おじさんバックパッカーの一人旅
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2006年10月19日~10月28日 |
第7章 中越国境地帯と山岳少数民族の村
第1節 ハノイからサパへ
しばらくすると、同室者が現れた。実に陽気な5人組の若い女性である。シンガポール人だという。中国系だろう。うち3人が私と同室になる。6人でしばし歓談、北海道に雪を見に行ったことがあるとの話し。私と同じくサパへ行くという。それにしても、狭い1室で若い女性3人と1晩過ごすとは、何か変な感じである。おまけに、ベッドにカーテンはなく、お互い寝姿は丸見えである。 定刻22時に列車は発車した。ラオカイ着は朝6時の予定である。すぐにホン河(紅河)に架かるロンビエン橋を渡る。外は漆黒の闇、何も見えない。各個室ともすぐに消灯して寝る体制に入ったのだが、1室だけ、白人の若者が集まって騒ぎ続けている。12時を過ぎても収まらず、うるさくて寝られない。堪忍袋の緒が切れて、注意しに赴く。車内禁煙なのにタバコも吸っている。しかし、酔っぱらっていて効果なし。困ったもんだ。
女性たちと別れ、改札を抜けると、ワッと人波に囲まれた。駅前に20~30台ほどのミニバス、ワゴン車が停車していて、その運ちゃんどもが激しく客を奪いあっている。いずれもサパに向う車である。列車を降りた乗客のほとんどがサパへ行く。このため、サパのホテル、ゲストハウスが皆、車を用意したようで、予約客を乗せ、フリー客を囲い込むのが目的だろう。1台のワゴン車と値段交渉、25,000ドンとのことなので乗り込む。珍しくボッテ来ない。 車は12~13人の乗客を乗せて出発した。すぐにホン河(紅河)に架かる真新しい橋を渡り街並みに入る。ラオカイの街の中心はホン河(紅河)の右岸にあるようだ。先ずはガソリンスタンドで給油。最初から入れておけと言いたくなる。山に向ってグイグイ登りだす。ヘアピンカーブの連続だが、道は確り舗装されている。山の中腹に点々と集落が見える。山岳少数民族の集落だろう。この辺りはもう、キン族の縄張りではない。斜面には稲刈りを終えた棚田が見られる。時折、民族服を着、竹篭を背負った山岳少数民族を見かける。高度が上がるに従い、雄大な景色となってくる。 1時間ほど走ると、街並みにはいった。サパの街だ。車はカットカット・ホテルの前で止まった。このホテルのチャーターした車のようである。車を降りると実に涼しい。ここは標高1600メートルの山上集落である。ホットシャワーつきで8US$とのことなのでこのホテルに決める。エアコンは必要ない。窓からは雄大な景色が望める。
サパはフランスによって避暑地として開かれた街である。ベトナムの最高峰ファン・シ・パン山(3143m)を抱えるトンキン・アルプス(ホアン・リエンソン山脈)の支尾根上に位置する。周囲にはモン族やザオ族などの山岳少数民族の集落が点在しており、現在ではベトナム観光の一翼を担っている。 カットカット・ホテルはやや急な斜面に沿って何棟かの宿泊棟が建っており、食堂は一番上にある。先ずは朝食をと、長い長い階段を息を切らせて登って行くと、大展望が得られた。大きく深い谷を隔てて、トンキン・アルプスの主稜線が目の前に望まれる。残念ながら稜線上部は雲に覆われ、ファン・シ・パン山の姿を望むことは出来ない。しかし、山の斜面には点々と山岳少数民族の集落が望まれ、棚田の縞模様が美しい。
