おじさんバックパッカーの一人旅   

東南アジア回遊陸路の旅 (6) 

  ベトナムから中国・雲南へ

2006年10月19日

      〜10月28日

 
第7章 中越国境地帯と山岳少数民族の村

  第1節 ハノイからサパへ

 今晩の夜行列車で中国との国境の街・ラオカイまで行き、さらにバスで高原の街・サパを目指す。20時30分、ホテルを出て、バイタクでハノイ駅に向う。ハノイ発22時特急SP3号の乗車券を既に入手ずみである。ハノイ駅には乗車口が2箇所あり、ラオカイ方面は、いわば裏口である西側乗車口(B駅)となる。駅は夜行列車に乗る人々で多いに混雑していた。発車1時間以上前にもかかわらず、14両編成の列車は既にホームに入線していた。しかも、かなりの乗客が既に乗り込んでいる。私の車両は13号車、早速乗り込む。今回は待望の寝台車である。6個程の個室があり、各個室には横向きの2段ベットが2組み、計4個のベッドが並んでいる。私は下段ベッドである。

 しばらくすると、同室者が現れた。実に陽気な5人組の若い女性である。シンガポール人だという。中国系だろう。うち3人が私と同室になる。6人でしばし歓談、北海道に雪を見に行ったことがあるとの話し。私と同じくサパへ行くという。それにしても、狭い1室で若い女性3人と1晩過ごすとは、何か変な感じである。おまけに、ベッドにカーテンはなく、お互い寝姿は丸見えである。

 定刻22時に列車は発車した。ラオカイ着は朝6時の予定である。すぐにホン河(紅河)に架かるロンビエン橋を渡る。外は漆黒の闇、何も見えない。各個室ともすぐに消灯して寝る体制に入ったのだが、1室だけ、白人の若者が集まって騒ぎ続けている。12時を過ぎても収まらず、うるさくて寝られない。堪忍袋の緒が切れて、注意しに赴く。車内禁煙なのにタバコも吸っている。しかし、酔っぱらっていて効果なし。困ったもんだ。
 
 10月20日(金)。目が覚めると、薄明かりの中、列車はホン河(紅河)沿いを走っていた。山が迫っているため、川幅はずいぶん狭くなったが、その分流れは速く、渦を巻いている。水の色は相変わらず「紅」である。周りはトウモロコシ畑で、ついさっきまで雨が降っていた気配である。7時、終点ラオカイ駅に着いた。ここはもうベトナム最北端の地、中国との国境の街である。日本を出発してからちょうど1ヶ月、ついにここまで来たかとの思いが強い。しかし、今日は国境を越えない。ここから南西約30キロの山上の小集落・サパを目指す。

 女性たちと別れ、改札を抜けると、ワッと人波に囲まれた。駅前に20〜30台ほどのミニバス、ワゴン車が停車していて、その運ちゃんどもが激しく客を奪いあっている。いずれもサパに向う車である。列車を降りた乗客のほとんどがサパへ行く。このため、サパのホテル、ゲストハウスが皆、車を用意したようで、予約客を乗せ、フリー客を囲い込むのが目的だろう。1台のワゴン車と値段交渉、25,000ドンとのことなので乗り込む。珍しくボッテ来ない。

 車は12〜13人の乗客を乗せて出発した。すぐにホン河(紅河)に架かる真新しい橋を渡り街並みに入る。ラオカイの街の中心はホン河(紅河)の右岸にあるようだ。先ずはガソリンスタンドで給油。最初から入れておけと言いたくなる。山に向ってグイグイ登りだす。ヘアピンカーブの連続だが、道は確り舗装されている。山の中腹に点々と集落が見える。山岳少数民族の集落だろう。この辺りはもう、キン族の縄張りではない。斜面には稲刈りを終えた棚田が見られる。時折、民族服を着、竹篭を背負った山岳少数民族を見かける。高度が上がるに従い、雄大な景色となってくる。

 1時間ほど走ると、街並みにはいった。サパの街だ。車はカットカット・ホテルの前で止まった。このホテルのチャーターした車のようである。車を降りると実に涼しい。ここは標高1600メートルの山上集落である。ホットシャワーつきで8US$とのことなのでこのホテルに決める。エアコンは必要ない。窓からは雄大な景色が望める。

 
  第2節 サパの風景

 サパはフランスによって避暑地として開かれた街である。ベトナムの最高峰ファン・シ・パン山(3143m)を抱えるトンキン・アルプス(ホアン・リエンソン山脈)の支尾根上に位置する。周囲にはモン族やザオ族などの山岳少数民族の集落が点在しており、現在ではベトナム観光の一翼を担っている。

 カットカット・ホテルはやや急な斜面に沿って何棟かの宿泊棟が建っており、食堂は一番上にある。先ずは朝食をと、長い長い階段を息を切らせて登って行くと、大展望が得られた。大きく深い谷を隔てて、トンキン・アルプスの主稜線が目の前に望まれる。残念ながら稜線上部は雲に覆われ、ファン・シ・パン山の姿を望むことは出来ない。しかし、山の斜面には点々と山岳少数民族の集落が望まれ、棚田の縞模様が美しい。

 早速、街に飛びだす。尾根上に開けた街だけに、坂だらけで、歩き廻るのはちょっとしんどい。街には華やかな衣装をつけた山岳少数民族が溢れている。美しい刺繍を施した藍染の衣装に、筒状の帽子をかぶっているのはモン族の女性たちである。頭に鈴や房飾りのついた赤い帽子をかぶり、眉毛と前髪を剃り落としているのはザオ族の女性たちである。多くは竹で編んで篭を背負っている。子供たちも、いでたちは民族衣装である。女ほどではないが、民族衣装を身に着けている男も見られる。女や子供たちは、観光客相手に自分たちで作成した民芸品を売って歩いているのだが、商売は余り熱心ではない。あちこちに固まっては井戸端会議をしている。道端に座り込んで刺繍に余念のないおばあさんも多い。子供たちも徒党を組んで、飛び回っている。街の雰囲気は、これまで通ってきたベトナムの街とは大分異なる。

