むと、中央にベトナム国旗がへんぽんと翻る広大な広場に出る。バーディン広場である。そして、広場の西側に石造りの巨大な建物が見える。ホーチミン廟である。入り口には着剣した銃を携えた二人の衛兵が、直立不動で廟を守っている。この廟の中で、民族最大の英雄ホーチミンは、防腐処置を施され、ガラスケースに入れられて、その屍を人目に晒すという屈辱を受けている。土に帰ることすら許されない。何と哀れな、何と残酷な処置なのだろう。ただし、10月〜11月の2ヶ月間は、廟の拝観は許されていない。私は最初から死体なぞ見る気はないが。

 1969年9月2日、ベトナム戦争の結末を見ることなくホーチミンは死んだ。80歳であった。奇しくも、9月2日はベトナムの独立記念日であった。1945年同月同日、ホーチミンはこのバーディン広場に集まった万を越す人々の前で、高らかにベトナム民主共和国の独立を宣言した。しかし、ベトナム独立への本当の戦いはこの時から始まったと言える。再侵略してきたフランスと戦い、1954年5月7日、ディエンビエンフーの戦いで勝利したものの、続いて侵略してきた米国との血みどろの戦いが続く。この独立の戦いを一貫して指導したのがホーチミンである。ベトナムにとって、まさに独立の父であり、救国の英雄であった。そしてまた、これほど国民に敬愛された指導者は希有である。

 廟の背後にホーチミンの生前の匂いを色濃く残す空間が広がっている。バーディン広場に面した3階建ての黄色い洋館は大統領府、ホーチミンはここで1954年から亡くなる1969年まで執務をとった。そこから、庭伝いに続く幾つかの建物がホーチミンのプライベートゾーン、「ホーおじさんの家」である。死ぬまで生活していたという高床式の質素な住宅と平屋建ての書斎、1室にはマルクスとレーニンの写真が飾られていた。

 「ホーおじさんの家」を出ると、すぐに「一柱寺」に行き当たる。どの案内書にも必ず載っているハノイの名所である。小さな蓮池の中に立てた1本の柱の上に、小さな祠が鎮座している。唯それだけである。しかし、この祠は。タンロン城内にあって今に残るほとんど唯一の建物である。1049年創設と伝えられている。一柱寺の隣には、対照的に近代的なホーチミン博物館がある。1990年、生誕100年を記念して建てられた。残念ながら閉館であった。

 さて、次はどこへ行こうか。地図を睨んで考える。文廟へ行ってみることにする。少し遠いが歩いていける距離だ。15分ほどで文廟の北側に到着したのだが、入り口が反対の南側にある。敷地が実に広大で、入り口までさらに10分ほど歩かされた。文廟は1070年に建立された孔子廟である。ただし、1076年に、境内にベトナム最初の大学・国子監が開校されたことにより、1779年に到るまで、ベトナムのエリート養成所の役割を担った。

 境内に入る。広大な境内には、幾つもの廟があり、また多くの池や庭園が広がっている。一番奥には、この廟の本来の目的であった立派な孔子廟がある。しかし、境内で一番目を引くのは、亀の背中に乗った石碑の列である。亀の表情は全て異なる。82個あるという、この石碑には1306名の科挙合格者の氏名が刻まれている。ベトナムの歴代の王朝は中国にならい科挙制度を取り入れた。国家エリートの選抜試験である。700年間に1306名、単純計算すれば、合格者は1年に2名である。何たる難関、それだけにこれに合格すれば大臣の地位は約束された。身分制度に空けられた巨大な風穴である。この制度があるがゆえに、中国型王朝はカースト制度に縛られたインド型王朝よりも優れていたといわれる。

 夕方の道を歩いてホテルに戻る。3キロほどの道程である。バイタクがしきりに声を掛けてくる。サイゴンと異なり、この街にはタクシーがほとんど見られない。首都とは言え、雰囲気はやぼったい田舎町である。「華」と言うものがまったくない。相変わらず歩道はバイクと車の駐車場と化している。

 
  第6節 古都・ホアルーとタムコック

 10月18日(水)。今日は古都・ホアルーと名勝地・タムコックを巡るツアに参加する。ホアルーはキン族最初の統一王朝であるディン(丁)朝の都があった場所である。ハノイの南約114キロのニンビンの街郊外にある。