市場を覗いてみる。サワガニはまだ理解できるが、黄色っぽい生きたウジ虫を売っている。どうやって食べるのだろう。街の中心には教会がある。フランス植民地時代の遺物である。その前の広場で、列車でいっしょであったシンガポールの5人娘に出会った。しばし懇談、相変わらず元気がいい。30分も歩くと街は一周できてしまう。街の背後に聳えるハムロンの丘に行ってみることにする。素晴らしい展望が得られるはずである。街の東の端から坂道を上る。両側には薬草や、コブラ酒、サソリ酒を売る店が並んでいる。
山を下るともうやることもない。ホテル前に屯していたモン族のソーちゃんと仲良しになる。15~16歳と思ったが20歳とのこと。山岳少数民族の娘は小柄で化粧気がないのでずいぶん若く見える。中学生ぐらいに見える子が、既に子供をおんぶしている。彼女たちは皆英語がしゃべれる。ソーちゃんは片言の日本語までしゃべる。モン語とベトナム語はもちろんであるから、皆3ヶ国語以上しゃべるわけである。たいしたもんだ。日が暮れると、急速に寒くなった。長袖のポロシャツの上にセーターを着る。現地の人はジャンパーを着ている。
10月21日(土)。今日は周辺の山岳少数民族の集落へ行ってみるつもりである。各ホテルが主催するツアに参加するのが一般的であるが、私は、いつものように、1人で歩いて行くことにする。このほうがはるかにハプニングが期待できる。ホテルでポンチ絵の地図をもらっていざ出発。今日は朝からカンカン照り、Tシャツ1枚でちょうどいい。 先ず目指すのは、斜面の中ほどにあるモン族の村・カットカット村である。谷に向って細い舗装道路を下る。谷底までの標高差は400メートルぐらいだろうか。帰りがちょっと怖い。山岳少数民族の人々の運転するオートバイが頻繁に行き来する。この山国にあってはオートバイは必需品だろう。斜面であるだけに展望は実によい。
長い長い坂道を上って、サパを目指す。子供を負ぶったモン族のおばちゃんが、すいすい私を追い越して行く。夕方から雨が降りだした。明日はいよいよ国境を越えて中国・雲南へ入る。ラオカイまでの交通をフロントに相談すると、朝8時にホテルの前からラオカイ行きのワゴン車が出るとのこと。
第4節 中越国境へ
今日は中越国境を越えて中国・雲南へ入る。日本出発時、中越国境を越えるかどうかは決めていなかったが、ここまで来てしまったからには、ハノイへ戻るわけには行かない。前進あるのみである。国境を越え、雲南省の省都・昆明を目指そう。まだ日程と資金には余裕がある。8時にワゴン車は出発したのだが、更なる客を求めて30分も街中をうろうろ。少々いらつく。定員オーバーの客を乗せてようやくラオカイに向け走り出した。白人のカップルが同乗している。彼らも中国へ行くのだろうか。他は全てベトナム人である。ヘアピンカーブの連続する道を下りに任せてスピードを上げる。おばさんがついに車酔いを始めた。 車掌が運賃を集めだした。行きと同じ25,000ドンを黙って渡すと、偉い剣幕で30,000ドンだと言う。私だって既に3週間もこのボッタクリの国の荒波に揉まれてきた。そうはさせない。「No」と強く言って、睨みつける。互いに、しばし、「No」「No」の言い合いの果てに、車掌はしぶしぶ25,000ドンを受け取った。なめるんじゃねぇーや、まったく。2度とこんな国は来るもんか。 9時30分、ラオカイ駅前に着いた。さすがに下界は暑い。Tシャツ1枚になる。朝方は寒くて震えていたのに。英国人だという同乗の白人カップルに、幾ら払ったのか聞いてみると、2人で50,000ドンとのこと。日本人のおじさんだと思って舐められたようだ。彼らもやはり昆明へ行くという。2人は先にバイタクで出発していった。寄ってきたバイタクにボーダーまで幾らだと聞くと1US$(約15,000ドン)だという。まぁ、外国人に対する常識的な価格だろうが、ベトナムでの最後の価格交渉、そう簡単に合意するもんか。別の運ちゃんに5,000ドンでどうかと逆に吹っかけると、OKとの返事。ざまぁみろ、1/3の値段になった。いい気持ちでバイクの後ろにまたがる。バイクはまもなく国境に到着した。いよいよベトナムとはお別れである。