 市場を覗いてみる。サワガニはまだ理解できるが、黄色っぽい生きたウジ虫を売っている。どうやって食べるのだろう。街の中心には教会がある。フランス植民地時代の遺物である。その前の広場で、列車でいっしょであったシンガポールの5人娘に出会った。しばし懇談、相変わらず元気がいい。30分も歩くと街は一周できてしまう。街の背後に聳えるハムロンの丘に行ってみることにする。素晴らしい展望が得られるはずである。街の東の端から坂道を上る。両側には薬草や、コブラ酒、サソリ酒を売る店が並んでいる。

 入山料20,000ドンを払って山道に入る。空が真っ暗となって今にも降りだしそうである。降らば降れ、濡れればよい。茶店のある庭園を過ぎると急な岩道となる。登るに従い岩がゴロゴロした地形となる。どうやら古い火山のようだ。40〜50分で山頂に達した。大展望が開けている。眼下に、尾根上にへばりつくサパの小さな街並みが見え、谷を隔てた向こうに雲に覆われたトンキン・アルプスが連なっている。天気が良ければ、さぞ素晴らしい展望だろう。

 山を下るともうやることもない。ホテル前に屯していたモン族のソーちゃんと仲良しになる。15〜16歳と思ったが20歳とのこと。山岳少数民族の娘は小柄で化粧気がないのでずいぶん若く見える。中学生ぐらいに見える子が、既に子供をおんぶしている。彼女たちは皆英語がしゃべれる。ソーちゃんは片言の日本語までしゃべる。モン語とベトナム語はもちろんであるから、皆3ヶ国語以上しゃべるわけである。たいしたもんだ。日が暮れると、急速に寒くなった。長袖のポロシャツの上にセーターを着る。現地の人はジャンパーを着ている。

 
  第3節 モン族の村を訪ねて

 10月21日(土)。今日は周辺の山岳少数民族の集落へ行ってみるつもりである。各ホテルが主催するツアに参加するのが一般的であるが、私は、いつものように、1人で歩いて行くことにする。このほうがはるかにハプニングが期待できる。ホテルでポンチ絵の地図をもらっていざ出発。今日は朝からカンカン照り、Tシャツ1枚でちょうどいい。

 先ず目指すのは、斜面の中ほどにあるモン族の村・カットカット村である。谷に向って細い舗装道路を下る。谷底までの標高差は400メートルぐらいだろうか。帰りがちょっと怖い。山岳少数民族の人々の運転するオートバイが頻繁に行き来する。この山国にあってはオートバイは必需品だろう。斜面であるだけに展望は実によい。

 途中より、道標に従い、舗装道路を離れて地道の細道に入る。周りはたわわに穂のたれた棚田である。日本の稲に比べ幾分背が低い。あちこちで稲刈りが行われている。日本と同じ根本刈りである。その横では、大きな四角い木の桶の縁に刈り取った稲束を叩きつけて、脱穀が行われている。刈り取りのすんだ田では鶏が落ち穂を啄ばんでいる。斜面に沿って、点々と平屋の農家がが現れる。黒豚の親子が庭先を歩き廻っている。流れ落ちる清流で、民族服姿の女性が野菜を洗っている。遠い昔に見た日本の山村の風景である。

 農村風景が終わり、自然林の中の急坂を下ると谷底に下り着いた。激流が岩を噛む渓谷となっている。吊り橋で対岸に渡り、細道をしばらく登ると、トラバース道となる。2〜3軒の農家と、狭い棚田を見る。再び谷川に下り、吊り橋で対岸に移る。この地点までサパからの舗装道路が通じており、2〜3台のバイタクが客待ちしていた。少し登って、中腹を上流に向う。斜面はゆるやかとなり、実に気持ちのよい道となった。左右は一面の田圃。草原では水牛が草を食んでいる。繋がれてないので少々怖い。背中に大きな荷物を振り分けに積んだ数匹の馬が喘ぎ喘ぎ歩いて行く。

 行く手に小集落が見える。モン族のシンチャイ村のはずである。田圃で民族衣装に身を包んだモン族の娘たちが、稲刈りと脱穀をしている。近づいて挨拶すると、恥ずかしそうに笑顔を向ける。恥じらいを含んだその笑顔はキン族では決してみることのなかった表情である。こちらの心もほのぼのとしてくる。カメラを向けると、恥ずかしがってもっている稲束で顔を隠す。何ともほほ笑ましい。そのくせ、撮り終わると、カメラを覗き込んで、映っている自分の姿を確認して大喜びしている。

 長い長い坂道を上って、サパを目指す。子供を負ぶったモン族のおばちゃんが、すいすい私を追い越して行く。夕方から雨が降りだした。明日はいよいよ国境を越えて中国・雲南へ入る。ラオカイまでの交通をフロントに相談すると、朝8時にホテルの前からラオカイ行きのワゴン車が出るとのこと。
 

  第4節 中越国境へ

 10月22日(日)。朝起きると、真っ青な空が広がっている。そして何と! トンキン・アルプスの主稜線がくっきりと見えているではないか。カメラをつかんで、一番上の食堂まで駆け上がる。遮るもののない大展望が待っていた。ついに、サパ3日目にしてベトナムの最高峰ファン・シ・パン山(3143m)をこの目に捕らえた。モルゲンロートに輝く稜線の真ん中に、鈍角三角形の頭を持ち上げている。しばし見続ける。これで、サパに来た目的がようやく果たせた。

 今日は中越国境を越えて中国・雲南へ入る。日本出発時、中越国境を越えるかどうかは決めていなかったが、ここまで来てしまったからには、ハノイへ戻るわけには行かない。前進あるのみである。国境を越え、雲南省の省都・昆明を目指そう。まだ日程と資金には余裕がある。8時にワゴン車は出発したのだが、更なる客を求めて30分も街中をうろうろ。少々いらつく。定員オーバーの客を乗せてようやくラオカイに向け走り出した。白人のカップルが同乗している。彼らも中国へ行くのだろうか。他は全てベトナム人である。ヘアピンカーブの連続する道を下りに任せてスピードを上げる。おばさんがついに車酔いを始めた。