 西暦938年、ゴ・クエン(呉権)がバクダン江で南漢の軍を破り、キン族はようやく長い中国の支配を脱した。これを契機に、12人の豪族が決起し、北部ベトナム(キン族の勢力圏)の覇権を掛けた内戦が始まる(十二使君時代)。この内戦を勝ち抜いたのはホアルーを拠点とするディン・ボ・リン(丁部領)であった。彼は西暦968年に国内統一を果たし帝位につき、国号をダイコベト(大瞿越)、王都をホアルーと定めた。しかし、979年、ディン・ボ・リン(丁部領)は後継争いが原因で部下によって暗殺される。西暦980年、将軍レ・ホアン(黎桓)が帝位につきレ(黎)朝を興す。このレ(黎)朝もわずか3代29年で滅び、1010年、近衛隊長であったリ・コン・ウアン(李公蘊)が李朝を興す。国号をダイベト(大越)と定め、王都をタンロンに建設した。以降、1802年にフエに移るまで約700年の間、タンロンはキン族歴代王朝の都であり続ける。ホアルーが王都であったのはわずか42年間に過ぎない。

 8時にワゴン車が迎えに来た。私が最初の乗客で、何箇所かのホテルを廻って、10人の参加者が集まった。私以外は全員白人で、子供連れが2組いる。車は国道1号線を一路南下する。約1時間走ってドライブインでトイレ休憩。隣にJA川崎支部と表示された大型観光バスが停まった。日本人ガイドを伴った数10人の日本人の団体。同年配の日本人でも旅の形態が私とは180度違う。

 やがて周囲に奇怪な形をした岩山がぽつりぽつりと立ち並ぶ不思議な景色が現れた。岩山は進むに従い密度を増す。ちょうどハロン湾を地上に移した景色である。ニンビンの街を抜け、11時過ぎ、最初の目的地ホアルーに着いた。そこは奇っ怪な姿の岩山に囲まれた小さな平坦地で、小集落があるだけである。草原ではヤギと牛がのんびりと草を食んでいる。古都といってもこの地には古都であったことを示す直接の遺跡は何もない。ただし、いつ頃から祀られたとも知れぬ二つの古い廟が残されている。ひとつは、丁朝の創設者ディン・ボ・リン(丁部領)の廟であり、もう一つはレ(黎)朝の創設者レ・ホアン(黎桓)の廟である。建物自体は17世紀に再建されたものであるが、現在重要文化財となっている。ホアルーの王城はこの二つの廟の建つ辺りにあったと考えられている。二つの廟に詣でる。偶然ハロン湾ツアのガイドと再会した。向こうが覚えていて、声を掛けてきた。わずかな縁とは言え、異国で顔見知りに会うと嬉しくなる。

 再び車に乗りタムコックに向う。ニンビンの街の南西約8キロである。石灰岩の奇っ怪な姿の山々に囲まれた谷間を、緩やかに小川が流れる景勝の地である。陸のハロン湾とも呼ばれる。この小川を小舟に乗ってゆったりと遊覧するのがここの観光である。昼食の後、2人ないしは3人に分かれて小舟に乗る。ここでのグループ分けがガイドの腕である。私は7歳の少年を連れた母親と3人で乗ることになった。英国人だという。英国人の英語はわかりやすく、子供は話し相手にちょうどよい。オールを握るのは中年のおばさんである。船はゆったりと岩山の間を進んでいく。聞こえるのはオールを漕ぐ水音のみ、時々小魚が水面を跳ねる。絶壁となった岩肌に野性のヤギの群れが見えた。途中鍾乳洞となったトンネルを3箇所潜る。岩山は次々とその姿を変える。往復2時間半の実に気持ちのよい船旅であった。それにしても、2時間半、オールを漕ぎ続けたおばさんの体力にほとほと感心した。

 帰路は道が混雑した。片側一車線を自転車並みの速度のボロトラックが何台も走っているため、すぐに前が詰まる。ホテルに帰り着いたのは6時過ぎ、既に外は真っ暗であった。

 
  第7節 古のタンロンを求めて

 10月19日(木)。今日は夜行列車で中越国境の街・ラオカイへ向う。夜まで、ハノイの街をぶらついてみよう。先ずはバイタクで宿から3キロほど南のデン・ハイ・バ・チュン(二徴夫人祠)へ行ってみることにする。民族の英雄・チュン(徴)姉妹を祀る祠である。

 チュン・チャック(徴側)とチュン・ニ(徴弐)の姉妹はベトナムの伝説的英雄である。紀元40年、中国・漢の支配下にあったキン族は、その圧政に抗して反乱を起こす。その指導者がチュン(徴)姉妹である。当時のキン族は母系社会であり、一族の代表は女性であった。反乱は瞬く間に広がり、いったんは全土に支配権を確立した。ここに史上最初のキン族の独立国家が出現したかに見えた。しかし、漢の光武帝は即座に討伐の軍を送り、紀元43年、反乱は鎮圧される。姉妹の首は塩漬けにされて洛陽に送られたという。そして、キン族が中国の頚木を脱するのは、それから実に900年の後であった。