ベトナムを去るに当り、いろいろな思いが胸に去来する。結局、24日間この国を旅した。これまで、アジアのいろいろな国を旅したが、どこの国とも似ぬ、まったく違うタイプの国であった。ひと言で言えば、旅行者にとって何とも腹立たしい国であった。これほど性悪な国は他を知らない。おそらく、ベトナムがたどってきた困難な歴史が、このような国民性を育んだのだろうが。 有史以来、19世紀にヨーロッパ勢力と出会うまで、キン族の歴史は中国の影響をまともに受けてきた。西暦938年に独立を達成するまで、長きにわたり中国の支配下にあった。独立を目指す多くの反乱は、圧倒的な中国の軍事力によりことごとく鎮圧された。独立を達成した後も、宋、元、明の超大王朝の侵略を受けた。奇跡的な勝利により独立は保ち続けたものの、戦いの度に国土は焦土と化した。このため、キン族の歴代王朝は、常に、卑屈なまでに中国の顔色を窺い、朝貢を続け中国の忠実な属国である態を装った。文字通り面従腹背の政策である。「ベトナム(越南)」という国名さえ、中国から与えられた屈辱的国号である。一方、そのうっぷんを晴らすがごとく、周辺諸国に対し激しい侵略行為を続けた。いわゆる「北属南進」の政策である。 このような歴史が、今のベトナムの国民性を造ったのだろう。強いものには卑屈なまでに服従の態度を示すが、その限界を超えれば、牙をむいて死に物狂いで襲いかかる。弱いものには、一切の同情を示すことなく、骨の髄までしゃぶり尽くす。正義とか、格好良さとか、相手に対する配慮とは無縁の行動パターンである。であるからこそ、蒙古の侵略も、フランスの侵略も、そして米国の侵略も跳返したといえる。「50年後にはタイとベトナムは国境を接するようになる」と言われることがある。東南アジアで、じわりじわりと影響力を強める両国を比喩した言葉である。経済力と、いつの間にか相手を包み込んでしまう力を持つタイ。軍事力と堅い団結力を誇るベトナム。インドシナ戦争において、堅く国境を閉ざして、その波及を防ぎきったタイ。米国を追いだすや、返す刀でカンボジアに侵攻してポルポト政権を倒し、怒って襲いかかってきた中国を撃退したベトナム。太陽と北風はどちらが勝つのであろう。
1979年2月17日、突如、この国境から中国人民解放軍がベトナムに侵攻を開始した。世界が驚愕した事件である。この年の1月、ベトナムはカンボジアに侵攻して、悪魔のポルポト政権を倒した。このため、ポルポト政権を全面的に支援していた中国が仕返しに動いたのだ。まさに、中国の覇権主義が如実に現れた、一片の正義もない侵略戦争であった。ベトナムはかろうじて首都ハノイの手前で中国軍の前進を食い止めた。世界世論の轟々たる非難の中で、1ヶ月後に中国軍は撤退した。この事件により、この国境は長らく閉鎖されていたが、1993年、再開された。2001年には、このモイ・キエウ橋(中越公路大橋)も完成した。
イミグレーションの建物を出る。誰も付きまとってこない。何と気持ちのよいことか。街中に歩を進める。これまで過ごしてきた3週間余と雰囲気が余りに違うのに驚く。そしてとてつもなく嬉しくなった。耳をつんざく警笛も、唸りをあげるオートバイのエンジン音もない。道はゆったりとしていて、走る車もおとなしい。歩道には屋台や車もなく、安心して歩ける。声を掛けてくる輩もいない。街に秩序がある。おまけに目に入る文字は目に慣れ親しんだ漢字である。心が休まる。