 車掌が運賃を集めだした。行きと同じ25,000ドンを黙って渡すと、偉い剣幕で30,000ドンだと言う。私だって既に3週間もこのボッタクリの国の荒波に揉まれてきた。そうはさせない。「No」と強く言って、睨みつける。互いに、しばし、「No」「No」の言い合いの果てに、車掌はしぶしぶ25,000ドンを受け取った。なめるんじゃねぇーや、まったく。2度とこんな国は来るもんか。

 9時30分、ラオカイ駅前に着いた。さすがに下界は暑い。Tシャツ1枚になる。朝方は寒くて震えていたのに。英国人だという同乗の白人カップルに、幾ら払ったのか聞いてみると、2人で50,000ドンとのこと。日本人のおじさんだと思って舐められたようだ。彼らもやはり昆明へ行くという。2人は先にバイタクで出発していった。寄ってきたバイタクにボーダーまで幾らだと聞くと1US$(約15,000ドン)だという。まぁ、外国人に対する常識的な価格だろうが、ベトナムでの最後の価格交渉、そう簡単に合意するもんか。別の運ちゃんに5,000ドンでどうかと逆に吹っかけると、OKとの返事。ざまぁみろ、1/3の値段になった。いい気持ちでバイクの後ろにまたがる。バイクはまもなく国境に到着した。いよいよベトナムとはお別れである。

 
 第5節 ベトナムという国

 ベトナムを去るに当り、いろいろな思いが胸に去来する。結局、24日間この国を旅した。これまで、アジアのいろいろな国を旅したが、どこの国とも似ぬ、まったく違うタイプの国であった。ひと言で言えば、旅行者にとって何とも腹立たしい国であった。これほど性悪な国は他を知らない。おそらく、ベトナムがたどってきた困難な歴史が、このような国民性を育んだのだろうが。

 有史以来、19世紀にヨーロッパ勢力と出会うまで、キン族の歴史は中国の影響をまともに受けてきた。西暦938年に独立を達成するまで、長きにわたり中国の支配下にあった。独立を目指す多くの反乱は、圧倒的な中国の軍事力によりことごとく鎮圧された。独立を達成した後も、宋、元、明の超大王朝の侵略を受けた。奇跡的な勝利により独立は保ち続けたものの、戦いの度に国土は焦土と化した。このため、キン族の歴代王朝は、常に、卑屈なまでに中国の顔色を窺い、朝貢を続け中国の忠実な属国である態を装った。文字通り面従腹背の政策である。「ベトナム(越南)」という国名さえ、中国から与えられた屈辱的国号である。一方、そのうっぷんを晴らすがごとく、周辺諸国に対し激しい侵略行為を続けた。いわゆる「北属南進」の政策である。

 このような歴史が、今のベトナムの国民性を造ったのだろう。強いものには卑屈なまでに服従の態度を示すが、その限界を超えれば、牙をむいて死に物狂いで襲いかかる。弱いものには、一切の同情を示すことなく、骨の髄までしゃぶり尽くす。正義とか、格好良さとか、相手に対する配慮とは無縁の行動パターンである。であるからこそ、蒙古の侵略も、フランスの侵略も、そして米国の侵略も跳返したといえる。「50年後にはタイとベトナムは国境を接するようになる」と言われることがある。東南アジアで、じわりじわりと影響力を強める両国を比喩した言葉である。経済力と、いつの間にか相手を包み込んでしまう力を持つタイ。軍事力と堅い団結力を誇るベトナム。インドシナ戦争において、堅く国境を閉ざして、その波及を防ぎきったタイ。米国を追いだすや、返す刀でカンボジアに侵攻してポルポト政権を倒し、怒って襲いかかってきた中国を撃退したベトナム。太陽と北風はどちらが勝つのであろう。

 
  第6節 国境を越えて中国・河口へ

 「イミグレーションはあそこだ」。バイタクの運ちゃんの指さす建物を見て、「えぇぇ」と驚く。10階建てほどの近代的なビル。この国境にこれほど立派なイミグレーションがあるとは思わなかった。ラオカイ(ベトナム)/河口(中国)の国境は、平時においては、それほど重要な国境ではない。もう少しローカルな国境と思っていたのだが。先ずは、建物内の両替所に行く。ところが、日曜日のためかクローズしていた。その時男が寄ってきて、耳元で、「Exchange」とささやく。闇両替である。まだ少々残っているベトナムの通貨ドンは国外では紙くず同然である。交換率は非常に悪いが、人民元との交換に応じる。

 他に入国者もおらず、出国手続は何事もなくすんだ。国境の川・ナムティー河(南渓河)に架かるモイ・キエウ橋(中越公路大橋)を渡る。橋の数10メートル下流で、ホン河(紅河)とナムティー河(南渓河)が合流する。真っ茶色に濁った水と澄んだ水が混ざる様が面白い。橋の中央で立ち止まる。橋の向こう側に、「河口」と大書きされたゲートが見える。ここから1歩先は中国だ。とうとうここまでやって来た。タイのバンコクを出発してから32日目、はるけきも来たかなとの思いが強い。そして、ベトナムとはさようならである。大怪我もせず、よくぞこのボッタクリの国を縦断してきたものだ。ずいぶん不愉快な目にあったが、これもまたよき思い出になるだろう。

 1979年2月17日、突如、この国境から中国人民解放軍がベトナムに侵攻を開始した。世界が驚愕した事件である。この年の1月、ベトナムはカンボジアに侵攻して、悪魔のポルポト政権を倒した。このため、ポルポト政権を全面的に支援していた中国が仕返しに動いたのだ。まさに、中国の覇権主義が如実に現れた、一片の正義もない侵略戦争であった。ベトナムはかろうじて首都ハノイの手前で中国軍の前進を食い止めた。世界世論の轟々たる非難の中で、1ヶ月後に中国軍は撤退した。この事件により、この国境は長らく閉鎖されていたが、1993年、再開された。2001年には、このモイ・キエウ橋(中越公路大橋)も完成した。