 小さな湖水の辺のデン・ハイ・バ・チュン(二徴夫人祠)に到着した。しかし、荒れた田舎寺という感じで、境内もただの広場である。見るべきものは何もない。本堂も扉が閉ざされていた。思い入れがあっただけに、ちょっとがっかりである。ぶらりぶらりと歩いて帰る。途中、チャンティエン・プラザを覗く。ハノイで最高級のショッピングモールである。やぼったいハノイの街にあって、ここだけが別世界のようで、何となく違和感がある。

 ホアンキエム湖まで戻り、湖畔のベンチでひと休みする。数人の若い女性が、付近の観光客に何やら声を掛けている。その中の1人が私のところにやって来た。聞けば、ハノイの大学生で、外人観光客にアンケート調査をしているので協力して欲しいとのこと。感じのよい娘で、ハノイには珍しく美人である。承諾して、用紙を受け取る。国籍、年齢、滞在日数、費用、等々の項目を記入し、最後に「ハノイの印象」の欄があった。しばし考えた後、彼女に言った。「今から正直にハノイの印象を口頭で言うから、貴方が書き込んでくれ」。私はゆっくりと語り始めた。
 
 「私はベトナム戦争を戦ったこの国に、尊敬の念をもってやって来た。しかし、期待は裏切られた。特に、このハノイの街は世界で最も醜悪な街である。騒がしく、無秩序で、街並みも汚い。さらに、ハノイ市民は、笑顔がなく、不親切で、不道徳で、自己主義である。旅行者に対しては、いかに金を巻き上げてやろうかとしか考えていない。遠来の客をもてなす心はゼロである。2度とこの街には来たくない」。うっ積した不満をストレートにぶつけた。「しかも、ハノイには美人がいない」と言いかけたが、さすがにこのフレーズは飲み込んだ。少し言い過ぎたか。彼女が悲しそうな顔をしている。「ただし、もう少し早く、貴方のような美人と出会っていたら、印象も違ったかも知れないがね」と、言うと初めてにっこり笑った。

 これほど印象の悪いベトナムであり、ハノイなのだが、ひとつだけほとほと感心したことがある。女性の働きぶりである。街中いたるところに、ノン(菅笠)をかぶり、野菜や果物の入った天秤棒を担いだ行商の女たちが見られる。商店や食堂も皆女が切り回している。農村へ行っても田圃の中に見られるのはノンをかぶった女たちである。「いったい男はどこで何をしているのだ」と、言いたくなる。どうやら、これは次のことが理由らしい。ひとつは、キン族はもともと女系社会であったこと。もうひとつは、キン族の歴史は戦乱の歴史であり、男は常に戦場にあり、家は女が守らざるを得なかったこと。キン族の女性は間違いなく世界一の働き者である。それにしても、「ノン」や「天秤棒」という他のアジア諸国でも見られなくなったものが、今だこれほどに普及している国も珍しい。

 午後からは、旧市街の北をぶらついてみた。地図に「旧ハノイ城北門」と小さく載っている。正確には「タンロン城」と言うべきだろうが。地図を頼りに歩き出す。ベトナムの街は、どこでも、辻辻に通り名の表示があるので、地図さえあれば迷うことはない。到達した北門は2層のなかなか立派な城門である。階上に登ることも出来る。なぜこの城門が案内書に載っていないのだろう。

 ホアンゼウ通りをのんびりと南下する。左側は軍の施設になっている。並木の美しい通りである。と、左側に何かある。「Ancient Castle of Hanoi」との表示がある。入り口には守衛所がある。覗き込んでいたら、守衛が中に入れのジェスチャー。入ってみると庭園があり、その奥に3層の小さな城郭がある。コンクリ造りの新しいものだが、旧タンロン城の一部を復元したのだろう。さらに進むと、また同じような施設があった。今度は古い城壁と城門とも城郭ともつかない2層の建物。付近は遺跡を掘削している。どうやらこの辺りがタンロン城の中心部なのだろう。

 その先に、軍事博物館があった。確りした博物館で、ディエンビエンフーの戦いからベトナム戦争までの様子が詳しく展示されている。目玉は、1975年4月30日、南ベトナム大統領官邸に2番目に突入した戦車である。1番目の戦車はどこにあるのだろう。博物館の敷地内に煉瓦造りのがっしりした国旗掲揚塔がある。高さ20メートルはあるだろう。今に残る旧タンロン城の遺物である。頂上にはベトナム国旗がへんぽんと翻っている。最上階まで登ることが出来る。素晴らしい展望である。完全に破壊されたと言われるタンロン城であるが、探せば、幾つかその面影を忍ぶ遺跡は見つかるものである。

 夕方遅くホテルに戻る。
  

 「アジア放浪の旅」目次に戻る    トップページに戻る