部屋に荷物を放り込み、すぐにバスターミナルへ行く。明日、昆明(クンミン)まで行くつもりなので、バスのチケットを確保しておく必要がある。ターミナルは閑散としていた。窓口で「明天 上午 河口→昆明 豪華車」と紙に書いて示すと、チケットはあっさり手に入った。119元(約1,800円)である。同時に3万元の障害保険証が渡された。中国ではボラレル心配がないので安心である。 ターミナル内をぶらぶらしていたら制服を着た男が、へたくそな英語で、「こら、何をしている。ちょっとこっちへ来い」と威圧的に言う。一瞬、公安かと思いひるんだ。無人の一室に連れ込まれ、「ホテルはどこだ」と尋問のごとく聞いてくる。どうも、公安ではなさそうだ。「貴方は誰だ」反対に聞き返す。相手は一瞬ひるみ、「このターミナルのボスだ。偉いんだ」と、制服の肩章を指さす。ただし、そこには何の飾りもついていない。「何の用なんだ。あんたの相手をしているほど暇ではない」と高圧的に言うと、立場が逆転した。急に声の調子が変わり、「今晩女はどうか。若くて美人を紹介するが」。思わず吹き出してしまった。 昼飯を食おうと思うが適当な食堂が見当たらない。大衆食堂は多々あるのだが、どこも、並んでいる食材を選んで、料理方法を指定する方式。とても対応できない。1軒の店の入り口で立ち尽くしていると、中に招き入れられた。何とか昼食にありついていると、1人の老人が流暢な英語で話し掛けてきた。周りの人が感心した面持ちで集まってくる。老人は得意げに話しの内容を通訳する。
夕方、イミグレーションに行ってみた。ノン(菅笠)をかぶり、巨大な荷物を振り分けに積んだ自転車に押しながらベトナムへ戻る女性たちの列が続いている。中国で仕入れ、ベトナムで商売するのだろう。改めて、ベトナム女性の生命力の強さに感心した。逆に、ベトナムから中国に戻ってくる人はほとんどいない。タイとミャンマーの国境、あるいは、タイとカンボジアの国境でも同様であったが、国境は両国の経済力の差を如実に示す。川の向こうにはベトナム・ラオカイの小さな街並みが望める。ふと気がつくと、時計を1時間進めるのを忘れている。中国とベトナムは1時間の時差があるのだ。危ない、明日のバスの時間に遅れるところであった。
10月23日(月)。今日はいよいよ省都・昆明に向う。長かった旅の最終行程である。朝8時、ザックを担いでホテルを出る。バスターミナルまでは歩いて5分の距離である。バスは既にプラットホームに停車していた。豪華車とは名前だけ、かなり古い普通のバスで、リクライニングが利くだけである。このバスは8時45分発なのだが、昆明に何時に着くのか分からない。7時間とあるガイドブックと12時間とあるガイドブックがある。車掌に聞くと到着は20時とのこと。昆明まで510キロ、東京ー大阪間と同じほどの距離がある。これから11時間強のバスの旅となる。 定刻にバスは出発した。座席は全席埋っている。外国人は私1人である。私の席は通路側なのだが、前の座席の窓側の男が席を代わって欲しいと申し出てきた。私の隣の席の男といっしょらしい。しかし、断る。座席の間隔が狭く、窓側の席は足の置き場がない。 発車してすぐに、ミネラルウォーターとビニール袋が配られた。河口の小さな街並みを抜けると、すぐに山道となった。しかも、予想以上の凄まじい道である。舗装はされているが、道幅は大型車がやっとすれ違えるほどの狭さである。そして何よりも、カーブの凄まじさである。直線部分など1箇所もない、右へ左へヘアピンカーブの連続である。すぐに何人かが車酔いを始める。最初にビニ袋が配られた意味が理解できた。この道が、どこまでもどこまでも続く。経済発展著しい中国なので、ひょっとしたら快適な高速道路でも出来ているのではないかと、淡い期待を持っていたのだがーーー。 山肌はどこまでもゴムの木の林である。狭い難路であるが、意外にトラックの数が多い。