 ゲートをくぐり、中国のイミグレーションに行く。ここで、先に出発した英国人のカップルに追いついた。係官は友好的であった。入国カードの「中国での滞在場所」欄を空欄のまま提出したのだが、係官は「ホテルは決まってないのか」と聞く。「どこか安くていいホテルを紹介して下さいよ」というと、笑っていた。次は税関検査。若い女性の係官が、「中国語か英語を話せますか」といきなり英語で聞いてきた。「英語と日本語が話せる。中国語は、シェシェ(謝々)、ニーハオ(尓好)、ツァイチェン(再見)、ウォーアイニー(我愛尓)だけ」と英語で答えると大笑いして、検査なしでOKとなる。これで晴れて中国入国である。今日はこの河口(ヘーコー)の街に泊まるつもりでいる。さて、今晩どこに泊まるか。先ずはガイドブックを開く。まだ11時、慌てることはない。
 
 
 第8章 中国・雲南の旅
 
  第1節 国境の街・河口(ヘーコー)

 イミグレーションの建物を出る。誰も付きまとってこない。何と気持ちのよいことか。街中に歩を進める。これまで過ごしてきた3週間余と雰囲気が余りに違うのに驚く。そしてとてつもなく嬉しくなった。耳をつんざく警笛も、唸りをあげるオートバイのエンジン音もない。道はゆったりとしていて、走る車もおとなしい。歩道には屋台や車もなく、安心して歩ける。声を掛けてくる輩もいない。街に秩序がある。おまけに目に入る文字は目に慣れ親しんだ漢字である。心が休まる。

 紅河沿いの道に面した河口大酒店に入る。思った通り英語がまったく通じない。やっぱり。英語が通じないことは、1年半前に旅した同じ雲南省の西双版納で経験ずみであり、別段驚きはない。すぐに筆談に切り替える。部屋を見せてもらうと、紅河に面しており、エアコン、ホットシャワー付きで、料金は80元(約1,200円)。ここに決める。ところがデポジットとして100元必要だという。デポジットを取ることも中国のホテルの常であり、驚きはしないが、財布の中は先ほど闇両替した数10元しかない。中国では、カンボジアやベトナムと違い、US$は通用しない。仕方がないので、銀行へ両替に行く。教えられた農業銀行へ行くも、「ここでは外貨交換は出来ない。中国銀行へ行け」と言われて(筆談だが)しまった。ようやく中国銀行を探し当て、やれやれである。

 部屋に荷物を放り込み、すぐにバスターミナルへ行く。明日、昆明(クンミン)まで行くつもりなので、バスのチケットを確保しておく必要がある。ターミナルは閑散としていた。窓口で「明天 上午 河口→昆明 豪華車」と紙に書いて示すと、チケットはあっさり手に入った。119元(約1,800円)である。同時に3万元の障害保険証が渡された。中国ではボラレル心配がないので安心である。

 ターミナル内をぶらぶらしていたら制服を着た男が、へたくそな英語で、「こら、何をしている。ちょっとこっちへ来い」と威圧的に言う。一瞬、公安かと思いひるんだ。無人の一室に連れ込まれ、「ホテルはどこだ」と尋問のごとく聞いてくる。どうも、公安ではなさそうだ。「貴方は誰だ」反対に聞き返す。相手は一瞬ひるみ、「このターミナルのボスだ。偉いんだ」と、制服の肩章を指さす。ただし、そこには何の飾りもついていない。「何の用なんだ。あんたの相手をしているほど暇ではない」と高圧的に言うと、立場が逆転した。急に声の調子が変わり、「今晩女はどうか。若くて美人を紹介するが」。思わず吹き出してしまった。

 昼飯を食おうと思うが適当な食堂が見当たらない。大衆食堂は多々あるのだが、どこも、並んでいる食材を選んで、料理方法を指定する方式。とても対応できない。1軒の店の入り口で立ち尽くしていると、中に招き入れられた。何とか昼食にありついていると、1人の老人が流暢な英語で話し掛けてきた。周りの人が感心した面持ちで集まってくる。老人は得意げに話しの内容を通訳する。

 街中を探索する。この街に特に見どころはない。小さな街だが、中心部には垢抜けした街並みがある。デパートもある。紅河沿いは公園風に整備されている。イミグレーション付近には、ベトナムからの買いだし客用の店が並んでいる。また、1泊30元程度の招待所(木賃宿)が沢山ある。国境を行き来する人が多いのだろう。突然道を聞かれた。と言ったって、中国語は分からない。鉄道駅に行ってみる。河口は昆明と鉄道で結ばれており、また、この鉄道はベトナムの鉄道とも結ばれている。したがって、以前は、ハノイから昆明行きの国際列車が運行していた。しかし、2年ほど前から、河口と昆明の間の客車の運行は休止している。線路の補修工事を行っているところを見ると、貨物列車は運行している気配である。

 夕方、イミグレーションに行ってみた。ノン(菅笠)をかぶり、巨大な荷物を振り分けに積んだ自転車に押しながらベトナムへ戻る女性たちの列が続いている。中国で仕入れ、ベトナムで商売するのだろう。改めて、ベトナム女性の生命力の強さに感心した。逆に、ベトナムから中国に戻ってくる人はほとんどいない。タイとミャンマーの国境、あるいは、タイとカンボジアの国境でも同様であったが、国境は両国の経済力の差を如実に示す。川の向こうにはベトナム・ラオカイの小さな街並みが望める。ふと気がつくと、時計を1時間進めるのを忘れている。中国とベトナムは1時間の時差があるのだ。危ない、明日のバスの時間に遅れるところであった。

 
  第2節 雲南省の省都・昆明へのバスの旅

 10月23日(月)。今日はいよいよ省都・昆明に向う。長かった旅の最終行程である。朝8時、ザックを担いでホテルを出る。バスターミナルまでは歩いて5分の距離である。バスは既にプラットホームに停車していた。豪華車とは名前だけ、かなり古い普通のバスで、リクライニングが利くだけである。このバスは8時45分発なのだが、昆明に何時に着くのか分からない。7時間とあるガイドブックと12時間とあるガイドブックがある。車掌に聞くと到着は20時とのこと。昆明まで510キロ、東京ー大阪間と同じほどの距離がある。これから11時間強のバスの旅となる。