ただし、乗用車の姿を見ることはない。鉄道線路もほぼ道路と平行に走っている。小さな集落を幾つも過ぎる。突然、検問所が現れた。軍服を着た若い女性兵士がバスに乗り込んできて、1人1人の身分証明書をチェックする。私に対して、いきなり「中国語はしゃべれますか」と英語で聞いてきた。パスポートの提示を求め、それを持って事務所に戻る。何をチェックしていたのか、返しに来たのは10分後であった。その間バスは待ちぼうけである。 バスは約2時間走り、粗末なトイレだけがぽつんとある道端で5分間のトイレ休憩となる。すぐに屏辺の小さな街を過ぎて、再び山間に入る。バナナ畑と棚田が見られるようになる。徐々にではあるが、地形は緩やかになり始める。やがて山々は次第に遠のき、大きくうねる大地を進むようになる。午後1時、バスは1軒のムスリム・レストランの前で停まった。40分の昼食休憩だという。開遠の街の手前のようである。車外に出ると、降り注ぐ太陽の光は相変わらず強いが、空気がどことなくひんやりしている。どうやら雲南省から貴州省に広がる雲貴高原に登り上げたようである。ムスリム・レストランに初めて入った。ウエイトレスは全員ムスリムスタイル。この辺りはムスリムが多いのだろう。通りを歩いている人々の中にもムスリムスタイルが目立つ。 開遠の街を抜けると、地形はすっかり穏やかになり、楽なドライブとなった。まさに高原の地形である。やがて、まだ一部工事中であるが、真新しい素晴らしい道となった。バスは100キロ近いスピードで走りだす。車窓からは、随所に、建設中の高層アパートが見える。このまま、昆明までよい道が続くのかと思ったら、そうは甘くなかった。弥勒の街に差し掛ったところで、高速道路は通行止め。旧道に入る。ところが。この道が大渋滞、車はまったく動かなくなってしまった。その間に日が暮れる。身動きできない渋滞は2時間に及んだ。外は雨が降りだしている。昆明到着は大分遅くなりそうである。真っ暗な中でホテルを探すのは侘びしい。 ようやく動き出したが、ノロノロである。石林付近でようやく高速道路に乗り快調に動き出した。外は真っ暗で何も見えない。21時30分過ぎ、バスはようやく大きなバスターミナルへ滑り込んだ。昆明到着である。しかし、ここが昆明のどこか分からない。人口500万人の昆明の市域は非常に大きく、バスターミナルも多々ある。ザックを背負ってターミナルを出る。そこは賑やかな大きな通りであった。そして、その通りの先に昆明駅が見えた。分かった、ここは「昆明バスターミナル」。現在位置判明である。見渡すと、あちこちに、酒店、飯店のネオンサインが見える。その中に、案内書に載っていた昆明三葉飯店のネオンを見つけた。迷わずフロントへ行く。1泊200元(約3,000円)、今晩は無条件でここに泊まろう。時計の針は既に夜10時を廻っていた。
10月24日(火)。朝、目が覚めたのは9時であった。昨夜は、隣室の話し声とテレビの音で、3時過ぎまで寝つかれなかった。長時間バスに揺られ、神経が高ぶっていたこともあるだろう。何はともあれ、今回の旅の終着点・昆明に無事着いたことを喜ぼう。今日はやることが多々ある。昆明には5泊する予定でいる。適当なホテルを見つけなければならない。昨夜は遅かったので、選択の余地なくこのホテルに泊まった。悪いホテルではないが、200元は少々高い。しかも、ビジネスホテル風で何となく落ち着かない。フロントで英語が充分通じないのも気にくわない。銀行に行きがてら、ホテルを探してみよう。人民元の手持ちが少なく、両替もしなければならない。
28日にバンコクへ帰るつもりなので、エアーチケットを求めてタイ航空(TG)へ行く。ところが、TGには珍しく感じの悪いところで、突っ立ったまま、「11月1日まで満席ですよ」と剣もほろほろである。少々むっとする。しかし、ちょっと困った。バンコクまでは中国東方航空(MU)便もあるはずだし、再度旅行社で聞いてみよう。部屋へ帰るとおばさんが清掃していたので、チップを渡そうとしたが、頑として受け取らない。何ともすがすがしい。どこかの国の政治家に爪の垢を煎じて飲ませたい。ホテル内の旅行社へ行くが、英語が通じない。しばらくして通訳を連れてきた。しかし、MU便も10月31日まで満席。こんな事態は考えてもいなかった。困ったぞ。その時ふと思いついた。景洪(ジンホン)からバンコクエア(PG)が週2便バンコクへ飛んでいるはずである。昆明→景洪→バンコクで再度調べてもらうと、見事にチケットが取れた。やれやれ、少々高く付くが何とか28日にバンコクへ帰れる。 次に、ホテル内のツアデスクに行く。昆明に来たからには石林へ行ってみたい。昆明の南東約100キロにある有名な景勝地である。針のように尖った石灰岩の石山が多数並び立っている。明日または明後日の石林へのツアに参加したい。ところが、石林ツアは毎日実施されているが、全て中国語だという。当然英語のツアがあると思っていたので、当惑する。仕方がないので、昆明で一番大きな旅行社である昆明中国国際旅行社に行ってみる。「オープン参加のツアは中国語のみ。英語や日本語のツアはプライベート・ツアになる」との返事。 どうやら私は大変な勘違いをしていたようである。ベトナムでは(他の東南アジア諸国でも同様であるが)、オープンツアと言えば英語に決まっている。ということは、観光客は外国人で、自国民の観光客などいないということである。ところが中国では観光客はほとんど全て自国民なのである。経済発展著しい中国では、観光産業の顧客は自国民となっているのである。日本と同じである。そういえば、私の泊まっているホテルも、客は全て中国人、外国人の姿を見ない。したがってフロントも英語を解しない。
10月25日(水)。今朝、宿を変えるつもりであったが、昨日ランドリーサービスを頼んであり、その受け取りが今日の午後である。したがって、このホテルを出るわけには行かない。なんて馬鹿なことを、我ながらそのちぐはぐな行動にあきれる。今日は1日昆明の街を探索するつもりである。昨日、市内地図を3元で購入してある。 昆明(クンミン)は現在、雲南(ユンナン)省の省都である。雲南地方の中心都市は、787年に南詔国が王都を大理に遷都して以来、次の大理国の時代を含め、大理であった。1253年、蒙古・元の大軍が襲来し、大理国が滅びると、元のフビライは行政の中心都市を大理から昆明に移した。以来750年余、昆明は雲南地方の中心都市であり続け、現在では人口約500万人の大都市となっている。しかし、昆明は王都となることはなかった。元による征服以来、雲南は中国の版図の中に完全に組み入れられてしまったのである。
道を北に進むと金碧路に出る。ここに昆明の街の象徴となる立派な門がある。金馬碧鶏坊である。明の時代に建てられたものだが、文化大革命で破壊され1999年に再建された。その前の広場は訪れた観光客で賑わっている。この辺りが昆明の街の中心である。
歩いて廻れるのはここまでである。市街地の東にある雲華寺に行ってみることにする。タクシーを捕まえる。この街の交通機関はバスとタクシーである。トゥクトゥクもバイクタクシーもトラックバス(ソンテウ)もない。東南アジア諸国の街と違い近代的な都市である。もちろんタクシーもメーター制である。市街地を抜け、小さな川を渡ってごみごみした道を進むと雲華寺の門前に着いた。1634年建立の仏教寺院で、朱徳が青年時代この寺で暮した。朱徳は中国革命の英雄であり、その伝記はスメドレー著の「偉大なる道」として知られている。 平凡な寺だなぁと思いながら本殿に詣でる。本殿横に、朱徳に関する小さな記念館があり、多くの写真が展示されている。また、その奥には石に刻まれた朱徳の書が10数点並んでいる。寺の境内では、奇異なことに、盛んに麻雀が行われている。しかも、素人が遊びでやっているのではない。牌を並べて客待ちしている卓も多々あるところを見ると、賭場である。平日の真っ昼間から寺の境内で賭場が開帳されているのである。一体どういうことなんだろう。理解に苦しむ。