 定刻にバスは出発した。座席は全席埋っている。外国人は私1人である。私の席は通路側なのだが、前の座席の窓側の男が席を代わって欲しいと申し出てきた。私の隣の席の男といっしょらしい。しかし、断る。座席の間隔が狭く、窓側の席は足の置き場がない。

 発車してすぐに、ミネラルウォーターとビニール袋が配られた。河口の小さな街並みを抜けると、すぐに山道となった。しかも、予想以上の凄まじい道である。舗装はされているが、道幅は大型車がやっとすれ違えるほどの狭さである。そして何よりも、カーブの凄まじさである。直線部分など1箇所もない、右へ左へヘアピンカーブの連続である。すぐに何人かが車酔いを始める。最初にビニ袋が配られた意味が理解できた。この道が、どこまでもどこまでも続く。経済発展著しい中国なので、ひょっとしたら快適な高速道路でも出来ているのではないかと、淡い期待を持っていたのだがーーー。

 山肌はどこまでもゴムの木の林である。狭い難路であるが、意外にトラックの数が多い。ただし、乗用車の姿を見ることはない。鉄道線路もほぼ道路と平行に走っている。小さな集落を幾つも過ぎる。突然、検問所が現れた。軍服を着た若い女性兵士がバスに乗り込んできて、1人1人の身分証明書をチェックする。私に対して、いきなり「中国語はしゃべれますか」と英語で聞いてきた。パスポートの提示を求め、それを持って事務所に戻る。何をチェックしていたのか、返しに来たのは10分後であった。その間バスは待ちぼうけである。

 バスは約2時間走り、粗末なトイレだけがぽつんとある道端で5分間のトイレ休憩となる。すぐに屏辺の小さな街を過ぎて、再び山間に入る。バナナ畑と棚田が見られるようになる。徐々にではあるが、地形は緩やかになり始める。やがて山々は次第に遠のき、大きくうねる大地を進むようになる。午後1時、バスは1軒のムスリム・レストランの前で停まった。40分の昼食休憩だという。開遠の街の手前のようである。車外に出ると、降り注ぐ太陽の光は相変わらず強いが、空気がどことなくひんやりしている。どうやら雲南省から貴州省に広がる雲貴高原に登り上げたようである。ムスリム・レストランに初めて入った。ウエイトレスは全員ムスリムスタイル。この辺りはムスリムが多いのだろう。通りを歩いている人々の中にもムスリムスタイルが目立つ。

 開遠の街を抜けると、地形はすっかり穏やかになり、楽なドライブとなった。まさに高原の地形である。やがて、まだ一部工事中であるが、真新しい素晴らしい道となった。バスは100キロ近いスピードで走りだす。車窓からは、随所に、建設中の高層アパートが見える。このまま、昆明までよい道が続くのかと思ったら、そうは甘くなかった。弥勒の街に差し掛ったところで、高速道路は通行止め。旧道に入る。ところが。この道が大渋滞、車はまったく動かなくなってしまった。その間に日が暮れる。身動きできない渋滞は2時間に及んだ。外は雨が降りだしている。昆明到着は大分遅くなりそうである。真っ暗な中でホテルを探すのは侘びしい。

 ようやく動き出したが、ノロノロである。石林付近でようやく高速道路に乗り快調に動き出した。外は真っ暗で何も見えない。21時30分過ぎ、バスはようやく大きなバスターミナルへ滑り込んだ。昆明到着である。しかし、ここが昆明のどこか分からない。人口500万人の昆明の市域は非常に大きく、バスターミナルも多々ある。ザックを背負ってターミナルを出る。そこは賑やかな大きな通りであった。そして、その通りの先に昆明駅が見えた。分かった、ここは「昆明バスターミナル」。現在位置判明である。見渡すと、あちこちに、酒店、飯店のネオンサインが見える。その中に、案内書に載っていた昆明三葉飯店のネオンを見つけた。迷わずフロントへ行く。1泊200元(約3,000円)、今晩は無条件でここに泊まろう。時計の針は既に夜10時を廻っていた。

 
  第3節 昆明でのテンヤワイヤの1日

 10月24日(火)。朝、目が覚めたのは9時であった。昨夜は、隣室の話し声とテレビの音で、3時過ぎまで寝つかれなかった。長時間バスに揺られ、神経が高ぶっていたこともあるだろう。何はともあれ、今回の旅の終着点・昆明に無事着いたことを喜ぼう。今日はやることが多々ある。昆明には5泊する予定でいる。適当なホテルを見つけなければならない。昨夜は遅かったので、選択の余地なくこのホテルに泊まった。悪いホテルではないが、200元は少々高い。しかも、ビジネスホテル風で何となく落ち着かない。フロントで英語が充分通じないのも気にくわない。銀行に行きがてら、ホテルを探してみよう。人民元の手持ちが少なく、両替もしなければならない。

 ホテルを出る。何とも涼しい。寒いぐらいである。ここ昆明は標高約1,900メートルの高原都市である。このため日本の陸上長距離選手の高地トレーニングの場所として知られている。表通りは片側3車線の広々とした道で、建ち並ぶ高層ビルの間に商店が軒を連ねている。地図で確認すると、昆明駅から北へ走る北京路で、昆明のメインストリートのひとつである。どこかに中国銀行があるだろうと、街並みをぶらりぶらりと歩く。さすがに中国の街並みはベトナムとは違い、どことなく気品がある。中国銀行窓口では英語が通じた。通り沿いにあるホテルの幾つかに立寄って、値段を聞いてみたが、300元とか400元とかでいずれも高級ホテルである。30元〜60元を表示した招待所も多々あるが、ちょっと泊まる気にはならない。今のホテルでもう1泊することにする。