1日中昆明の街を歩き廻り、深く感銘した。何とも素晴らしい街である。シンガポールに代表される超近代都市とも違い、ルアンプラバンに代表されるゆったりと時の流れる都市とも違い、過去と現在が程よく調和し、何とも言えない優雅さを醸し出している。がなり立てる量販店もなく、奇をてらった高層ビルもなく、ゆったりとした道は緑と花で飾られ、ゴミもなく、どこまで歩いても気持ちがよい。おまけに、歩道という歩道には点字ブロックが設置されている。まさに、21世紀の初頭において、人類が作りえる最高の都市である。ちょっと言い過ぎかも知れないが。しかも、これほどの都市を造る美的能力が中国にあったということも驚きである。 夕刻から体の変調を感じる。どうも風邪を引いてしまったようだ。炎天下を歩き過ぎたようである。
10月26日(木)。朝起きると完全に風邪を引いている。咽が痛く洟が止まらない。熱もあるようだ。大事に至らなければよいが。今日はようやくホテルを変え、茶花賓館に移るつもりである。バックパッカーご愛用のホテルである。朝、チェックアウトして、ホテル前に屯しているタクシーを利用しようとすると、20元だという。メーターを使わないつもりらしい。どこの国でも、観光地やホテル前で屯しているタクシーは雲助である。通りで流しを捕まえる。11元であった。茶花賓館は広い敷地内に幾つかの宿泊棟の建つかなり古めかしいホテル。料金は120元(約1,800円)、かなりのボロ部屋だが、部屋も広くバスタブまである。宿泊者はほぼ100%外人旅行客である。 部屋に落ち着くと同時にダウン、そのまま蒲団をかぶって寝てしまった。外は1日中雨がしとしと降り注いでおり、寒い。
西山森林公園まで市内から約15キロ、バスもあるのだろうが体調不良につきタクシーを奮発する。50元程度で行くだろう。市街地を抜け、郊外にでる。道は素晴らしくいい。やがて公園入り口に着く。入園料6元払う。車はさらに奥に入れるようだ。街道筋を離れ、山腹の細い道をくねくねしと登っていく。華亭寺前でタクシーを降りる。料金はちょうど50元であった。
車道を15分も歩くと、西山森林公園観光の基地となる広場に出た。土産物屋や食堂が並び、ミニバスやリフトの発着場になっている。ここに、中国国歌・義勇軍行進曲を作曲した聶耳の墓がある。リフトに乗って山頂近くまで行ってみることにする。高度が上がるに従い眼下に大展望が広がった。どんよりとした天気で視界は余りよくないが、茫洋としたテン池の大きな広がりの彼方に昆明の街がうっすらと霞んでいる。リフトは山頂直下が終点、標高2,270メートルとの表示がある。セーターまで着ているが寒い。
以上で西山森林公園の見学は終了、昆明に帰ろうと思うが、さて、どうやって帰ったらよいのか。タクシーの姿なぞない。ここから公園入り口までミニバスがあるはずだがどうもよく分からない。5キロほどだが歩いて行くか。太華寺を過ぎ、華亭寺を過ぎていい加減くたびれたところで、後ろからミニバスが来た。手を上げたら止まったので乗り込む。公園入り口に着いたが、期待したタクシーの姿はない。バスが3系統あるのだが、どこ行きなのかよく分からない。 街道筋まで行けばタクシーを捕まえられると思い歩き出す。