 28日にバンコクへ帰るつもりなので、エアーチケットを求めてタイ航空(TG)へ行く。ところが、TGには珍しく感じの悪いところで、突っ立ったまま、「11月1日まで満席ですよ」と剣もほろほろである。少々むっとする。しかし、ちょっと困った。バンコクまでは中国東方航空(MU)便もあるはずだし、再度旅行社で聞いてみよう。部屋へ帰るとおばさんが清掃していたので、チップを渡そうとしたが、頑として受け取らない。何ともすがすがしい。どこかの国の政治家に爪の垢を煎じて飲ませたい。ホテル内の旅行社へ行くが、英語が通じない。しばらくして通訳を連れてきた。しかし、MU便も10月31日まで満席。こんな事態は考えてもいなかった。困ったぞ。その時ふと思いついた。景洪(ジンホン)からバンコクエア(PG)が週2便バンコクへ飛んでいるはずである。昆明→景洪→バンコクで再度調べてもらうと、見事にチケットが取れた。やれやれ、少々高く付くが何とか28日にバンコクへ帰れる。

 次に、ホテル内のツアデスクに行く。昆明に来たからには石林へ行ってみたい。昆明の南東約100キロにある有名な景勝地である。針のように尖った石灰岩の石山が多数並び立っている。明日または明後日の石林へのツアに参加したい。ところが、石林ツアは毎日実施されているが、全て中国語だという。当然英語のツアがあると思っていたので、当惑する。仕方がないので、昆明で一番大きな旅行社である昆明中国国際旅行社に行ってみる。「オープン参加のツアは中国語のみ。英語や日本語のツアはプライベート・ツアになる」との返事。

 どうやら私は大変な勘違いをしていたようである。ベトナムでは(他の東南アジア諸国でも同様であるが)、オープンツアと言えば英語に決まっている。ということは、観光客は外国人で、自国民の観光客などいないということである。ところが中国では観光客はほとんど全て自国民なのである。経済発展著しい中国では、観光産業の顧客は自国民となっているのである。日本と同じである。そういえば、私の泊まっているホテルも、客は全て中国人、外国人の姿を見ない。したがってフロントも英語を解しない。

 うろうろしているうちに1日が終わってしまった。夕方、近くの昆明駅に行ってみる。実に大きく立派な駅である。ただし、雰囲気は20〜30年前の上野駅である。地方から登ってきた、あるいは故郷へ帰ると思える人々で混雑している。大きな荷物を抱え、粗末な服装の人々の群れ。明らかに、市内を闊歩している洒落た服装の人々とは風袋が違う。大都市と農村の格差拡大が言われる中国の1面である。付近には街娼が多くいて、しきりに声を掛けてくる。ただし、おばちゃんばかりである。

 
  第4節 昆明探索

 10月25日(水)。今朝、宿を変えるつもりであったが、昨日ランドリーサービスを頼んであり、その受け取りが今日の午後である。したがって、このホテルを出るわけには行かない。なんて馬鹿なことを、我ながらそのちぐはぐな行動にあきれる。今日は1日昆明の街を探索するつもりである。昨日、市内地図を3元で購入してある。

 昆明(クンミン)は現在、雲南(ユンナン)省の省都である。雲南地方の中心都市は、787年に南詔国が王都を大理に遷都して以来、次の大理国の時代を含め、大理であった。1253年、蒙古・元の大軍が襲来し、大理国が滅びると、元のフビライは行政の中心都市を大理から昆明に移した。以来750年余、昆明は雲南地方の中心都市であり続け、現在では人口約500万人の大都市となっている。しかし、昆明は王都となることはなかった。元による征服以来、雲南は中国の版図の中に完全に組み入れられてしまったのである。

 9時、ホテルを出発する。先ずは南詔時代(733年〜902年)の建造物である東寺塔・西寺塔を目指す。北京路を北上し、左折して環城南路を西に進む。街の景観は何とも素晴らしい。広々とした道は木々と花々が溢れている。40〜50分歩き続けて、東寺塔に達した。13層40.5メートルの仏塔である。西暦829年に建立され、地震で倒壊したが1882年に再建された。小さな境内では老人たちが太極拳に勤しんでいた。東寺塔から200メートルほどの道がまっすぐ西に延び、その突き当たりに西寺塔が建っている。こちらも829年に建立された13層の仏塔であるが、高さは31メートルと少し低い。両塔を結ぶ道路は歩行者専用で、街並みは復古調に整えられている。また、中間地点南側には大きな城門・近日楼が再建されている。

 道を北に進むと金碧路に出る。ここに昆明の街の象徴となる立派な門がある。金馬碧鶏坊である。明の時代に建てられたものだが、文化大革命で破壊され1999年に再建された。その前の広場は訪れた観光客で賑わっている。この辺りが昆明の街の中心である。金馬碧鶏坊から北へ延びる正義路と呼ばれる道が素晴らしい。思わず感嘆の声を上げてしまう。広々とした緑溢れる歩行者専用道路である。道の両側は洒落たブティックや超高層ビル、ショッピングモールなどが並び、道の中間にはこれまた立派な門がある。この道は、都市の道としては、世界で一番美しいのではないだろうか。近代と古が見事に調和している。昆明の街を歩いていて、非常に感心するのは、いたるところに衛生間、すなわち公衆トイレがあることである。100メートルも歩けば必ずある。2角(約3円)の使用料は必要だが、きれいに掃除されている。トイレの近いおじさんには大助かりである。道はやがて省政府の建物に突き当たる。

 左に回り込んで坂道を下ると、碧湖の辺にでる。風光明媚なところで、古来、多くの文人が詩詞を詠んだところとして知られている。湖畔をのんびりと散歩する。楽器を奏で、歌を唄っている人を何人か見かける。売店の売り子には、ぺー族の装いをした女性が多々見られる。

 坂を上って、道を東に進むと円通禅寺の前に出た。南詔国時代に建立された古寺である。また、昆明市内唯一の仏教寺院である。この寺は普通の伽藍配置と異なり、山門が1番高い場所にあり、本堂が1番低い場所にある。山門を潜り、坂を下って行くと、中央に島が浮かぶ蓮池がある。この島のお堂に鎮座する千手観音は素晴らしかった。池の向こうに立派な本堂がある。仏教寺院に詣でると何となく心に安らぎを覚える。

 歩いて廻れるのはここまでである。市街地の東にある雲華寺に行ってみることにする。タクシーを捕まえる。この街の交通機関はバスとタクシーである。トゥクトゥクもバイクタクシーもトラックバス(ソンテウ)もない。東南アジア諸国の街と違い近代的な都市である。もちろんタクシーもメーター制である。市街地を抜け、小さな川を渡ってごみごみした道を進むと雲華寺の門前に着いた。1634年建立の仏教寺院で、朱徳が青年時代この寺で暮した。朱徳は中国革命の英雄であり、その伝記はスメドレー著の「偉大なる道」として知られている。

 平凡な寺だなぁと思いながら本殿に詣でる。本殿横に、朱徳に関する小さな記念館があり、多くの写真が展示されている。また、その奥には石に刻まれた朱徳の書が10数点並んでいる。寺の境内では、奇異なことに、盛んに麻雀が行われている。しかも、素人が遊びでやっているのではない。牌を並べて客待ちしている卓も多々あるところを見ると、賭場である。平日の真っ昼間から寺の境内で賭場が開帳されているのである。一体どういうことなんだろう。理解に苦しむ。

 本堂の裏手に廻ってみると、境内はさらに奥へ続いている気配である。たどってみると、道路を地下道で越え、広々とした緑地にでた。遠足できたらしい小学生たちが、芝生の上を跳ね回っている。さらに奥に進んでみると、7重の塔が高々と建っていた。タクシーを拾ってホテルに帰る。女性の運転手であった。

 1日中昆明の街を歩き廻り、深く感銘した。何とも素晴らしい街である。シンガポールに代表される超近代都市とも違い、ルアンプラバンに代表されるゆったりと時の流れる都市とも違い、過去と現在が程よく調和し、何とも言えない優雅さを醸し出している。がなり立てる量販店もなく、奇をてらった高層ビルもなく、ゆったりとした道は緑と花で飾られ、ゴミもなく、どこまで歩いても気持ちがよい。おまけに、歩道という歩道には点字ブロックが設置されている。まさに、21世紀の初頭において、人類が作りえる最高の都市である。ちょっと言い過ぎかも知れないが。しかも、これほどの都市を造る美的能力が中国にあったということも驚きである。

 夕刻から体の変調を感じる。どうも風邪を引いてしまったようだ。炎天下を歩き過ぎたようである。

 
  第5節 西山森林公園

 10月26日(木)。朝起きると完全に風邪を引いている。咽が痛く洟が止まらない。熱もあるようだ。大事に至らなければよいが。今日はようやくホテルを変え、茶花賓館に移るつもりである。バックパッカーご愛用のホテルである。朝、チェックアウトして、ホテル前に屯しているタクシーを利用しようとすると、20元だという。メーターを使わないつもりらしい。どこの国でも、観光地やホテル前で屯しているタクシーは雲助である。通りで流しを捕まえる。11元であった。茶花賓館は広い敷地内に幾つかの宿泊棟の建つかなり古めかしいホテル。料金は120元(約1,800円)、かなりのボロ部屋だが、部屋も広くバスタブまである。宿泊者はほぼ100%外人旅行客である。

 部屋に落ち着くと同時にダウン、そのまま蒲団をかぶって寝てしまった。外は1日中雨がしとしと降り注いでおり、寒い。
 
 10月27日(金)。体調はかなり悪いが、今日は昆明最後の日。寝ているわけにも行くまい。西山森林公園に行ってみることにする。「昆明に来て西山森林公園に行かない人はいない」と言われる景勝の地である。昆明の街の南に南北約40キロ、東西約8キロという巨大な湖が広がっている。中国で6番目に大きいテン池(テンはサンズイに眞)である。そのテン池の西岸に沿って1,900〜2,350メートルの山並みが連なっており、この山全体が森林公園となっている。山中には古寺や龍門と呼ばれる岩壁をくりぬいた道などがあり、また、リフトも架かっていて一大観光地となっている。

 西山森林公園まで市内から約15キロ、バスもあるのだろうが体調不良につきタクシーを奮発する。50元程度で行くだろう。市街地を抜け、郊外にでる。道は素晴らしくいい。やがて公園入り口に着く。入園料6元払う。車はさらに奥に入れるようだ。街道筋を離れ、山腹の細い道をくねくねしと登っていく。華亭寺前でタクシーを降りる。料金はちょうど50元であった。

 大きな寺である。雲南省で最大規模の寺で900年以上の歴史が有るとのことである。白装束の信者の団体が観光バスで来ており、寺は多いに賑わっている。お参りを済ませ、さらに奥にある太華寺を目指す。車道を行ってもいいのだが、道標が上部に向う山道を「太華寺 1.8公里」と示している。静かな静かな原生林の中の道である。ただし、急な階段が長々と続いており、半病人にはかなり苦しい。ようやく辿り着いた太華寺は、何と、修理というより再建中で、写真1枚撮る気の起こらない姿である。大きな寺で1306年創建とのことである。

 車道を15分も歩くと、西山森林公園観光の基地となる広場に出た。土産物屋や食堂が並び、ミニバスやリフトの発着場になっている。ここに、中国国歌・義勇軍行進曲を作曲した聶耳の墓がある。リフトに乗って山頂近くまで行ってみることにする。高度が上がるに従い眼下に大展望が広がった。どんよりとした天気で視界は余りよくないが、茫洋としたテン池の大きな広がりの彼方に昆明の街がうっすらと霞んでいる。リフトは山頂直下が終点、標高2,270メートルとの表示がある。セーターまで着ているが寒い。