しばらく歩くが、タクシーなぞまったくない。困り果てた。その時、バスがやって来た。どこ行きか分からないが、手を挙げたら止まったので乗り込む。車掌に昆明まで行きたいことを懸命に訴える。そのまま乗っていろとのヂェスチャーにひと安心する。ところが、しばらく走って、小さな街並みの3叉路で、降りろという。どうやら、昆明に行くにはここで乗り換える必要があるらしい。「馬街」と言うところである。しかし、タクシーの姿もなく、バスの乗り場もわからない。街中はトゥクトゥクが走り回っている。 しばらくうろうろしたが、埒が明かない。1台のトゥクトゥクを捕まえ、昆明まで行きたいことを懸命に訴える。何せ言葉がまったく通じない。昆明市内ではまったくトゥクトゥクの姿を見ないところからして、トゥクトゥクは市内へは入れないのだろう。しばらく、意志疎通のないやり取りした後、乗れというヂェスチャーにこれ幸いと乗り込む。どこへ行くのだろう。トゥクトゥクは数百メートル走り、小さなバスターミナルへ到着した。ここからバスに乗れということらしい。さて、どのバスかいな。きょろきょろしていたら、何とタクシーが通りかかった。慌てて止める。ようやく無事に、ホテルに辿り着いた。小さな冒険の終了である。午後3時であった。
第6節 昆明市博物館
「テン(サンズイに眞)王之印」は多くの展示物の並ぶ大部屋の一角にガラスケースに入れられて展示されていた。この金印は、1956年にテン池東岸で発見された。紀元前109年に漢の武帝がテン王に与えたものと考えられている。紀元前286年頃、楚国の将軍・荘が雲南に入り、テン池地方を統一してテン国を建国したと言われる。この金印は、日本の志賀島で発見された有名な「漢委奴國王」の金印と対をなすものである。漢は周辺の属国に対し、その存続を承認する印として金印を与えた。日本の奴国と雲南のテン国は当時、漢から見て同じ立場にあったといえる。日本と雲南の不思議な結びつきに感慨を覚える。
10月28日(土)。いよいよ今日はバンコクへ帰る日である。9月22日にバンコクを出発して以来、カンボジア、ベトナム、中国・雲南と38日にわたる長い旅がようやく終わる。10時30分、ホテルが運行する無料バスで昆明国際空港へ向う。窓から眺める昆明の街は相変わらず美しい。間違いなく、世界一美しい街のひとつだろう。昆明国際空港は大きな空港であった。人々で混雑するこの空港は発展著しい中国を、雲南を象徴している。本来なら、ここからバンコクへ直行できるのだが、今日は景洪を経由することになっている。 祥鵬航空9952便は定刻13時、昆明国際空港を飛び発った。満席である。空に舞い上がると同時に大きな大きなテン池が見えた。さらば昆明、またいつの日か来よう。この飛行機はまったく愛想なし、スチュワーデスも仏頂面である。ミネラルウォーターを配ったらしいが、窓外を見ているうちに無視された。やがて眼下にホン河(紅河)が見えた。相変わらず真っ茶色に濁っている。14時、景洪国際空港着。昨年の2月以来1年半ぶりである。まさか再びこの空港に降り立つとは思わなかった。機外にでると猛烈な暑さが押し寄せてきた。ここは亜熱帯、昆明とは明らかに気候が異なる。慌ててTシャツ1枚になる。
タイ時間の17時30分、チェンマイ着。いったん飛行機を降ろされ、待合室に誘導されたが、待つほどのこともなく18時過ぎバンコクを目指して飛び立った。外は既に真っ暗である。20時、ようやくバンコクに到着したのだが、何と、新空港である。このSuvarnabhumi 空港は初めて、勝手がまったくわからない。それでも、何とかホテルを予約して、エアポートバスを探しだし、バンコク市内へと向った。 39日間にわたる東南アジア回遊の旅が無事に終わった。 (完) |