 ここから、龍門を下ることにする。岩壁に無理やり刻まれた壮絶な道で、西山森林公園最大の見どころとなっている。入場料30元(約450円)と非常に高い。岩に刻まれた急な石段を慎重に下る。所々にトンネルや道教寺院がある。絶壁の端に出るたびにテン池がちらりちらりと見える。登りにこのルートを採っている人もいる。大変だろう。この道は18世紀に掘削された。道教の信仰によるのであろう。ようやく道路に下り着く。ちっちゃな電気自動車バスがあったので、乗ってリフト乗り場まで戻る。

 以上で西山森林公園の見学は終了、昆明に帰ろうと思うが、さて、どうやって帰ったらよいのか。タクシーの姿なぞない。ここから公園入り口までミニバスがあるはずだがどうもよく分からない。5キロほどだが歩いて行くか。太華寺を過ぎ、華亭寺を過ぎていい加減くたびれたところで、後ろからミニバスが来た。手を上げたら止まったので乗り込む。公園入り口に着いたが、期待したタクシーの姿はない。バスが3系統あるのだが、どこ行きなのかよく分からない。

 街道筋まで行けばタクシーを捕まえられると思い歩き出す。しばらく歩くが、タクシーなぞまったくない。困り果てた。その時、バスがやって来た。どこ行きか分からないが、手を挙げたら止まったので乗り込む。車掌に昆明まで行きたいことを懸命に訴える。そのまま乗っていろとのヂェスチャーにひと安心する。ところが、しばらく走って、小さな街並みの3叉路で、降りろという。どうやら、昆明に行くにはここで乗り換える必要があるらしい。「馬街」と言うところである。しかし、タクシーの姿もなく、バスの乗り場もわからない。街中はトゥクトゥクが走り回っている。

 しばらくうろうろしたが、埒が明かない。1台のトゥクトゥクを捕まえ、昆明まで行きたいことを懸命に訴える。何せ言葉がまったく通じない。昆明市内ではまったくトゥクトゥクの姿を見ないところからして、トゥクトゥクは市内へは入れないのだろう。しばらく、意志疎通のないやり取りした後、乗れというヂェスチャーにこれ幸いと乗り込む。どこへ行くのだろう。トゥクトゥクは数百メートル走り、小さなバスターミナルへ到着した。ここからバスに乗れということらしい。さて、どのバスかいな。きょろきょろしていたら、何とタクシーが通りかかった。慌てて止める。ようやく無事に、ホテルに辿り着いた。小さな冒険の終了である。午後3時であった。
 

  第6節 昆明市博物館

 昆明市内で、どうしても行きたいところが1箇所残っている。昆明市博物館である。ここに「大理国経幢」と「テン(サンズイに眞)王之印」が展示されているはずである。ホテルの近くなので歩いて行く。なかなか立派な博物館である。博物館の最大の目玉・大理国経幢は専用の大きな1室に展示されていた。経幢とは仏教の経文を刻した六角形の石柱のことである。この経幢は1919年、泥に埋っているところを偶然発見された。7層8角で高さが8.3メートルある。大理国とは937年に建国されたぺー族の国で、1253年に蒙古・元に滅ぼされるまで、雲南一帯を支配した。

 「テン(サンズイに眞)王之印」は多くの展示物の並ぶ大部屋の一角にガラスケースに入れられて展示されていた。この金印は、1956年にテン池東岸で発見された。紀元前109年に漢の武帝がテン王に与えたものと考えられている。紀元前286年頃、楚国の将軍・荘が雲南に入り、テン池地方を統一してテン国を建国したと言われる。この金印は、日本の志賀島で発見された有名な「漢委奴國王」の金印と対をなすものである。漢は周辺の属国に対し、その存続を承認する印として金印を与えた。日本の奴国と雲南のテン国は当時、漢から見て同じ立場にあったといえる。日本と雲南の不思議な結びつきに感慨を覚える。

 
  第7節 バンコクへの帰還

 10月28日(土)。いよいよ今日はバンコクへ帰る日である。9月22日にバンコクを出発して以来、カンボジア、ベトナム、中国・雲南と38日にわたる長い旅がようやく終わる。10時30分、ホテルが運行する無料バスで昆明国際空港へ向う。窓から眺める昆明の街は相変わらず美しい。間違いなく、世界一美しい街のひとつだろう。昆明国際空港は大きな空港であった。人々で混雑するこの空港は発展著しい中国を、雲南を象徴している。本来なら、ここからバンコクへ直行できるのだが、今日は景洪を経由することになっている。

 祥鵬航空9952便は定刻13時、昆明国際空港を飛び発った。満席である。空に舞い上がると同時に大きな大きなテン池が見えた。さらば昆明、またいつの日か来よう。この飛行機はまったく愛想なし、スチュワーデスも仏頂面である。ミネラルウォーターを配ったらしいが、窓外を見ているうちに無視された。やがて眼下にホン河(紅河)が見えた。相変わらず真っ茶色に濁っている。14時、景洪国際空港着。昨年の2月以来1年半ぶりである。まさか再びこの空港に降り立つとは思わなかった。機外にでると猛烈な暑さが押し寄せてきた。ここは亜熱帯、昆明とは明らかに気候が異なる。慌ててTシャツ1枚になる。

 17時10分、定刻10分遅れでバンコクエア(PG)629便は晴れ渡った大空に飛び立った。50人乗りほどの小さな双発プロペラ機である。スチュワーデスの笑顔が素晴らしい。いよいよ微笑みの国に帰るのだ。座席はがらがら、半分しか埋っていない。昆明→バンコク便が1週間先まで満席であるのに、この違いはどういうことなのだろう。メコン川が見える。カンボジアのプノンペンで別れて以来の再会である。累々と続く山並みの上を飛行機は一路南を目指す。

 タイ時間の17時30分、チェンマイ着。いったん飛行機を降ろされ、待合室に誘導されたが、待つほどのこともなく18時過ぎバンコクを目指して飛び立った。外は既に真っ暗である。20時、ようやくバンコクに到着したのだが、何と、新空港である。このSuvarnabhumi 空港は初めて、勝手がまったくわからない。それでも、何とかホテルを予約して、エアポートバスを探しだし、バンコク市内へと向った。

 39日間にわたる東南アジア回遊の旅が無事に終わった。

         (完)

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